映画監督 ジェームズ・ガン論 : 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』 『スーパーマン』ほか
映画作家論:ジェームズ・ガン:『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズ(2014年〜2023年)、『スーパーマン』(2025年)ほか
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(シリーズ第1作)を見た。なぜ今ごろ見る気になったのかというと、この夏に公開されるジェームズ・ガン版『スーパーマン』が楽しみでならないからである。
で、私としては「まだ、ガンの作品は『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』しか見ていないから、『スーパーマン』を見る前に、代表作である『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』三部作くらいは見ておこう」と考えたのである。
それで、中古DVDで三部作を買い揃えたあと、おもむろにシリーズ1作目となる本作『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を見たと、こういう次第だ。

で、結果的にどうだったかと言うと「感じの良い作品で、悪くはないけれど、少々甘いところに物足りなさを感じる」というものだった。
そもそも、「スター・ロード」ことクイル(クリス・プラット)を中心として結成されたチームが、どうして「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」つまり「銀河の守護神」になったのかというのが、どうにもよくわからない。
たしかに「多くの人たちが無惨に殺されるのを座視できなかった」というのはわかるのだけれど、たとえば今回の悪役であるロナン(リー・ペイス)に、妻と子供を殺されたドラックス(デイヴ・バウティスタ)が「復讐」のためにロナンと戦うのはわかるし、さらにその上の親玉であるサノス(声:ジョシュ・ブローリン)を憎むのもわかる。
だが、主人公のクイルや、アライグマの姿をしたロケット(声:ブラッドリー・クーパー)、植物人間のグルート(声:ヴィン・ディーゼル)などが、「銀河の平和のために闘う戦士」になるというのは、彼らの「マイペースさ」や「自分勝手さ」からすれば、まったく似合わない。
また、その点では、ロケットがそうした「みんなを助ける正義の味方」的なスタンスに当初は抵抗を示すというのは、大いに納得できるのだ。
だが、結局のところ彼らは、ケンカなり何なりをしつつもワイワイやっているうちに、いつの間に「友情」が芽生えてしまい、人情的に、クイルと行動を共にしないではいられなくなったという、いささか「なしくずし」の感が否めないのだ。
「なしくずしで、銀河の守護神になんか、なれるのか?」と、そう思わずにはいられないのである。

みんなを「銀河の守護神」へと引き込んだに等しいクイル自身、もともとは犯罪者集団である「ラヴェジャーズ」のリーダーであるヨンドゥ(マイケル・ルーカー)に育てられ、長じてその仲間になって各種の犯罪に手を染めた人なのだ。当然、人殺しだって、何らかのかたちでやっているはず。
だが、そんな彼が、ザンダー星の破滅を前にして、この星を守ろうと決意するのだが、それ以外には、これといってハッキリとした理由が示されているとは言い難い。なんとなく「人々を守らなければ」という気持ちが芽生えてきて、決定的な危機を前にして「銀河の守護神」を引き受けよう決意した。一一と、そんな感じなのである。

つまり、チーム「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」の中心人物であるクイルがそんな感じなので、そんな彼に引きずられて仲間になった他の4人(ガモーラ、ドラックス、ロケット、グルート)にしても、あまりハッキリとした「意志」や「使命感」といったものが感じられず、ほとんど「なりゆきと友情」だけで「銀河の守護神」をやっているという、いささか説得力を欠くものとなってしまっているのである。

ただ、今回見た『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のDVDに付属しているガン監督のコメンタリーを聞いたところ、この人には、とてもわかりやすい特徴のあるのがわかった。
それは「極端に、友達を大切にする」ということだ。
このコメンタリーを聞いていると、
「あれは弟が演じているんだ。いい芝居をしてくれた」
「彼は昔から僕の作品に出てもらっている友人だ」
