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ナンシー・フレイザー 『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』 : 「資本主義の侍女」たる 北村紗衣

書評:ナンシー・フレイザー資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』(ちくま新書)

先日アップした、菊池夏野『日本のポストフェミニズム 「女子力」とネオリベラリズム』のレビューに、次のような質問のコメントをいただいた。

C H A N C E
2025年3月1日 14:45
これは全く他意は無く、個人の受け取りからの疑問なのですが、究極的には社会主義(あるいは共産主義)国家の形成こそが経済活動における、男女含むあらゆる平等には必要である。という話とも言えますか?ネオリベに対するお考えをかみ砕くと結局資本主義そのものとは相いれないように見えて、もし良かったら教えてください!

これに対して、私は次のようにお返事差し上げた。

年間読書人
2025年3月1日 17:03
コメント、ありがとうございます。

そのあたりは、手短に説明できるようなことではありませんので、是非とも、下の本をお読みください。
素晴らしい本ですよ。

ナンシー・フレイザー
『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』(ちくま新書)

つまり、今回ご紹介するのは、上のレスで「C H A N C E」氏にオススメした本である。

上のレスを書いた段階では、私は本書『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』を読んでいる最中で、全293ページ(索引・原註を除く)の3分の2ほど読んだところだっただろうか。

「C H A N C E」氏の問いに答えるのが、まさに本書だと確信してはいたのだが、いかんせん私自身、まだ本書を読み終えていなかったし、また、字数制限の厳しいコメント欄で、細切れにして説明できるようなものではないと思ったので、私の不十分な説明を読んでいただくよりも、本書を読んでいただく方が間違いないと、そう考えた。また、氏が本気で上のような疑問を感じておられるのであれば、厚めだとはいえ、新書本1冊くらいは読むべきだろうとも思ったのである。

しかし、何はともあれ、3分の2ほど読んだ段階で、私には本書が「すごい本だ」という確信だけはあったから、「C H A N C E」氏にも『素晴らしい本ですよ。』とオススメしたのである。一一じっさい、本書は「論理的かつスケールの大きな」素晴らしい本だったのだ。

本書の解説者である政治学者の白井聡による「解説」文の中から、

資本主義社会を理解するための第一級の文献

という言葉が、帯の惹句として引用されているけれど、まったく白井の言うとおりで、すでに本書を読み終えた私も、確信を持って同意する。

しかしながら、資本主義社会」とは何か、という説明は、決して手短にできるものではない。一一と言うか、手短に説明したとすれば、それは「資本主義社会」の説明としては、まったく不十分なものにしかならない、というのが、本書著者ナンシー・フレイザーの主張するところなのだ。

どういうことか。一一「資本主義」の問題とは、一般的には「経済(体制)」の問題だと考えられているし、現に「資本主義」の問題を論じるのは、基本的には「経済学」ということになっているのだが、フレイザーに言わせれば、それではまったく不十分なのだ。
それでは「資本主義社会」というモンスターの「一部」をとらえて、全体であると思い込んでいるような、不十分な議論でしかない、ということになる。いわゆる「群盲の象を撫でる(群盲象を評す)」の類いであり、盲者が象のしっぽを撫でて「象とは、細長い蛇のような動物である」と評するようなものなのだ。

したがって、「資本主義を、経済の問題として論ずる」というのは、「経済学」という盲者が、「資本主義社会という巨象」の「尻尾」だけを撫でさすって「象」を評するようなものであり、その「部分」に限って言えば間違いではないのだけれども、その「象」像は、まったく不十分で偏頗なものでしかない、ということになる。

だから、「経済」に限られた見地というのは、「資本主義社会」の全体像の理解としては、まったく不十分。「経済としての資本主義」とは、「資本主義社会」の一部でしかなく、その本質ですらないのである。

したがって、その一部をもって、全体像と誤解してはならない。それで満足してはならない。
そうではなく、全体像を知って、それに対処しなければ、現在の「資本主義社会」の問題は解決されないと、そのように主張するのが、本書なのだ。

では、「資本主義社会」における「経済」以外の部分とは、どのようなものを指して言われているのだろうか?

