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三宅香帆や北村紗衣に「学ぶ」と、こうな(れ)る。 あるいは「お前はすでに死んでいる」

先ほど、「note」の「北村紗衣」関連記事の人気ランキングをチェックしていたら、「itchie」という人の、

批評は死なない。「擬態」して生き残る。──三宅香帆、高比良くるま、紫藤春香に学ぶ令和の「バズる批評」の作り方

という記事の評判が、なかなか良いことに気づいた。
これまでは、あまり見かけなかった名前だ。

しかしながら、私がまったく評価しない三宅香帆に「学ぶ」ようでは、読む価値がないと判断してスルーした。

だが、その記事の3日後の昨日に、同氏は、

「批判なき批評」でいいのか?──三宅香帆さんの「批評の定義」への違和感と、「武器としての批評」に必要なもの

という記事を書いていらした。

『「批判なき批評」でいいのか?』という問いは、もちろん「反語」表現であり、その趣旨は「批判なき批評ではダメだ」ということである。

そしてそういうことならば同感だと、こちらの記事を読んでみると、三宅香帆や北村紗衣に学ぶのは「なんだかなあ」という感じだが、それでも「批判なき批評ではダメだ」という趣旨には、完全に同意した。それで「スキ」を押しておいた
一一これが昨日の話である。

そして今日、そんな同氏に対し、

「「批判なき批評ではダメだ」という考えは正しいが、しかしそういう一般論だけでは意味がない。つまり、「批判なき批評ではダメだ」と言うのであれば、その実践が出来なければならない。そうでないと、結局はみんなと同じ、事なかれになってしまいますよ」

ということを伝えたくて、次のようなコメントを書いて、上の記事のコメント欄に投稿することにした。

『はじめまして。

「批評に批判は必要だ」というご意見には、完全に同意します。
ただし、一昔前なら、そんなことは言うも愚かな常識だったんですが、今どきはみんなが、周囲から浮くのを恐れながら、一方でその周囲に認めて欲しいという、承認欲求奴隷の大勢順応派になっていますから、おのずの批判を避ける方向になってしまう。

だから、肝心なことは、「批判は必要だ」と指摘することではなく、批判すべきことを批判してみせることです。
一般論ばかり語って、実践できないのでは、結局は周囲と同じだからです。

北村紗衣にしろ三宅香帆にしろ、批判しているように見せてはいても、所詮は特定個人を名指しにはしない。
しても、反論される恐れのない、外国人か死人といったところでしょう。

二人の違いは「ツッパリ」タイプが「読者接待」タイプかでしかなく、身近な人物については、無難に褒め合いっこをして、お互いの権威を高めあうことしかしていないはずです。
当然、そんな人間に、まともな批評なんか書けないから、批評は死んだ、ことにしたいだけ。

ま、たしかに批評で「食ってはいけなくなった」というのは事実ですが、それは「批評の死」ではありません。実態は「知的読者の死」です。
「貧すれば鈍する」で、単に世間が子供舌(の頭)になって、批評を読まなくなっただけなんですよ。』

一一ところが、ブロックされていた

だから、コメント投稿は出来なかった。

やっぱり、三宅香帆や北村紗衣の愛読者だけはあるなあ、という結果だ。

「批評に批判は必要だ」と言いながら、自分が批判されるのだけは、嫌だったらしい。

さすがは、三宅香帆や北村紗衣のファンだけはあると、完全に納得させられた。

三宅香帆や北村紗衣に「学ぶ」と、必然的にこうなるのだ。

(2025年12月4日)


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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)


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