「彼は俳優として素晴らしいだけではなく、人としてもすごく素晴らしい人なんだ」
などと、身も蓋もないほど、自らの「コネクション」を重視しているのがわかる発言を連発しており、
「今回初めて一緒に仕事をした、クリス・プラットとも友達になったよ」
と「友達である」ということが、いかにガンにとって重要なことなのかがわかる発言をしているし、なぜ「友達であることが重要」なのかということも、次のように説明している。
「監督という仕事は、すごく孤独なんだ。大勢の人が僕にいろいろ相談してきて、僕はそれに応えなければならないし、休む暇さえない。そんな現場に、気のおけない友人がいるのといないのとでは大違いだ。疲れた時に、彼らとたわいない話をしたり、彼らを頼ったりできることが、どれだけ僕の支えになっているかわからない。だから、僕は、いくら優れた俳優だって、使いにくい人をわざわざ使おうとは思わないんだよ」
と、こういうスタンスなのであれば、ガンが「コネクション」を重視するというのも、非常によくわかる。
ただ、ガンのこうした「ナイーブさ」が、私をしてガンの作品に「物足りなさ」を感じさせるのではないか、という風にも理解できた。
つまり、私は「ぶつかり合うこと」が好きで、「馴れ合い」が大嫌いな人間なのだ。
だから、いくら個人的に親しくても、「違う」と思えば「それは違う」と言うし、相手が聞きたくなくても、批判するからには「なぜならば」とその「説明」をする。
つまり私としては、「切磋琢磨」するような、多少ヒリヒリするくらいの関係が好きなのだ。だから逆に、「慰め合い」や「傷の舐め合い」みたいなものが嫌いなのだが、ガンには、そうしたものを求めてしまう「弱さ」や「甘さ」があり、そのせいで「なぜ彼らは、みんなのために闘うのか」「なぜ、悪党を自称しながら、正義の味方をやってしまうのか」という本質的な問題に関しても「突き詰めが甘くなってしまう」のではないかと、そうと感じられたのである。
で、ここで思い出したのが、かつてガンは、なんらかの問題で、いったんは監督業を「ほされた(キャンセルされた)」という事実である。
つまり、こんなに「傷つくことが嫌い」なガンが、いったい何をしたんだっけと、すっかり忘れていたそのトラブルを確認することにした。
その結果わかったのは、次のような事情であった。
『2014年の「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」と、2017年の続編「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス」を大ヒットさせたガンは、2020年の公開を狙う3作目でも、監督と脚本家を兼任することが期待されていた。
しかし、アメリカ時間先週19日、保守派のウェブサイトdailycaller.comが、彼による過去のツイートの数々を掘り出して掲載したのである。
「笑いは最高の薬。だから僕はAIDS患者を笑うのだ」
「これまでに見た最高のデブ男がこっちに向かって歩いてくる。500ポンドはあるぞ」
「寝ている彼女に向かって、お尻からレイプをするジョークを言った」
などという、差別、あるいはセクハラ発言と思われるそれらの多くは、2008年に投稿されたもの。
最も新しいものでも、2011年だった。この記事で紹介された以外にも、
「小さな男の子に、体のある場所を触られるのが好き」
「レイプされるののいいことは、終わった後、『ああ、レイプされていないっていいなあ』と感じられることだ」
などのツイートがあったこともわかった(これらはいずれもすでに削除されている)。
この報道を受けて、ガンは、19日、「僕のキャリアを早くから追いかけてくれている方々はご存知と思いますが、初期において、僕はタブーなジョークを好む扇動者でした。その後、僕は人間として成長し、僕の仕事やユーモアも、それに伴ってきています」「反応を楽しむがために衝撃的なことを言う日々は、もう僕にとって過去のものなのです」などという弁明のツイートを連続して投稿した。だが、20日、マーベルの親会社ディズニーの会長アラン・ホーンは、「ジェームズのツイートにあるコメントは、弁護の余地がなく、わが社の価値観にそぐわないものです。したがって、我々は、彼とのビジネス関係を断ち切ることに決めました」と声明を発表。「ガーディアンズ〜」3作目は、突然にして、監督を失うことになってしまった。』
(猿渡由紀「ハリウッドの大物、ツイートのせいでまたもやクビに。10年前の投稿を持ち出すのはフェアなのか?」2018.7.23 /引用者が改行を加えた)
この記事を読んで、私は「そういえば、そんなことだったなあ」と思い出し、さらにジェームズ・ガンの「Wikipedia」を確認したところ、この件については、次のように解説されていた。
