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濱野ちひろ 『聖なるズー』 : フェミニズムと動物性愛

書評:濱野ちひろ聖なるズー』(集英社文庫)

人間以外の動物と性愛関係を結ぶ人たち、動物性愛者(ズーファイル・ズーフィリア)と呼ばれる人たちを取材したノンフィクション作品
2019年に「第17回開高健ノンフィクション賞」を受賞した作品である。

私が今回手にした文庫版の帯には、

開高賞 史上最大の問題作

と書かれているが、確かにそうであろう。

私も本書の単行本が刊行された際には、何やらすごい本が刊行されたと注目したし、刊行後まもなく購入してもいる。

ところがいつものことで、本書のテーマに興味はあっても、今すぐ読まなければならないテーマでもなかったために、結局は積読の山に埋もれさせてしまった。
だがまた、いずれは読まなければならない本だと思ってはいたのだ。

今回、本書を読むことにしたのは、昨年8月以来とり組むことになった、「フェミニズム」との関係からである。

それまでの私は、「フェミニズム」については、それが重要な問題だとは思っていても、「女性の権利が、男性と同等に保証されなければならないのは当然のこと」であり、いわばそれは「当たり前のこと」なのだからと、わざわざフェミニズムの本を読んでまで勉強しようとは考えなかった。

ところが昨年8月、SNS「note」において、映画に詳しい須藤にわかという人の記事を読み、その記事から、映画に一家言あるらしい、「武蔵大学の教授」で自称フェミニストである、北村紗衣の存在を知った。
その頃、須藤氏は、北村紗衣「アメリカン・ニューシネマ」に関する発言を「メチャクチャ」だと批判する記事を書いて、北村との論争状態になっていたのだ。

(※ 上の画像が、オリジナル記事。下の記事が、北村紗衣からの前記苦情コメントを受けて書き直された改訂記事。タイトルからもそのトーンダウンは明らか。またオリジナル記事の削除に伴い、私のコメントも失われたしまった)

そこで、私も須藤氏の記事から、北村紗衣の問題のインタビュー記事や、須藤氏への反論として書かれたブログ記事などを読んでみたのだが、なるほど須藤氏が批判するのも当然で、北村紗衣の批評レベルは極めて低く、大学教授というその肩書きを疑いたくなるほど、幼稚なことしか言えない(書けない)人物であることがわかった。

そこで、北村紗衣の記事の感想かたがた、須藤にわか氏の当該「note」記事のコメント欄に「たしかに北村紗衣というのは、レベルが低いですね。著作があるようだから、ネット記事だけではなく、今度は北村紗衣の著作を購読して、きっちり切り刻んでやろうかな」という趣旨のことを書いた。

(上は、当該須藤氏記事コメント欄への書き込みの末尾部分)

すると、その直後に、当の北村紗衣が同じコメント欄に、

北村紗衣
2024年8月27日 09:36

須藤にわかさん、あなたは私が「お姫様になることが女性の権利向上と考えているフシがある」などと私が思ってもいないことを言って人格攻撃を行いました。
それが弁護できることだとでも思っているのでしょうか。フェミニズム観の違いに逃げようとしても無駄です。
年間読書人さんの、私の本を切り刻むというコメントは通報いたしました。』

というコメントを書き込んできたのである。

見てのとおり、私に対する直接の批判や反論は一切なく、須藤氏に対する批判のついでに、私のコメントを「note管理者」に通報するとだけ書いてきたのだ。

しかも問題なのは、私が、

『今度、北村さんの本を読んで、きっちり切り刻んでやろうかな(笑)。』

と書いたのを、その「言葉尻」だけを捉え、さらに都合よく「書き換え」て、

『年間読書人さんの、私の本を切り刻むというコメント

として、まるで私が「器物損壊予告による脅迫」でもしたかのように、管理者通報していたのである。

当然、私は北村紗衣のこの「言いがかり」に対して、同じコメント欄で反論したのだが、以降も北村紗衣は、いっさい反論なりコメントなりを返すことはなかった。

また、当該コメント欄で、私が北村紗衣批判をするのは遠慮してほしいとの、須藤氏からの要請があったので、私はやむなく、自分の記事として「北村紗衣という人」と題する、一連の経緯を紹介した記事をアップしたのであった。

ところが、私の批判反論を無視黙殺していた北村紗衣は、この記事についても早速「管理者通報」によって、閲覧停止措置を取らせることに成功した。

のちに詳しく知ることになるのだが、フェミニストを自称する北村紗衣は、「女性差別」という「流行語」を振りかざして、自分に対する男性批判者の言論を封圧するということを、ほとんど常習的に繰り返してきた人物だという事実が判明する。

