デヴィッド・フィンチャー監督 『ソーシャル・ネットワーク』 : マーク・ザッカーバーグと北村紗衣の違い
映画評:デヴィッド・フィンチャー監督『ソーシャル・ネットワーク』(2010年/アメリカ映画)
SNS 「Facebook」を作って億万長者になった天才プログラマー、マーク・ザッカーバーグの「前半生」を描いた、伝記劇映画である。
当たり前だと言われるかも知れないが、ザッカーバーグは「実在の人物」であるということを、まずは確認しておきたい。
若い世代だと、すでにザッカーバーグの名を知らない人もいるだろうからだ。

『『ソーシャル・ネットワーク』(原題: The Social Network)は、2010年のアメリカの伝記ドラマ映画。デヴィッド・フィンチャーが監督、アーロン・ソーキンが脚本を務めた。2009年に出版されたベン・メズリックの著書『facebook 世界最大のSNSでビル・ゲイツに迫る男』を映画化したもので、ソーシャル・ネットワーキング・サイト「Facebook」の設立とそれに伴う訴訟を描いている。主演のジェシー・アイゼンバーグは、創業者のマーク・ザッカーバーグを演じるほか、アンドリュー・ガーフィールドはエドゥアルド・サベリン、ジャスティン・ティンバーレイクはショーン・パーカー、アーミー・ハマーはキャメロン、タイラー・ウィンクルヴォス兄弟、マックス・ミンゲラはディヴィヤ・ナレンドラを演じている。ザッカーバーグをはじめとするFacebook社(現:Meta)はこのプロジェクトに関与していないが、サベリンはメズリックの著書のコンサルタントを務めている。』
上は、Wikipedia「ソーシャル・ネットワーク(映画)」の概要説明だが、よほど映画に詳しい人でないかぎり、俳優名と、実在する登場人物名とが、区別しにくいのではないだろうか。
なにしろ、どちらも実在の有名人だから、それぞれにWikipediaの紹介ページが作られており、そこへリンクが張られているために、全体がベッタリとリンク文になってしまっているからだ。
しかし、これひとつとってみても、この物語に登場する実際の人物が、いかに有名人(になる人物)ぞろいかがわかるだろう。なにしろ「ハーバード大出のエリート」なのである。
彼らは、今や当たり前のものとして存在する「ソーシャル・ネットワーク・サービス」、つまり「SNS」の、創世記における「神話的な人物」であり、本作が描くのも、そうした神話時代における「神々と争闘」だったのである。
そして、その戦いに勝ったのが、マーク・ザッカーバーグその人だったのだ。
前述のとおり本作は、ベン・メズリックの著書『facebook 世界最大のSNSでビル・ゲイツに迫る男』を映画化したものだが、映画化にあたっては、ザッカーバーグ本人への取材協力要請がなされたものの、これは断られている。
だから、本作完成後に、ザッカーバーグ側から、「事実ではない」と指摘された部分(エリカにこだわった事実はない)もあったようだが、それはさほど重要ではない。
本作は、劇映画であって、ドキュメンタリー映画ではないのだから、「劇」的な「誇張」や「切り取り」は、当然あるからだ。
したがって、本作をそのまま鵜呑みにするのは論外として、基本的には「実話をもとにしたフィクション」だと考えれば良い。
その上で「こんなやつ、いるよな。マーク・ザッカーバーグとか」というくらいに考えれば良いのである。
先に、本作が描くのは、ザッカーバーグの「前半生」だと書いたが、要は彼が「無名のコンピュータオタクから、facebookを立ち上げて億万長者になる」までを描いている。
つまり、奇跡的な「立身出世譚」の部分を描いているのであり、経営者として「その後」までは描かれていない。描かれているのは、あくまでも、最も劇的な「神話時代」なのだ。
そんな本作では、ザッカーバーグが、その「偏った頭脳」によって、天才性を発揮しながらも、その一方、同じ理由で、多くの人たちを踏みつけにしながら成功していく姿が描かれる。
それだけと言ってしまえば、それだけなのだ。
だから、ストーリーの細かい部分は、重要ではないので、下に示した「Wikipedia」の「ストーリー」紹介は、ざっと流していただくだけでいいだろう。