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー監督解雇と復帰
2018年7月、ディズニーの会長アラン・ホルンは、ガンのTwitterの投稿に不適切な内容があったとして、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズ3作目の監督からの解雇を発表した。
その理由は、2008年〜2012年ごろに投稿された小児性愛、レイプ、人種差別、ホロコースト、エイズなどあらゆる不謹慎なジョークについてのツイートが発見されたことだった。ガンは日頃から当時のアメリカ大統領だったドナルド・トランプへの批判を繰り広げており、トランプ支持派の右派ニュースサイトやオルタナ右翼によって過去のツイートを掘り起こされ、拡散されたのだった。ガンは一連のツイートについて謝罪した。
ガンの解雇処分に対し、シリーズ1作目から出演しているデイヴ・バウティスタが「ガンが既に書き上げている『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』3作目のシナリオを、もしマーベルが使わないなら、出演契約を解除してもらうつもりだ。そうしなければジェームズを裏切ったことになる」と発言したほか、同シリーズの主要キャストであるクリス・プラット、ブラッドリー・クーパー、ゾーイ・サルダナ、ヴィン・ディーゼル、マイケル・ルーカー、カレン・ギランなどが不謹慎ジョークの内容には共感しないとしながらもガンを支持し、復帰を求めるとの公開書簡に署名した。またガンの再雇用を求めるオンライン請願サイトには、約35万人の署名が集まった。そして解雇から9か月を経た2019年3月15日、ガンが監督に復帰することが発表された。
2018年10月、ワーナーはDCコミックスシリーズ映画『スーサイド・スクワッド』の続編の監督、脚本としてガンに誘いをかけ、2019年1月には監督就任の契約を交わした。同作は2020年に公開され、またガンは、同作に登場するキャラクター、ピースメーカーを中心としたスピンオフテレビシリーズ「ピースメーカー」脚本、監督、製作を行った。
2021年1月から7月まで行われた「ピースメーカー』の撮影終了後の同年11月、シリーズ完結作となる『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』の撮影が始まり、翌2022年5月に終了。発表されていた予定通り米国で2023年5月5日に劇場公開された(日本では5月2日公開)。また同作の撮影後半時期にはテレビスペシャル『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー ホリデー・スペシャル』の撮影も行われ、「VOLUME3」にさきがけて2022年11月にDisny+で公開された。
DC映画の新リーダーへの就任
2022年10月25日、ピーター・サフランと共に、DCフィルムズの代わり新設される、ワーナー・ブラザース傘下「DCスタジオ」の共同会長兼CEOに就任することが発表された。以後の4年のDC映画・ドラマ・アニメの製作を統括し、ガンは主にクリエイティブ面を担当することになった。』
(Wikipedia「ジェームズ・ガン」)
つまり、ガンに「差別的なツイート」という過去があっても、私がガンに「好印象」を持っていたのは、彼が基本的には「反ドナルド・トランプ」のリベラルであり、その点では「決して本質的には、差別主義者ではない」という印象を持っていたからなのであろう。
では、差別主義者ではないはずのガンが、なぜ「差別的」と取られても仕方のないようなツイート(?)をしていたのかといえば、それは当人も言っているとおりで、
『僕はタブーなジョークを好む扇動者でした。』
『反応を楽しむがために衝撃的なことを言う』
ということだった。
つまり、ガンは「優等生的なきれいごと=偽善」に反発する人だったのである。
だから、殊更に「優等生的なきれいごと」を嘲笑うかのように、殊更に「挑発的で下劣なジョーク」を連発したのであろう。
で、こうしたことは、上の「過去ツイート」問題が出る前に作られた『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を見た人なら、比較的、理解しやすいところでもあろう。
なぜなら本作でも、その手の「きわどい下ネタジョーク」や「人を食ったユーモア」が散見されるからだ。
したがって、ガンには、このように「人にケンカを売る」ようなところ(挑発性)があるのだが、その一方で、その真逆とも思える「友達」「仲の良さ」を重視するというのは、いったいどういうことなのか? 一一この一見「矛盾」しているかのような属性を、どう理解すれば良いのだろうか?
