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ベル・フックス 『フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学』 : 資本主義の婢女・ 北村紗衣

書評:ベル・フックスフェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学』(エトセトラブックス)

著者のベル・フックスは、『フェミニズムはみんなのもの』という本書のタイトルに、何を託したのだろうか?

難しい話ではない。
フェミニズム運動が広がっていく中で、その成果を「私物化」しようとする人たちが出てきたため、フェミニズムが所詮は「一部の人のためのもの」だと誤解されるようになったしまった。またその結果、フェミニズムの運動が力を失い、本当にそれを必要としている人々、つまり「差別されている人々」にまで届かなくなっているという、本書刊行(原著刊行2000年)当時の現実に抗して、ベル・フックスは「そうではない。フェミニズムは、すべての人のための思想運動なんだ!」と、そう訴えるものなのである。

したがって、本書で最も強調されているのは、フェミニズムが「一部の比較的に恵まれた女性(白人で社会階層的に中流以上の女性)」のためだけのものでないのはもちろん、あらゆる「人種」や「社会階層」の女性のものであるに止まらず、「男性」のためのものでさえある、ということを訴えているのだ。
『フェミニズムはみんなのもの』というタイトルの「みんな」という主語は、決してダテではないのである。

私たちの多くは、「フェミニズム」と言えば「女性の社会的平等を実現するための権利獲得運動」だと思い込んでいる。だから、そこから当然のごとく「フェミニズム」は、「女性のためのもの」だと考えがちなのだが、一一実は、そうではないのだ。

たしかに、その始まりにおいて「フェミニズム」は「女性主義」というその名のとおり、「女性のための」思想運動であった。
しかし、アメリカ黒人であるベル・フックスらが気づいたのは、「女性」とひとくちに言っても、女性の中にも「人種」や「階級」の違いによって、その有する「権利」は大きく違っていて、同じような「問題意識」では済まされない、という「現実」の存在だ。

例えば、当初の「フェミニズム」は、たしかに「女性のための」思想運動であったけれども、しかしそこで想定されている「女性」とは、アメリカ黒人の女性からすれば「白人かつ中流階級以上の女性」という、きわめて「一部の女性」のことでしかなかった。つまり当初のフェミニズムは、「女性主義」運動と言うよりは、「白人かつ中流階級以上の女性のための運動」でしかなかったのだ。

しかしながら、フェミニズムが「女性の解放」を訴えるのであれば、それは「白人かつ中流以上の女性のための運動」であってはならず、おのずと「すべての人種、すべての階級の女性のための」思想運動でなければならない、ということになる。

しかしまた、「すべての人種、すべての階級の女性」を「解放」するためには、当然のことながら「人種差別」や「社会階級」を否定しなければならない。一一となると、話は一気に広がりを持って、そもそも現在の社会・経済システムである「資本主義」をそのままにしておいて、それで「すべての人種すべての階級の女性の解放」なんてことが可能なのか? あるいは、「家父長制」的な「男性社会」であることが、そのまま、「男が悪い」と男性を敵視することだけで済まされるような問題なのか、ということになってくる。

なぜなら、男性だって、明らかに「人種」や「階級」によって「差別」されているのだから、問題は「男性」なのではなく、「家父長制的な男性社会」であり、それは「何によって生み出されているのか?」ということになる。

つまり家父長制的な男性社会」を廃止するためには、男性を批判しているだけではダメなのだ。
男性もまた「それ」に洗脳され支配されている、ある意味では「被害者」なのだから、男性を操っている「誤った教義」自体を批判し、廃止しなければ「家父長制的な男性社会」が無くなることはないのである。

では、「家父長制的な男性社会」を作った根本的な思想(教義)というのは、何なのか?

一一それが「資本主義」なのである。

「資本の蓄積」ということを「第一義」とするこの思想は、おのずと「資本の蓄積の効率性」ということを重視する。
つまり「資本の蓄積」が効率的に進められるのであれば、同じ人間の中に「差別」を生むことだって、厭いはしないのだ。なにしろ「資本の蓄積が第一義」であって、「すべての人の平等」など「二の次」以下だからである。

考えてみてほしい。「資本の蓄積が第一義」だとするならば、「分業」と「共産」とは、どちらが「効率的」だろうか?

「あなたは手を動かして作る人、私はそれを監督して指示する人」という「分業」は、自ずと「大多数の労働者と一部の(資本家を含む)エリート」に分けられるのではないだろうか?

みんなが交代で「作業員」と「監督者」をやるというような「非効率」なことは止めて、「作業員」は作業だけに専念し、「監督者」は監督だけに専念すれば、その方が「効率的」なのではないだろうか?

なぜ「共産主義」「資本主義」に敗れたのかと言えば、それは「思想的に劣っていた」のでもなければ「非人間的な思想だったから」でもない。
端的に言って「効率的な資本の蓄積」という「目的」を後回しにして、「平等」という建前に徹しようとしたため、「金儲けの能力において劣っていた」からである。

例えば、今日は「監督者」であっても、明日は「作業者」の側であるというような場合、あなただって「作業者」を「鞭打つようなこと」はしないだろう。なぜなら、明日には自分が鞭打たれる立場になるからだ。
そのため、そんな「共産社会における監督者」の監督は、どうしたって「お互い様」的に緩くなる。そしてそうなれば、「作業者」の労働への集中力も、おのずと緩くなって「生産性(生産効率性)」が下がってしまうのだ。
一一これが、かつて「ソビエト共産主義」国家において起こったことであり、「共産主義」が「資本主義」に、「経済的に敗れた」理由なのである。

つまり、「資本の蓄積」ということを「第一義」とするならば、「資本主義」は「共産主義」よりも、よほど優秀なのだ。
しかしその一方、「資本主義」は「資本の蓄積の効率性」を第一義とするために、おのずと「階級」を生み、「人種」までも生む。

「階級」というのは、要は前述の「あなたは手を動かして作る人、私はそれを監督して指示する人」という「区別の恒久化」である。
社会階級というのは、「資本の蓄積」を第一義にすれば、おのずと生じざるを得ないものなのだ。

では、「人種」はどうだろう?
「人種」の場合は、「資本主義以前」からあったもののように感じられる。例えば、白人や黒人・黄色人といった区別は、「資本主義」以前から存在したと、普通はそう考えるだろう。たしかに「肌の色」は、「資本主義」以前から存在していたのだ。
だが、それをすべて一緒くたに「人間」とは考えずに、白人・黒人・黄色人というような「区別としての人種」を強調したのは、そこに「階級」を生むためなのだ。その点において、人間に「差別」を持ち込むためだったのである。

例えば、「髪がフサフサの人」と「ハゲの人」の人は「同じ人間」なのだが、なぜ「ハゲ」という言葉が生み出されるのかといえば、それは「髪がフサフサの人」と区別するためであり、そこに「差別」を設けるためである。「ハゲている人は、普通ではないから、格好悪い」という、差別的な価値観を明確に表現するためなのだ。
当然これは、「チビ」や「デブ」という言葉でも同様であり、それの「人種」バージョンが「黒人」であり「黄色人」なのである。

もともと「白人」という言葉は、「黒人」や「黄色人」という「差別のための言葉」が生まれてのちに、それと区別するために生まれたものでしかない。「白人」自身にとっては、「肌が白っぽい」というのは「白っぽい」のではなく、実は「普通」なのだ。
現在「白人」と呼ばれる人たちは、昔は、自分たちを「人間」の「普通(ノーマル)」であり「当たり前」だと考え、それと比較して「黒人」「黄色人」という言葉を「差別的」に作ったのである。要は、肌の色において「当たり前ではない(アブノーマルな)奴ら」という意味だ。

そして、この「当たり前ではない(アブノーマル)」というのが、昔はもとより、今でも「差別」を生む原因となっている。
「人間と言っても、いろいろある」とは考えずに、「これが当たり前(ノーマル)で、そうでない(アブノーマルな)のは、異常であり劣等だ」と考えるのである。