『2003年秋。ハーバード大学2年生のマーク・ザッカーバーグは、ボストン大学に通う恋人のエリカとファイナル・クラブ(ハーバード大学の学生秘密結社)や部活動などについて語り合っているうち口論になり、「アンタがモテないのは、おたく(ナード)だからじゃなくて、性格がサイテーだからよ」と言われてフラれる。怒ったマークはブログに彼女の悪口を書き並べ、さらに腹いせにハーバード大学のコンピュータをハッキングして女子学生の写真を集め、女の子の顔の格付けサイト「Facemash」を立ち上げる。サイトは瞬く間に話題となり、立ち上げから2時間で2万2000アクセスを集め、4時間で大学のサーバーをダウンさせてしまう。
後日、大学の査問委員会に呼び出しを食らったマークは、半年間の保護観察処分を受け、大学中の女子学生の嫌われ者となる。そこへ、ボート部に所属するエリート学生である双子兄弟、キャメロン・ウィンクルヴォス、タイラー・ウィンクルヴォスと、その友人のディヴィヤ・ナレンドラに声を掛けられる。3人はマークの優れたプログラミング能力に目を付け、「harvard.eduドメイン」に群がる女性に出会うことを目的としたハーバード大学の学生専用コミュニティサイト「ハーバード・コネクション」の制作協力を依頼する。
これにヒントを得たマークはソーシャル・ネットワーキングサイトの制作を始め、親友のエドゥアルド・サベリンに1000ドルの出資とCFO(最高財務責任者)への就任を頼む。マークはウィンクルボス兄弟らとの接触を避けてサイト制作を進め、2004年初頭、「The Facebook」は誕生する。「The Facebook」は、エドゥアルドが所属するファイナル・クラブ「フェニックス - S K・クラブ」の人脈を利用して瞬く間に広まってゆく。これに気付いたウィンクルボス兄弟らは、アイデア盗用でマークを訴えようとしたが、資産家の子息でもある彼らは「ハーバードの紳士は訴えない」という思想のために思い留まった。
「The Facebook」の流行のおかげで、マークは女子からモテるようになった。気をよくしたマークは、偶然見かけたエリカに「二人きりで話したい」と声を掛けるが、彼女はすげなく一蹴する。マークは、「The Facebook」がハーバード大学の学内限定公開で、名声も学内に留まっていると考え、サイトをさらに大きくしようと決意し、システムを改良して他大学へも次々と開放してゆく。
その頃、アメリカ西海岸では、Napsterの設立者であるショーン・パーカーが、行きずりの女子大生とベッドで朝を迎えていた。ショーンは、そこで偶然目にした女子大生のお気に入りサイト「The Facebook」に興味を持ち、サイトを通じて直ちにマークたちに連絡を取った。西海岸にスポンサーを探しに来たマークとエドゥアルドは、ショーンと面会してビジネスの相談を持ち掛けようとするが、ショーンの一方的な「独演会」となってしまう。自分の考えをまくし立てるショーンに対し、エドゥアルドは人となりに疑いを抱く一方、マークはその考えに魅了されていた。
ショーンの「Theがない方がクール」という提案を受け、サイトの名前は「The」を取って「Facebook」とし、会社の拠点は西海岸カリフォルニア州のパロアルトに移した。2004年夏、マークたちは西海岸でサイトの改良作業を進め、エドゥアルドは東海岸のニューヨークでスポンサー探しを進める。その間に、ショーンはマークたちが借りた家に転がり込み、マークに「俺たちの時代が来た」と語って自分たちの力で事業を拡大することを訴え、新たな投資会社との契約を成立させてゆく。そこへエドゥアルドがニューヨークから戻り、自分の知らぬ間に次々と事が進んでいることに激怒する。エドゥアルドは会社の銀行口座を凍結させてショーンとマークが進める投資話を止めようとし、マークとの友情に亀裂が入る。
同じ頃、イギリスのボートレース大会に参加していたウィンクルボス兄弟は、「Facebook」がヨーロッパの大学にまで浸透するほど巨大化している事実を知り、訴訟の提起を決意する。また、エドゥアルドは、30%以上あった持ち株比率を0.03%まで希薄化される罠にはめられ、CFOを降ろされてしまったため、訴訟の提起を決意する。こうしてマークは2つの訴訟を抱えることとなった。女性弁護士から「あなたにとってはスピード違反の金額と変わらない」と示談を勧められたマークは、2つの訴訟を示談で決着をつける。マークがノートパソコンで「Facebook」を開き、別れた元恋人のエリカに友達申請を行うところで映画は幕を閉じる。』