その「解答」は、さほど難しいものではない。要は、彼は「子供のようにナイーブ」なのだ、いささか「年甲斐もなく」。
つまり、彼は「強い」から「ケンカを売る」のではなく、「弱い」から「傷つきやすい(ナイーブな人だ)」から、「不純」なものに対して、「ついケンカを売ってしまう」のである。
それは、「許せない相手だから、確信を持って叩き潰す」というような「腹の座った」態度から出てくるものではなく、「神経を逆撫でされて、イライラさせられる」から「放っておけない」「つい揶揄いたくなる」「挑発せずにはいられない」という「受動的で、消極的な攻撃性」なのである。
つまり、ガンの本質は「傷つきやすい子供」であって「悪と戦う闘士」などではない、ということだ。
だからこそ私には、物足りないと感じられたのである。
例えば、私も昔「私の趣味としては、お婆さんとセックスするのは御免だが、ヨーロッパ映画に出てくるような、美少年とならセックスしても良い」というようなことを自らの掲示板に書いたことがあって、私に馬鹿にされたネトウヨが、それをこれまで何度となく掘り返してきてはあげつらうといった、ガンと似たような経験をしている。
ただ、私はガンのような有名人ではなかったから大きな問題にはならなかったし、ガンとは違って私の場合は、わざわざ誤解を招くような書き方はせず、事実を正直に書いていたので、「だからどうした。何も子供相手にセックスするのは言ってないだろう。年寄りよりは若い方が好きだと言ってるだけだ」と突っぱねることも出来たのである。
で、それにしてもかつての私が、どうしてこういうことをわざわざ書いたのかと言えば、それはガンと同様「建前的なきれいごと」としての「偽善」が嫌いだったからである。
「美少年が好きで、何が悪い。好きならセックスだってできるだろう(実際にするかどうかは別にして)」と、そういう気持ちだったのである。
で、そういう気持ちは今も変わらずにあって、しかし以前よりは「理論的な詰められていた」から、私は最近「ロリコンで何が悪い」という趣旨の、下の論文を書いたのだ。
だから、私とガンとは、とても似たところがあって、それで理解できる部分もあるのだけれど、私とガンとの大きな違いは、ガンが感情的に「相手を挑発する」に止まるのに対し、私の場合は「相手を折伏しようとする」という点なのだ。
つまり、相手を「揶揄う」のではなく、「論理的にねじ伏せる」のだ。「お前は間違っている」とそう言いたいし、それを明らかにしたい。
だから、ガンには「根拠の説明」というものが無かったのだが、私の場合は、それこそが大切なのである。
で、こうした「違い」がどこから生じるのかと言えば、それはたぶん、私が能動的で攻撃的なのに対し、ガンの場合は受動的で拒絶的だという、そんな違いなのではないかと思う。
では、この違いは、奈辺から生じたものなのだろうか?
いつも書いているように、私が好きなのは「孤高の戦士」「孤独なヒーロー」である。
だから、私は「仮面ライダー」は好きでも「スーパー戦隊もの」には興味が無かった。
また、同じ理由で、当初『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズにも、さほど興味が無かった。
私とて「友情」が嫌いなわけではない。しかしそれは、「支え合い」「もたれ合い」的なものではなく、我が「心の師」である大西巨人が書いていた「連帯を拒むものではない。しかしそれは、“独りでもゆく”という覚悟を持った個人の連帯でなければならない」という趣旨の言葉に、深く共感するような性格ものなのである。
だからこそ、私は、スーパーマンやバットマンといった「孤高の単独ヒーロー」が好きで、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』や『スーサイド・スクワッド』あるいは(ガンの作品ではないが)『ファンタスティック・フォー』といった「チームもの」には、今ひとつ惹かれないのだろう。

そして、こう考えてくると、なぜ『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(第1作)の冒頭が「クイル少年の、母との死別のシーン」であり、物語終盤で、惑星をも破壊する力を持つ「インフィニティ・ストーン」を、敵から奪い返すため、やむを得ずそれを直に握ったクイルが死にかけ、それに救いの手を差し伸べたガモーラに、クイルが「母の面影」を重ねたという描写も、結局は、この物語は「自分を庇護してくれた母の面影を求める、少年の物語」だったのではないかと、そんな解釈も可能なのだ。
つまり、ガンが『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のポイントとして、彼らは「スーパーヒーロー」ではないという点を強調するのも、結局は、彼らは「人々を守るヒーロー」であるよりは「仲間によって守られる弱き凡人」であり「その連帯の物語」だったということになるのであろう。「母」の代わりに「仲間」が必要だったということなのである。
