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北村紗衣の対雁琳勝訴は、良薬にあらず : 住吉雅美 『あぶない法哲学』

書評:住吉雅美あぶない法哲学 常識に盾突く思考のレッスン』(講談社現代新書)

法哲学とは何か? 一一それは、「法律」とは何なのかを、問い詰める(究める)学問だ。

では、なぜ「法律とは何なのか?」と問い詰めたりするのであろうか?

これに答えられない人は、基本的に「自分の頭で物を考える」ということの出来ていない人である。
言い換えれば、誰かから与えられた「説明」を鵜呑みにして、それに盲従しているだけの、ダテに頭を乗っけているだけの(ボーッと生きている)人間だ、ということだ。

(罪を計り罰する、正義の女神テミス

では、なぜそうした「哲学」が必要なのだろうか?

それはもちろん「親カモの後についていくことしか出来ない、未熟な子カモ」のような人間、つまり「権威に盲従することしか出来ない」人間は、きわめて「危険な状態」に置かれているからだ。

「法律」がそうであるように、一般に世間で「信頼するに足りる」と考えていられるものであっても、必ずしもそうだとは限らない

例えば「親」というものは、一般に信頼できるものである。「子」を慈しみ育ててくれるものだと、そう言えるだろう。
一一だが、そうではない親も、稀にいる。いわゆる「毒親」というやつだ。つまり、子に害をなす親のことである。

では、なぜ「毒親」なんてものが存在するのだろうか? 一一無論それは、「どんなものにも、例外はある」からである。

つまり、世間で一般に「これは信頼に値する」と、その「権威」が保証されているものであっても、そのように分類され、保証されているものであっても、いつも必ず「信頼に値するもの」だとは限らない、ということなのだ。

例えば、「大学教授」というのは、一般に「知識と知恵のある、教えを乞うに値する立派な人物」だと考えられている。
だが、その例外など、いくらでも存在する。

例えば、現在、私が批判している、「武蔵大学の教授」で自称フェミニストの北村紗衣などがその典型で、彼女がどのような点で「信頼に値しない」のかと言えば、

(1)人格的に、学生の模範となるべき「大学教師」には不適当な、問題性格者である。

(2)学者としてもレベルが低く、日本の学問レベルの低下と知的レベルの低下に、竿さす(推進する)存在でしかない(また、批評家としても文筆家としても同断)。

だということがあるからだ。

以上の2点については、すでに別稿で縷々説明済みだが、ここでもひととおり説明だけはしておくと、一一(1)について言えば、北村紗衣は「言行不一致」の「嘘つき」であるという点が、まず問題なのだ。
例えば、北村紗衣は、フェミニストとして、主に男性に対して「フェア(公正・反差別)」であることを求めておきながら、自分自身は「アンフェア(不公正・差別的)」なのだ。

例えば、「note」上で、北村紗衣「アメリカン・ニューシネマ」観を批判した、映画マニアのブロガーである「須藤にわか」氏の記事について、私はそのコメント欄に、須藤にわか氏に向けて、次のようなコメントを書き込んだ。

年間読書人
2024年8月25日 05:14

それを、それこそ『ダーティハリー』すら見てなかった(※ 映画の)素人(※ 北村紗衣)が、「アメリカン・ニューシネマ」は「こういうものだ」なんて、知ったかぶりで語るのは、まさに「盲目、蛇に怖ず」ってやつだと思います。
そして、そうした態度の根底にあるのは(※ 自分は映画研究家であり、プロだという)「差別的な上から目線」。だから、そこで(※ 北村紗衣の態度は、反差別であるべき)「フェミニストの恥さらし」にもなるわけです。

今度、北村さんの本を読んで、きっちり切り刻んでやろうかな(笑)。』

そして、このコメントを読んだ北村紗衣は、同じコメント欄へ、いきなり次のようなコメントを書き込んだ。

北村紗衣
2024年8月27日 09:36

須藤にわかさん、あなたは私が「お姫様になることが女性の権利向上と考えているフシがある」などと私が思ってもいないことを言って人格攻撃を行いました。それが弁護できることだとでも思っているのでしょうか。フェミニズム観の違いに逃げようとしても無駄です。
年間読書人さんの、私の本を切り刻むというコメントは通報いたしました。』