それはごく簡単に言うと、

・人種(差別)問題
・再生産(ケア労働)の危機
・環境(破壊)危機
・民主主義の危機

ということになる。

このように説明されても、おおかたの人はピンと来ないだろうが、それは当然である。なぜなら、前述のごとく、これまでは「資本主義」の問題とは「経済」の問題だと考えられてきたから、上の4つの問題との「深い関連性」まで考える人は、ほとんどいなかったためだ。

だから、本書に何が書かれているのかと言えば、それは「資本主義」というものが、上の4つといかに「一体のもの」なのか、「不即不離のもの」なのか、ということを、具体例を挙げつつ論理的に説明しているのである。

したがって、本書において、およそ300ページを費やして語られていることを、私のこの短いレビューで説明するのは、どたい無理な話なのだし、所詮一度通読しただけの私の理解では、著者が本書で行っている犀利な説明を、正確に伝えるものにもならない。

だから、本稿では、あえて蛮勇を振り絞り、私が理解したところを、私の言葉で語るしかない。
したがって、間違ったところや不十分なところは当然あるのだから、本稿を読んだからといって、本書『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』を理解したつもりになど、なってはならない。
むしろ私が望むのは、本稿を読むことで、本書に興味を持っていただき、それぞれが本書に挑んでいただきたいということである。

また、本稿の説明を読んで「納得できない」としても、それは「私の説明が不十分」なだけで、フレイザーの説明が不十分あるいは不完全なのだと考えてほしくない。
つまり、もしも本稿の説明で納得できないのなら、その時は、その人自身が本書を読んで、それでも納得できないかどうかを、各人がその目で確かめていただきたいのである。

だが、最初に言っておくが、ナンシー・フレイザーの本書における説明を、納得できないと「言える」人は、ほとんどいないと思う。
もしも、読んだ上でそう思うのだとしたら、それはその人が、そもそも「本書を理解できなかった」だけか、何らかに事情により「何がなんでも理解したくない」だけでしかなかろう。
言い換えれば、本書の「資本主義社会」論は、それほどに説得力のあるものなのである。

ただしまた、当然のことながら、本書で語られていることを理解するためには、マルクス『資本論』第1巻で語られていることの「入門書的な知識」程度は、やはり必要ではあろう。
そうした、マルクス経済学の基本中の基本をまったく知らないで、「マルクスの(資本の本願的蓄積のその)先」を行こうとしている本書を理解することは、どうしたって無理なのだ。

もちろん、私自身、マルクスや『資本論』についてはまったくの素人であり、あちこちで部分的に読み齧った程度の知識しかなかったのだが、幸い、本書の解説者である白井聡の著書『マルクス 生を呑み込む資本主義』(講談社現代新書)を以前に読んでいたので、本書『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』で語られる『資本論』の基本的なところについては、おおむね理解することができ、そのおかげで、フレイザーの主張する「その先」についても、大筋ではできたのである。

 ○ ○ ○

では、少し話を戻しそう。
「資本主義社会」を考えるためには、それを「経済的な制度」として考えるだけでは、まったく不十分であり、「資本主義」とは、

・人種(差別)問題
・再生産(ケア労働)の危機
・環境(破壊)危機
・民主主義の危機

といった問題と「一体のもの」として考えなければならない一一とは、どういうことなのだろうか?

これは「私の言葉」で言うならば、次のようなことになる。

「資本主義」という「資本(利益)の蓄積を目指す(至上命題とする)経済的なシステム」が、より効率的に稼働するためには、マルクスが指摘したような「労働における剰余価値の搾取」だけでは、まったく不十分であり、事実それがすべてではなかった。
そこには、おのずと、

・人種差別による人種的搾取
・労働者を再生産するケア労働を無償のものとする搾取(女性差別)
・自然を消費したい放題で利用する、地球環境からの(資源)搾取
・民主主義的な決定ではなく、人々を債務などで縛りつけることで、意見を言えない(主権の奪われた)主体に貶めてしまうという人権搾取

といったものが含まれる、という話なのだ。
このように説明されれば、「なるほど、資本主義社会の問題は、単なる経済システムの形式の問題では済まないものなんだな」と、そう、ご理解いただけるのではないだろうか。

ただ、私たちが、こんな「当たり前」なことを、当たり前に理解できなかったというのは、それなりの理由もあってのことなのだと、ナンシー・フレイザーも説明してくれている。一一どういうことか。

それは「資本主義社会」というのは、「固定的な形式」が最初から確固としてあり、それがそのまま、変化なく今日まで続いているというようなものではなく、時代によって、少しづつ変化・変態を遂げながら、続いているものなのだ。だから、その「変化」によって取り込まれた部分を、「資本主義」の一部だと理解しにくいためである。