ガンの「友達重視・仲間重視」とは、そういうことだっと言えるのではないだろうか。
そして、そんなガンだからこそ、自分から積極的に「悪を倒しに行く」というスタンスにはならず、その点で、私の能動性とは、対極的と言っても良いのかもしれない。
ガンは、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の3作目の監督降板が決定的になる前、同シリーズについて「自分を投影したキャラクターであるロケットの物語は、まだ閉じていない(語り切れてはいない)」から、どうしても3作目を撮らせて欲しい、という趣旨のことを語っていたが、これもわかりやすい話だろう。
つまり、アライグマの姿をしたロケットというキャラクターは「毒舌で凶暴」だということになっているのだが、しかしそれは「傷つきやすいナイーブさを隠すために、自ら演じている」部分の少なからずあるキャラクターなのである。
またそんな、ロケットだからこそ、相棒のグルートについて、「ろくに言葉が話せない」などという「毒舌ツッコミ」をしばしば口にするけれど、そのグルートが命を捨てて、ロケットら仲間を守ろうとした際には、ロケットは、その「弱い」素顔、泣き虫的な素顔を覗かせてしまうのである。
一方、そんなロケットの相棒であるグルートが「見かけは厳ついが、子供の純粋な心を持つキャラクター」だというのも、わかりやすいところだ。
要は、ロケットが、ガンの「似姿」なのであれば、グルートはガンの「内面的に理想化された」やはり「憧れ(理想の自分)」なのだ。
グルートは「優しい愛されキャラ」であり、ガンの本音としては、本当は「毒舌のロケット」ではなく「純粋なグルート」でありたかった、ということなのである。
そして、さらに言えば、ガンの「ペドフィリア(小児性愛)」傾向の表出だと誤解されたのであろう、
「小さな男の子に、体のある場所を触られるのが好き」
という発言は、本質的には「ナルシシズム(自己愛)」の変形なのである。
ロケットが、死を覚悟したグルートを、涙を流しながら「撫でる」ように、あるいは、グルートを失って落ち込んでいるロケットの頭を、ドラックスが優しく「撫でる」ように、ガンの言う『小さな男の子に、体のある場所を触られるのが好き』という言葉は、ことさら「挑発的」に、つまり「わざわざ誤解を招くように」言い換えられてはいるけれども、その本音は「傷ついている僕を、誰か優しく慰めて(欲しい)」ということなのである。
また、いったんこうした「ガン理解」に立てば、新作『スーパーマン』をめぐるガンのスタンスも、わかりやすぎるくらいだろう。
つまり、ガンが今回の『スーパーマン』において、その「純粋さ(純粋な正義感)」というものを強調するのは、もともとは「弱い」彼が、それまでの「屈折した表現(毒舌的な挑発性=悪党性)」ではなく、「まっすぐな正義感」に憧れ「自分もそのように、強い人間になりたい」という憧れを持っていることの表れだと、そう言えるのだ。
要は、もう昔のような「強がり」ではなく、本当の「強さ」にこそ憧れるようになった、ということである。
けれども、人間は、そう簡単には変われるものではないから、今度の『スーパーマン』にも、わかりやすい「ガンらしさ」が出ている。
それは、『スーパーマン』の「トレーラー(予告映像)」で描かれた、「傷つける(弱い)スーパーマン」であり、頼りになる仲間である「スーパー犬クリプト」や、スーパーマンを支える「ロボットたち」の存在である。
つまり、ガンの描くスーパーマンは「孤高のヒーロー」でも「孤独なヒーロー」でもなく、「傷つく弱さ」も持ってもいれば、時に「仲間」に助けられ、支えられるから頑張れるヒーローとなっているのである。


そのため、こうした「スーパーマン像」に違和感を覚える人がいたというのも、それはそれで納得できる話だろう。スーパーマンは、あくまでも「強く」なければならないと考える人には、ガンのスーパーマン像は、いささか「ひ弱」なものと映ったはずだ。
私が、本作『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』や『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』の「悪党」たちに感じた「物足りなさ」と似たようなものを、新作『スーパーマン』の「トレーラー」に感じた人もいたのだろう、ということだ。
だが、だからと言って、私は、今度の、ガン版『スーパーマン』を否定しようとは思わない。つまり、「弱い」ことが「悪い」とは言わない。
なぜならば、誰だって「弱さ」は抱えているからで、問題は、そうした「不可避な弱さ」に、安住するのか、それを乗り越えていこうとするのか、だからである。
