見出し画像

ジュディス・バトラー 『問題=物質となる身体』 : 北村紗衣組との違いとしての、知的「謙虚さ」

書評:ジュディス・バトラー問題物質となる身体  「セックス」の言説的境界について』(以文社)

先日、日本における若手のジュディス・バトラー研究者で、バトラー入門書を何冊か書いている、京都産業大学の准教授・藤高和輝について、その著書『〈トラブル〉としてのフェミニズム 「とり乱させない抑圧」に抗して』(青土社)のレビューというかたちで、同人を批判した。

同書のタイトルにある〈トラブル〉というのは、無論、バトラーの主著『ジェンダー・トラブル』を意識した言葉だし、藤高書の中では繰り返しバトラーが引用されて、藤高の議論=主張の「後ろ盾」になっている(されている)。

しかしながら私は、すでにバトラーの『ジェンダー・トラブル』を読んでいたので、上の藤高書におけるバトラーからの引用は、極めて「恣意的で偏頗」なものであることが、よくわかった。
そこで、藤高書のレビューでは、そうした部分も含めて、むしろバトラーの主張を「逆用」するかのような藤高和輝による「ペテン」を、厳しく処断したのである。

で、こういうイカサマな「バトラー(引用)紹介書」を読んだ後では、やはり「本物」の方をちゃんと読んでおかなければならないし、口直しにもなるだろうと、『ジェンダー・トラブル』の続編的な性格の強い本書『問題=物質となる身体  「セックス」の言説的境界について』(以下問題=物質となる身体』と略記)を読むことにした。

本書『問題=物質となる身体』の大筋の内容は、次のとおりである。

『ジェンダー・トラブル』によって明らかにされた権力と言説によるジェンダー形成の過程。ジェンダー/クィアに関する理論書である同書は、フェミニズムやジェンダー、クィア・スタディーズにおいて画期をなすと同時に、多くの物議を醸した。

「ジェンダー」と同じく、「セックス」は言説によって構築されるものなのか。そのとき、身体の物質性はいかに理解されるのか。
本書は、『ジェンダー・トラブル』へ寄せられた批判に応答した、その続編であり、バトラーの「もうひとつの主著」である。

本書の原題 Bodies That Matter における"Matter"は「問題=物質」という二重の意味を持つ。これを強調して邦題は『問題=物質(マター)となる身体』とした。

アルチュセールの「呼びかけ」、オースティンの「行為遂行性」、フロイト/ラカンの「身体的自我」「ファルス」、フーコーの「系譜学」「主体化=服従化」、デリダの「脱構築」「ファルス=ロゴス中心主義」、イリガライ/デリダの「コーラ」、クリステヴァの「アブジェクション」など多くの思想家・著述家を参照しながら、規範的権力によって構築されるセックス、ジェンダー、人種などの既存の境界を撹乱する試み。

近年、改めて注目が高まるフェミニズムやLGBTQブラック・ライヴズ・マターに代表される「人種」の問題にも接続しうる現代の理論書。』

Amazonの本書紹介ページより)

無論、「難解」で知られるバトラーの主著を、無教養な私などが「ぜんぶ理解できた」などと主張するつもりはないし、「理解できたフリをする」つもりもない。一一というのは、『ジェンダー・トラブル』レビューでも書いたとおりである。

むしろ私の感触としては、本書は『ジェンダー・トラブル』よりも難しかったという印象が強い。

しかしながら、本書を曲がりなりにも通読したのだから、わかった部分が多少なりともあったというのも事実で、それによって私のバトラー理解が深まったという実感も持てたのだから、やはり「実物=本物」にあたるのは、下手な「解説書=入門書」にあたることより、ずっと重要だというのを、あらためて実感することができた。

そもそも「解説書=入門書」というのは、その著者の「解釈」や「恣意(執筆意図)」を介したものなのだから、どこまでが本当なのかと、そこから疑わねばならないものであり、ある意味では「二度手間」なものなのだ。

さて、本書『問題=物質となる身体』での主たる議論とは、上に引用した紹介文にもあるとおりで、「ジェンダー」と同じく、「セックス」は言説によって構築されるものなのか。』という問題についてのそれである。