つまり、上に挙げた、「資本主義」の一部をなす4つの側面

・人種(差別)問題
・再生産(ケア労働)の危機
・環境(破壊)危機
・民主主義の危機

というのは、「資本主義社会」の最初から、すべて出揃っていたものなのではなく、「際限のない資本(利益)の蓄積」という「資本主義の原理」に従って、「歴史的に生み出されてきたもの」なのだ。一一つまり、「資本主義社会」は歴史を下るに従って、その形態を少しづつ「変化」させてきたのである。
そして、その「変化」において、付け加えられた、「資本主義の搾取的な延命資源」として生み出されてきたのが、上の「4つの側面」ということになる。

したがって、「資本主義」というのは、「際限のない資本(利益)の蓄積」という、そもそも「無理のある目的」を遂行するために、必然的に「危機」を招く「運動体」なのだ。
それが必然的に生み出す「無理」が、これまでは「経済危機」と理解され「経済の問題」だと狭く理解されてきた。
けれども、「資本主義の、無理のある成長拡大」の結果として生み出されたのが、「経済」の問題には収まりきらない、「4つの側面」であり「4つの犠牲者」だったのである。

フレイザーは、「資本主義の進化的時代区分」を、次のように説明している。

・16〜18世紀の、重商資本主義体制
・19世紀の、リベラルな植民資本主義体制
・20世紀中頃の、国家管理資本主義体制
・現代の、金融資本主義体制

これも、正確に説明しだすとキリがないし、私の手にも余るので、あえて「私の言葉」で、ごく大雑把に説明すると、

・「16〜18世紀の、重商資本主義体制」とは、「儲けが出るのなら何でもあり」で、労働者の人権どころか、略奪でも奴隷労働でも何でもあり、という原始的な資本主義体制。

・「19世紀の、リベラルな植民地基本主義体制」とは、国内的には「人権を認めるリベラルな人間主義を認めながら、その分、植民地から搾取することを悪いことだとはしなかった、差別的な資本主義」(今に続く、リベラルの欺瞞はここにある)。

・「20世紀中頃の、国家管理資本主義体制」とは、植民地主義の破綻としての第二次世界大戦後、「国家が経済活動を管理しつつ保護した時代の資本主義」。つまり「関税」だとか「護送船団方式」だとかいったことの重視された時代の資本主義体制。

・「現代の、金融資本主義体制」とは、資本主義が国家の枠を超える、グローバルな「国際金融資本」として、国家の管理に服さなくなった時代の資本主義体制。
例えば、国際銀行だ、国際通貨基金(IMF)だといった国際機関が、後進国を債務で縛りつけ、借金の返済ということで、その国の政府の自由を奪い、実質的に国民の主権まで蹂躙してしまうという、現在の資本主義体制。

というようなことになる(くり返すが、あくまでもこれは、「経済オンチ」の私が理解したところでの説明でしかない)。

このように、「資本主義」というのは、自らの「無制限な貪欲」が招いた「世界的な無理としての破綻状態」を、その「社会形態」や「政治形態」を変えることで、「経済以外の側面」へ押しつけることで延命してきたものなのだ。

つまり「新たな犠牲を産み出すことで、自ら(資本主義体制)は生きのびてきた」のだが、結局のところこれは、地球規模で見れば、「問題の解決」ではなく、「問題を(地球の内部で)他に転科する」ことでしかない。「問題=危機」自体は、目の前からは消えても、問題の総量は、増大する一方なのだ。

だから、ナンシー・フレイザーは、「資本主義」とは「共食い資本主義」であり、「ウロボロス(自らの尾を呑む蛇)」のようなものだと表現している。

「共食い資本主義」であれ「ウロボロス(自らの尾を呑む蛇)」であれ、そこで言われているのは、その際限をしらない食欲(欲望)によって「自らの脚まで食ってしまうタコ」みたいなものであり、要は「自滅」しか待っていない、ということだ。
しかし、その自殺的な衝動こそが「資本主義」の本質であり、その行く末でしかないのである。
そしてこのことは、天然資源の際限のない浪費と、それによる「環境破壊」の問題、例えば「地球温暖化」問題が、最もわかりやすい実例なのではないだろうか。

そんなわけで、こんな「狂った(自殺的)システム」を止めるには、これまでのように、単に「金融危機」に対する「金融対策」などでは、まったく不十分であると、フレイザーは指摘する。
それでやれるのは「資本主義形態の変化による、資本主義の延命」でしかなく、「資本主義自体の問題の解決」にはならず、また「新たな犠牲を産む」ことにしかならない。
「資本主義」自体は生き残るのだから、おのずとその結果としての「人類の破滅(自滅)」は避けられないのだ。