一一そんなわけで、「人種」というのも、じつは「人間を、差別的に区分するために生み出された」ものなのである。
それは「肌の色」に限らず、「何々人種」という区分における、「外人」を生むことになる。要は、「身内」ではなく、「よそ者」だということなのだ。

そして、そうした「われわれ人間」に似てはいるが同じではない「その他の人間」を生むことで、「資本主義」体制である「一部の資本家と大半の労働者」というものが正当化される。両者は同じ人間ではないんだから、平等である必要はない
つまり、「資本主義」は、その本質において「差別」を生むようになっているのだ。

したがって、「資本の蓄積の効率性」を第一義とする「資本主義」を採用しているかぎり、その社会からは、決して「差別」が無くなりはしない
また、だからこそフェミニズムが、「男女差別問題」という枠を超えて「資本主義」批判にまで広がっていくのも、当然の帰結なのだ。
一見それは、奇異なことのように思えるかもしれないが、そうではない。「差別」無くそうと思うのなら、「資本主義の乗り越え」は避けて通れない、必然的なものだったのである。

したがって、「男女差別」というのも、前述の「階級」や「人種」と同じことなのだ。
シモーヌ・ド・ボーヴォワールが、

「人は女として生まれるのではなく、女になるのだ」 (One is not born, but rather becomes, a woman.)』

と言ったのも、そういう意味なのである。
「男も女も同じ人間なのに、どうして男とは別の存在としての、女が生み出されたのか」と言えば、それは「あなた(料理を)作る人(女)、わたし(はそれを)食べる人(男)」という「分業」のためには、「差別」が必要だったのだ。

女性が「子育て」や「家事」に向いているから「家庭にいるべき」なのではなく、「体力的」に勝っている男性が外で「肉体労働」をし、女性がそれをケアする家庭労働に専念した方が、「資本の蓄積」という観点からすれば、明らかに「効率的」だったのである。

しかし、それは各人種における「人間社会」内の話であって、白人にとっては、「人間外」である黒人や黄色人についてまで、それを適用する必要はなかった。つまり、黒人や黄色人の女性が、外へ出て働くのは、何ら問題ではないどころか、白人からすれば、黒人や黄色人は、男女を問わず、白人に使役されるべき労働力だったのである。

しかしながらそんな「資本主義」も、機械化などの進展によって「労働」の中身も変わり、かつてほどの「肉体的体力」つまり「腕力的な力」が必要ではなくなってくれば、「労働者」を男性に限定する必要もなくなる。
それに、長らく女性が「無償の家庭内労働」にたずわってきた結果として、女性が外で働く場合には、男性より「低賃金」で働かせることができる。となれば、白人の中においても、女性を「低賃金労働者」として、使わない手はないと、そう考えるようになったのであり、そう考えるのが「資本主義の論理」なのだ。

だから、「男女平等」というのは、単に「女性が、男性と同じ職業や役職に就ける」ということには止まらないし、「同一労働・同一賃金の実現」で済まされることでもない。
なぜなら、ここで見落とされることになるのは、「資本家と労働者」の絶対的「差別」の存在だからである。

つまり、同じ「労働者」の内部において「同じ職業や役職に就ける」とか「同一労働・同一賃金」が実現したと言ったところで、その「平等」の「水準」が低ければ、意味がないのである。

したがって、解消されるべき問題とは、「資本家と労働者」における「差別」なのだ。
「私は楽して稼ぐ人。あなた方はヘトヘトになるまで働いても、さして稼げない人」という「差別」なのである。

ところが、「資本主義」社会の中では、この事実から人々の目を逸れすために、あらゆるプロパガンダがなされている。
その一例が、「女性が、男性と同じ職業や役職に就ける」とか「同一労働・同一賃金の実現」といったことなのだ。それさえ叶えば、まるで「平等」が実現するみたいに誤解させることで、「楽して儲ける特権階級」の存在は、労働者の意識から消されてしまうのである。

したがって、「差別」を生んでいるのは、何もわかりやすい「差別主義者」だけではないのだ。
例えば、「反差別」を口にしている「フェミニスト」の中にも、「資本主義」体制下における「差別」を温存するために、ブラフ(見せかけ上の敵)として「男」を批判する者だって、大勢いる。
敵としての「男」に目が行っているかぎり、階級の存在は見落とされるからである。

そして、ベル・フックスが批判する「フェミニスト」というのも、そういう「フェミニスト」なのだ。

要は「白人かつ中流階級以上の女性」の権利しか問題にしようとしないようなフェミニスト。一一「人種」や「社会階級」といった「差別のための属性」の存在は問題とせず、むしろそこから生み出される「差別的な特権」は温存したまま、自身の属する「女性」という属性における、いまだ満たされぬ権利だけを主張するような「フェミニスト」を、ベル・フックスは「偽フェミニスト」と呼ぶのである。

したがって、日本における「リーン・イン・フェミニスト」、つまり「差別を前提とした資本主義社会」を受け入れて、その「差別的な階級社会」の中で「成り上がる(リーン・インする)」ことを目的としていて成り上がった、北村紗衣武蔵大学教授)のような人間を、私が「えせフェミニスト」と呼ぶのは、まったく正当なことなのだ。

「フェミニズム」が「平等」を目指すものなのであれば、当然のこととして、あらゆる不平等に反対するはずなのに、なぜ北村紗衣は「性差別(ジェンダーバイアス)」の問題しか語らないのかといえば、それは北村紗衣の本質が「差別的な資本主義」を容認し、その中で成り上がろうとした「差別主義者」であるからに他ならないのである。

したがって、北村紗衣が、わかりやすく「男性差別」的なのも、いわば当然のことなのだ。
北村紗衣は「すべての差別の解消」など、もとより望んではおらず、「差別的な資本主義社会」の中で「差別できる側に立とう」としているだけであり、その手段が「フェミニズムのおける男性批判」なのである。
「反差別主義者」を演ずるための小道具としての「男性批判」が、北村紗衣における「差別主義的な資本主義社会で成り上がるための、欺瞞的な武器」だったのだ。

前述のとおり、本書でベル・フックスは、「多くの男性もまた、資本主義社会における被差別者であり犠牲者である。だから、フェミニストは、男性を敵視するものではなく、資本主義の差別主義に従属させられている男性との連帯をも求めなければならない。そうしなければ、差別は無くならない」のだと、そう明確に主張している。

「家父長制」の本質は、「長」が「すべての構成員を支配する制度」というところにあって、この「長」が女性であっても、その構成員を「支配」しようとするなら、それは「家父長制」なのだ。つまり「家父長制」の本質とは、「選民的(差別的)な専制」なのである。

その「長」が、男か女かというのは本質的な問題ではなく、それが「家父長制」と呼ばれるのは、もっぱら、これまでの「歴史経緯」から、便宜的にそう呼ばれるだけで、ことの本質ではないのである。

『(※ 家父長制とは)「男性支配の権力システム」とひと言で表現する言葉として、家父長制/家父長主義(Patriarchy)はフェミニズムの中で広く使われている。ただし、その理論的な内容や用法等は論者によってさまざまであり、今も議論が続いている。』
(P12/訳注2より)

つまり、「家父長制」とは、「男が女を差別的に支配する制度」のことではなく「男が女を差別的に支配する制度に代表される、性別を問わない差別的な制度」のことなのだ。

だが、なぜ「フェミニスト」の中でも「家父長制」の解釈が分かれるのかといえば、それは「すべての差別に反対するフェミニスト」ならば「家父長制」というのも「性別を問わない負の制度」だと考えて、すべての「家父長的(なる)制度」に反対するのだけれど、「男女差別以外の(資本主義に伴う)差別は黙認したいフェミニスト」ならば、「家父長制」という言葉を、あくまでも「男性における負の問題」だと「限定」することで、自分たちの「容認する差別」については、重要ではないと見せかけたいからである。

そして、男女を問わず、「フェミニズムについて不勉強な人たち」は、この「めくらまし」にきっちりと引っかかって、「家父長制」と言えば「男性が女性を差別的に支配する制度や規範」のことだなどと、字面に引きずられて、短絡的にそう思い込んでしまうのだ。