つまり「社会的な性別役割としてのジェンダー」が「社会構築的」なものであるとしても、「生物学的(物理的)性別」というのは「もともとあるものなのだから、社会構築的なものではない、ということになるのだろうか?」という問題である。

こう書くと、多くの人は「そうなのではないか」と考えるだろう。
つまり「ジェンダーは、社会構築的なフィクションだけれど、セックスは存在的(物理的)な事実である」と。

実際、『ジェンダー・トラブル』を読んだ人の中にも、同書が語ったのは、そういうことだと「誤解した」人たちが多かった。
だから、バトラーは「そうではないんだ。それは誤解だ」ということを語るために、本書『問題=物質となる身体』で、そのあたりを詳しく論じたのである。

したがって、バトラーの考えは、「ジェンダーは、社会構築的なフィクションてあり、セックスもまた社会構築的な事実(フィクション)である」というものなのである。

言い換えれば、「事実=現実」とされるものもまた、「社会構築的に作られたもの=フィクション(の一種)」だということなのだ。
言い換えれば、「事実(=現実):フィクション」という「二項対立の図式」は成立せず、言うなれば「事実=現実<フィクション」ということになる。

「事実=現物<フィクション」つまり「フィクションの中から公認されたものが、事実=現実だと認定されているだけ」であり、「事実=現実」だとされているものが、そのまま、私たちが考えるような「絶対確実なもの」などではない、ということなのだ。

これは「科学的な学説は、すべて仮説である」という考え方と、ほぼ同じことだと言えるだろう。

私たちは、科学が発見した「法則(性)」というものを「事実=現実」であると思い込みがちなのだが、実際にはそれは、「今のところ、例外らしい例外が見つかっていないので、事実=現実だと捉えている蓋然性が極めて高いと思える〈仮説〉」に過ぎない
つまり、未来永劫にわたって「例外的事実(反証)」が見つからない、出現しないということまでは保証できないものなのだから、原理的には、それは「真理」だとは断定できないものであり、あくまでも「非常に良くできた仮説」に止まらざるを得ないのだ。

そんなわけで、「社会的な性別役割としてのジェンダー」が「社会構築的」なものだとしても、「生物学的性別」というのは「もともとあるものなのだから、社会構築的なものではない」ということになるのだろうか、という疑問についても、私たちは、後者の「生物学的性別」というものを「事実その通りに、存在するじゃないか」と考えがちなのだが、そうではない、というのがバトラーの考え方なのだ。

「そのように(教えられたように)見ようとするから、そのように見えるだけ」であり、そうした「男女性別二元論」という「思想(仮説)」を刷り込まれていない人にとっては、「人類を含む生物」は必ずしも「男女に二分できる存在」ではない、ということになる。
例えば、性別が三種類ある(とする)宇宙人が地球にやってきて、地球の生物を性別分類しようとすれば(という思考実験の結果は)、ほぼ確実に三つに分類するだろう、というようなことなのだ。

実際、人間にも他の動物にも「インターセックス」が存在している。昔の言葉で言えば「両性具有(あるいは、無性者)」ということになるだろう。

『男性または女性いずれかの典型的な身体に当てはまらない性的特徴(染色体・生殖腺・性器など)を持って生まれた人のことである。』

(Wikipedia「インターセックス」

つまり、現実とやらを厳密に見ていくならば、「男女二元論」としての「セックス=性別」は、成立しないのだ。

そしてこれを、比喩的にわかりやすく表現したものが「性別とは、グラデュエーション的に存在するものであって、二極だけが存在するもの(二分できるもの)ではない」というようなことになる。

しかし「男女性別二元論」に固執する人たちというのは、「原則は、男女二元論であり、実際に大半の人間は、男女のどちらかに分類できる。つまり、男女のいずれかに、完全に分類できない〈中間的〉存在は、少数例外として無視して良いもの(誤差のうち)だ」と考えるのだ。

だが、この「例外」や「誤差」という考え方が問題なのだ。
なぜ、問題なのかというと、「例外」認定というのは、しばしば「思考停止」であり「不都合な現実の(思考からの)排除」でしかないからである(誤差もまた同じ)。

