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ジェームズ・ガンの精神分析 : 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー VOLUME 3』

書評:ジェームズ・ガン監督『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー VOLUME 32023年/アメリカ映画)

ジェームズ・ガの作品も4作目となると、彼がどういう人なのかが、かなりハッキリしてきた。
ちなみに、4作とは、最初に見た『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」三部作のことである。

私はこれまで、ジェームズ・ガンの特徴として、

(1)子供に対するこだわり。
(2)仲間や家族に対するこだわり。

という2点を指摘してきたが、これまでの「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」シリーズの前2作と同様に、本作『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー VOLUME 3』(以下『VOLUME 3』)でも、そうした特徴は、何ら変わっていない。一一というか、それがよりむき出しに出たものとなっている、と言っても過言ではないだろう。
なにしろ、本作の大まかな構成は、次のようなものになっているのだ。

「仲間」の救出(ロケットの命を救うための冒険)
「子供」の救出(今回の悪役に捕えられていた「子供たち」の救出)
「仲間」の救出(ロケットによる動物仲間の救出)

本作『VOLUME 3』は、ガン監督も予告していたとおり、アライグマの姿をしたロケットが中心の物語である。

物語の冒頭部分で、ロケットブラッドリー・クーパーショーン・ガン)は敵の攻撃を受けて大怪我をする。
「スター・ロード」ことクイルクリス・プラット)たちは、ロケットを助けようと必至の治療を試みるが、ロケットの心臓には外部からの干渉を防ぐ「キルスイッチ」が埋め込まれていたことが判明。それを解除しないことには治療ができないのだ。
そこでロケットたちは、「キルスイッチ」のパスワードを手に入れるための、無謀な冒険の旅に出るのである。

一一以上のような展開なので、基本的には、クイルたちには「いつも」ほどのユーモアやおふざけが見られない。
まったく無いというわけではないが、明らかに少ない。作品のトーンとしては、これまでで最も「暗い」作品なのだ。

そもそも、ロケットが重傷を負った際、クイルは泥酔していて、襲撃者とまともに戦うことができなかった。ではなぜ泥酔したのかといえば、それは前作と本作の間の事件を描いている『アベンジャーズ エンドゲーム』で、最愛の人ガモーラゾーイ・サルダナ)を失ったからであり、クイルはまだそこから立ち直ってはいなかったのだ。

つまり、クイルはガモーラを失って落ち込んでいたところへ、今度は親友のロケットが瀕死の重傷を負わされ、それに対し「俺が酔っ払っていたからだ」という負い目まで背負い込んでしまうのである。
だから、これまでは誰よりもスットボケていて明るかったクイルが、今回は最も暗いと言うか、真剣な顔をしているシーンが多いのだから、ユーモラスなシーンも無いわけではないものの、おのずと全体のトーンは暗くなりがちなのである。

しかしながら、本作の主人公は、クイルではなく、ロケットである。

これは、前の2作を撮った後に発生した、ガン監督の「過去の差別的ツイート発覚」問題で、映画監督としての地位をキャンセルされると同時に、すでに決まっていた本シリーズ第3作、つまり本作『VOLUME 3』の監督からの解任が決まりかけていた時期に、自ら語った、

「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」は、私自身を投影したロケットの物語です。だから、なんとしてでもこのシリーズだけは、私の手で完結させてほしい

という趣旨のことを訴えていたのと、完全に一致している。
本作『VOLUME 3』は、この言葉どおり、「ロケットの物語」なのだ。

だが、そのロケットは、物語の8割がたはベットの上で生死の境を彷徨っており、具体的な活躍をするわけではない。その8割がたは、他のガーディアンズが、ロケットを救うために活躍するのである。

では、それでもどうして本作が「ロケットの物語」になりうるのかといえば、それは意識を失っているロケットのものとして、彼の「過去」が回想シーン的に語られるのである。

オルゴコープ社に保管されていた、「キルスイッチ」のパスワードを含めた「ロケットの個人データ」が収められたカプセルを手に入れたクイルたちは、その中身を見ることで、「知性を与えられた実験動物」として生み出されたロケットの、その悲惨な過去を、私たちと共に知ることになるのだ。

