ジェームズ・ガン監督 『スーパーマン』 : 三つ子の魂
映画評:ジェームズ・ガン監督『スーパーマン』(2025年/アメリカ映画)
娯楽作品としてとてもよく出来た作品で、大いに楽しむことができた。
だが、本作で問題になるのは、たぶん、本作が「スーパーマン映画なのか?」という点なのであろう。
つまり「スーパーマンとは、どのような存在なのか」、その考え方が問われる作品だということである。
平たく言えば、「スーパーマン」を、シンプルに「正義の味方」の象徴的な存在と考えるのか、それとも「孤高のヒーロー」と考えるのかの違いだと言っても良い。一一これでも、まだわかりにくいかも知れない。もう少し説明しよう。
・正義の味方
・孤高のヒーロー
この両者の違いというのは、端的に言えば、「徒党を組むのか組まないの?」の違いだと言えよう。
つまり、例えて言うなら、前者は「スーパー戦隊」的なものであって良いのだが、後者はそうではない。
このどちらを「好む」のかというのは、結局のところ「趣味の問題」でしかなく、どちらが正しいということではないと思われるのだが、後者が好みの人には、この点は、ある意味で「譲れないポイント」なのかも知れない。
で、後者の人にすると、今回の、ジェームズ・ガン版『スーパーマン』は「スーパーマンじゃない」ということにもなってしまう。
つまり、「孤高のヒーロー」ではなく、単なる「正義の味方(の一人)」だと、そういう評価となり、そこが不満なのだ。
なぜ、単なる「正義の味方」であることに飽き足らず、「孤高のヒーロー」であることを求めるのかというと、例えば、単独の強い悪役を、複数人のヒーローが寄ってたかって倒すというのは、冷静に考えれば、あまり格好の良いものではないから、というようなことなのではないだろうか。
無論、その場合は、悪役を圧倒的に強い存在として描き、複数人が力を合わせて倒すことに、合理性が与えられるのだが、やっぱり、できれば「一対一」の尋常の勝負(または「多勢に無勢の孤独な戦い」)の方が、文句なしに「フェア」だし、「カッコいい」ということなのではないだろうか。
そこが気になる人と、あまり気にならない人との差で、「スーパー戦隊」的なものに対する評価が、分かれてしまうのではなかろうか。
で、言うまでもなく、昔は「孤高のヒーロー」が主流だったのだが、今は「スーパー戦隊」パターンが主流である。
「アベンジャーズ」も「ジャスティス・リーグ」も、言うなれば「豪華なスーパー戦隊」だということになろう。
そして、今回の『スーパーマン』も、新たな「ジャスティス・リーグ」構想を踏まえた作りになっていて、スーパーマンより格下だとは言え、グリーン・ランタンやミスター・テリフィック、ホークガールの「ジャスティス・ギャング」の3人が登場し、最終的にはスーパーマンに協力することになる。


つまり、今回の『スーパーマン』は、すでに「孤高のヒーロー」ではなく、来るべき「ジャスティス・リーグ」のための作品になっているのだ。
だから、それでもかまわないという人は、十分に楽しめる作品なのだが、「孤高のヒーロー」にこだわり、スーパーマンも「孤高のヒーローであるべき」だと考える人には、本作は「スーパーマン映画ではない」ということになってしまうのであろう。
で、私個人はどうかというと、基本的には「孤高のヒーロー」が好きだけれども、だからと言って「スーパー戦隊もの」も楽しめないわけではないので、スーパーマンを「孤高のヒーロー」として描いたものも、「ジャスティス・リーグ」の一員として描いたものも、どちらも楽しめる。
私にとって肝心なのは、個々のキャラクターが立っていることであって、その要件を満たせば、どちらのパターンにも固有の楽しみがあると、そう思っているのだ。
一一だから、今回のガン版『スーパーマン』も「これはこれで良い」という立場なのである。
それにそもそも、原作の漫画(アメコミ)にまで遡れば、スーパーマンも、初期には「孤高のヒーロー」だったけれど、後には「ジャスティス・リーグ」の一員としても描かれるのだから、どっちが正しいというよりは、所詮は、どちらが「好み」かという話でしかないと思う。
したがって、今回の『スーパーマン』を「スーパーマン映画ではない」と言う場合には、あくまでもそれは、その人個人にとってはそうだということであり、それはそれで間違いではないのだと言えよう。
言い換えれば、「唯一の正解」は無く、「それぞれの正解」がある、ということなのではないだろうか。