科学の学説においても、「観測された事実」をすべて説明できてこそ、それは「科学理論=仮説」の名に値するのであって、自分の頭の中にだけある「個人的仮説」にそぐわない「観測的事実」(反証的な事実)が出てきたら、それは「無かったことにする」というのは、インチキである。そんな「データ改竄」が許されないというのは明らかだろう。

つまり、それがいくら「少数例外」であろうと、「事実は事実」であり、それを適切に説明しきれないようなものは、「仮説」にすらなれない、ただの「捏ち上げ」でしかないのである。

したがって、「100%男性、あるいは、100%女性」という両極端以外は、すべて「例外」だとすることは、所詮「恣意的な暴力」に過ぎない。

そもそも「100%男性、あるいは、100%女性」などというものは、存在しないと言ってよい。
つまり、「明らかに男性に見える人の中にも、女性的な要素は含まれている」し、その逆に「明らかに女性に見える人の中にも、男性的な要素は含まれている」というのが「現実」であり、純血種としての「男性」とか「女性」とかいうのは、「仮説的概念」に過ぎないのである(その点で、非科学的なものでしかない「人種理論」と同じ、便宜的なフィクションでしかない。ナチスドイツ「アーリア人」仮説と大差のないものなのだ)。

つまり、現実の人間というのは、「一つの仮定としての男女ベクトルの上に、右から左までグラデュエーションをなして存在している」のであり、その意味では「中間的な存在こそが100パーセント」だと言っても良い。それこそが現実なのだ。

そしてさらに言えば、生物を「仮説的に区分するベクトル」は、何も「男女(雌雄)」に限られるものではなく、例えば「腕力の大小」「身長などの大小」などであってもかまわない
「腕力のあるのが男で、無いのが女だ」という基準で考えれば、「女みたいなヘナチョコ男」という矛盾した形容は存在しえず、その人は単に「女性」だと理解されて、差別されることもないのである。

一一そんなわけで、ここまで色々と説明してきたのは、最初に書いたとおり、

「ジェンダー」と同じく、「セックス」は言説によって構築されるものなのか。』という問題

を考えるためであり、結論としては、「セックス(生物学的性別)もまた、言説によって構築されたものである」ということになるのである。

本書『問題=物質となる身体』で語られているのは、「セックス=生物学的男女(雌雄)二元論」というのも、所詮は「社会構築的な便宜的区分」でしかなく、「事実=現実・そのもの」ではない、ということなのだ。

では、なぜ、このような「社会構築的な便宜的区分」が広く採用されたのかといえば、それは「腕力を有する者が、相対的に非力な者を、支配するための正当化理論」だということになるだろう。
つまり、私が先にあげた「一つの区分基準」である「力のあるものと無いもの」という基準の、全体への強制である。

しかし、ここで「力のあるものと無いもの」という基準に対しては、それがそのまま「男性と女性」ではないではないか、「力のない男性も、力のある女性もいるではないか」といった反論も出てこよう。

だが、ここで肝心なのは、「力のあるものと無いもの」という基準では、その「境界線」は、いかにも曖昧で引きにくい、という事実だ。
だからこそ、「力のあるものと無いもの」という「線引き」を、「男性と女性」と言い換えることによって、相対的に「力のあるもの」を「優遇する根拠」として、「男女性別」のいうものを方便として利用することで、確定しようとしたのだ。

つまり、「男性には、力があるから、群れのリーダーだ」「男性は、力があるから、外に出て外敵と戦い、餌を獲ってくる役目を担うのだ」というようなことを、「男女の性差」ということを根拠として、「力のあるものの存在を、合理的に特権化した」のであり、「力のないものは、そうした権利を奪われる」ことになったのである。

その際、権利を奪われるのは、「女性とされたもの」だけではなく、「力のない男性とされたもの」や「力はあるが、所詮は女性だとされたもの」だということなる
つまり、「力のあるものと無いもの」という基準を「男女性別二元論」と言い換えることによって、「力のある男性(とされたもの)」だけが「公認された権力」を得ることができ、そこからは「女性とされたもの」全員と「女性みたい(に非力な)男性」が、排除されることになる。

したがって、「男女性別二元論」というのは、大原則としては、まず「女性とされたもの」から「対等の権利」を奪うためのものなのだが、かといって「男性とされた人」のすべてを優遇するのかと言えば、そうではない、ということにもなるのである。