(Wikipedia「ソーシャル・ネットワーク(映画)」)
本作の冒頭は、ザッカーバーグと、その美人の女友達エリカとの会食シーンであり、このシーンこそが、この映画のライトモチーフだと言っても過言ではない。
ザッカーバーグはエリカに気があり、エリカも彼を悪くは思っていないから、二人で会食、要はデートをしている。
だが、やがて二人の会話は見事にすれ違っていき、なんとか「楽しい会話」にしようと努力していたエリカも、最後はついに堪忍袋の緒を切らせて「貴方って、最低な人ね!」と言って席を立ってしまう。
その段になって初めて、ザッカーバーグは、エリカを怒らせたことに気づき、あわてて謝罪し、なんとか二人の関係を修復しようとするのだが、その時にはもう遅かったのである。
あとに残されるのは「何が悪かったのか?」と、呆然とするザッカーバーグである。

さて、エリカは、ザッカーバーグの何に腹を立てたのであろうか?
それは、ザッカーバーグが「自分の視点でしかものを見ず、自分の立場でしかものを言わない」からである。
つまり、ザッカーバーグには「他者に対する配慮」というものが、決定的に欠けていたのだ。
しかしながら、ザッカーバーグは、決して「他者に配慮しなかった」のではない。そうではなく、「配慮できなかった」のだ。


「出来ることをしなかった」のではなく、「出来ないからやれなかった」だけであり、しかも悪いことには、ザッカーバーグは「自分が出来ていないことについての、自覚も持てなかった」のだ。
つまり彼は「当たり前にしているだけ」なのに、なぜかエリカが突然怒り出し、絶交を言い渡して帰ってしまったと、そのようにしか「見えていない」のである。
そして、一方のエリカが腹を立ててしまった理由は、彼女がザッカーバーグのことを「頭の良い人」であり、かつ「普通の人」だと思い込んでいたからなのである。
「普通の人」に出来ることを「頭の良い人」であるザッカーバーグが「しない」のだとしたら、それは当然「わかっていて、わざとしないのだ」と、そう理解するしかないのだが、実は、そうではなかった。
つまり、ザッカーバーグは、「普通の人」ではなかったし、さらには「頭の良い人」でもなかったのだ。どういうことかと言えば、ザッカーバーグの頭脳は「偏った」ものだったのである。
これを、今の言葉で言えば「発達障害」ということになるだろう。
医学的に専門的な定義は別にして、「発達障害」とは一般にどのようなものを指すのかと言えば、それは「発達して(出来るようになって)然るべき部分が、人並みに発達していない(から出来ない)」という障害を指している。
例えば食事中に、面白い「下ネタ」を思いついたので、同席者を喜ばせようとそれを口にした途端、同席者たちは一様に「顔を歪めた」というような場面を想定してみよう。
まず、「普通の人=普通に知能の発達した人」であれば、いくら自分が「面白い」と感じるジョークを思いついたとしても、そのジョークが「この場にふさわしいものか?」「これを聞いた人たちが、それを自分と同じように面白いと感じるだろうか?」と、まずそう考え、それを頭の中で検討してから、大丈夫だと判断した段階で、初めてそれを口にするだろう。「これは、絶対にすべらない。ウケること間違いなしだ」だと判断してから、初めてそのジョークを、「他者」に向けて発するのである。
ところが、頭脳の一部、つまり「他人の気持ちや立場を思いやる(他者への配慮)」という部分が「人並みに発達していない」人は、これが出来ない。
だから「自分が面白いと感じていることは、他人も面白いと感じるはずだ」としか考えられず、その結果、そのジョークを発して、すべってしまったり、時に顰蹙を買い、同席者を怒らせてしまうことにもなる。

しかしながら、「普通の人」であれば、そこで「しまった。自分は他人の気持ちに対する、読みを誤ってしまった」と判断して、即座に、その気まずい状況を回収しようと、謝罪したり言い訳したりするのだが、「他人の気持ちを思いやる」という部分が「人並みに発達していない」人の場合は、それすらも出来ない。
そもそも「他人の気持ちがわからない=他人も自分と同じように感じているはずだ」という人にとっては、相手がなぜ怒っているのか、不愉快だと感じたのか、そうしたことが理解できない、理解しようがないのだ。