無論、今回の『スーパーマン』は、将来の「ジャスティス・リーグ」を見据えた作品にしなければならないという、縛りのあった作品ではあろう。
だから、それが監督の好みに合わなければ、悪しき縛り(制限)となっていたのだろうけれど、ジェームズ・ガンについて言えば、それは「縛り」ではなかったのではないだろうか。
むしろガンには、「孤高のヒーロー」という設定の方が「縛り」になった蓋然性が高いと、私はそう見ているので、今回の『スーパーマン』は、ジェームズ・ガンらしい作品として、これで良かったのだと評価している。
ガンは、やはり本質的に「みんなとわいわい言いながら」というのが好きな人なのであり、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』がああいう雰囲気で成功したのも、それは、ああした「(でこぼこ)チームもの」が、ガンの気質に合致していたからだろうと、私はそう見ているのである。
だから、ガンが「スーパーマン」を撮っても、やはり『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』的になるのは、ごく自然なことであり、言い換えれば「それしか出来なかった」のであろう、とも思うのだ。
このあたりの事情については、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー VOLUME 3』のレビューと言うか、同三部作のレビューとして書いた、拙稿「ジェームズ・ガンの精神分析」に詳しいので、是非そちらを参照してほしい。
ガンが「みんなでわいわい言いながら」というのが好きな人だというその根拠を、精神分析的に、詳しく論じたものである。
○ ○ ○
さて、今回の『スーパーマン』だが、内容盛りだくさんで、見どころもいろいろとある。
むしろ、ちょっと詰め込みすぎじゃないかという感じもするが、これは、後の「ジャスティス・リーグ」への前振りとして、避けられないところではあったのだろう。
本作特有の魅力としては、
(1)傷つく(負ける)こともあるスーパーマン(「苦手なクリプトナイト鉱石さえなければ、無敵」というわけではないという設定)
(2)スーパーマン以外にも、スーパーヒーローが存在する世界
(3)やんちゃすぎるスーパードック「クリプト」が可愛すぎる
といったことが挙げられようが、私としては、このあたりの個別的な紹介はやめて、その本質は「仲間が必要」だということだと、そう指摘するに止めよう。



その上で、私としては、人があまり書かないであろう、次の4点について書きたい。
(1)実親問題
(2)レックス・ルーサーの劣等感
(3)インターネット社会の問題
(4)ロボットに対するスーパーマンの態度
※ なお、さほど重要な点ではないと思うが、一部ネタを割るので、未鑑賞の方はご注意ください。 【ネタバレ注意】
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まず、(1)の「実親問題」。
これは、上で紹介した拙稿「ジェームズ・ガンの精神分析」と、直接関わってくる部分である。
私はそこで「ガンには、親子関係でトラウマがあるのではないか」と指摘したのだが、それが本作『スーパーマン』でも、裏づけられたのだ。
映画公開前からガンが語っていたとおり、本作では、スーパーマンの出生や地球へ来た経緯などを描く「クリプトン星の最期」は描かれない。
簡単には触れられても、本作で描かれるのは、赤ちゃんのスーパーマン(カル=エル)が地球に来て、養父母に育てられて成長し「スーパーマンとしての活躍を始めて、すでに3年が経って」からの姿である。
この点を、ガンは「今更また描く必要はないから描かない」と説明していたのだ。
一一だが、そこにはひとつの「仕掛け」があった。
本作では、幼児のスーパーマンが地球に届けられた際、実父母からの息子への「ビデオメッセージ」が添えられていた、という設定になっている。
それには「クリプトン人の末裔として、第二の故郷となる地球のために頑張るのだぞ」的なことが語られているのだが、このビデオメッセージは、データが一部破損しており、スーパーマンも、その「失われた後半部分」を見られないまま、両親の期待に応えるべく、地球人類のために頑張ってきたのである。
ところが、スーパーマンの活躍に憎悪を燃やすレックス・ルーサーが、スーパーマンを「地球の侵略者」として貶めるため、何か良い資料はないものかと、スーパーマンの留守中に、スーパーマンの「南極の秘密基地」に乗り込んできて、このビデオメッセージを手に入れるのである。
で、面白いのは、レックス・ルーサーは、このビデオメッセージの破損部分を修復して、世界に公開するのだが、問題の「後半部分」の内容というのが、なかなか衝撃的なのだ。
と言うのも、その内容というのが、スーパーマンの両親が、息子に対して「われわれクリプトン人の末裔として、劣った地球人類の品種改良をするために、お前がたくさんの地球人女性と関係を結んで子供を作れ。そのことによって人類は優れた種へ進化するからだ」とそう指示する、そんな驚くべき内容だったのだ。
で、普通ならこれは、ルーサーが「データを改竄したフェイク動画」だということになるのだが、ルーサーはこの修復されたビデオメッセージの公開にあたって、一流の学者複数による徹底した鑑定をおこなっており、断じて改竄は無いとのお墨付きを得ていたのである。