そのため、「女性とされたもの」が「男女性別二元論」に支配された世界で、「男性とされたもの」以上の立場を得ようとすれば、「男性とされたもの」に数倍する「力」を持たなければ、「男女性別二元論」の犠牲にならざるを得ない、ということであり、これが「男女差別」というものの本質なのである。

そして、こうした「男女性別二元論」というフィクションは、「行為遂行的」に強化されていく
つまり、「君は男だ」「あなたは女だ」と最初に決めつけられるだけではなく、その決めつけ=規定に合わせて、何度も何度も「社会的な調教的刷り込み」が繰り返されることによって、人間は、見かけ上までもが「男らしい男」と「女らしい女」という両極へと、強化的に寄せていかれる

「男性である」とか「女性である」とかいったことが単なる「概念」ではなく、「事実=現実」であると思い込まされてしまうのは、こうした「行為遂行システム」によって、それが「肉体的な(見た目の)事実で(も)ある」と、そう刷り込まれ、信じ込まされるからなのである。

したがって、「男性」であるとか「女性」であるとかいったことは、「男女性別二元論というフィクション」に沿って、人間が「問題=物質」として「身体」化されるということなのだ。
「身体」とは、もともとは、そこにそのように存在したものなのではなく、「男女性別二元論」というフィクションによって、物質化(具象化)されたものなのである。言い換えれば、そのフィクションを信じ込んでいなければ、そのような「問題=物質」には見えない「現実」なのだ。
ちょうど「制度的性別が三つある宇宙人」が、地球生物を見る場合のようなことになるのである。

 ○ ○ ○

だが、本書『問題=物質となる身体』の議論は、以上のような「男女性別二元論」のフィクション性の指摘に止まるものではない。

本書においてバトラーは、リュス・イリガライの「男女性別二元論とは、男性基準で女性を規定することによって、本来の女性を、その認識世界の外部へと排除している」という趣旨の指摘を受けて、しかし、その指摘では不十分だとして、排除されているのは「女性」である以前に、「クィア=変態とされたもの=男女に二分できない存在=奇妙なもの」であると指摘する。

上のイリガライの議論は、あくまでも「男女性別二元論」から排除された「本来の女性的なるもの」を救出するための議論ではあるのだが、この議論の「限界」は、そのようにして「本来の女性的なるもの」が「制度」の中に取り込まれて権利を付与されたとしても、それでも「外部」は存在し続けるし、「外部」が存在し続けるからこそ「制度としての内部」は機能し続ける、という点にある。

つまり「排除された女性の権利」という視点で考えているかぎりは、「あらかじめ廃棄されたもの」としての「男でも女でもないもの=クィア」を、「外部」に排除放擲したまま、にしておかないではいないのである。

したがって、「男女性別二元論」のフィクション性の問題を考える上では、「阻害された女性的なるもの」を考えるだけでは不十分であり、「男でも女でもないもの=クィア」という「分類・規定不能なもの」の存在を考えなければならない、ということになる。

言い換えれば、私たちは「何かを、思考の外部へ排除することで、初めて、明確な世界像が描け、それで安心できる」ということなのだ。
まただからこそ、私たちは「変態=クィア」の存在に「怖れ」を感じ、くり返し「多様なかたち=変態」として現れてくるそれを、私たちの「社会」の中から排除することで、「安心」を得ようとするのである。

つまり、私たちの「安心」とは、この、本来「確定しようもない現実世界」から、「理解不能な存在=クィア=不確定要素」を排除することによって、つまり「民族浄化的に排除する」ことによって、成立するものなのである。
自分たちの「安心」のために「他者」を排除し、抹殺(「最初から無かった」ことに)しようとするものなのだ。

だから、本書『問題=物質となる身体』においてジュディス・バトラーが訴えるのは、「世界を確定しないこと」であり、より正確に言えば「世界は確定できないもの」であるという現実を、謙虚に受け入れるということなのである。
一一そしてこれは、先に指摘した「科学理論は、すべて仮説である」ということと同じことなのだ。