つまり、私の上のコメントの「ごく一部」である、

今度、北村さんの本を読んで、きっちり切り刻んでやろうかな(笑)。

だけを「切取り」、さらにこれを恣意的に「改変」して、

年間読書人さんの、私の本を切り刻むというコメント

として、「note」管理者に「通報」したのである。

私の「原文」を読めば、私が言っているのは「北村紗衣の本を買って読み、こと細かに批判してやろうかな」という意味だというのは明白で、それをそのまま「通報」したところで、さすがに「note」の管理者が「削除」や「公開停止」要請に応じるはずがない。

そこで北村紗衣は、「故意」に、私が「北村の本を物理的に切り刻む、器物損壊を予告して脅迫」した、かのように「書き換えて」通報したのである。
要は、自覚的に「事実無根の誹謗中傷による誣告」をしたのだ。

したがって、北村紗衣とは、こういう「インチキ」を「故意」にやる人物だ、ということなのだが、北村紗衣が、このような人間だという「評価」が正しいという証拠とは、他でもない、このような「信用に関わる批判・指摘」がなされ、すでに約半年が経過した今となっても、北村紗衣からは「反論も釈明も謝罪も無い」という事実に、それは明らかなのだ。
私の、北村紗衣に対する人物評価の正しさが、北村紗衣の沈黙」によって証明されたと、そう言えるのである。

もちろん、北村紗衣が、私のこうした批判を「読んでいない」というわけではない、という点についても、すでに次のとおり証明済みである。

(2)の点、すなわち『学者としてもレベルが低く、日本の学問レベルの低下と知的レベルの低下に、竿さす(推進する)存在でしかない(また、批評家としても文筆家としても同断)』だという点はどうかというと、北村紗衣という人は、(1)の点からも明らかなように「事実に対して不誠実」であり、要は「嘘つき」だということなのだから、その学問や批評というものも、当然のことながら「信用ならないもの」であり、時に「インチキ」なのだ。

この点については、例えば、次のような批判的な指摘もなされている。

私は、英語ができないので、この「安達氏の指摘の内容自体は検証できていないが、しかし、安達氏のこうした批判的指摘がまんざら出鱈目ではないというのは、その後も、安達氏は同種の批判を展開し続けているし、にも関わらず、北村紗衣はそれらにも反論せず、無視を決め込んでいることに明らかだろう。要は安達氏の指摘に対し、北村紗衣は「反論できない」のだと、そう見て、まず間違いないのである。

無論、北村紗衣が「不当な批判」に対しても無視で対応するような人だったなら、私や安達氏による批判が外れていても、それでも無視するということだってあり得るだろう。

だが、北村紗衣という人は、先に紹介したコメントにも明らかなとおりで、つい半年ほど前までは「自分を批判する者に対しては、容赦なく攻撃を加える人だった」のであり、それは、周知有名な話でもあった

例えば、ネット上で誹謗されたといって北村紗衣は、歴史学者・呉座勇一に対する公開質問状「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」に、千数百名分もの署名を集めてこれを公開し、その圧力によって、一度は呉座からその職を奪うという「キャンセル」を実行してみせた
また、この「オープンレター」問題に関して北村紗衣を批判した山内雁琳に対しても、「誹謗中傷された」と、その口を封じるために、その「言葉尻」をとらえ、「スラップ裁判」である「民事賠償裁判」を提起したことなどからも、北村紗衣の「対決的で、敵対者追い落とし(キャンセル)的な姿勢」は、明らかなものだったである。

一一つまり、北村紗衣という人は、本来ならば「批判されて黙っているような人間ではない」のだ。
そして、理屈では勝てないとなると、一転、その「攻撃性」を隠した「被害者ヅラでの実力行使」も辞さないという、そんな危険人物だったのだ。

つまり、つい半年前までは、このように「過剰に攻撃的だった北村紗衣」が、今や、私や「安達」氏の批判に対して、うんともすんとも言わないのは、要は、私たちの北村紗衣批判が「完全に当たっている」からであり、否定しようもない(裁判にもしようがない)「事実」だからなのである。

したがって、北村紗衣は、「大学教師」や「フェミニスト」や「批評家」や「文筆家」として「信用できない人物」であるばかりではなく、おのずとその「肩書き」において、「社会に害をなす人物」だということにもなる。

だから、北村紗衣の「武蔵大学教授」だとか「フェミニスト」だとか「X(旧「Twitter」)のフォロワー5万人」の人気者だといった、「肩書きの権威」を盲信し、それに盲従してはならない。一一のだが、しかし世間一般の人びと(大衆)は、そうした「メディア上で喧伝されるペテン」を妄信しがちなのである。ヒトラー人気に踊った、かつてのドイツ国民と同様に。