つまり、本作は、そうした「過去」のゆえに「凶暴な捻くれ者」になってしまっていたロケットが、そのトラウマを乗り越えて、本来の優しさを取り戻す物語となっているのである。

これまでシリーズ前2作では「自分は自分、人は人」と他人のことに干渉するのを嫌って見せていたロケットだったが、それは、かつて親友たちを救おうとし、結果として彼らを死に至らしめてしまったという「つらい過去」の罪責感からきたものだった。だからこそロケットは、他人と深く関わろうとはせず、斜に構えて拒絶的な態度を採り続けてきたのである。

そんなわけで、本作のストーリーをこれ以上紹介する必要はないだろう。

クイルたちは、かつては普通のアライグマだったロケットを改造し、キルスイッチまで埋め込み、実験動物として虐待したあげく、殺処分にしようとした、そんな憎むべき「敵」を倒して、ロケットを救う。

(今回の悪役ハイ・エボリューショナリー

そして、ロケットは、その中で、過去の自分と同じ状態に置かれていた、すべて動物たちを救うことによって、自らのトラウマを乗り越えることになるのである。

(ロケットが、かつて救えなかった親友3人のうちの一人、知性化されたカワウソのライラ

その一方、これまで、自分の人生に真っ直ぐに向き合うことをしてこなかったクイルは、ロケットに学んで「過去」と向き合うことを決意し、ガーディアンズを離れ、独り故郷へと帰っていく。
一一そして、ガーディアンズの新しいリーダーには、ロケットが選ばれることになるのである。

 ○ ○ ○

以上、本作『VOLUME 3』についての大まかな説明をした上で、私はやはり、最も興味のあるジェームズ・ガンとは、どういう人なのか?」という問題に、決着をつけたい。

つまり、ここからは、これまで前の2作に絡めて書いてきたジェームズ・ガン論」の続きであり、結論を書きたいと思う。

まず、本稿冒頭にも指摘したとおりで、ジェームズ・ガン理解のためのキーワードは、まず「子供」と「仲間」ということだった。

しかし、本作『VOLUME 3』を見て私は、ガンの最も本質的な(深いところの)問題は、「子供」や「仲間」なのではなく、「両親」との関係であると、そう確信するに至った。

この『VOLUME 3』では、エンドロールに「両親の写真」が登場するし、本作は「両親に捧げられた作品」となっている。

しかし、シリーズ全3作のコメンタリーにおいては、「友達」「親友」「兄弟」の話題が中心であり、その輪が「親戚一同」にまで広がりはしたものの、意外に「両親」の話だけは出ていない

だから私も、そこを見落としていたのだが、考えてみれば、シリーズ第1作は「母との別れ」の物語であり、第2作は「実父との別れ」の話であり、本作『VOLUME 3』は「虐げられて屈折してしまった私の、乗り越えの物語」である。一一となれば、どの段階でガンが「屈折」を抱え込んでしまったのかは、もはや明らかであろう。
ガンは、両親との関係において、その屈折を抱えてしまったのである。

ガンは『VOLUME 3』のコメンタリーで「若い頃の自分には、居場所が無かった」というようなことを語っていてが、普通に考えて、両親との関係がうまくいっておれば、居場所ば無いなんてことにはならなかっただろう。

だが、第1作を見るかぎり、ガンは母親には深い愛着を持っていたようだ
しかしながら、第1作冒頭の「母との死別」シーンでは、死の床にある母は、自分から去っていった夫のことを、今でも深く愛しており、彼のことを懐かしんで語るという描写がなされている。
一方、その母が、まさに息を引き取る寸前、クイル少年に手を差し伸べるのだが、クイルは恐るかのように怯んで、その手を取ることができず、そのまま母は死んでしまうのである。