私たちは、「理解不能な事実=現実」に突き当たると、これを「理解」しようとする。これは防衛本能的なものだから仕方のないことなのだが、その時に得られた「理解」は、所詮どこまで行っても「仮説」なのであって、「事実=現実」そのものではあり得ない。所詮は「当面の(仮説的)理解」に過ぎない。
なぜなら、私たちは、この世界の「すべて」を見渡し、それを考慮することなどできない(神ならぬ身だ)からである。

ということは、「私たちは常に、思考の外部によって輪郭づけられた、仮説世界に生きている」ということになる
そして、その外部に存在するのが「理解不能なもの」であり、すなわち「奇妙なもの=クィア」なのだ。

だから、藤高和輝は先に紹介した著書『〈トラブル〉としてのフェミニズム』の中で、

(1)「バトラーは、LGBTがLGBTQとなり、さらにLGBTQ+となっていくように、クィアという存在はどこかで最終的に確定されるというようなものではなく、その後に無限のエトセトラを出現させるものだというふうに考えなければならないと言っている」

とか、

(2)「バトラーは、クィアを社会的に包摂しようと訴えているのではない。包摂することで、この世界を正しく理解できたという確信を強めるのではなく、真逆に、常に〈トラブル〉を起こす(〈トラブル〉としてのクィアの存在を指摘し続ける)ことで、この世界の自明性に揺るがし続けなければならないと、そう訴えているのだ」

と、大要そのような紹介をしているのだが、この点は「まったく正しい」と言える。

つまり、私たちがしなければならないこととは「世界は確定できないもの」であり、どんなに「真理を探究しようとしても、必ず、その思考の外部が、残余として残らざるを得ない」という「私たちの限界を謙虚に認めつつ、世界に向き合い続けていかなければならない」ということなのである。

言い換えれば、私たちは常に「例外(思考の外部)の存在を認めなければならない」し、であるならば「(これこそが真実=現実であるというような)傲慢な決めつけは捨てなければならない」ということになる。

つまり、私が本書『問題=物質となる身体』の「肝」だと考えるのは、この点なのだ。だから繰り返すが、

私たちは常に「例外(思考の外部)の存在を認めなければならない」し、であるならば「(これこそが真実=現実であるというような)傲慢な決めつけは捨てなければならない」のである。

 ○ ○ ○

そんなわけで、私が藤高和輝を批判したのも、まさにこの点なのだ。

藤高和輝は、ジュディス・バトラーのこうした「謙虚さ」をご都合主義的に無視して、つまり「自身の理解不能なものを、外部に放擲排除する」ことで、自身の「バトラー理解」が完全なものであるかのように振る舞って見せたのだが、その態度こそが、バトラーに対する「無理解」の、何よりの証拠でしかない、ということなのである。

そして、そうした「藤高和輝が、ジュディス・バトラーを理解していない」という事実のわかりやすい証左となるのが、かの「オープンレター:女性差別的な文化を脱するため」で、社会学者・呉座勇一「キャンセル」した北村紗衣を中心としたフェミニストグループ」(私は略称として、北村紗衣組と呼んでいる)が創設した、「現代フェミニズム研究会」に、藤高が「入会」した、という事実である。

なぜそれが、藤高和輝の「バトラー無理解」の証拠となるのかといえば、それはこれまでも何度も論じてきたことではあるが、この「現代フェミニズム研究会」というグループが、大変わかりやすく「他者排除的な組織」だからである。

つまり、バトラーが「他者を排除することで、我々には現実が見えている、真実を把握している、などとするような態度は間違いである」とそう指摘しているにも関わらず、バトラーの研究者である藤高和輝は、バトラーの思想の真逆をいく「現代フェミニズム研究会」に進んで入会しているという事実が、藤高和輝の「バトラー無理解」と「バトラーの不正利用」の、何よりの証拠になる、ということなのだ。

なお、ここでも簡単に「現代フェミニズム研究会」の、「他者排除」という際立った性格について説明しておこう。
同会は、その「設立趣意書」において、次のように書いているのである。