例えば、最近の「フジテレビの不適切接待問題」が露見するまでは、「一世を風靡したアイドルグループSMAPの元リーダーであった、タレントの中居正広」のことを、「そんな人物だとは思わなかった」という人が、大半であろう。
だが、「マスコミの作った人気者」の「実像」とは、しばしばそういうものであり、その一人が、他でもない「武蔵大学教授の北村紗衣」でもあったのだ。
「資本主義」とは、宣伝によって「過大な幻想」を煽り、それで人を騙してでも、「ひと儲けしよう」とするものなのだ。

 ○ ○ ○

つまり、本書『あぶない法哲学 常識に盾突く思考のレッスンとは、まさに、そうしたことを訴えた本なのである。
「世間の常識」に盲従するのではなく「それ、ホントなの? どうも鵜呑みには出来ないな」と、一度は「常識」とされるものに盾を突いて「疑ってみる態度」を推奨しているのだ。

そして、本書で楯突いてみせる対象とは、タイトルにもあるとおり、「法律」でなのである。

つまり、「法律はいつでも正しいの? 法律だからって、それに盲従していればいいの?」と問うたのが、本書『あぶない法哲学』なのだ。

常識的に「法律は正しい。だから、疑いを挟まずに、法律に従いましょう」みたいな「優等生」的なことを書いた本ではなく、「法律って、案外当てにならないところもあるんだよ」ということを「哲学的に深く疑ってみせた」本だからこそ、『あぶない法哲学』というタイトルになっているのである。

ただ、本書が教えているのは、単に「法律だって、必ずしも当てにはならないんだよ」ということだけではなく、サブタイトルにもあるとおりで、「ましてや、常識なんてものは当てにならないから、疑ってみるべきなんだ」ということであり、それをさらにそれを敷衍するなら、「肩書きの権威なんて、まったく信用ならない」ということなのでもあろう。
一一つまり、「武蔵大学の教授」だから「賢くて立派な人」だという保証にはならないし、「フェミニスト」だと言っても「差別者かもしれない」し、「映画批評」を書いていても、作品を見る目なんかまったく無くて、ただ普通の人が読んでいない「参考文献」に書かれていることを、しらっと引き写しているだけかもしれない、というようなことでもあるのだ。

『(※ 北村紗衣『批評の教室』には)日本の作品が少なすぎる。シェイクスピアと英文学少し、あとは最近の映画ズラーってのは若い読者にはいいのかしれんが。なお(※ 志賀直哉の小説)「クローディアスの日記」におけるおかしな点は、榊敦子が論文に書いていたので先行研究をあげておくべきだったろう。』

(北村紗衣『批評の教室』に対する、文学研究家・小谷野敦による、Amazonカスタマーレビューより)

つまり本書『あぶない法哲学』の著者は、世人に対して「常識を疑え」と訴えているのであり、なぜ、そのように訴えるのかと言えば、それは多くの人々から「疑う心(警戒心)」が失われてきているという危機感を持っているからである。

経験豊富なはずの「高齢者」が、簡単に「詐欺(うまい話)に引っかかってしまう」とか「いかにもうさん臭い(詐欺的な)宗教に引っかかってしまう」とか、その一方で、若年者(若者)は、北村紗衣のような「三流学者」を「すごい」とか「有能」だなどと思い込んでしまうとかいったような日本の現状に、著者は、そうと剥きつけには書かないが、「日本人の知的劣化」を感じて、危機感を募らせているのである。