だから、「友達を求める」のも良い、「励まされる」のも良いけれど、しかし問題は、そうした「受動性」に安住するのではなく、そういう「弱さ」を持つ自分だと自覚すればこそ、次は、自分が「人々を励ます立場の、強い人間になろう」とすることなのではないか。
言うなれば、「ひ弱な少年」でしかなかったジェームズ・ガンは、痛い目にあったおかげで「生意気な純粋小僧」から、本当の意味での「他者の盾となれる大人の男」へと成長しようとしていると、そう評価することもできるのだ。
無論、人間、そう簡単に変われるものではないのだけれども、変わろうとすることが大切なのだ。
なぜなら、その前向きさが、「弱い自分を嘆いている人」を励ますものにもなるからである。
○ ○ ○
ところで、こんなふうに、私なりの「ジェームズ・ガン論」の大筋が、頭の中で固まったところで、ふと「そういえば、以前に書いた『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』のレビューには、何を書いたんだっけ?」と思って、今回ひさしぶりに読み返したところ、一一いささか驚かされることになった。
『DCコミックスの「スーサイド・スクワッド」ものを原作とした映画の第2弾。前作の監督は、デイビッド・エアーだったが、今回は、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズなどで高い評価を受けた、ジェームズ・ガンが監督をつとめた。
私は、デイビッド・エアー監督の前作も観ているが、正直「イマイチ」だと感じた。だから、この2作目も、ジェームズ・ガンが監督していなければ、きっと観ていなかったはずだ。
私はもともと、バットマンやスーパーマンのような「孤高のヒーロー」が好きであり、「チームもの」は好みではなかった。そのせいで、ほとんど見ている「マーベル・シネマティック・ユニバース」の中では例外的に『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズを観るのが遅れてしまった。評判の良い『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を観る気になったのは、ガンがマーベルをクビになるという大騒動で、初めてガンの人気に注目したからだ。そしてその結果「もっと早く観ておくべきだった」と反省させられたので、今回は「チームもの」ではあれ、ガンの作品として、早くから観る気満々だったのである。』
見てのとおり『私はもともと、バットマンやスーパーマンのような「孤高のヒーロー」が好きであり、「チームもの」は好みではなかった。』と、今回と同じようなことを書いている。
まあ、それは当然としても、この文章だと、私は『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズを、すでに2作目までは見ているように読めるのだ。しかし、私にその記憶は「まったく無い」。
今回、シリーズ1作目である『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を見ても、一箇所も見たおぼえはなかったし、「これ、以前に見てるのでは?」という思いが頭を掠めることもなかった。一一だから、この部分を読んだ私は「誤解を招く、わかりにくい書き方をしているなあ」としか思わなかった。
その後、
『とにかく、本作は活劇として面白かったし、やはりジェームズ・ガンらしい、ユーモア溢れる会話の妙が光っていた。
ただし、デイビッド・エアーの『スーサイド・スクワッド』と同様に、やっぱり私が引っかかったのは、主人公である「悪党」どもが、基本的には「いい奴」らだった、という点である。
いくら「極悪犯罪者」だと言っても、娯楽映画の主人公であれば、読者の共感を呼ぶキャラクターでなければならないというのは、十二分に理解できる。しかし、それでも彼らを「極悪人」と呼ぶ気には、どうしてもなれない。「極悪人」であり、かつ「共感できるキャラクター」であることを求めるのは、無茶なのであろうか。』
と、「スーサイド・スクワッド」のメンバーが、自称「悪党」「極悪人」であるにもかかわらず、まったく悪人には見えないと、これは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』にも言える「難点」を指摘している。
その上で、「スーサイド・スクワッド」のメンバーが「なぜ、悪党に見えないのか?」と設問し、その点については、彼らが「極悪人」を名乗るのは、「人殺し」をはじめとした犯罪を平気で犯すからであるとし、その上で「それでも彼らが極悪人に見えないのはなぜか?」と再び問い、その答えとして私が示したのは、彼らは「極悪人」を名乗り、事実、平気で「人殺し」をするとしても、しかし「子供を傷つけることだけはしないし、子供を傷つける人間を憎む人間だからだ」という回答を与えている。
『本作における「いい奴」と「悪い奴」を区別する基準とは何なのだろう。
私はそれが、「子供の味方か否か」にあった、と見ている。