以上、私なりに本書『フェミニズムはみんなのもの』の内容を、現在の日本のフェミニズムをめぐる状況に引きつけて紹介したが、以下では、ベル・フックスの言葉を適宜引用し、それに解説を加えるかたちで、ここまでの「まとめ」が、私が「勝手に言っている」だけではない、という証拠を示しておこう。

一一ときどきドラマなどにも登場する言い回しのようだが、「男である私の言うことが信じられない女性は、私の言うことを信じなくてもいい。でも、女性であり、虐げられた黒人であったベル・フックスの言うことなら、信じられるはずだ」ということである。

※ なお、以下の引用文中の(※)は、引用者(私)による補足説明である。

 ○ ○ ○

はじめにフェミニズムを知ってほしい(※ 「はじめに」の見出し)

 どこかへ講演に行って、わたしがだれでどんなことをしているのかたずねられるといつも、「わたしは作家で、フェミニズムの理論家で、文化批評家です」と胸をはって答える。メディアのメッセージを分析して、映画やポピュラーカルチャーについて文章を書いています、と。たいていの人はおもしろがって、もっと知りたがる。だれでも映画やテレビを観たり、雑誌を読んだりしているし、そこにあるメッセージやイメージについて自分なりの考えをもっている。聴衆にはさまざまな人がいるが、文化批評の仕事がどんなものかや、書くことへの情熱はわかると言う(たくさんの人が書きたいと思っているし、実際に書いている)。』(P6)

まるで、北村紗衣ファンのような反応である。

『(承前)でも、フェミニズム理論となると一一だれも話を聞きたいと言わなくなるのだ。代わりによく聞かされるのは、フェミニズムの害とか悪いフェミニストのこと。いわく、「あいつら」は男嫌いだ、「あいつら」は自然のなりわいに一一そして神に一一反対しているのだ、「あいつら」は皆レズビアンだ、「あいつら」は仕事を一人じめして、チャンスに恵まれない白人の男を苦しめているんだ、といった具合に。
 そういうことを言う人たちに、「じゃあどんなフェミニズムの本や雑誌を読みましたか?」「どんなフェミニストの話を聞きましたか?」とか「フェミニズムの活動をしている人を知っていますか?」とたずねると、皆の答えから浮かびあがってくるのは、フェミニズムが生活に入ってきたのはすべて間接的にであって、フェミニズムとは本当はどんなもので、何をしているのかを、間近に見たり聞いたりする機会はなかったということなのだ。ほとんどの人が、フェミニズムとは、男のようになりたいと思っている怒れる女の集団だと思っている。』(P6〜7)

現在の日本においても、フェミニズムを嫌っている男性の多くは、ここで示されているようなレベルを、大きく出るものではなかろう。

『(承前)フェミニズムは人権に関わることで、女性たちは平等の権利を求めているのだ、ということすら知らない人が多い。わたしの知っているフェミニズムはこういうものですよ、と話すと一一身近で個人的なことに引き寄せて一一皆うなずいて聞くのだが、それでも話しおわるとすぐ口々に言うのだ。あなたは違う、あなたは「本物の」、男嫌いでいつも怒ってばかりいるフェミニストみたいじゃない、と。そこでわたしは、わたしこそ本当の、しかも最高にラディカルなフェミニストだと言い、もし皆さんがもっとよくフェミニズムを知ったら、それが思っているようなものではないとわかると、答えるのである。』(P7)

つまり、北村紗衣みたいなのを「フェミニスト」であり、北村紗衣の語るようなことが「フェミニズム」だと考えるのは、間違いなのだ。
それは「フェミニズム」のことを、まともに勉強したことのない者の、無知に基づく「偏見」なのである。

たとえば、かつてのアメリカでは、「日本人」と言えば「背が低くて、目が細くて、いつもカメラを首から提げていて、『どうもどうも』と挨拶をする」などというステレオタイプで見られていた。
もちろん、そんな日本人も大勢いたのだが、日本人が皆そういうものだと考えるなら、それは「偏見」でしかない。

つまり、「フェミニスト」を名乗る者の中には「北村紗衣」のようなのもいるというのは事実だが、「フェミニストというのは、北村紗衣のような、口汚い男性差別者のことである」と考えるならば、それは「偏見」であり、「フェミニスト」を不当に貶める「差別的な決めつけ」だ、ということにもなるのだ。
「普通の」と言うか、「まともな」フェミニストは、北村紗衣とは、似ても似つかない存在なのである。

『 わたしが望んできたのは、「フェミニズムって何なの?」という質問にたいして、恐れや夢物語に根ざしたものではない答えを、(※ 手軽なハンドブックとして)みんなが手にできることだ。「フェミニズムとは、性にもとづく差別や搾取や抑圧をなくす運動のことだ」という、簡単しごくで何度でも読み返せる定義を、みんなが手にできることなのだ。この定義が、わたしは気に入っている。これを最初に書いたのは十年あまり前、『フェミニズム理論一一周縁から中心へ』のなかでだった。この定義が気に入っているのは、これが、フェミニズム運動は男性に反対する運動ではないということを、はっきり示しているからだ。この定義が明確に示しているのは、問題は(※ 男性による女性差別なのではなく、すべての)性差別だということである。』(P8)

『フェミニズム運動は男性に反対する運動ではない(…)問題は性差別だ』一一これである。

ちなみに、ここで言及されている、ベル・フックスの著書『フェミニズム理論一一周縁から中心へ』については、すでにレビューを書いているので、ぜひご参照いただきたい。

『(承前)そしてそのこと(※ 問題は、「女性差別」ではなく「すべての性差別」だということ)が思い出させるのは、わたしたちはみな、女であれ男であれ、生まれてからずっと性差別的な考えや行動を受け入れるよう社会化されている、ということだ。その結果として、女性も、男性と同じように性差別的でありうる。そして、そのことで(※ 現状における)男性支配が見逃されたり正当化されたりするわけではないが、同時に、フェミニズム運動は単に女性が男性に反対するものだと見なすフェミニストがいるなら、それはまたあまりにも単純素朴でまちがった考えである。』

『フェミニズム運動は単に女性が男性に反対するものだと見なすフェミニストがいるなら、それはまたあまりにも単純素朴でまちがった考えである。』一一だが、このように考えている女性フェミニストは多い。
なぜなら、そのようなことをしている「北村紗衣」のような「自称フェミニスト」が現に存在して、悪目立ちしているからである。マスコミや出版社などが、北村紗衣のような「偽フェミニズム商品」を、売らんかなで広く商っているからなのだ(※ 具体例:出版社の「書肆侃侃房」や「筑摩書房」、小売書店の「ジュンク堂書店」など)。

『(承前)家父長制(制度化された性差別の別呼び方)をなくすためにはっきりさせなくてはならないことは、わたしたちはみな、頭や心を変えないかぎり、そして、性差別的な考えや行動をやめてフェミニズム的な考えや行動をとらないかぎり、連綿と続く性差別に(※ いま現在)加わっているということである。
 集団としての男性は、男性は女性よりも優れているから女性を支配すべきだという思い込みのもとに、家父長制からもっとも利益を得てきたし、いまなお得ている存在である。だが、その利益は代償をともなっている。男性は、家父長制から得るすべての利益と引き換えに、家父長制を機能させつづけるために、必要とあらば暴力をふるってでも、女性を支配したり、搾取し抑圧することを求められている。(※ しかし)ほとんどの男性は、家父長主義的に(※ 暴力的に)ふるまうことはできないと感じている。ほとんどの男性は、男性が女性にふるう暴力のせいで女性たちが感じている憎しみや恐れに、(※ 人間的な)動揺を感じている。それは、みずから暴力をふるう男性でさえそうなのだ。だが、男性たちは、利益を失うことを恐れている。男性たちは、もしも家父長制が変わって(※ 無くなって)しまったら、慣れ親しんだこの世界にいったいなにが起こるのか、不安を感じている。だから、頭と心では悪いとわかっていても、このまま男性支配を支えるほうがたやすいと思っているのだ。男性たちがくり返しわたしに言ったのは、フェミニズムがいったいなにを求めているのかさっぱりわからない、ということだった。
その言葉に嘘はないと思う。わたしは、男性たちが変わり、成長する可能性を信じている。そして、もしフェミニズムについてもっとよく知れば、男性たちはフェミニズムを恐れなくなると思う。なぜなら、(※ フェミニズムを理解した)男性たちがフェミニズム運動に見いだすのは、自分自身が家父長制の束縛から解き放たれる(※ という)希望なのだから。』(P9)

