ヴァージニア・ウルフ 『灯台へ』 : 女性的な女性作家と フェミニズムと ブルーハーツの距離
書評:ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』(新潮文庫)
私が最初に、ヴァージニア・ウルフの名を小説家のそれとして意識したのは、ザ・ブルーハーツ(THE BLUE HEARTS)の曲「手紙」(作詞作曲:真島昌利)の歌詞によってであった。その冒頭で、ウルフの名前が次のように登場する。
ヴァージニア・ウルフの メノウのボタン
セロファンのバスの シートに揺れている
(「Uta-Net」より)
見てのとおり、ここに描かれているのは、一種の「心象風景」であって、具体的なものではない。
したがって、『ヴァージニア・ウルフのメノウのボタン』というのが「何を意味しているのか(象徴しているのか)?」という点についても、これだけでは何もわからなかった。しかしまた、わからなかったからこそ、逆に「ヴァージニア・ウルフ」という名前が、強く印象に残りもしたのであろう。
それまでの私は、ヴァージニア・ウルフと聞いても、「ヴァージニア」というと「アメリカの州の名称」しか浮かばなかったし、「ウルフ」といえばもちろん「狼」であり、せいぜい「千代の富士」が思い浮かぶぐらいだったから、ヴァージニア・ウルフの性別さえ、定かではなかった。
ヴァージニア・ウルフが「女性作家」であると知ってからも、私はもともと「女性作家」の作品は「合わない」ことが多いので、特に興味を持つことはなかった。
読みたい作家はいくらでもいるのだから、いくら有名でも、興味のない作家までは手が回らない。
日本の国語の教科書に載っているような作家でさえ、すべて読んでいるわけでもないのに、興味の持てない「イギリスの女性作家」を読む理由など、私には無かったからである。
しかし、そんな私がどうして、今回ウルフを読む気になったのかというと、それは「フェミニズム」とのからみであった。
フェミニストたちが、しばしばウルフに言及するという事実に、私は最近になって気づいた。ウルフは「フェミニズム」を考える上で、重要な作家だということなのだろう。
そこで私は、「武蔵大学教授」で自称フェミニストの北村紗衣に対する報復的な批判のために始めた「フェミニズム」の勉強の一環として、ヴァージニア・ウルフも1冊くらいは読んでおこうと、今回はその代表作の『灯台へ』を読むことにしたのだ。
私の批判する(私に喧嘩を売ってきた)北村紗衣は、自称「シェイクスピアの研究家」である。まあ、それは事実であろう。
だが、北村紗衣のドクター論文を元にした主著『シェイクスピア劇を楽しんだ女たち 近世の観劇と読書』(白水社)を読んでみると、そのサブタイトル「近世の観劇と読書」からも分かるとおり、同書は「シェイクスピアの文学」を論じた「文学論(作家論)」ではなく、「シェイクスピアの作品が、当時のイギリス社会で(特に女性に)どのように需要され消費されたのか」といったことを研究した、言うなれば「(フェミニズム)文化社会論」的な書物であることがわかる。
要は、「シェイクスピアその人やその文学」を研究したのではなく、それを「楽しんだ人たち(消費者)」の方を研究していただけなのだが、それでも一応は「シェイクスピアの研究家」と名乗れるのである。
しかしながら、まただからこそ、北村紗衣の肩書きは、「英文学」(研究)者ではなく、「英語英米文化」学科の教授、ということになってもいるのである。
で、他の著作を読んでみると、なるほど北村紗衣が、「文学オンチ」だというのがよくわかる。
この「文学オンチ」という点については、その傍証として、ご当人がエッセイの中で「最近、発達障害だと診断された。そのせいで子供の頃から他人の気持ちに鈍感であったのか、私はいじめに遭うことが多かった」という趣旨のことを書いている事実を指摘できる。つまり、可哀想だが「他人の気持ちに鈍感」なのであれば、「文学」に向いていないというのも、おのずと明らかなのだ。
だから、北村紗衣が、シェイクスピア文学の研究を避けて、その周辺の文化を研究したというのは、誠に正しい判断だったと言えるのである。