当の批判者に反論するという「言論戦」ではなく、「署名活動」(「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」ほか)や「名誉毀損の民事訴訟」(山内雁琳訴訟)や「管理者通報による削除要請」といった、第三者権力の利用による力任せの抑圧によって、相手の発言能力を奪うということを、常套手段とする人物だったのだ。

だから、上のコメントでも、須藤氏の「アメリカン・ニューシネマ」観への反論ではなく、須藤氏を「女性差別者」だと決めつけ、私に関しても「脅迫者」だと決めつけることで、管理者を動かそうとした。
また、それでそうした「実績」を背景に、記事が削除されたり、アカウントが停止されるのが嫌なら「黙れ」といった種類の政治的な圧力をかけて、多くの人を黙らせてきたのである。

だが、私の場合は、昔から論争家を自負してきたし、ネット右翼などとも、まともにケンカをしてはアカウントを止められるなんてこともしてきた人間だから、北村紗衣の姑息なやり方には、わかりやすく怒り心頭に発して、徹底的な北村紗衣批判を始めることになったのである。

ここで言う「徹底批判」とは、単に北村紗衣の「やったこと」を論って批判するだけのことではない。
そうではなく、北村紗衣の著作にまで直接あたって、同人がどういう人物なのかを「北村紗衣論」として書くことであり、同時に「北村紗衣のフェミニズム」とやらの質を問うために、フェミニズムを勉強して、本来の「あるべきフェミニズム」の観点から、「北村紗衣の似非フェミニズム」を批判する、といったようなことだった。
私の言う「徹底批判」とは、単に事実関係の問題に止まることなく、北村紗衣の思想や人間性にまで踏みこんでの、本質批判ということだったのである。

(※ なお、このレビューの末尾にも、私が読んだ北村紗衣の著作を含むフェミニズム書や、フェミニズム関連作品のレビューへのリンクがズラリと並べられているので、そのラインナップだけでも、ご確認いただきたい)

一一そんなわけで、私はここ1年、フェミニズムについては、それなりに勉強した。
そればかりやっていたわけではないとしても、すでに隠居の身として、人並み以上に時間はあるし、やるとなったら徹底的にやるのが私の身上だから、内外のフェミニスト書や、フェミニズム書の古典まで読むことになったのである。

自慢するわけではないが、フェミニズムを嫌う人は世に多くても、ここまでする人はほとんどいないはずだ。
例えば私は、フェミニズムの古典として誰もが知る、シモーヌ・ド・ボーヴォワール『第二の性』を読んだ。
分厚い文庫本で3冊にもなる大著であり、そのタイトルを知ってはいても、通読した人は滅多にいないという点では、ダンテの『神曲』やプルーストの『失われた時を求めて』、あるいは哲学思想書としては、ハイデガーの『存在と時間』などと同様の書物だといえるだろう。

フェミニズムブームの昨今、フェミニズム的な言辞を弄する女性は多くても、『第二の性』を通読した女性は、全体の1パーセントにも満たないのではないかと、私はそう睨んでいる。
ブームとは、おおよそそういう「お手軽」なものだからだ。

しかし、こうしてフェミニズムを勉強していくと、フェミニズムが単に「女性差別」の問題を扱うだけでは済まなくなった現状を、私は知ることになる。

フェミニズムの源流となる女性解放運動は、当初はもちろん「女性のためのもの」だったのだが、それが「反差別」という観点からなされるかぎり、他の差別を無視するわけにはいかなくなってきたのだ。
例えばそれは、「人種差別」であり「階級差別」といったことである。

言うまでもなく、「女性」だって、男性と同様に、「人種差別」や「階級差別」をする

だから、差別者でもある女性が、女性差別反対だけを唱えていても、説得力が無い、というのは当然の話だ。
実際、白人の中流階級以上の女性たちから始まった女性解放運動は、黒人女性たちからの批判を受けて、自分たちの立ち位置に再考を迫られることになった。

そのため、反差別運動としてのフェミニズムも、単に「女性差別」だけを問題にするのではなく、「人種差別」や「階級差別」などのあらゆる差別に対抗する、総合的な反差別思想運動でなければならないと、そう考えられるようになってきた。

そしてこの「総合的な反差別」という態度を、フェミニズムの世界では「交差性(インターセクショナリティ)」と呼ぶことになり、その視点を持たなければ、もはや反差別の思想運動としてのフェミニズムは成り立たないと考えられるようになったのである。