「こんなに面白いことを言ったのに、どうしてこの人は怒っているんだろう?」と、相手の心理の理解不可能性のゆえに、ただ当惑するばかりで、適切な対処など、到底できないのである。
その時の彼の感覚からすれば、突然怒り出した相手の姿は「発狂した人」に近いような印象であるはずだ。
完全に予測不可能な反応だったのだから、「発達障害者」の側からすれば、それは「恐怖」すら覚える「異様な反応」だということになる。
したがって、「発達障害者」とは、無論「障害のある人」であり、その意味において「普通ではない人」なのだ。これは、認めないわけにはいかない、事実なのである。
だが、ここでよく言われるのが、「発達障害者は、ごく限られたことに関しては、並外れた能力を発揮する」という、「事実」である。
そして、これは得てして、「天才と狂人は紙一重」的に理解されがちなのだが、そうではない。
「発達障害者」の「限定的な天才性」とは、要は、リソース(資源・資産)の配分の問題なのだ。
「自分の趣味」に全リソースを割いてしまう人は、「人間関係(他者配慮)」にリソースを割くことができず、「趣味」では優れた結果を出すが、「人間関係」では失敗してしまう。
つまり、人間にとって大切なことは、自分にはどれくらいのリソースがあり、それをその時々、どのように配分すれば、最も良い結果が得られるのか、その判断をするための、「メタ認知」能力だと言えるだろう。
その能力がある人は、その時々「この場面では、趣味が8で人間関係(他者配慮)は2の配分でいこう」とか「ここでは5:5」でいこうなどという判断が可能だ。
しかしながら、このリソース配分能力があっても、そもそもリソースそのものが乏しければ、それをいくら細切れに配分しても、うまくはいかない。
どれも中途半端になってしまって、全滅という結果を招いたりするためだ。
だから大切なのは、自分の総リソースがどのくらいあるのかを理解した上での、その時々のリソース配分能力なのである。
したがって、「発達障害者は、ある特定の分野に関しては、天才的な能力を発揮する」と言っても、それは総リソースが人並み以上にある人の話でしかない。
人が「5:5」で配分するところを「9:1」で配分するから、「ある部分」では、人の倍近い能力を発揮する。けれども、それ以外の部分では、まったくの無能力者に近いということにもなるのだ。
言い換えれば、もともとの総リソースが、人の半分しかなければ、それを「4:1」で配分しても、人並みにも届かないということになるし、リソースが人の倍ある人なら、それを「10:10」で配分しても、何をやらせても「優秀」ということになるし、それを「15:5」に配分すれば、「天才と常識を兼ね備えた人」ということにもなろう。
したがって、「発達障害者は、ある特定の分野に関しては、天才的な能力を発揮する」というのは、半分は「神話」でしかない。
それが成立するには、最低でも「人並み」のリソースが無ければ、偏った配分による優位性を確保することはできないからである。
つまり、マーク・ザッカーバーグが「人の感情には鈍感な、しかしコンピュータ・プログラミングの天才」として「2:28」の人であり得たのは、彼に、人の3倍のリソースがあったからである。
もちろん、ここでの「数字」はすべて「喩え」でしかなく、事実としてザッカーバーグに人の3倍のリソースがあったという話ではない。
私が言いたいのは、「発達障害者であれば、誰でもマーク・ザッカーバーグになれる、というわけではない」という、ごく当たり前の話なのだ。
ところが、このあたりを勘違いして、自身の「発達障害」をみずからひけらかして、自慢してみせるような愚か者も、ごく稀にいる。
その実例が他でもない、「武蔵大学の教授」で、自称フェミニストの、われらが北村紗衣である。
北村紗衣は、40歳前になって初めて、自分が発達障害であることが明らかになったと、わざわざ公表した。
・発達障害と診断された私~ASDとADHDだとわかるまでに出会った本や映画について(北村紗衣)
『 突然ですが、私はごく最近、病院で発達障害だと診断されました。軽い自閉症スペクトラム障害(ASD)と注意欠陥多動障害(ADHD)だということです。
自閉症スペクトラム障害はコミュニケーションがうまくできず、特定のものに強いこだわりがある症状、注意欠陥多動障害は文字通り注意力散漫とか多動の症状を示す障害です。』