しかしながら、それでも普通は「やっぱり改竄はありました」あるいは「誤解を招く表現だったが、真意はそうではなかった」というところに落ち着くはずなのだが、本作では、そうはならず、物語の最後まで「改竄はなかった」というになる。
つまり、スーパーマンの実父母は、地球人の立場からしても、地球人に育てられたスーパーマンからしても、実質的には「地球侵略」に等しいことを、息子に期待していた、ということになるのである。
だから、スーパーマン自身、この修復部分を見てショックを受け「自分はこれまで、両親のメッセージを、ずっと誤解してきた。両親の期待に応えようと頑張ってきたつもりだったが、とんだ見当違いだったのだ」と悩むのだ。
だが、そこで「育ての両親」が、そんなスーパーマンを励まして「お前はお前だ。お前は自分の信じたものを貫けばいい。親は子を産み出すことは出来ても、その生き方までは決められない。ただ、子の生き方を、信じて見守るだけなんだ」と助言して、スーパーマンの迷いを吹っ切らせるのである。

つまり、結論から言えば、スーパーマンの実父母は、やっぱり、現に「とんでもない考えの持ち主」だったのであり、その点では、ルーサーの「スーパーマンへの懐疑」にも、一理あったのだ。
このビデオメッセージについては、ルーサーは、インチキをする必要がまったく無かったのである。
しかしながらこれは、「ヒーローもの」の「常道」からは大きく外れた展開だとは言えよう。
普通なら「ヒーローの親は、やっぱり立派な人」であり「ヒーローは、その親の意志を継いで」頑張るというのが常道であり、常識的なパターンである。
だから、本作中で「ビデオメッセージの改竄」は疑われるし、本作の鑑賞者である私たちも、いったんはそれを疑うのだが、結論としてはやはり、「スーパーマンの両親は、息子にとんでもない使命を託していた」ということになるのである。
無論、スーパーマンの実父母の立場からすれば、決して「非道」なことを言っているつもりはなかっただろう。
人類の歴史に即して言えば「文明的に優れた白人が、未開人に文化を与えてやる」みたいなことと、大差のないことだからだ。
ただ、そこに「性」の問題が絡んで、スーパーマンに「ハーレムを作れ」と言っているも同然だから、その点が「下半身スキャンダル」的に取り上げられて、スーパーマンを疑う人たちも、少なからず出てしまったのである。
「こいつ、善人ぶってたけど、裏ではそんなことを考えていたのか」と。
だが、いずれにしろ、この「物語的な常道を外した、驚くべき設定」は、私が「ジェームズ・ガンの精神分析」で指摘した点を踏まえれば、なるほどと納得できるものとなろう。
つまり、理由は不明だが、ジェームズ・ガンは実親に対して、抜きがたい恨み(コンプレックス)を抱いている、ということである。
それは、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス』(2作目)でハッキリと描かれた「人非人の実親(父)」という設定が、本作『スーパーマン』でも、繰り返されていただけ、だということになるのである。
したがって、「物語作法」として、この「主人公の、人非人の実親」という「変則(反則?)的な設定」の是非の問題は残るにしろ、なんでガンが、こんな変な設定を採用したのか、その点については、完全に理解できる。
だから、今回の「人非人の実親」という驚くべき設定も、要は「ガンらしいことをやった」というだけのことだったと、そう納得することができるのである。
ちなみに、私が本作『スーパーマン』で、一番「良いなあ」と思ったのは、スーパーマンの養父母の描写、特に養母の描写だ。
どこが良かったのかというと、普通、スーパーマンの養父母というと、スーパーマンに多大な影響を与えた人たちなのだから、普通は、歳はとっていても美男美女俳優が養父母を演じ、人格的にも「いかにも立派」そうに描かれるのだが、本作の養父母の場合は、美男美女でもなければ、特別に立派な人ではなく、ただ息子に惜しみない愛情を注いだ「田舎の老農夫夫妻」として描かれている点だ。
特に、養母が、スーパーマンこと、息子のケントと携帯電話で通話している際、養母は携帯電話をテーブルの上に置いて、それに向かって、前屈みになって話すのだが、その姿が、いかにも携帯電話を使い慣れていない「田舎のおばさん」らしくて、とても微笑ましい。
また、予告編映像にも切り出されていた、「(スーパーマンコスチュームの)ブーツを磨いておいたよ」と、出動しようとする息子にかける言葉も、いかにも「田舎のお母さん」らしいし、口下手で涙もろい夫について、息子に言い訳でもするように「ほんとに、すぐに泣くんだから」などと言うところにも、この夫婦の情愛の深さが、よく表現されていたのだ。
だから、こうした描写からも言えることは、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の第1作でも描かれていたとおり、ガンは、母親の方には深い愛着を持っているのだろうということであり、だとすれば、『スーパーマン』や『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』に描かれる「酷い実親」というのは、ガンの現実においては、やはり「実父」の方だったのではないか、と推測されるのである。
(2)の「レックス・ルーサーの劣等感」について。
私は本作で、最もよく、その人間性の描かれていたのは、レックス・ルーサーではないかと思っている。
そして、その功績は、ルーサーを演じたニコラス・ホルトの鬼気迫る演技によるところが大きかったのではないかとも思う。