つまり、私に言わせれば「弱い犬ほどよく吠える」であり「弱い男ほど、女性に威張りたがる」ということだ。
スーパーマンのように「強くて優しい男」であったなら、女性に対して、威張ったり、殴ったりして、無理に従わせようとする必要などないのである。

『(※ わたしが)思い描くのは、支配というものがない世界に生きること。女と男は同じではないし、いつでもどこでも平等というわけではなくても、交わりの基本は互いに相手を思いやることだという精神がすみずみにまで行き渡った世界に生きることだ。フェミニズム革命だけでそうした世の中ができるわけではない。人種差別や階級的エリート主義や帝国主義も、なくさなくてはならないだろう。それでも、愛にみちた共同体を創り、ともに暮らすことのできるような、真に目覚めた女や男になることは可能である。自由と正義の夢を実現し、わたしたちはみな「生まれながらに平等である」という真理に生きることは、可能なのだ。』(P6〜11)

『女と男は同じではないし、いつでもどこでも平等というわけではなくても、交わりの基本は互いに相手を思いやることだという精神がすみずみにまで行き渡った世界』を作ろうとするのが、本来の「フェミニズム」であって、「アファーマティブ アクション(格差是正措置)」といったような「平均化」は、あくまでの「当面の対処」に過ぎないし、男女を何もかも同じにすることが「フェミニズム」本来の目的ではないのだ。
まともなフェミニストであれば、男女に違いがあり、それぞれに得手不得手があることくらいはわかっている。その違いを認めた上で、「相互尊重」による「平等」ということを求めているだけなのである。それが容易なことでないとしてもだ。

その意味で、現在の「おのずと差別を生むシステムとしての資本主義」を受け入れ、その中の「上位1%」に「リーン・イン」しよう(成り上がって参入しよう)とするような、シェリル・サンドバーグ北村紗衣のようなセレブリティ・フェミニスト」というのは、そもそも「フェミニスト」の名に値しない、「偽物」なのである。

(ヘボでも、「プロ」の肩書きさえあれば、謝礼を要求する)

(※  上は、シェイクスピアの専門家・北村紗衣、アマチュアに突っ込まれて「解釈違い」で逃げるの図、である。ここのログは削除による証拠隠滅できなかったようだ。当たり前の話だが、プロだからと言って実力が上だとは限らないんだよね)

『 フェミニズムとは、ひと言で言うなら、「性差別をなくし、性差別的な搾取や抑圧をなくす運動」のことだ。これは、わたしが十年あまり前に『フェミニズム理論周縁から中心へ』のなかで述べたフェミニズムの定義である。その時、わたしは、これがみんなの共通のフェミニズムの定義になるといいと思った。この定義が気に入っているのは、男性を敵だと言っていないことだ。問題は性差別だと、ズバリ核心をついている。より具体的に言うなら、この定義は、ありとあらゆる性差別的な意識や行動を問題にしている。そういう意識をもったり行動をしたりするのが、女であろうと男であろうと、あるいはまた子どもであろうと大人であろうと、関係ない。また、この定義は広いものなので、社会制度のなかに構造化された性差別をも問題にできる。さらに、どこまでも開かれた定義でもある。この定義のいうフェミニズムについてわかるためには、性差別とはどんなものなのかを知らなくてはならない。』(P13)

「はじめに」で書いていた「中心的な命題」の、再確認である。
フェミニズムにとって「男性が敵なのではない」という認識は、基本的なものでありつつも、今もなお誤解されている部分であり、そのために、「フェミニズム」は運動としての力を損ねている。

なぜそうなるかといえば、ひとつには、北村紗衣のような「資本主義の婢女」である「えせフェミニスト」が、「フェミニスト」のなりすまして、見当違いな「男性」誹謗を行い、そのことで、男女の分断工作に邁進しているからである。
彼女ら「えせフェミニスト」は、現在の「資本主義」社会の中で「地位を得たい」のだから、男女の団結によって「フェミニズム」が力を持ち、今の社会を変えてしまったのでは、困るのである。平等な社会では、堂々と特権を得ることが出来ないからなのだ。

つまり、北村紗衣のような「えせフェミニスト」は、「フェミニズム」にとっての「獅子身中の虫」なのである。
「フェミニズム」に貼りついて、その生き血を吸って生きているのだから、「フェミニズムの(血を吸う)蛭」だと呼んでも良いだろう。

『(承前)フェミニズムに賛同する人ならわかっているだろうが、ほとんどの人は性差別とはどんなものなのかを(※ 具体的には)知らない。知っているという場合には、性差別は当然のことで別に問題ではないと思っている(※ つまり、なぜそれが差別なのかを、理解していない)。大多数の人が考えるフェミニズムとは、いつでもどこでもただひたすら男女を平等にしろという運動、といったところだろう。しかも、こうした人たちの圧倒的多数が、フェミニズムとは男性に反対するものと思っているのだ。フェミニズムへのこうした誤解は、ほとんどの人がフェミニズムについて何かを知るのは家父長主義的な(※ したがって、資本主義に資する)マスメディアを通してだ、という事実を反映している。人々がふつう、メディアでいちばんよく見聞きするフェミニズムとは、ジェンダーに関する平等を最優先に考えて行動している一一たとえば、同一労働に同一賃金を、とか、女性と男性で家事や育児を分担しょう、とかいった一一女性たちの姿だろう。こうした女性たちを見れば、だいたいが白人で裕福な層だ。』(P14)

まるで、北村紗衣のことではないか。
アメリカと日本との社会的な事情の違いはあれど、「差別的な資本主義というシステム」の中で成り上がろうとしているような「えせフェミニスト」というのは、ほとんど「男女の経済的な格差や差別」のことしか問題にしない。言い換えれば、「人種」や「階級」の問題には触れたがらない。それどころか、そこから人々の目をそらそうとさえする。
また、そういうものだからこそ、「資本主義に資するマスメディア」は、安心して、そういう「えせフェミニスト」を持て囃すのだ。

私が、北村紗衣に対して、

「なぜ、差別反対と唱えながら、男女差別か、せいぜいトランスジェンダー差別や黒人差別の話しかせず、日本で長らく問題となっている、部落差別(同和問題)在日朝鮮人差別、従軍慰安婦問題沖縄への米軍基地押しつけ問題などの差別問題について語らないのか」

という批判を繰り返し差し向け、それに対し、北村紗衣がご都合主義的に無視黙殺で応じるしかないのは、私が指摘するような各種の差別が「資本主義の生み出すもの」に他ならないからである。

「資本主義による構造的差別」を受け入れ、その中で成り上がろうとしている北村紗衣としては、そうした「資本主義によって産出される各種の差別」を、本気で批判するわけにはいかないためなのだ。

『(※ キリスト教国であるアメリカでは特に)たとえその家庭に男性がまったくいない場合でもそう(※ 家父長主義的)なのだ。フェミニズムとは反男性運動だという、フェミニズム運動についてのまちがった理解があるために、今度は逆に、家庭に男性がいなければ家父長主義も性差別も存在しえないという、まちがった思い込みがもたらされる。こういうふうに思っている女性はたくさんいる。フェミニズム運動に関わっている女性でさえ、こう思っていることがある。』(P15)

別に、こうした思い込みは、キリスト教国に限ったことではない。日本でだって「男性がいない家庭は、家父長制にはならない」と考える女性の方が多いはずだ。
だが、日本でも昔から、強い妻の尻に敷かれる夫という「かかあ天下」の家庭など、いくらでも存在しているし、「毒親」としての母親なども存在している。これらはわかりやすく「家父長制」なのだ。