本作に特徴的なのは、まさに「子供」に対するこだわりだったのだ。
具体的に言えば、
(1)ブラッドスポートは、結局のところ、娘思いの父親だった。
(2)ハーレイ・クインは、好きになった男が、しかし「目的のためなら子供でも殺せる」と言ったことで、男を「クソ野郎」と見限って殺してしまった。
(3)ピースメイカーは「平和のためなら、誰でも(子供でも)殺す」と公言する「歪んだ正義感」の持ち主であったために、仲間を裏切る人間でもあった。
(4)ラットキャッチャー2は、父親の愛によって育まれた優しい娘であり、そもそも「極悪人」でもなんでもなかった。
(5)ポルカドットマンは、母親の歪んだ育て方のために、母親への憎しみに囚われ続けた、可哀想な息子だった。
(6)キングシャーク(ナナウエ)は、見かけこそ厳ついサメ人間で、人間が大好物という困った怪物だが、性格的には無邪気な子供そのものであった。
このように、主人公である超人(?)たちは、裏切り者となるピースメイカーを除けば、全員なんらかのかたちで「子供の側」の人間であり、要は「子供の味方」だったと言えるし、その点で彼らは、他の「極悪人」たちとは違って、「ヒーロー」たり得たのではないだろうか。
人殺しもするし、汚い手を使うときもある。他人を人間だと思わないこともしばしばだが、しかし「子供」を害することだけはしないし、子供を害するものだけは許さない。
この一点において、彼らは「主人公」たりえ、「ヒーロー」たりえ、そして「いい奴」だと評価しうる存在であり得たのではないだろうか。
そして、この点に、ジェームズ・ガンの「個性」であり「特徴」があるのではないか。』
つまり、私は『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』を論じた時点ですでに、ガンの「子供」へのこだわりを指摘していたのである。

だがそれは、「子供の味方」という側面に重点が置かれたものであり、ガン自身の「子供性」を指摘するものではなかった。
だから、この『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』が、かの「舌禍騒動」の後に撮られた作品であることから、ガンが「子供の味方」を語るのは、ある意味では「当然だ」と、そう言えないことも、ない。
つまり、「ペドフィリア」呼ばわりされたガンが「そうではないんだ。私は子供を傷つけるような人間ではなく、むしろ子供の味方なんだ」ということを「アピールするため」に、このような作品を撮ったと、そう「邪推」することも、十分に可能なのである。
だが今回、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を鑑賞し、ガンの「子供へのこだわり」は、「舌禍騒動以前」からのものであり、しかもそれは「自身の子供性へのこだわり」だということが判明したことで、騒動以後の作品である『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』もまた、決して単なる「自己正当化のための作品」ではなかったという事実が確かめられたと、私はそう結論するのである。
もともとガンという人は、「弱い自分」を守ってくれる「母」や「友達」や「ヒーロー」を求めながら、自分の似姿である「屈折を抱えた悪党(本当はいいやつ)」という自画像を描かないではいられなかった「ひどく屈折した人だった」と、そう言えるのではないだろうか。
その意味で、彼が、スーパーマンの「純粋な正義感」、つまり「屈折のない正義感への憧れ」を描くというのは、ガン自身の成長のためにもなるし、資金石にもなるのではないかと、私はその点でも期待しているのである。
ちなみに、上の『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』のレビューを最後まで読んでみると、私はやっぱり次のように書いていた。
『ガンの作品は、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』2作と今回の『ザ・スーサイド・スクワッド“極”悪党、集結』の3作しか観ていないが、他の諸作品でもきっと、よく見れば「子供」の存在がカギになっているのではないかと推察する。
キングシャーク(ナナウエ)の描き方に典型的に表れている、ガンの「子供(っぽさ)」への愛着が、例えば「無邪気なまでに残酷な殺戮シーン」などにも表れているのではないか。
子供というのは、無邪気に悪気もなく、生き物を殺したりすることがあるが、ガンにはそれと同様の「無邪気さ」があるのではないだろうか。
まただからこそ、「DCエクステンデッド・ユニバース」のどの作品を撮っても構わないと、作品選択を白紙委任された時、ガンが、いわゆる「正義のヒーロー」ではなく「スーサイド・スクワッド」の無茶苦茶な奴らを選んだのも、同様の理由からではないだろうか。