『3つ目の理由は、フェミニズムの名の下に行われる差別や暴力が無視できないものとなっている現実です。とくに問題視しているのは、2010年代の終わりごろから見られるようになった、「フェミニスト」によるトランスジェンダーへの差別的な攻撃・差別扇動的な言説(ヘイトスピーチ)の拡大です。そこには、ジェンダーやフェミニズムを研究してきた一部の研究者も加担しています。私たちは、そのような研究者らの言動を厳しく批判するとともに、そのようなフェミニズムとは異なるフェミニズムの研究を発展させ続ける場所が必要であると考えます。鍵を握るのは、インターセクショナリティ(交差性)の視点であり、また運動の在りかたです。社会の中で支配的な意志決定層の中ではマイノリティとなりやすいジェンダーとしての「女性」集団のなかには、多様な状況・属性・アイデンティティをもつ女性たちがいます。だからこそ、それぞれの女性が被る差別や抑圧の在りかたは、同じではありません。この現実から出発し、「一枚岩的な女性の経験」に訴えることなくフェミニズム(研究)を進めること、そしてそうした交差性の視点を欠くがゆえに差別や暴力に加担してきたフェミニズムの在りかたを批判し、乗り越えること。そのために、私たちは新たな研究会を立ち上げます。

現代フェミニズム研究会は、以上のような現状認識に立って発足しました。
今後の活動としては、有志による研究発表や活動報告のための場所(研究会)を年に複数回開催する予定です。

最後に改めて宣言します。
この研究会は、研究者としてのキャリアを始めたばかりの若手研究者たちに広く開かれたものであることを目指します。トランスジェンダー差別をはじめ、なんらかのマイノリティ属性に対する差別や憎悪を広げるような言動は、ここでは許容されません。完全な安全などありえませんが、差別やヘイトとの遭遇を恐れて研究の場を追われる研究者を生み出さないことを、この研究会の大きな目標の1つとします。

以上の趣旨に賛同する皆さんに、ひろくこの研究会への参加を呼び掛けたいと思います。

賛同人(五十音順。●印は発足の中心となる呼びかけ人。賛同者は、呼びかけ人より短期間かつ小規模にお声かけした方のなかでご賛同いただいた方の氏名です。研究会にご参加のうえ賛同いただける方は、順次こちらに追加していきます。)

---
隠岐さや香(東京大学)●越智博美(専修大学)●河野真太郎(専修大学)●高井ゆと里(群馬大学)●田中東子(東京大学)●ハーン小路恭子(専修大学)井谷聡子(関西大学)岩川ありさ(早稲田大学)大河内泰樹(京都大学)岡崎佑香(立命館大学)小川公代(上智大学)上岡磨奈(白鴎大学/慶應義塾大学)菊地夏野(名古屋市立大学)北村紗衣(武蔵大学)小手川正二郎(國學院大学)小林えみ(よはく舎小宮友根(東北学院大学)西條玲奈(東京電機大学)斉藤正美(富山大学)三部倫子(奈良女子大学)清水晶子(東京大学)清水知子(東京藝術大学)関口洋平(フェリス女学院大学)関根麻里恵(学習院大学)高橋幸(石巻専修大学)高原幸子(金沢星稜大学)武内今日子(関西学院大学)竹田恵子(東京外国語大学)田尻歩(東京理科大学)筒井晴香(実践女子大学)中井亜佐子(一橋大学)中條千晴(リヨン第三大学)永冨真梨(関西大学)中村香住(慶應義塾大学)西亮太(中央大学)平森大規(法政大学)平山亮(大阪公立大学)藤高和輝(京都産業大学)古久保さくら(大阪公立大学)前川直哉(福島大学)槇野沙央理(日本大学/立教大学ほか)松尾亜紀子エトセトラブックス)松永典子(早稲田大学)三木那由他(大阪大学)三成美保(追手門学院大学)守如子(関西大学)森山至貴(早稲田大学)山口智美(立命館大学)山田亜紀子(サッフォー)山根純佳(実践女子大学)吉原ゆかり(筑波大学)李美淑(大妻女子大学)』

(2025年7月18日現在の確認)

これは「現代フェミニズム研究会」設立趣意書の最後の部分だが、ここで注目すべきは、次のような文言である。

『「フェミニスト」によるトランスジェンダーへの差別的な攻撃・差別扇動的な言説(ヘイトスピーチ)の拡大です。そこには、ジェンダーやフェミニズムを研究してきた一部の研究者も加担しています。』