つまり、このシーンを、第2作の「酷い実父(エゴ)と理想化された養父(ヨンドゥ)」の物語と、第3作「虐げられた過去の私」の物語とに接続することのできる今なら、死の床の母は、結局のところは最後まで「父の味方」だったから、「父に虐げられていた息子」は、素直に母の手を取れなかったのだと、そう解釈することが出来る。

無論、作中のクイル少年は、父のことを知らないから、その父に虐げられる経験はしていないのだが、ガンの「父に対する感情」が、第2作の「酷い実父(エゴ)と理想化された養父(ヨンドゥ)」の物語に反映されていると考えれば、とてもわかりやすい。
ガンの現実とクイルの物語では、時間的な前後関係は食い違うものの、対「両親」関係という点では、このようにわかりやすく理解することが可能なのだ。

では、なぜガンは「子供」や「仲間・友人」の話ばかりして、「両親」の話をしなかったのかといえば、それは無論、「両親」の問題こそが、ガンにとっての「中心課題(屈折を生み出した震源地)」だったからであろう。

したがって、ガンにとって、「子供」とは、そんな「両親」によって生み出された「弱く被害者的な子供」という二次的なものだし、「仲間・友達」というのも、「両親」との関係において傷つけられた心を癒すための、これも二次的な「居場所」だったと、そう考えればいい。

では、ガンは実際に、父親に虐待され、母親は優しかったが所詮は父親(夫)の味方で、ガンの味方にはなってくれなかった一一と、このように理解すればいいのだろうか?

大筋ではそうだろう。だが、父親のガンへの虐待は、「暴力的・性的」なものではなく、たぶん「精神的なもの」だったのではないだろうか。
例えば、「教条主義的な倫理観の押しつけ」といったものである。

「人として、こう生きなければならん」とか「男とは、強くあらねばならん」とかいった「倫理的な教条」を押しつけ、「ひ弱なオタク」であったガンに対して「然るに、お前はなんだ。情けない!」と厳しかった。それは、ガンの個性を全面的に否定しているに等しいものだったと、そのようなことだったのではないか。

だからこそガンは、自己認識としては、そうした「教条的倫理=綺麗事=偽善」に反発する、「挑発者」となってしまった。
一一それで、あんな「差別的ツイート」を発してしまった、ということなのではないだろうか。

父親の押しつけた「教条的倫理」に対する、遅まきながらの「反抗」だったということである。

で、ここで興味深いのは、シリーズ全3作のコメンタリーはもとより、その作品においても、ガンは「実弟」のショーンを重用し、しかも絶賛しているという事実である。

では、そのショーンと父親との関係は、はたしてどのようなものであったのだろうか?

弟のショーン・ガンが演ずるクラグリンは、第1作ではヨンドゥマイケル・ルーカー)が率いるラヴェジャーズのメンバー(子分)の一人というだけで、名前さえ与えられてはおらず、ヨンドゥの後ろに立っている「その他大勢」と言って良い存在に過ぎなかった。

ところが、そのクラグリンは、第2作で一度はヨンドゥに反旗を翻すものの、結局は自分のあやまちを認めてヨンドゥの側に戻り、最後はヨンドゥの遺した「口笛で操る矢」を引き継いで、ガーディアンズのメンバーになる。
そして本作『VOLUME 3』では、クラグリンは、相変わらず「矢」をうまく操れずにいたために仲間を救えず、再度の敵の襲来の際、今度こそと決意すると、その目の前に亡きヨンドゥの幻が現れ、「心で操れ」という助言を与えてくれ、見事に「矢」を操れるようになるのである。

(矢を操るために精神統一をするクラグリン

で、この「矢をうまく操れなかったクラグリン」について、ガンは『VOLUME 3』のコメンタリーで

「クラグリンはきっと、父と慕うヨンドゥが、よそ者のクイルばかりを可愛がることに腹を立てていたんだろう。それで、いったんは反旗を翻したんだけど、やっぱりヨンドゥから離れることができなかった。そのヨンドゥが死んだ後も、クラグリンには、クイルに対する嫉妬の感情は残っていたため、矢がうまく操れなかったのだが、ガーディアンズの仲間となり、仲間の危機に直面する中で、クラグリンもクイルへの嫉妬を乗り越えて、ヨンドゥの声を素直に聞けるようになった。だから、彼は心で矢を操れるようになったんだろう」