また、「相方」がいるらしい北村紗衣の家庭だって、隠しているからわからないものの、「かかあ天下」であっても何ら不思議ではないと多くに人は考えているし、かえって「夫につき従う妻」なんてやってたら、「おまえ、それはないだろう」とツッコミのひとつも入れたくなる者は、少なくないはずである。

『(承前)たしかに、怒りをこめて男性支配に抗議した初期のフェミニズム運動には、「男は敵」といった雰囲気が多分にあった。女性解放運動を生み出すきっかけになったものは、男女の不平等や男性による女性差別への怒りだった。初期のフェミニズムの活動家(その多くは白人の女性だった)のほとんどは、階級闘争や反人種差別運動に参加した時、そうした運動のなかの男性たちが、得々として自由の大切さを語りながら、(※ しかし、その一方)運動のなかで女性を差別するのを見て、男性支配とはいかなるものかという(※ その根深に対する)意識を高めていった。社会主義運動に参加した白人女性にとっても、公民権運動や黒人解放運動に参加した黒人女性にとっても、先住民の権利のために闘ったネイティブ・アメリカンの女性にとっても、事態は同じ(※ それらの運動の中でも、男たちは女性を下位に置いたの)だった。はっきりしていたのは、リーダーは男性で、女性にはただ従うことだけが求められている、ということだった。自由を求めるラディカルな運動に参加した進歩的な女性たちは、そこで(※ より本質的な)抵抗と反逆の精神に目覚め、今日にいたる女性解放運動が始まった。』(P15)

つまり、「差別反対」を唱えている人であっても、自分の差別意識には、なかなか気づき得ないということであり、その事実は、男女を問わないのだ。

『 フェミニズム運動が進むにつれ、女性たちが悟るようになったのは、性差別的な意識や行動を支えている集団は男性だけではない一一女性もまた性差別的でありうる一一ということだった。そうなると、男性への敵視感情はもはやフェミニズム運動を支える意識ではなくなった。運動の焦点は、ジェンダーにおける公正さを求めることに移ったのである。』(P15〜16)

当然、こうなる。
なぜなら、「ジェンダーにおける公正さ」を阻害しているのは、男でもなければ女でもない、「差別を必要条件とする、資本主義というシステム」だったからだ。

『だが女性たちは、女性のなかにある性差別意識と向き合うことなしには、フェミニズムのさらなる発展に向かって団結することはできなかった。女性たちが互いに競争し足を引っ張り合うかぎり、女たちの連帯の絆であるシスターフッドは強い力を持てない。女性は、多かれ少なかれ男性支配の犠牲者であるという事実を自覚しさえすれば連帯できる、というような(※ 手前味噌に薄っぺらい、ご都合主義的な)シスターフッドの考え方(※ 捉え方)は、砂上の楼閣として、階級や人種をめぐる(※ 現実的でシビアな)討論によって打ち砕かれた。実は、階級的な違いについての議論は、フェミニズム運動の初期に、人種についての議論に先立って起こっている。一九七〇年代の半ば、ダイアナ・プレスは『階級とフェミニズム』という論文集を出版して女性間の階級格差についてラディカルな視点を提起した。(※ だからといって)この本は、「女の絆は強い」というフェミニズムの主張に難癖をつけているのではなく、女性は、他の女性を支配し搾取しているあり方一一セクシュアリティや階級や人種をとおして一一と対決する闘いによってのみ「シスター(※ 並列関係としての姉妹)」になりうる、ことを強調し、女性間の(※ 人種や階級などの)違いを乗り越える政治的な思想をつくりあげようとしているのである。』(P16)

北村紗衣なども、しばしば訳知り顔で使うことのある「シスターフッド」というもまた、『女性のなかにある性差別意識と向き合うことなしには、フェミニズムのさらなる発展』を阻害するものにしかならない、ということである。

北村紗衣の場合、「マンスプレイニング」「ワン・トリック・ポニー」だと、一般には聞きなれない言葉をやたら使いたがるが、この世間一般的には、この「シスターフッド」についても同様なのだ。
男性に対する偏見を持ったまままで「偏見を持った女性たち」が「シスターフッド」を掲げて団結したところで、そんな「えせシスターフッド」などでは、偏見や差別は無くならないというのは、わかりきった話なのである。

『(承前)黒人の女性たちは、フェミニズム運動の最初から参加してはいたが、フェミニズムの「スター」になったり、マスメディアの注目を集めるようなことはなかった。(※ そうではなく)フェミニズム運動に参加していた黒人女性には、革命的な思想の持ち主が多かった(白人のレズビアン・フェミニストがそうだったように)。そういう革命主義のフェミニストたちは、最初から、現存する制度の枠内での男性との平等だけを運動の目的にしようとした改良主義のフェミニスト(※ リベラル・フェミニスト)とは意見を異にしていた。人種の問題がフェミニストのあいだで議論になる以前から、黒人女性(や共に闘う革命主義のフェミニストたち)にとってはっきりしていたことは、現在の白人中心で資本主義的な家父長制社会の枠内での平等などありえない、ということだった。(※ だから、差別を前提とした資本主義社会下での「スター」になど、なれるわけもなかった)』(P16)

「差別的な資本主義」社会の下で、もともと相対的には恵まれていた「白人かつ中流階級以上の女性」たちは、「資本主義システム」の中で認められて「スター」になれたのだが、「差別的な資本主義」そのものを反抗にせざるを得ない、恵まれない黒人フェミニストたちは、「資本主義」に妥協することで、自分だけが「スター」になろうとするような「裏切り行為」など、とうてい選び得なかった、ということである。

そして、この「スター」になった「白人かつ中流階級以上の女性」に対応する、今の日本における代表的なフェミニストとは、言うまでもなく、北村紗衣である。
北村紗衣は、学者として三流であり、フェミニストとしては偽物であっても、「資本主義の婢女」である点については優等生だからこそ、「スター」という商品に祭り上げる価値もあったということなのだ。

『(承前)フェミニズム運動は初めから、いくつもの違った考えに分かれていた。改良主義のフェミニスト(※ 資本主義を容認し、その内部での改良だけを求めるに止まる、リベラルフェミニスト)は、男女の平等(※ だけを)を強調した。革命主義のフェミニストは、女性がもっと権利を手にできるように現在の(※ 資本主義)システムを(※ その内部に限定して)手直しするだけで満足するつもりはなかった。わたしたち革命主義のフェミニストが望んだことは、(※ 現行の、差別的な資本主義)システムそのものを変えることであり、(※ そのことによって)家父長制と性差別主義をなくすことだった。(※ しかしながら、当然のこととして)家父長主義(※ な資本主義に従属)的なマスメディアはこうした革命的なヴィジョンには関心がなかったから、こうした(※ 革命的な)フェミニズムが主流メディアの注目を浴びることはなかった。(※ そのせいで)一般の人々が思い描く「ウーマンリブ」の考えとは、「男性と同じものを欲しがる女性」に代表されるようなもの(※ でしかない)だろう。そして、こういう考え(※ 差別を温存する資本主義内部での、限定的な男女平等)は、比較的たやすく現実化するものでもあった。(※ なぜならば)不況や失業等々といったアメリカ経済の変化によって、職場では男性も女性も平等に働くべきだという考えを、(※ 資本主義的な)アメリカ国民が受け入れる機が熟したからである。』(P16〜17)

例えば「従軍慰安婦」問題に関わるようなフェミニストは、フェミニストとして注目されることはない。
マスコミに持て囃されるフェミニストとは、わかりやすく「男女平等のためのアフォーマティブアクション」とか「女性蔑視的広告批判」だとか「ダイバーシティ(多様性)の推進」などという「フェミニストっぽいことを口にしながら、資本主義そのものには逆らわない女性」たちばかりである。
まして、北村紗衣のように「男は敵だ」レベルの発言の他は、「ヘボ映画評」や「イギリス文化の紹介屋」みたいなことしかしないのなら、資本主義的に「何の害もないタレント」であるに過ぎない、のである。