文字どおり「突然」の公表である。
『 自分から検査を受けに行ってわかったので、とくに驚きはなかったのですが、今回の連載ではいつもと少し趣向を変えて、この経験について書いてみたいと思います。「自分は発達障害なのでは?」と思っている人などに、多少なりとも情報を提供できると良いと思っているからです。』
と書いているが、これは無論「綺麗事の建前」である。
昨日今日、発達障害と診断された人の記事など読まなくてでも、知りたい人は、いくらでも「発達障害についての解説書」が公刊されている。それくらいのことは、北村紗衣だって承知の上で、白々しくもこんなふうに書いているのだ。
実際、「Xのフォロワー50,000人超」を誇る北村紗衣の記事としては、公開(2024年4月5日)後、1年以上を経た現時点においても、「スキ(イイね)」は「39」しか付いていない。
みんな、北村紗衣の「発達障害」になど興味はない、ということである。
『 私は小さい頃から友達がとても少なく、人と話すのも苦手でした。完全に信頼できると思ったごく少数の相手としか親しくならず、みんなと仲良くする必要はないと思っていました。』
このあたりは、発達障害者にしばしば見られる「共感能力(=メタ認知能力)の低さ」を示していると言えるだろう。
『 自分にどうも発達障害があるのでは……ということを真面目に考え始めたのは、2010年代の後半くらいになってからです。まず、一緒に暮らしている連れ合いから、「周囲の人間をエミュレートしているサイボーグみたいだ」と言われました。どうも大変、思い当たるところがありました。たしかに私は機械みたいなペースで仕事をするのですが、他人の感情などがほとんどわからないので、人前に出ると周りの人を真似ることで乗り切っています。また、やはり連れ合いと一緒にイーロン・マスクに関するニュースを見ていた時、「どうも私の挙動不審な感じはイーロン・マスクに似ているのでは」という話になりました。』
ここでの『私は機械みたいなペースで仕事をするのですが、他人の感情などがほとんどわからない』の部分が、発達障害者特有のリソース配分だということになろう。
つまり「普通の人」は、仕事中であっても「仕事7:周囲への配慮3」という感じなのだが、北村紗衣の場合は、そういう微妙な配分というのが出来なくて、仕事に集中してしまう。つまり「仕事9:周囲への配慮1」になってしまうので、「脇目も振らず」に『機械みたいなペースで仕事』することにもなるのである。
だから、知らずに周囲の顰蹙を買っていたとしても、それには気づかない、ということにもなるのだ。
しかし、ではなぜ北村紗衣は、こうした自分の「弱点」とも言えることを公表したのであろうか?
一一その答えは、次の言葉の中に「隠されて」いる。
『私が発達障害の可能性を考えるきっかけになったのが、大学に就職したことです。私は大学教員の業務のうち、ほとんどはだいたい問題なくこなせるのですが(むしろ他の人より早く終わらせられることが多かったです)、ごく一部だけ、まったくできない業務がありました。こういう業務を割り振られると吐きそうなくらい疲弊するので、周りの人を真似てごまかしていたのですが、だんだん学内で責任ある仕事をまかせられるようになると、それでは乗り切れないのでは……と思うことも増えました。』
つまり、「普通の人(教員)」と同じように、発達障害の北村紗衣にも「雑用=興味の持てない仕事」を押しつけてくる大学当局に対し「私は障害者なんだから、そこに配慮して、雑用を減らせ」と、そういう話なのだ。
『むしろ他の人より早く終わらせられることが多かったです』という、発達障害ならでは、不必要なの「自慢話」を交えながらである。
つまり、どうせ書くのなら「発達障害特有の効率の良さを、有能さであると勘違いされ、その結果、余計に雑用を押し付けられて、私は疲弊してしまいました。ですから」とでも書けば、まだしも「配慮」のある書き方だったのだが、そうした「配慮」の出来ないのが、「発達障害の発達障害たる所以」なのだから、ここでこう言うだけ無駄なのではあろう。
ともあれ、北村紗衣がこのエッセイで、暗に語っているのは、
(1)私は、発達障害であり、同情され配慮されて然るべき立場の人間である。
(2)したがって、発達障害の私に、普通の人と同じような扱いで、雑用をやらせるな。