という趣旨の説明をしている。

つまりだ、この「クラグリンとクイル」の関係を「ジェームズ・ガンショーン・ガン」の関係だと読み替えれば、話は分かりやすくなる。
「兄弟」関係は逆転しているかも知らないが、そこは重要ではない。実際、どちらが年長か、先にヨンドゥと知り合ったかなどは、作中でも語られてはいないのだ。

要は、ガンから見れば、弟のショーンは「父に可愛がられた息子」であり、嫉妬の対象だったのだろう、ということだ。
父が、「少しはショーンを見習え。兄貴のくせに、お前はどうしていつもそうなんだ!」と叱られていたのではないだろうか。
「優等生の弟に対して、オタクで出来の悪い兄貴」という構図である。

だが、ガンにとっても、ショーン自身は「可愛い弟」だったのだろう。
いや、ショーン自身も、兄と父親との板挟みになって苦労したのではないだろうか。

ともあれ、そうした複雑な関係において、ガンは屈折を抱えたまま成長し、一方では「父親」が象徴する「綺麗事の社会倫理」に感情的な反発を向けるようになった。
そしてその一方で、そんな心の傷を癒してくれる、つまり、自分を「承認」してくれる「仲間・友人」そして「(実父以外の)兄弟や親族」を求めた、ということなのではないか。

したがって、ガンのこだわる「弱い子供」とは、無論「かつての自分」自身の似姿であり「象徴」なのであって、「ロケット」だけがそうなのではない。

だが、「ロケット」の場合は、単に「弱い子供」ではなく「凶暴で捻くれ者」という点で、成長した後のガンをも象徴する「自覚的な自己像」だったと言えるのではないだろうか。

ガンの物語に一貫しているのは「親に認められたい、不出来な子供」ということなのだと、そうまとめることができるのではないか。

また、その意味では、本作『VOLUME 3』において、「ドラックス・ザ・デストロイヤー」ことドラックスデイヴ・バウティスタ)の本質は、決して「破壊者」などではなく、「(優しい)父親」だったのだと語られる点にも注目して良い。
ガンは、ドラックスにも、そうした理想の父親像を重ねていたということである。

(粗暴で頭が悪いドラックス。だが、その本質は…)

以上のようなことから、私がガンの作品に対して最初から感じていた、ある種の「物足りなさ」としての「ナイーブな弱さ」の正体は、これでおおよそのところ、解明できたのではないかと思う。

しかしながら、本作『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー VOLUME 3』を見ても、ガンがその「弱さ」を乗り越えたようには、まだ見えない。

というのも、物語のラストが、クイルの故郷への帰還による「逃げてきた過去との直面」であるとしても、それは一面で「家族に逃げ込む」ということのようにも見えて、これまでの「承認してくれる人たちとの繋がり」重視と大差のないものに、見えなくもないからである。

だから、私が本作『VOLUME 3』のラストの描写に期待するとしたら、それはクイルが「仲間」たちから離れて、「独力で自分の過去に向き合おうとする」という側面となるだろう。

つまり、ガンも、いつまでも「僕は好きな人たちとしか一緒に仕事はしないし、したくない」などとは言っておらず、その「好きな人たち」の輪からいったんは離れて、独りで自分の過去と向き合うことが必要なのではないだろうか。

そりゃあ「仲間」の中にいれば、楽ではあろう。だが、それでは「強く」はなれないのではないか。結局のところそれでは、「逃げ込む場所」を求め続けた、これまでの自分のままに止まらざるを得ないのではないだろうか。

無論、人間は、反省したところで、すぐに変われるようなものではない。
だから、ガンがこれからも、現状に安住するのではなく、過去の乗り越えを目指して成長し、より「強く」なってほしいと思う。

人間の「成長」に、年齢など関係ないのである。

(「スター・ロードは(成長して)帰ってくる」)


(2025年5月15日)


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