例えば、こんな具合だ。

殺人的豪雨の中でも登校する大学生
 上から命ぜられたことをただ守る。「法律だから」「規則だから」「政府が言うから」という理由で何も考えずにひたすら守る。それは、保身のために思考を止め、ただ多数派の群れの中にいたい、そして支配されていたい、その結果何が起ころうと自分は責任を負いたくないという心根の表れである。しかし、命令を下した権力者や法律は、自分らに忠実なそういう人々がどうなろうと知ったことではない。結局、法律や規則、命令と向き合って、それに従うことによってどういうことが起こるのか、それが良いことなのかどうか、自分で真剣に考えて行動する方がましであろうと思う。そのように考える姿勢は、一般的に法を尊重する生き方と矛盾するわけではない。
 最近の大学生は真面目である。痛ましいほど真面目である。たとえば、未明から防災速報アラームが次々と鳴り、気象情報は大雨警報を発し、早朝からJRの一部区間が運転を取りやめ、さらにその区間が拡がりそうな気配の中でも、「大学から休講の連絡がないから」といって危険を冒して一時間目の講義出席のために登校するのである。
「こんな大雨じゃ外出したらヤバいかも。帰れなくなるかもしれない。安全のために休もう」と自分で判断せず、ひたすら「大学からの指示」の有無で行動するのである。理由は「もしかしたら講義があって、出席をとるかもしれないから」というものだ。出席と身の安全と、どちらが大事なのだろう。
 とはいえ、現代の大学生を「自分で判断しない指示待ち」と批判するのは彼・彼女らに酷である。現代の大学生がこんなに悲しいほど真面目にならざるを得ないのは、大学なのに出欠をとるようになったこと(小学生じゃあるまいし)、そして(昔はなかった)半期一五回講義のルールができて、大学が極力休講にしなくなったことなど、文部科学省による大学への縛りがきつくなったことによる。
 今から四〇年近く前までは、一五回ルールはおろか、シラバスレジュメも板書もなく(休講も結構あったなぁ)、今の文科省から目一杯ダメ出しされていたであろう大学教育だったが、それだからこそ学生は「こんな教授陣には頼れない」(但し研究面ではすごい教授陣が多かったが)と危機感を覚え、「自分でどうすべきか」と真剣に考え、自力で必死に勉強した。それだからこそ山中伸弥教授など、ノーベル賞を受賞するような優れた人々が現れたのである。
 今の大学も大学である。とにかく近年は、私立大学さえお上の言うことを無批判的に、アホみたいに聞くから、純粋培養されたよい子たちの学生までそうなってしまった。こんなに真面目な学生たちは卒業して就職しても、たとえ豪雨だろうが、ヤリが降ろうが、川が決壊しようが、火山が噴火しようが、地球が滅亡しようが、会社から指示がない限り、ひたすら時刻を気にしながら職場に向かうのだろう。
 私のような不良教員から現代の学生に言いたいことはただひとつ、「いのちだいじに」。』(P110〜112)

例えば、北村紗衣の最新著書 『女の子が死にたくなる前に見ておくべきサバイバルのためのガールズ洋画100選』に言及した「note」記事の中で、比較的評判の良い(スキが多い)ものに、「読書ときどき愛とカレー」氏のそれがある。
その記事「【映画】女の子が生きづらい時に救ってくれる映画とは?」で、同氏は次のように書いている。

『今日は久しぶりに
ビビビビーン!と来る本に出会いました。

タイトルは
『女の子が死にたくなる前に見ておくべき 
サバイバルのためのガールズ洋画100選』

出版社は書肆侃侃房

著者は、北村紗衣さん。
武蔵大学教授で、
専門はシェイクスピアと
舞台芸術史と
フェミニズム批評。

さらに、前書きを読むと、
発達障害であり、
学生時代はいじめを受け、
10代は自殺願望もあり、
登校拒否の時期もあったらしい。
生きづらい要素のてんこ盛りだ。
そんな女子を助けたのが
洋画だったのだそう。

さて。
私は55歳のオッサンです(笑)。
死にたくなる女子のための、、、には
少しも当てはまってないじゃん?

いや、だからこそ、
逆にこのシネマガイドを読んで、
毎週末、その中の映画を1作ずつ
鑑賞しながら、
女性の気持ちについて、
女子の生き辛さについて、
マイノリティの立場について、
改めて考えてみるのはどうだろう?
と思ったんですね。

それに、
私もウツ病だし、
発達障害的ではあるし、
昔はいじめを受けていたし、
大学時代は登校拒否だったし、
と、まあ、本の著者ほどではないにせよ
それなりのマイノリティ予備軍です。

だから、この、
生き辛い女子のためのシネマガイドに
興味を惹かれたのかな…。』

以上は、この記事の前半部分であり、本来の目的である「【映画】女の子が生きづらい時に救ってくれる映画とは?」についての考察は、後半でなされている。

ただ、『ビビビビーン!と来る本に出会いました。』とか『私もウツ病だし(…)それなりのマイノリティ予備軍です。』とか『だから、この、生き辛い女子のためのシネマガイドに興味を惹かれたのかな…。』と書いているとおり、北村書に「共感している」というのは、ほぼ間違いないし、その意味で基本的には、北村紗衣が本書に書いていることを「そのまま信用している」というのも、ほぼ間違いのないところであろう。