今回のレックス・ルーサーが良かった点は、ルーサーが単なる「頭が良くて憎たらしい不敵な悪者」というのではなく、明らかに何らかの「コンプレックス」を抱えた(弱い)人間として、「一抹の同情を持って描かれている」点だ。
彼は明らかに、スーパーマンに対して「なんであいつだけが、あんなにみんなから愛されるのだ!」という、「劣等感」に由来する憎悪の感情を抱いている。
「俺はこんなに優れているのに、こんなに結果を出しているのに、どうしても誰も俺のことを愛さずに、俺の地位や財力にばかり媚びへつらうんだ」というような感情を抱えているのが、透けて見えるのである。
つまり、ルーサーのスーパーマンへの感情とは、「出来が良くてみんなから褒められる兄に対する、何をしても、どんなに頑張っても褒めてもらえない弟の、兄に対する嫉妬」のようなものなのではないか、と感じられるのだ。
だから、今回のレックス・ルーサーには、どこが憎みきれない哀れさが漂っているのである。
で、これもたぶん、ガンがルーサーに自己投影したからではないかと、私は睨んでいる。
拙稿「ジェームズ・ガンの精神分析」でも指摘したとおり、ガンは兄弟に、愛憎半ばする感情を抱いて育ったのではないかと、私はそう見ているのだ。
(3)の「インターネット社会の問題」。
これは、スーパーマンがレックス・ルーサーによって仕組まれた誹謗中傷によって、ネットバッシングに遭い、それに乗せられた人たちから、不信の目を向けられた傷つくというシーンのことである。


これは間違いなく、ガン自身が「過去の差別的ツイート」のせいで、世間から厳しく処断され、あやうく「映画界からキャンセル(追放)されかけた」という、つらい経験をそのまま反映したものであろう。
つまり、ガン自身、主としてネットでバッシングを受けたので、インターネットの暴力性というのは身に沁みて感じており、その実感を表現したものだと窺われたのだ。
またその点で特に面白かったのは、ルーサーが「亜空間」に設えた施設で、たくさんの「猿」たちに、スーパーマンを誹謗中傷するネットへの書き込みをさせている、というのを描いたシーンだ。
「猿」たちは、まるで狂ってでもいるかのような興奮状態で、すごいスピードでタイピングして書き込みをしていたのだが、これはネット上にこうした書き込みをしている人たちの姿を、批判的かつ揶揄的に描いたものなのではないかと、そう感じられたのである。
「そんなことをしていて、虚しくはないのか?」と。
(4)の「ロボットに対するスーパーマンの態度」
これは、スーパーマンが留守中の「南極の秘密基地」が、レックス・ルーサーたちの襲撃を受け、留守を守っていた「スーパーマン・ロボット」たちが、ボロボロにやられた後、帰ってきたスーパーマンか、その惨状にショックを受け、「スーパーマン・ロボット」のリーダー格であろう、傷ついた「4号」を助け起こし、そこで交わされる短い会話が、素晴らしく感動的なのだ。

スーパーマンは、あちこちに散らばるロボットたちの残骸を見てショックを受けた様子である。そしてその中で、まだ「意識がある=機能停止していなかった」4号を抱き起こして、言葉もない様子だ。
それを見て4号は、こう言うのだ。
「どうか、そんなに悲しまないでください。私はすべきことをしただけなのだし、私はロボットなのだから、死ぬというのではありません」
しかし、そう慰められても、4号を抱くスーパーマンの表情は、どう見ても「死にゆく友人」に対するものなのだ。
つまり、スーパーマンにとっては、人間だとかロボットだとかは、問題ではない、ということだったのであろう。
言い換えれば、ロボットたちは、単なる従僕的な存在などではなく、自分を支えてくれる、かけがえのない「仲間」であり、「家族」だったのだ。だから、修理すれば良いとか、新しいのを作れば良いとかいうことではなかったのである。
こうしたところにも、ジェームズ・ガンという人の「血のつながりよりも、人としてのつながり」というスタンスがハッキリと表れており、その、嘘偽りのない感情が表現されたシーンとして、このストーリー的には枝葉でしかないシーンは、胸に迫る名シーンに昇華されていたのだと、私はそのように感じたのだ。
そして本作もやはり、いかにもジェームズ・ガンらしい「仲間愛」の物語となっていたのである。
だからガンは、無理をしてまで、自身の個性に反してまで、「孤高のヒーロー」を撮る必要はないと、私はそのように考えるのだ。

(2025年7月25日)
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