(3)しかし、私はけっこう有能である。
ということだ。
決して「私は、人並みの能力(リソース)が無い障害者だから、仕事を免除してほしい」ということではない。
一一むしろ、北村紗衣は「発達障害」であることを「武器」として誇示している、というのが、このエッセイの秘められた本質なのである。
そんなわけで、北村紗衣の気分とは、自分は「イーロン・マスク」と同種の「天才」だ、といったものなのだろう。
ここで、イーロン・マスクを持ちだすのは、ドナルド・トランプも認めるとおりで、イーロン・マスクは「天才」だからで、人の気持ちがわからない「酷いやつ」だから、ではないのである。
そして、言うまでもないことだが、マーク・ザッカーバーグもまた、イーロン・マスクと同様の「天才」であった。
われらが北村紗衣との違いは、その総リソースが、1桁か2桁違っていた、という点であろう。
ただ、「人の気持ちが分からず、結果として人を傷つけながら成り上がっていった男マーク・ザッカーバーグ」を描く本作『ソーシャル・ネットワーク』は、しかし、ザッカーバーグに対して、一抹の「憐れみの情」も向けている。
なぜなら、ザッカーバーグは「人の気持ちなど、どうでもいいと考えて、他人に配慮しなかった」のではなく、「配慮しようにも、そもそもその能力が無かった男」として描かれているからだ。
原作者にとってか、脚本家にとってか、フィンチャー監督にとってなのか、そのあたりはよくわからないが、この作品は、ザッカーバーグに対して、「可哀想な奴だ」という、憐憫と蔑みの入り交じった視線を向けているのである。
その点、総リソースの「人並み」だった北村紗衣の場合には、ザッカーバーグほどの「人を踏みつけにする傍迷惑」もできずに、せいぜい「中学時代の教師が、私をいじめた」と言って、大学教授になってからで報復したり、呉座勇一が「悪口」をネットに書いたといって、千数百名もの賛同署名を集めた「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」を公開して呉座に報復したり、同じく呉座を擁護して自分を攻撃した山内雁琳を「名誉毀損のスラップ訴訟」にかけて賠償金をせしめたりと、そうした「個人攻撃」に止まったのであろう。
イーロン・マスクやマーク・ザッカーバーグなどは、そのとんでもなく大きな社会的影響力において、その判断ミスのツケを、多くの他人に払わせたりもするのだが、幸いなことに北村紗衣には、そこまでの広範な影響力は無かったのは、不幸中の幸いだったのである。
もちろん、今や「日本におけるキャンセルカルチャー」の代名詞となり、「ネットリンチ」だと評されることにさえなった「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の、その署名者の多くは、北村紗衣の「泣きの三文芝居」に騙された「被害者」だと、そう言えないこともない。
だが、「オープンレター」の場合は、個々がみずから、好き好んで参加していったという「自業自得」の部分が大きいのだから、あまり同情する気にはなれない。
彼(女)ら署名者が「騙された」と思うのであれば、他ならぬ彼(女)ら自身が、北村紗衣を批判しているはずだからで、それをしないのは、自分自身にも、「正義漢気取りのバス」に、みずから飛び乗ったという、「自覚」があるからなのであろう。
その意味では、彼(女)らもまた、リソース配分のできない、総リソースに乏しい人たちだったのであり、「マーク・ザッカーバーグの悲劇」を笑う資格のない人たちだったのである。
しかしまた、だからこそ、そんな人たちにこそ、本作『ソーシャル・ネット』をオススメしたい。
タイトル的にも、ピッタリなのではないだろうか?

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【補記】最近の北村紗衣
ネット検索しても、昔の写真しか出てこない北村紗衣教授だが、下の「note」記事に、最近の写真が掲載されているので、興味のある方は、ぜひご参照いただきたい。可愛い服が「ガーリッシュ」だが、同時に「テニュア教授」としての貫禄も出てきているようだ。
(2025年8月12日)
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