だが、問題は、北村紗衣「自己申告」でしかない、

『前書きを読むと、
発達障害であり、
学生時代はいじめを受け、
10代は自殺願望もあり、
登校拒否の時期もあったらしい。
生きづらい要素のてんこ盛りだ。』

というのを、そのまま信じて「共感」しても、だいじょうぶなのか? 一一ということである。

例えば、詐欺というのは、おおむね「肩書き」や「同情を惹く属性」や「確信ありげな態度」によってなされるものであり、「テレビコマーシャルで有名な脱毛サロンだから、先払いでも大丈夫」とか「借金のカタに売春をさせられそうな可哀想な女の子(頂き女子りりちゃん事件)」とか「こちら警察ですが、あなたのカードが不正利用されてます(特殊詐欺の常套的な手口)」だとかいった「(裏のとれていない)言葉」を、鵜呑みにして「妄信しても大丈夫なのか」という話なのだ。

この「note」記事を書かれた「読書ときどき愛とカレー」氏は「55歳」だと書かれているから、それなりの「人生経験」を積んでいるはずなのに、著者の北村紗衣が「そう書いているから」と、それを鵜呑みにしているのだろうか?
それとも「人気作家」に共感しているふりをしておいた方が、世間の共感が得やすいと考えて、共感しているふりをしているだけなのであろうか?

後者ならば、まだしも「読書ときどき愛とカレー」氏には、年齢相応の「警戒心」があると言えるだろう。「法律」を疑い「常識」を疑い「権威」を疑い「肩書き」を疑うことのできる知性をお持ちだと、そう言えるかも知れない。

だが、そうではなく、単に「自分と似たような属性の有名人だ」ということで、北村紗衣の書いていることを丸ごと信じたのだとしたら、氏の将来が、私には危ぶまれてならない。「(頂き女子りりちゃん事件的な)同情詐欺に遭わないだろうか?」と心配でならないのだ。

このように、老いも若きも、「法律」を疑い「常識」を疑い「権威」を疑い「肩書き」を疑うことのできる「慎重な理性」というものを、欠いている
あるいは、それを欠いているという疑いの濃厚な人が多いという現実があるからこそ、本書の著者は「法哲学者」として「額面を鵜呑みにしてはいけない。それの実態が何なのかを、自分の目で見て、自分の頭で検討してから、判断を下さなければ(見極めなければ)ならない。でないと、とても危険なんだよ」と、そういうことを訴えているのである。

(「【拡散希望】正義は勝つ!!」っていう言葉のセンスが、さすがは北村紗衣弁護団の弁護士先生らしくて、大いにけっこう)

ただし、本書にも「弱点」はある。それは何かといえば、著者が「謙虚すぎる」し「優しすぎる」という点だ。

Amazonの本書に関するカスタマーレビューを覗いてみると、おおよそ好意的な評価が寄せられてはいるものの、その一方で「5点満点」を与えるような評価も少ない。
どういうことかというと、「4点止まりの評価」を与えているレビュアーが言うには、「著者の主張については同意するし共感もするが、訴える力が弱く訴求力にやや欠ける」というようなニュアンスの評価なのだ。

では、どうして、本書は、その「挑発的なタイトル」にもかかわらず、意外に「訴求力に欠けるのか」と言えば、それは、著者が「謙虚すぎる」し「優しすぎる」からなのだ。

先に引用した文章で、著者は自分のことを『不良教師』と書いているし、他にも「酒飲み」だ「独身で勝手気ままに生きている人間だ」などと、女性であるにもかかわらず、自分を「決して飾ろうとはしない」謙虚な人であり、そうした「謙虚」さが、他人に向いたときには、「優しさ」になっている。

つまり、先の『殺人的豪雨の中でも登校する大学生』を『最近の大学生は真面目である。痛ましいほど真面目である。』とは書いても、私のように「今どきの若者は、北村紗衣ファンに代表されるように、思考停止のバカ揃いである」などとは、決して書かないし、書けない人なのだ。そして、その「謙虚さ」や「優しさ」が、本書のインパクトを弱めてしまっているのである。

しかし、それでいいのだろうか? 私は良くないと思う。

本当に「このままでは良くない(まずい)」と思うのなら、少々、言葉は厳しくなっても「良薬は口に苦し」と覚悟して、「苦い薬」だって処方するべきなのだ。

今どきの「甘やかされた、若者や年寄り」が「苦い薬なんて飲まない」と駄々をこねて飲まず、また、無理に飲ませることはできないとしても、それでも医師ならば、必要な薬を処方すべきなのである。

結局はそれが、「患者」のためだからなのだ。


(2025年4月9日)


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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)


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