ところが、時代が進むにしたがって、反差別の問題は、シンプルな性差別や人種差別、階級差別だけでは済まなくなった。

フェミニズムの出発点である「性差別」というのは、もともとは「男性による女性差別」のことを指していたのであり、つまり「人間は男性と女性に二分できる」という考え方に立脚したものだった
また、男女を問わない「常識」として、「異性愛」というものが自明視されてきたのだが、さまざまな属性を持つ人たちの「人権」が尊重されるようになってくると、これまで自明視されてきた「男女二元論」や「異性愛」すら、疑われなければならなくなってきた。

つまり、「男女二元論」については、それに疑義を突きつける、中間的あるいは移行的な存在たる「トランスジェンダー」たちの存在が注目され、その権利が守られなければならなくなってきた。
もはや「男が女を差別している」といった単純化された言い方自体が、「中間的な存在」を無視排除する差別性を含むものではないかとまで問われることになり始めたのだ。

また「異性愛」の問題については、当然のことながら「同性愛」の問題が対置されることになる。
それまで「同性愛」は、キリスト教倫理おいて自明の「悪徳」だとされてきたし、世間一般的には「アブノーマル=性的倒錯者=性的異常者=性的病者」だと認定されて、社会的な排除や治療の対象とされてきた。
しかし現在では、「同性愛」は、ひとつの性愛のかたちであると認識されるようになった。たしかに「少数例」ではあるかも知らないが、少数派が間違っている(多数派が正しい)ということにはならないからである。

そしてこうしたところから「LGB」の問題、さらにこれが発展して「LGBT」、「LGBTQ」、「LGBTQ+」に対する反差別という問題意識へと、拡大発展していく。

「L」とは「レズビアン(女性同性愛者)」、「G」とは「ゲイ(男性同性愛者)」、「T」とは「トランスジェンダー(性別移行者)」、「Q」とは「クエスチョキング(分類困難な性的指向)」または「クィア(俗に言う「変態」)」、「+(プラス)」とは「さらにその他の特殊な性的指向」のことである。

つまり、これまで秘事とされてきた性的な指向を厳密に見ていくならば、そこには思いもよらなかったような多種多様なかたちが存在しており、もはや「異性愛」以外は「異常」だとして済ませるわけにはいかなくなったのだ。

すでに「同性愛」は、世間的にも認知されているに等しいし、「トランスジェンダー」の問題は、日本のフェミニストたちの強調点ともなっている
同性愛は広く認知され始めたが、トランスジェンダー差別はまだまだ知られてもおらず、存在もしているから、トランスジェンダー問題こそが、「総合的な反・性差別運動としてのフェミニズム」における、現在の争点の「最前線」だとされているのである。

だが、「トランスジェンダー」が注目される陰には、隠されている他の「性差別」がある。

一一それが、「幼児性愛」であり「動物性愛」なのだ。

これらの問題は、明らかに「トランスジェンダー」の問題よりも厄介だ。

なぜなら、「トランスジェンダー」の場合は、少なくとも「大人(成人)」についての問題であり、そうであれば、それは当人の自己選択の問題として理解する向きが、世間的にも広がっているからである。
「体が男でも、心が女である」とか、その逆だといった場合、「心に体を合わせて、統一したい」と考えるのは、ごく自然なことだと、多くの人は考え得るからである。

ところが、「幼児性愛」と「動物性愛」は、そう簡単にはいかない。
なぜなら「人間の幼児」であれ「他の動物」であれ、それらは「(一人前の)人間の意志」を持たない存在だと見なされているからだ。

だから、そうした「完全な判断(承認・拒絶)能力を持たない存在」を性的な対象とするのは、そうした弱み(判断能力の弱さ)につけ込むかたちで、単に、その「特殊な性欲」の解消を目指そうとするものでしかなく、そこには「愛」が無いと、そう見られ得るからである。

多くの人は、「幼児性愛」や「動物性愛」に、単純に「本能的な嫌悪感」を感じて、それを拒絶しているつもりなのであろう。
だが、その根底にあるのは、「愛のない性欲」というものに対する「おぞましさ」の感覚がある。

言い換えれば、多くの人は、自身の「性欲」というものを、「愛」の名において正当化し、「人間化」しているからこそ、「人間化されない性欲」を「獣欲」として嫌悪し、それを拒絶しようとするのである。

しかし、現実を当たり前に見るならば、「性欲」と「愛」とは、そう簡単に一致するものではない

当たり前の「異性愛」でさえ、売買春が存在するように、「性欲」と「愛」とは必ずしも一致してはおらず、例えば、愛し合って結婚したはずの夫婦間においても、「愛のないセックス」が当たり前のように、あるいは義務のように行われることが少なくないというのは、周知の事実である。