つまり、子供の自由奔放さを解放するには、「責任感のある正義のヒーロー」ではなく「無茶苦茶な悪党たち」の方がやりやすいと考えて、ガンは、あえて「スーサイド・スクワッド」を選んだのではないだろうか。』
『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』の「読み」としては、これで良いと思うのだが、
『ガンの作品は、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』2作と今回の『ザ・スーサイド・スクワッド“極”悪党、集結』の3作しか観ていない』
と明記している以上、やっぱり私は、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズを2作目までは、以前に見ているようなのである。
だが、このように書いていても、まだそんな記憶は、まったく戻らない。

今回は「『スーパーマン』を見る前に、ガンの代表作でありながら、まだ見ていなかった『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズ三部作をまとめて見ておこう」と考えて、まずこのシリーズ1作目を見て、このようにレビューを書いたし、このあと2作目、3作目と見て、それぞれにレビューを書くつもりなのだが、次の2作目についても、「見た」という記憶が蘇ってくるかどうかは、かなり疑わしい。
そんなわけで、今更ながら自身の「記憶力の無さ」に呆れているのだが、まあ「ツボを外さないんだから、それでいいじゃないか。100遍見てもわからないような奴よりは、随分マシだ」などと思えるところが、ガンには無い、私の「強さ」なのである。
(2025年4月21日)
…………………………………………………………………………………………………………
【付録】デジタルタトゥーの恐怖
あと、ついでに書いておくと、私がこの半年批判している、「武蔵大学の教授」で自称「フェミニスト」。ヘボな映画レビューも書く北村紗衣が、自身の「ネット上の過去ログを、徹底的に削除している」というのは、やはり、ジェームズ・ガンの災難なんかを、目の当たりにしているからなのであろう。「あんな目には遭いたくない」と。
だが、「デジタルタトゥー」という言葉もあるとおりで、一度、ネット上に公開されたものを、完全に無かったことにするのは、ほとんど不可能。
むしろ、後からこっそり削除した事実の方がクローズアップされ、それを「やましさ」の証拠だともされてしまうのだから、書いたものは書いたものと認め、反省すべきは反省した上で、可能ならば、必要な申し開きをするべきなのではないだろうか?
それとも、ジェームズ・ガンの場合とは違い、北村紗衣の場合は「申し開きの余地が無い」ということなのか?
あるいは、ガンの場合とは違って、北村紗衣は、擁護してくれる「友達」がいない、ということなのだろうか?
そう言えば、北村紗衣自身「自分は発達障害で他人の気持ちに鈍感であったため、いじめに遭った」というようなことを書いていたが、それは大人になり、大学教授になっでからも同じなのだろうか?
一一だとしたら、北村紗衣は、あまりにも哀れである。
誰か「私は北村紗衣さんの友達だから、彼女が本当にいい人だということをよく知っているし、それは私が保証する」と、そう申し出てはくれないものなのだろうか?
「(北村紗衣の主導した)オープンレターには触れるな」なんていう証拠隠滅活動を、弁護士を雇ってまでやっている姿は、自業自得とは言え、いささか痛ましい。

北村紗衣の「今の友達」なら、名乗り出て、北村紗衣を擁護してやれよと、そう言いたい。
「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」では、呼びかけ人が十数名、賛同署名者が千数百名もいたんだから、「友達」の一人や二人はいたはずだ…。
ああ、そう言えば先日、『睡眠文化論』という共著を刊行して、北村紗衣と一緒に、ジュンク堂書店で刊行イベントをやった大学の先生も数人いたはずだが、あの人らも、別に「友達」だってわけではなく、人格の保証まではしかねる、っていうことなのだろうか?
【来店+ #オンラインイベント 】
— ジュンク堂書店池袋本店 人文書 (@junkuike_jinbun) January 24, 2025
2025年2月20日(木) 19:00 ~
『睡眠文化論』刊行記念#豊田由貴夫 先生×#北村紗衣 先生@Cristoforou×#福田一彦 先生トークイベント
~“人間の「睡眠」って面白い。”睡眠の文化を考える―Beyond The 睡眠文化論~
を行います!
詳細・購入↓https://t.co/GUKreOroiZ pic.twitter.com/EGY8RMy8VI
(2025年4月21日)
○ ○ ○
● ● ●
・
・
・
○ ○ ○
・
・
○ ○ ○
・
○ ○ ○
・
○ ○ ○
○ ○ ○