だから、フレイザーは資本主義を葬らなければならない」と主張する。

では、どうやって葬るのかといえば、「資本の蓄積」という「資本主義の原理」を廃棄し、これまで、その犠牲にされてきたもの手当て・配分を優先しなければないと言う。つまり、ひたらく言えば「金儲け」よりも、

・人種(差別)問題
・再生産(ケア労働)の危機
・環境(破壊)危機
・民主主義の危機

に「資本」を投入しなければならない、と主張するのである。

つまり、フレイザーは、「資本主義」を否定したからといって、「経済活動」自体がなくなってしまうと言っているのではないのだ。

私たちが生き残るためには、そもそも無理のある「資本主義社会」という形式を廃棄して、可能なかぎり犠牲者を出さない「社会システム」を新たに構築しなければならない。

そして、そんな「新しい社会システム」とは、当然のことながら、上のような「資本主義のおける4つの犠牲」を自明のものとせず、逆にそこに手当てをして回復させるような「社会システム」でなければならない。

無論、それは簡単なものではないだろうし、当然、「資本主義者社会」的な「経済成長」など望めない。
これまでは「経済成長のための経済成長」が目指され、そのために多大な犠牲者を産んできたのだから、これまで「経済成長のために投下されてきた資本」の少なからぬ部分を、その犠牲者たちに投下することで、世界システムの健全性を「回復」しなければならないのである。

そして、そうした「新しい社会(世界)システム」は、当然のことながら、「社会そのものの維持」を目的としたものになるから、その意味で「社会主義」と呼ばれるものにはなるのだけれども、しかし、その「社会主義」というのも、これまで考えられてきたような、単なる「政治的・経済的な社会主義」では済まされない。
「資本主義」が産んだ犠牲者を正しく包摂していく「新たな社会主義」、より広い視野に立った「社会主義」に変わらなければならない。一一そうでなければ、これまでの「社会主義国」や「共産主義国」のように、結局は「資本主義経済」を導入して、それに呑み込まれてしまう「資本主義の補完的一形態」に堕してしまうほかないからである。

したがって、ナンシー・フレイザーが「是非とも必要だ」と語るのは、極めて「困難な道」だと言えるし、それはフレイザー自身も自覚しているところだ。
だが、「そんなこと無理だ」「できない」では済まされない問題だということなのだ。できなければ、われわれは、われわれの子や孫、あるいはその先の子孫の段階で、いずれ「地獄を見る(見せる)しかない」ということなのである。

ナンシー・フレイザーの提言は、きわめて厳しいものではあるけれども、しかし選択の余地など無いものなのだ。

 ○ ○ ○

そんなわけで、冒頭に紹介した「C H A N C E」氏の、私への次のような問いは、まったく正しかった。

『これは全く他意は無く、個人の受け取りからの疑問なのですが、究極的には社会主義(あるいは共産主義)国家の形成こそが経済活動における、男女含むあらゆる平等には必要である。という話とも言えますか?ネオリベに対するお考えをかみ砕くと結局資本主義そのものとは相いれないように見えて、もし良かったら教えてください!』

ただし、私たちが目指さざるを得ない「新しい社会システム」とは、これまで「社会主義」や「共産主義」と呼ばれてきたもの「そのものではない」、そうではあり得ない。
それではまったく不十分であり、それでは「資本主義」を葬って、人類の未来を開くことはできないのだ。

私たちが目指さなければならないのは、「新しい社会主義社会」であり「新しい共産主義社会」なのだ。

だから私は、「C H A N C E」氏の「問い」に対して、単純に「そのとおり」だとは答えられなかった。
そのように答えていれば、きっと「C H A N C E」氏を始めとした、ほとんどすべての読者は、私が、「これまでの社会主義者や共産主義者」のように「これまでの社会主義共産主義」を目指せと言っていると、そう「誤解」するに違いなかったからである。

したがって、本書が語るのは、「資本主義はもう限界だから、社会主義や共産主義を選ばなければならない」というような「お気楽な話」ではないのだ。
私たちが選ばなければならないのは、「これまでの社会主義共産主義」を乗り越えた、まだ見ぬ、新たな「それ」でなければならない。

そのまだ具体的な形の見えていないそれを、それでも、今この瞬間からそ目指し、考え、動いていかなければならない。そうしなければ、私たちは、この「資本主義社会」において自滅するしかない。
だから、泥縄式であろう何であろうと、ともかく「反資本主義」を第一の原理として、新たに、それ以外の「社会システム」を構築し、実現していかなくてはならないのである。