したがって、「性欲」と「愛」とが一致する「性愛」と、一致しない性愛とのどっちが多いのかと言えば、むしろ一致していないそれの方が多いというのが、偽らざる現実なのではないだろうか。

それでも私たちは、多数派である「異性愛」者であるかぎりにおいては、自身を「ノーマル」であり、だから「正しい」と正当化している。
「愛のない性愛」という自己矛盾的な「性生活」を、その多数派性において正当化し、それへの盲信に立脚して、「幼児性愛」や「動物性愛」に対しては「本当のところ、愛なんてないのだろう? 愛の名の下にその獣欲を満たそうとするなんて、なんとおぞましい所業か」などと、偽善的な倫理観を、愚かにも本気で振り回すのである。

だが、「幼児性愛」者や「動物性愛」者は、それぞれに、その性愛対象との間に「相互の愛」が成立し得ると主張し、だから、その「性愛」も認められるべきであると主張する。

けれどもまた、多数派である「異性愛者」の大半は「そんなこと考えられない」と、考えることそのものを拒絶することで、「幼児性愛」者や「動物性愛」者の主張を無視黙殺して、その権利を認めまいとする。

彼らのことを何も知らないのに、いや自分たちの現実すら直視することもできない、ただ「多数派性」にもたれ掛かっているだけの、無思考の能無したちが「それは間違っている」などと、厚顔無恥にも断じている。一一と、こう言えば、果たして言い過ぎなのであろうか?

しかしながら、これが、「幼児性愛」や「動物性愛」をめぐる、一般的な言説の現状なのだ。
現実を知ろうともしないでなされる、一方的な「断罪」だということである。

無論、幼児の気持ちというものが「当てにならない」ものだというのは、誰もが自身の経験から実感していることだろう。
「子供の頃は、それが正しいと信じていたが、大人になってみれば、それが間違っていたことを知ることになった」というようなことで、わかりやすい例で言えば、「仮面ライダー(プリキュア)は、世界のどこにも実在しない」とか「サンタクロースは存在しない(お父さんやお母さんが化けていただけ)」とか「神様は存在しない」とか、そういったことだ。

あるいは「あのとき私は、本気で将来はパパと結婚するつもりでいたけれど、あれは子供にありがちな錯覚であった」とかいうのも、同様に「子供の判断」の「当てにならなさ」の証拠だと考えられているのだ。

だが、では「大人の判断」なら、それほど確かで信用できるものなのか?

何度も、結婚と離婚を繰り返す人に、「愛の有無」を語る資格などあるのか?
嫌々ながら結婚生活を続けているような男女に、「愛」を語る資格などあるのか?

一一そうした人たちは、単に「一時的な性愛的な本能によって、のぼせ上がっただけ」なのではないのか?

だとすれば、そんな「大人」たちに、「子供」の判断能力を云々する資格など、あると言えるのか?

馬鹿な大人など、掃いて捨てるほど存在する一方、大人より懸命な子供も、少数ながら存在する。
それでも一般論として「大人の方が判断能力がある」という理由で、無差別に子供の判断を蔑ろにしても良いのか? それは「子供に対する人権侵害」ではないのか?

一一とは言え、私自身、一般論としては「大人には、子供を守らなければならない義務がある」と考えるから、たとえ子供が望んだことでも、それが好ましい判断ではない、あるいは間違った判断だと判断すれば、その子供の判断を尊重したりはしない。

その典型が、子供のトランスジェンダリズムに対する、私の慎重論である。
平たく言えば、アメリカなどで流行した、十代半ばの少女たちによる「私は、本当は男の子なんだ。だから手術を受けて男の子になりたい」というような主張には、それを真に受けずに、「ちょっと待て。早まるな」という立場を支持したのである。要は「君の判断は間違っているかもしれないよ」という「大人の判断」であり、その押しつけである。

つまり、結局のところ私たちは、誰の判断が正しいのかは、誰にもわからないのだ。
大人が正しいのか子供が正しいのか、それは誰にもわからないし、そもそも、それはその場合によりけりであろう。

だが、ひとつだけ言えることは、大人であれ子供であれ、「判断」したいのなら、その問題について、その判断に必要な知識を得るための勉強は必須だ、ということである。

その問題に関する基本的に事実関係の知識すらろくに知りもしないでいて、それでも大人だから判断できる、などということにはならない。
実際、大人の大半は、不勉強な馬鹿なのだ。無知なくせに自分には判断能力があると思い込んでいる馬鹿が如何に多いかは、すこし世の中を観察すれば、自明の話ではないか。