『(承前)人種差別という現実があり、女性の働く権利を認めることが白人中心の社会を維持するために有益であるとき、白人男性が女性の権利を認めることにより熱心になるのは、よく考えればわかること(※ わかりやすい話)だ。わたしたち黒人女性は、白人女性が自らの自由を主張しはじめたのが公民権運動のあとだったこと、人種差別が終わり、黒人、とりわけ黒人男性が職場で白人男性と平等な権利を獲得しようとしていたまさにその時であったことを、忘れるわけにはいかない(※ つまり、黒人男性に白人男性並みの給料を支払わなければならなくなったから、男性ほどには給料を払わなくても良い女性を、労働力として活用しようとした、白人男性の支配層が、女性の労働的な解放に賛成したのは、いたって当然の帰結でしかない)。フェミニズム運動は始まった当初には、アメリカ社会が真に性差別的でなくなるために、(※ 小手先の)改良的な方法だけでなく(※ 資本主義的な)社会システム全体の構造改革をもめざしていたのに、職場での男女平等を最優先する改良主義の(※ リベラル)フェミニストは、そうした当初のラディカルな理想を押しのけて(※ フェミニズムにおける平等主義の、脚を引っ張って)しまった。』(P17〜18)

これは前にも論じたことだが、要は「男女平等」「女性の働く権利」の名の下に、資本主義が「女性の労働力」をさらに搾取したということである。
そして、「資本主義」を容認する「白人かつ中流階級以上の女性」が中心にいる「リバラルフェミニスト」が、そうした「女性の労働力の搾取」の「旗振り役」として加担した、ということである。

『(承前)ほとんどの女性たち、とりわけ経済的に恵まれた白人の女性たちは、現在の社会構造のなかで経済力を手にするやいなや、革命的なフェミニズムのヴィジョンについて考えることすらやめてしまった。皮肉なことに、革命的なフェミニズムのヴィジョンがもっとも受け入れられ、取り上げられたのは、(※ 最も非活動的な)大学などアカデミックな世界でだった。学問の世界では、革命的なフェミニズムの理論が生み出されたが、そうした理論が一般大衆に届くこと(※ そしてそれが行動に寄与すること)はほとんどなかった。それは、わたしたちのなかでも、インテリで高等教育を受け、そして多くは物質的にも恵まれた人間だけに届く特権的な言論でしかなかった(※ 実質的には、観念的な玩弄物にすぎなかった)のだ。わたしが書いた『フェミニズム理論一一周縁から中心へ』のような(※ 実践的な)本は、フェミニズムによる社会変革を訴えた進歩的なヴィジョンではあっても、世間の注目を浴びることはけっしてない。それは、人々がそこに書かれたメッセージを拒絶したからというのではなくて、そもそもそのメッセージがどんなものか、(※ どこにも届かないために)知ら(※ れもし)ないからなのだ。』(P18)

ベル・フックスの本より、北村紗衣の映画エッセイを含む雑文集の方が、圧倒的に読まれている。先に紹介した次のようなヘボ本のことだ。

『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』(書肆侃侃房→ちくま文庫)

『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード ジェンダー・フェミニズム批評入門』(文藝春秋)

これらの「通俗書」の方が売れるというのは、俗に媚びる資本主義社会においては、当然の結果である。

しかしながら、こんなクズ本にも「フェミニスト批評入門」だとか「ジェンダー・フェミニズム批評入門」などという「誤解を与える」サブタイトルをつけて、まともな「フェミニズム書」を読むことの絶えてない人たちまで「フェミニズム」を学んだ気にさせるのだから、これはとんだペテンであろう。
気休めの、薄っぺらい説教を「信じる者」は救われず、それ相応に搾取されるばかりなのだ。

『資本主義的な家父長制は、その利害からして、進歩的で洞察力にあふれたフェミニズム一一男性を敵視せず、女性が男性のようになる権利の獲得に夢中になるのでもないフェミニズム一一の思想をおさえつけたが、他方、改良主義の(※ リベラル)フェミニストたちも、こうした進歩的な勢力を黙らせることに熱心だった。改良主義の(※ リベラル)フェミニストたちは、階級的上昇志向を支持した。特権を持った女性たちは、職場での男性支配を打ち破り、自分自身のライフスタイルを自己決定するいっそうの権利を手に入れた。性差別はなくならなかったが、特権を持った女性たちは現在のシステム内で最大の自由を手にした。そして、搾取され抑圧された貧しい女性たちに、自分はやりたくない汚い仕事を押しつけることができた。(※ 自分たち成り上がった、リーン・インしたフェミニストたちは)労働者階級の女性や貧しい女性たちの抑圧(※ 差別)をよしとし、実際にはそれに手を貸すことで、特権を持った女性たちは、現在の家父長制やそれに伴う性差別と同盟を結んだ。のみならず、職場でも家庭でも、望むときにだけ男性と平等であるようなご都合主義的な生活を送る権利を手に入れたのだ。もしも特権を持った女性がレズビアンなら、職場では男性と平等で、一方、家庭では男性とほとんど、あるいはまったく接触することなく生活できるような(※ およそ一貫性など求められない)階級的な力(※ 特権)を行使しているといえるだろう。』(P18〜19)

まるで、武蔵大学テニュア教授」である北村紗衣か、その「オープンレター」仲間である「大学関係者」の話、そのままである。

『(承前)いわゆる「ライフスタイル・フェミニズム」は、政治(※ 問題)ではなくライフスタイルに焦点を移すことで、女性にもいろいろあるようにフェミニズムの理念もいろいろであってよい(※ 政治問題にまで関わらなくてもよい)、という考えを拡めた。あれよあれよという間に、フェミニズムからは(※ 差別を生む根源である)政治(※ への問題意識)がなくなった。そして、その女性の政治的信条がどうあれ、保守的であろうと進歩的であろうと、自分のライフスタイルにフェミニズムを合わせることができる、という(※ ご都合主義的な)考え方が幅をきかせだした。こうした考え方は、明らかに、フェミニズムをより受け入れやすい(※ お手軽な)ものにした。というのも、その根底にある思想とは、自分や文化を根本から問いなおしたり変革したりすることなしに、だれでもフェミニストになれる、というものだからである。(中略)加えて、「パワー・フェミニズム」などというものも(※ 反差別思想としてのフェミニズムからは)ありえない(※ ものである)。そこで言うパワーが、他人を搾取したり抑圧したりすることによって得られる権力のことであるなら、そうしたパワーとフェミニズムとは両立しないからだ。』(P19〜20)

まるで、日本における「第四波フェミニズム」の話でそのままである。
無論、その代表は、ここでも我らが北村紗衣だ。なにしろ、北村紗衣は、自身も認める「第四波フェミニズム」の申し子なのだから。

アメリカで言う「パワーフェミニズム」とは、日本でだと、北村紗衣には「Xのフォロワーが5万人余り」もいて、そのおかげで「フェンネル・オフェンス」力が異様に高く、その意味で「パワー」があると、そんなことにもなるだろうか。

『(承前)フェミニズムとは男性に反対するものだという、文化的につくられた心理に深く根ざした思い込みを変えなくてはならない。フェミニズムが反対しているのは(※ 男女を問わない)性差別なのだ。(※ したがって、みずから)男性の特権を脱ぎ捨て、フェミニズムを支持する男性たちは、大切な(※ フェミニズムの)闘いの同志であり、(※ 当然)フェミニズムにとって脅威でもなんでもない。(※ むしろ)性差別的な考えや行動と手を結んだまま、フェミニズム運動にもぐり込んでくる女性の方がずっと危険な脅威である。(※ したがって、男女を問わず)自分自身の内面化された性差別と対決し、家父長主義的な思想や行動に加担することをやめて、フェミニストになるべきだと促したことこそ、コンシャスネス・レイジング(※ という訓練)が行ったもっとも力強い問題提起だと確認(※ して、それを継続)すべきだ。(※ コンシャスネス・レイジングによる、自らをこそ問えという)こうした問題提起は今でも必要である。それ(※ コンシャスネス・レイジング)は今なお、フェミニズムを選ぼうとするだれにとっても必要なステップなのだ。外なる敵と対決する前に、わたしたちは内なる敵を変えなくてはならない。脅威なのは、そして敵なのは、性差別的な考え方であり行動なのだ。女性たちが、自分自身の性差別を問題にしそれを変えることなしにフェミニズムの旗を振りつづけるなら、フェミニズム運動は結局だめになってしまうだろう。』(P30)