これは、そういう、避けることの許されない「必要不可欠かつ困難な道」についての話なのだ。

 ○ ○ ○

さて、最後に、私が本書を読んだ経緯を、できるだけ簡単に紹介しておこう。

無論、私が本書を読むきっかけとなったのは、「武蔵大学の教授」で自称フェミニストである北村紗衣への批判であり、そのために必要な「フェミニズム」の勉強の延長線上に本書があった、ということになる。

本書の著者ナンシー・フレイザーは、私がすでにレビューを書いた2冊の「フェミニズム関連本」に深く関わっている。それは、次の2冊だ。

・シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー99%のためのフェミニズム宣言(人文書院)

菊池夏野日本のポストフェミニズム 「女子力」とネオリベラリズム(大月書店)

見てのとおり、『99%のためのフェミニズム宣言』の方は、ナンシー・フレイザーは「共著者」の一人として、直接関わっている。

一方、菊池夏野日本のポストフェミニズム 「女子力」とネオリベラリズムの方については、著者の菊地が「はじめに」の中で、

『第1章で、ネオリベラリズムというものをフェミニズムの立場から考察する際に必要な理論的土台の検討を行っている。具体的には、デヴィッド・ハーヴェイミシェル・フーコーナンシー・フレイザーの理論を用いている。』

と紹介して、同書がフレイザーに負うところの多い著作であることを認めているのである。

つまり、「フェミニズム」を考える上で、「資本主義」の問題は避けて通れない、むしろ「本質部分」だということなのだ。

タレント・フェミニストとしての、セレブリティ・フェミニスト」の一員たることを辞さない北村紗衣に限らず、ベル・フックスが、

『フェミニズムの文章を書いたり、あるいは労働における平等を要求するフェミニズム運動によって利益を得たりして、名誉や名声や金を手に入れる女性が多くなるにつれて、自分勝手な日和見主義が横行し、集団闘争の訴えの土台は(※ こうした、堕落したフェミニストによって掘り)崩されていった。そして、社会、資本主義、階級差別、そして人種差別に反対する気もない女性たちが、自らを「フェミニスト」と称した。』

『ベル・フックスの「フェミニズム理論」 周辺から中心へ』P26)

と批判せねばならなかった、「転向フェミニスト」としての「リーン・イン・フェミニスト」や「ブルジョワ・フェミニスト」、「キラキラ・フェミニスト」や「日本の第四波フェミニスト」を生まなければならなかったのも、結局のところ、この世界が「資本主義社会」だからなのである。

「リーン・イン」フェミニストの代表、シェリル・サンドバーグ

「成り上がって、金儲けをしたものが勝者である」とする「資本主義社会」である以上、いくら「フェミニスト」を名乗って「女性の権利」を主張したところで、結局のところそれは、「自分の儲け」のための「女性の権利(党派権利)」でしかなくなってしまうというのは、ごく「自然な成り行き」なのだ。

無論、ごく例外的に「みんなのため」に頑張る人は、男でも女でも存在するだろう。
だが、そうした「克己的」な人が「少数例外」たらざるを得ないというのは、常識で考えても、分かりきった話でしかない。

SF作家のシオドア・スタージョンが、

SFの9割はクズである。ただし、すべてのものの9割もクズである。

と言ったとおりで、「女性の権利のために闘っている」と自称している「フェミニストの9割」もまた「クズ」なのだ。
つまり「えせフェミニスト」に過ぎないのであり、そのとてもわかりやすい一人が、北村紗衣ということなのである。

だから、北村紗衣を批判できないどころか、その周辺にたむろしている「リベラル・フェミニスト」などというものは、すべて「えせフェミニスト」だと考えていい。つまり「9割」の構成員

したがって、結論的に言えば、「女性の解放」を目指す私たちは、ベル・フックス言うところの資本主義の侍女」たる「9割の、えせフェミニスト」を批判しなければならない。
そうしなければ、「資本主義」が生み出す「すべての差別」は無くならないし、無論「女性差別」を含む、すべての「性差別」も無くなりはしないのである。

つまり、「フェミニズム」が「反差別」を目指すものなのであるのならば、私たちは「えせフェミニスト」を批判否定して、抹殺しなければならないのだ。
それが「資本主義」を抹殺するための、この世界を終わらせないための、ひとつの「部分的行動」なのである。


(2025年3月5日)


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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)


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