だから私たちは、「幼児性愛」であれ「動物性愛」であれ、まずは謙虚に知ろうとする態度が必要なのだ。それが無いのであれば、それについて判断できるなどと、思い上がるな、ということである。

少なくとも、大人の「幼児性愛者」の話や意見を聞くことはできるし、大人との性関係を自ら求める子供だって現に存在するのだから、その意見も聞くべきだ。
聞くことが可能なのに、それをせずに、自分たちの思い込みを押しつけるのは、横暴(な差別的権力行使)以外の何ものでもないからである。

たしかに、「人間の子供」とは違って、「動物」から意見を聞くことはできない。
人語を話せないのだから「ワンちゃん、君は人間と性交したいの?」と尋ねて、人語で「はい」とか「いいえ」と、答えてもらうことは不可能だ。

だがだからこそ、動物性愛者の意見は、最低限のものとして聞かなければならないはずだ。それを聞いた上で、判断しなければならないのである。

だから「動物性愛」について、その是非を云々したいのであれば、本書くらいは読むべきなのである。

いや「動物性愛」についてだけではなく、人間の「性愛」や「性差別」について、それこそ「本能」任せの判断をするのではなく、人間らしく理性的にそうした事象を云々したいのであれば、本書くらい読まなければならない。

したがって、仮にも「フェミニズム」を口にするような人なら、つまり「すべての性差別に反対する」と主張する人なのであれば、その「すべて」に含まれる「動物性愛」を扱った本書を、読む「義務」があると言っても良いだろう。

フェミニズムが、単に「女性差別」を問題だとするだけのものではなく、すべての性差別を問題とする「交差性(インターセクショナリティ)」に立脚するものだと言うのなら、当然、「幼児性愛」や「動物性愛」に無知のまま「すべての性差別に反対する」などと、身の程知らずに大言壮語するのは許されない。

また、だからといって、世間ウケの悪い「幼児性愛」や「動物性愛」への言及は避けて、「トランスジェンダー」問題が「性差別問題の最前線」であるかのような見せかけるのは、姑息の欺瞞でしかない

「性差別」問題の最前線は、「トランスジェンダー」であるよりもむしろ、当事者の言葉の評価が困難な、「幼児性愛」や「動物性愛」の方ではないだろうか?

だが、それが困難だから、無視して良いとか、関わると損だというような態度は、少なくとも「マイノリティ(社会的少数者)」の側に立つと主張する者、つまり「フェミニスト」を名乗る者には、許されない。

したがって、すべてのフェミニストは、「幼児性愛」や「動物性愛」の問題に対しても、誠実に向き合い、誠実に発言すべきである。

本書『聖なるズー』は、決して動物性愛者の主張に一方的に与するものではなく、研究者としての客観性を最大限に担保しようと努力した結果の賜物である。
またそれと同時に、自身の「性暴力」被害体験を相対化するために、あえて直接的には関係のなかった「動物性愛」の問題を研究対象とした著者らしい、当事者意識に立脚した、熱い思いもこもっており、決して、「冷たい研究」などではない。

本書文庫版に「解説」を寄せた小説家の松浦理恵子が、次のように書いているのは、そうしたこと指しているのだ。

『 著者がズー(※ ズーファイル=動物性愛者)たちを安易に擁護したり断罪したりするつもりがないのはあきらかだろう。ズーたちの家に何日も泊まり会話を重ね人間性をも見つめる著者が、心情的にズーを受容したいと願っていることは痛いほど伝わって来るが、本書で見られるのはあくまでも彼らの話に耳を傾け、ジャッジするのではなく、動物性愛を含めたセクシュアリティについて考え続ける著者の姿勢である。『聖なるズー』はそういう性質の著作なので、読者に対しても説き伏せるのではなく思考と議論に誘う。』
(P297)

本書は、研修者によるノンフィクションだが、それは「情理を尽くした」ものなのだ。

そしてだからこそ本書は、知識を与えてくれるだけではなく、読者を本源的な思考へと導いてくれる。

「性」とは何か?
「愛」とは何か?
「人と動物」とは、どう違うのか?
そもそも、「人間」とは、どのような生き物なのか?

『 素朴な好奇心から本書を手に取ったとしても、この真摯で内容豊かで題材以上の刺戟に富む力作を決して簡単に読み捨てることはできないだろう。『聖なるズー』を片手に私たちも再び思索の旅に出る。』(P299)


(2025年11月2日)

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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)


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