差別や暴力に加担してきたフェミニズムの在りかたを批判』

『この研究会は、研究者としてのキャリアを始めたばかりの若手研究者たちに広く開かれたものであることを目指します。トランスジェンダー差別をはじめ、なんらかのマイノリティ属性に対する差別や憎悪を広げるような言動は、ここでは許容されません。

『以上の趣旨に賛同する皆さんに、ひろくこの研究会への参加を呼び掛けたいと思います。』

ご賛同いただいた方の氏名です。研究会にご参加のうえ賛同いただける方は、順次こちらに追加していきます。』

以上からハッキリ窺えるのは「我々の考え方に〝賛同〟出来ないものの入会は認めない」ということであり、「我々の考え方に賛同できないような者は、差別主義者である」という、じつにわかりやすい「決めつけ」である。

「あいつらは、フェミニストを名乗っていても、所詮は差別主義者である。だから、議論の相手ではないし、フェミニストを名乗らせておいてはならない」ということなのだ。

で、これは「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」が、呉座勇一を「差別主義者」認定するだけではなく、「職場において席を同じくしたくない存在である」として、「学術研究の世界」からの「排除」を目的としたものであったこととも、おのずと通じるだろう。

「現代フェミニズム研究会」が「北村紗衣を中心としてオープンレター組」を中心として設立されたというのは、決して伊達や酔狂ではなく、両者には「キャンセル・カルチャー=他者排除文化=民族浄化的文化」という「組織文化」が、深く刻まれているのである。

したがって、こんな「他者=クィア」排除のグループに、「女装する男性」として、自身を「クィア」の側に擬している藤高和輝が参加しているという事実が明らかにするのは、「非差別的属性」を持つ者が「差別者」であることなど、なんら珍しいことではない、という事実なのである。

バトラーも本書『問題=物質となる身体』で示唆しているように、「フェミニスト」はしばしば「クィア」に差別的であったし、「クィア」属性を持っている人もまた、しばしば「別のクィア属性の持ち主」に対して差別的であったのだ(例えば、小児性愛者は、LGBTQの組織から排除されがちである)。

また、「現代フェミニズム研究会」の「自己欺瞞」として指摘できるのは、彼(女)らが、「交差性=インターセクショナリティ」の名の下に、「トランスジェンダー」をはじめとした、すべての「クィア」を「包摂」しよう、できる、一一と考えている「傲慢」である。

藤高和輝が自著で語ったように、バトラーは「包摂すること」は「暴力」の一種であるとして否定している

それは先の大戦時に、日本が植民地の住民である朝鮮人などを「日本人」だとして「包摂」するかたちを採ったのと、同じ暴力なのだ。
彼らは「日本人」認定されて、その立場を形式上保証されても、民族の誇りを踏み躙られているのだから、決して嬉しくもありがたくもなかったのである。

つまり、例えばトランスジェンダーも、我々と同じ人間だ」という「包摂」は、傲慢なのだ。自分たちの考えにおいて、トランスジェンダーをはじめとした「クィア」も「認めてやっている」という立場なのだ。

だが、本来ならば私たちは、バトラーの言うとおり、相互の「違い」を認めた上で、尊重し合わなければならないのだ。
私たちの考えで決めつけて安心するのではなく、わからないものはわからないものとして、同等に尊重するという勇気が必要なのである。たとえそれが、極めて困難な作業だとしてもだ。

したがって、私たちが心がけるべきなのは、私たちは誰しも、常に「差別者」でもあれば「クィア」でもあって、「正常人」などというものは存在しないし、「正常人」や「正義」を僭称する者こそが、むしろ「無自覚な差別者」なのだという事実認識である。

ジュディス・バトラーの思想とは、かくも「謙虚」なものなのだ。

そして私たちは、決して十全には、あるいは決定的には名指し得ないものに名前を与えようとしているのです。身体とは恐らく、思考の謙虚さの謂いなのかもしれません。

(本書「日本語版への序文」の結語)


(2025年7月18日)


 ○ ○ ○




 ○ ○ ○













 ○ ○ ○




 ○ ○ ○







































 ○ ○ ○

(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)

 ● ● ●

 ○ ○ ○


 ○ ○ ○

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○


 ○ ○ ○


この記事が参加している募集