そんなわけで、「フェミニズム」の力を削ぐことしかしていない「資本主義の婢女」である「えせフェミニスト」たる北村紗衣を、批判している私こそが、男性ではあっても、正統な「フェミニスト」なのである。

その事実は、私の「差別問題における広範な読書歴」としての「コンシャスネス・レイジング」に明らかだろう。
一方、北村紗衣が読んでいるのは、所詮「学問としてのフェミニズム」本が、逆に「フェミニズム映画」くらいが関の山で、極めて限定的なものでしかないのだ。

したがって、「リベラルフェミニスト」を批判するベル・フックスなら、私のことを真性の「フェミニスト」だ認めてくれるだろうし、北村紗衣のことを「えせフェミニスト」だと断じもするはずである。
残念ながら、日本にはブラック・フェミニストであるベル・フックスのように、名指しで「えせフェミニスト」を批判するようなフェミニストは、ほとんどいないのだから、それに比べれば、私の方がよほど、黒人フェミニスト的に率直なのだ。

『 保守的なマスメディアは、一貫して、フェミニストは男性を敵視していると宣伝してきた。そして、フェミニズム運動のなかに男性を敵と見なすような潮流や感情があると、マスメディアはそれを、フェミニズムをけなす(※ 世間への印象操作として、貶める)ためにことさら強調した。フェミニストは男性を敵視している、と描くことの背後には、フェミニストはみなレズビアンだという(※ 馬鹿馬鹿しいほどにあり得ない)思い込みがあった。(※ 世間の)同性愛を毛嫌いする(※ 差別)感情に訴えながら、マスメディアは、男性の反フェミニズム感情を煽った。フェミニズムの思想家たちは、フェミニズム運動が始まって十年もたつかたたないうちに、家父長主義が男性にとっても有害であることを語りはじめた。フェミニズムは、男性中心社会にたいする微底した批判の姿勢は変えずに、(※ かつ)その考えを広げて、家父長主義は男性からある種の権利(※ 例えば、男性はリーダーでなくてはならないとか、出世して人の上に立つべきであるとかいった、世の常識を拒否する自由)を奪い、性差別的な男(※ 家父長的な支配者)としてのアイデンティティを(※ 男性たちに)押しつけている、と認識するようになった。』(P109)

今の日本のマスコミは、資本主義に従属した「えせフェミニズム」の側に立つことで、かえって、男性の「フェミニズム嫌悪」を煽っていると、そうと言えるのかもしれない。
本来のフェミニズムをきちんと紹介していれば、その反動としての、ドナルド・トランプ式の「反動」だって、あそこまで盛り上がりはしなかっただろう。本来のフェミニズムは、「プアホワイトである男性の敵」などでは、決してないからである。

そして、これは日本においてもまったく同じである。
北村紗衣ら「えせフェミニスト」の跳梁跋扈によって、日本においても「フェミニズム」の評判は下落しており、そろそろその反動としての「フェミニスト批判」が、保守勢力を中心にして始まろうとしている。
なぜそうなったのかと言えば、それは「リベラル」の少なからぬ部分が、「えせフェミニズム」でしかない「リベラルフェミニスト」に従属した「えせリベラル」でしかなかったからで、所詮は「えせフェミニズム」でしかない今の日本の「第四波フェミニズム」を批判するのは、保守勢力しかいなかったためである。

しかし、私たちが勘違いしてはならないのは、保守勢力が批判しているのは、本来の「フェミニズム」ではなく、新自由主義資本主義」に迎合した「えせフェミニズム」に過ぎない、という事実である。
少しは知恵のある「保守」なら、それくらいの区別はついているはずで、だからこそ彼ら「保守」は、北村紗衣に代表される「オープンレター」に集ったような「えせフェミニスト」を、「キャンセル」を振り回す、およそ、その主張と行動に一貫性のない「差別者」として批判するのだ。

『(承前)(※ フェミニズムが、男性の当然の権利を奪おうとしていると考える男性とは、)家父長主義的な考え方、すなわち、力のある者は力のない者を支配する権利があり、そのためにどんな手段でも使えるとする(※ 差別的な)支配の論理を内面化して社会の一員となるから(※ 無自覚に差別的)なのである。白人至上主義的で資本主義的で家父長主義的な権力関係においては、男性が女性を支配することが許されている。そして、同じように許されているのが、大人による子どもの支配なのだ。しかも、子どもを虐待する母親については、(※ フェミニストの)だれも問題にしようとしたがらないのである。』(P118〜119)

大人の男性ならば「抗弁できる」が、子供の場合は大人に対して「抗弁できない」ために、子供を抑圧する母親の存在は隠蔽されてしまう。
しかしながら、そうした母親もまた『家父長主義的な考え方、すなわち、力のある者は力のない者を支配する権利があり、そのためにどんな手段でも使えるとする(※ 差別的な)支配の論理を内面化して』いるのだ。
「家父長制」が、「男性限定の問題ではない」というのは、そういうことなのである。

『 ラディカルで革命的なフェミニストのヴィジョンは、フェミニズム運動が発展するにつれて、よりはっきりと多岐にわたるものになっていった。だが、変化を現存する社会秩序の枠内に止めておこうとする改良主義の(※ リベラル)フェミニストが運動を牛耳った結果、こうした進歩的なヴィジョンは片隅に追いやられることが多かった。改良主義の(※ リベラル)フェミニストのなかには、特権階級の男性との平等を獲得すべく、ジェンダーにもとづく経済的格差をなくすことだけに熱意を注ぐ者もいたが、その多くは、女性たちのエネルギーを(※ 現状内)改革の方向に集中させることで、女性たちの生活に関わる具体的な変化をもたらせると考えていただけだった。しかし、運動は結局、フェミニズムのラディカルな心臓部を捨て去り、それによって、社会の中心をなす資本主義的な家父長制に取り込まれる余地を強めてしまった。
 現存する社会秩序のなかでの進出をなしとげる(※ リーン・インする)やいなや、(※ そうした)女性(※ リベラルフェミニスト)たちの多くは、階級的な権力や上昇志向に心を奪われ、システムそのものを突き崩すことに関心をもつ女性はほんの少数になってしまった。そのころ、キャロル・ギリガンのような思想家をはじめとする(※ リベラル)フェミニストたちは、女性は男性より思いやりが深く倫理的なのだ(※ だから、社会的な地位を得ても、差別的になることはなく、ひきつづき差別解消のために尽力するだろう)と繰り返し言っていたが、女性たちが自分より力のない女性にたいしてどう振る舞ったかの現実(※ つまり、差別的に振る舞ったという現実)を見れば、そんな(※ キャロル・ギリガンが言ったような「女性は男性より思いやりが深く倫理的」だなんて)ことはないと(※ いうのが、ハッキリと)わかる。自分が属していると思う民族的、人種的な集団のなかで女性たちが見せる思いやりの精神は、(※ そうした)共感や一体感や連帯感を感じない(※ 別人種・別階級の)人たちにまで拡大されることは(※ 男女ともにあり得)ない。特権をもった女性たち(そのほとんどは白人だが、白人だけとは限らない)はまたたく間に、自分たちの利益のために、労働者階級の女性や貧しい女性をこれまでのように下に置(※ いて、そのままの差別状態に放置してお)こうと決めたのだった。』(P171〜172)

まさに、北村紗衣その人のことである。
自分さえ成り上がれば、まだ差別されている人たちのことなど、どうでもいいのであり、ただ、たまにアリバイ工作的に「男は敵だ」と言っておれば、それだけで、まだ「被害者(被差別者・マイノリティ)」の側に立っていられるのである。

『フェミニズムとは、性差別をなくし性差別的な支配や抑圧をなくす運動であり、そこには、ジェンダーによる差別をなくして平等を創りだすことが含まれる。ということは、それは本質的にラディカルな運動なのだ。
 フェミニズムとは本来ラディカルなものなのだ、ということについて混乱が起こったのは、フェミニズムの活動家たちが、あらゆる性差別的な現実に異議を申し立てることをやめ、(※ 資本主義体制内での)改良ばかりをめざすようになったからである。地位と階級的特権を追い求める保守的または自由主義(※ リベラル)的な政治主張を持った女性(※ フェミニスト)たちは、「フェミニズムにもいろいろある」という考えを推し進めることで(※ 個人的な)利益を得た。
(中略)
 階級的特権に寄生して富と権力を追い求めたとき、女性(※ フェミニスト)たちは、貧しい女性や労働者階級の女性たちの利害を裏切ることになった。かつてはフェミニズムの考えを支持した女性が、今では、福祉切り捨ての公共政策を支持している。しかも、そういう立場に何の矛盾も感じていない。そういう女性(※ フェミニスト)たちは、フェミニズムに自分名義のブランドをつけている(※ だけな)のだ。フェミニズムが単なるライフスタイルや商品であるかのように語られることは、それだけで、フェミニズムの政治的な重要性を覆い隠してしまう。今日では多くの女性たちが、権利は欲しいがフェミニズムはいらないと言っている。そういう女性たちは、公的な場での平等は望んでも、私的な場では家父長主義的なシステムのままでいい(※ 父親や夫や彼氏に従属的な立場のままでいい)と思っている。だが、心あるフェミニストにとって、最初からわかっていたのは、家父長主義との共謀は、たとえそれがフェミニズム運動のある面(たとえば、女性が働くことの要求)にたいする家父長主義の支持と手を結ぶことであっても、女性を攻撃にさらされやすくする、という(※ 負の側面を併せ持つという)ことである。そうした権利が獲得されたとしても、もしわたしたちの生活を形づくっている(※ 資本主義)システムが基本的に変わらなければ、そうした(※ システム内で容認された)権利は簡単に(※ システムによって)奪われてしまう。そういうことが起こるのを、わたしたちは性と生殖に関する権利の領域、とりわけ中絶の権利をめぐって、近頃目の当たりにしているのである。家父長制の枠内で権利が与えられることは(※ そうした)危険をはらんでいる。というのは、女性たちはそれ(※ 体制内でささやかな権利が与えられること)によって、(※ そんな)現実を過大評価し、支配の構造が変わりつつあるのだと思って(※ 思い違いをして)しまいがちだからだ。実際には、多くの女性たちが(※ システム内でのささやかな権利を得る与えられることに満足して)フェミニズムから去っていくにつれ、こうした支配の構造は(※ フェミニズムの重石が取れて、差別が)最強化されている。』(P175〜176)

「女性の地位向上」が叫ばれ、実際に「社会的に地位」を得た女性が多少増えたとしても、それで「すべての女性」の地位が向上したことにはならないし、それにはつながらない。

それどころか「男と同じ地位を得たのだから、男と同じだけ働け。それが出来ないのなら、雇用条件が低くなるのは当然だ」ということになるだろう。
事実、そうなっているのが今の日本であり、それで喜んでいるのは「一部の資本家」なのである。

したがって、「フェミニズム」が目指すべきは、小手先の「女性の地位向上」などではなく、「差別の上でのみ成り立つ資本主義システム」との対決という、ラディカルな話にしかならない。
それ以外は、既得権益を持つ者のためにしかならない、耳障りのよう誤魔化しなのである。

『 未来を開くラディカルなフェミニズムは、わたしたちみんなに、ジェンダーと人種と階級の立場から勇気をもって生活を見直すことを奨励する。そうすれば、帝国主義的で白人至上主義的で資本主義的な家父長制のなかで、自分がどのような位置にいるかはっきりわかるだろう。長いあいだ、多くのフェミニストたちは、ジェンダーのみが自分の位置を決める要素だというまちがった思い込みにしがみついていた。(※ ジェンダー差別だけを問題にし)他の要素を否定する、こうした態度を克服して前進したことは、フェミニズムの決定的な転換点だった。それによって女性たちは、女性運動がつくられるにあたって人種や階級をめぐる偏見が存在し、それゆえに運動が広く大衆の支持を集めるものにならなかったのを直視することができたのである。』(P 178)

今も女性の大半は『ジェンダーのみが自分の位置を決める要素だというまちがった思い込みにしがみついて』いる。

北村紗衣のように『他の(※ 差別的)要素を否定する』する態度を、女性たちの多くが克服できなかったために、女性たちは、この「資本主義」社会の中で、自ずと「差別されている」のである。
「差別」を容認するシステムを容認すれば、ごく少数の「差別をする側」に回らないかぎり、その他の大半が「差別される側」になるしかないというのは、理の当然なのだ。

『(承前)わたしたちは今こそ、フェミニズムの再生へ乗り出すことができる。反フェミニズム的な反動が存在するのは、家父長主義が女性と男性の幸福を脅かしていることを示すのに、フェミニズムが成功したからである。もしフェミニズムが、性差別や男性支配がつづくことの危険性を真に提起していなかったら、運動は失敗していただろうし、そうすれば、反フェミニズム・キャンペーンの必要もなかったはずだ。家父長主義的なマスメディアは今も、女性学の教室では男性は歓迎されないという嘘を流しつづけているが、本当のところ、フェミニズムについて学び、フェミニズムを支持する男性はずっと増えている。フェミニズム運動におけるこうした重要な変化が、家父長主義をいっそう脅かしているのだ。すでに述べたように、運動が女性だけを問題にしていたら、家父長主義的な現実は変わらなかっただろうし、激しいフェミニズム叩きの必要もなかったはずなのだ。
 家父長主義的なマスメディアや性差別的な社会のリーダーたちが、フェミニズム運動はもう終わった、フェミニズムにはもう存在意義がない、と繰り返し言うのを、わたしたちは耳にタコができるほど聞かされている。実際には、あらゆる年齢の女性と男性が、あらゆるところでジェンダーの不平等を問題にしつづけ、自分たちを縛って不自由にするのでなくもっと自由にするような役割を、探しつづけている。そして、その答えを求めて、今なおフェミニズムに近づいてくるのだ。未来を開くフェミニズムが提供するのは、未来への希望である。相互の思いやりと助け合いの倫理を強調することによって、フェミニズムは、不平等の結果もたらされた現実を変え、支配をなくす方法をわたしたちに教えてくれる。相互の思いやりが当然であるような世界でも、すべての人が平等でないときもあるだろう。だがそこでは、そうした不平等の結果が、従属や植民地化や非人間化につながることはない。』(P179〜181)

ここでのベル・フックスの言い方は、いささか逆説的であり、そのため少々わかりにくいものになっているのだが、彼女が言いたいのは、次のようなことだ。

たとえ今、フェミニズムが逆風にさらされていようと、「えせフェミニスト」を使ってまで「フェミニズム」つぶしが行われようと、それでもそれは、「フェミニズム」が総体としては、この世界の「差別的な欺瞞」を暴き、それに抵抗して、一定の成果を現に上げてきたからこそなのだ。そうした実績と力を無視できないからこそ、それを潰そうという動きも、絶えず出てくるのである。
ファミニズムが無けれえば、支配者たちは思うがままにその差別的なシステムを行使することが出来ただろうが、それを許さなかったのが、フェミニズムなのだ。
だから、今後も、そう簡単にはいかないとしても、本当の意味での「社会的な平等」を私たちが求めるかぎり、フェミニズムの火が消えることは、決してないのだ。

一一と、そういうことなのだ。

ここまで、読んでくれば、日本人の多くが「フェミニズム」だと思い込まされているものが、決して「フェミニズム」ではなかったということが、理解できたはずだ。

ベル・フックスが言うとおり、「フェミニズム」とは、「女性の権利獲得のためのもの」でもなければ「男性を敵視するもの」でもない、そうではなく「すべての人の平等と幸福のため」に、私たち自身の中にもある「差別」、物質的な豊かさのためには他人を犠牲にしてもかまわないという「差別的なシステムたる資本主義の容認」という「悪しき欲望」と直面して、それと闘い続けていくことを、真の「フェミニズム」と呼ぶのである。


(2025年5月3日)


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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)


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