とは言え、いちおうは(まぎらわしくも)「シェイクスピアの研究家」を名乗り、「英語英米文化」科の教授を名乗り、フェミニストを名乗って「フェミニズム」を語ったりもするのだから、北村紗衣だって、さすがにヴァージニア・ウルフを読んでいないということはなかろう。
それでは、「日本文学が好きです」と言いながら、夏目漱石を読んだことがない人と大差がないからである。
北村紗衣は、「腐女子」出身のオタク(著書の記述によると、本人は「ギーク」と呼んでほしいらしい。一一どこぞのロリコン伯爵かよ)だから、実のところ「国語の教科書に載っているような、日本の明治・大正・昭和の文学」を「ほとんど読んでいないようだ」というのは、日本文学研究家の小谷野敦や日本文学が好きな私の、すでに指摘しているところだ。
『(※ 北村紗衣著『批評の教室』には)日本の作品が少なすぎる。シェイクスピアと英文学少し、あとは最近の映画ズラーってのは若い読者にはいいのかしれんが。なお(※ 志賀直哉の小説)「クローディアスの日記」におけるおかしな点は、榊敦子が論文に書いていたので先行研究をあげておくべきだったろう。』
(北村紗衣『批評の教室』に対する、文学研究家・小谷野敦による、Amazonカスタマーレビューより)

だが、さすがに「イギリスの文学は、それなりに詳しいです」というような顔をしている北村紗衣教授ならば、「フェミニズム文学」の側面から言及されることも多い、ヴァージニア・ウルフを「読んだこともない」では済まされない(赤っ恥な)ので、読むだけは読んでいるはずである。
たとえ、その「文学」を、まったく理解できなかったとしてもだ。
北村紗衣の目ぼしい著書はすでに読んでおり、にもかかわらず、北村紗衣がヴァージニア・ウルフに言及していた箇所があったのか無かったのかまでは思い出せない私なのだが、たぶんそれは、記憶するに値するほどのことを北村紗衣が書いていなかったからだろうと思う。
まただからこそ、言及があったか無かったかをわざわざ確認することもしないのだが、もしも、北村紗衣がヴァージニア・ウルフについて(パクリではなく、独自に)「面白いこと書いている」というのであれば、是非ともお知らせいただきたいものである。そうすればそれも、きっちりと「膾に切り刻んで」調理して差し上げたい。せっかく、私もウルフを読んだのだから。
さて、ここで話を「ザ・ブルーハーツ」に戻そう。
熱心なファンというほどでもないのだが、私はブルーハーツの曲がけっこう好きで、昔はカラオケでよく歌ったものである。だから、上の「手紙」の歌詞におけるヴァージニア・ウルフの名前も、おのずと記憶することになった。
しかしながら、それだけでは、この歌詞における『ヴァージニア・ウルフのメノウのボタン』が、何を示唆あるいは象徴したものなのかは、さっぱりわからなかった。
ところがその後、ブルーハーツに関する長編評論が刊行されているのを知って、これを読んでみた。
陣野俊史の『ザ・ブルーハーツ ドブネズミの伝説』(2020年・河出書房新社)である。
ところが同書は、読み始めてすぐに「ひどい」としか言いようのないシロモノであることが判った。
なにしろ読む進めるのが苦痛でならないほどのものだったので、読了後に書いたレビューも、おのずと辛辣を極めたものとなった。こんな具合である。
『本書は、音楽評論ではなく、ザ・ブルーハーツ(以下「ブルーハーツ」と略記)の楽曲の歌詞を「文芸批評」の形式で論じた、半評伝的な長編評論となっている。
これは著者が「文芸評論家」だからなのだが、端的に言って、本書は「文芸評論」として駄作であり、著者の文芸評論家としての力量も二流だと断じて良いだろう。したがって、本書は読むに値する作品ではなく、その理由をくどくどと書く価値さえないのだが、理由を示さないで完全否定するのは、さすが著者に申し訳ないので、その理由を簡記した上で、ブルーハーツについての私見を述べたいと思う。
本書著者の「文芸評論家」としてのつまらなさは、おおむね次の3点にまとめられよう。
(1)分析の凡庸陳腐さ
(2)もったいぶった言い回しと、無駄なペダントリー(衒学)
(3)批評家としての覚悟のなさ
(1)については、例えば「リンダリンダ」(作詞・甲本ヒロト)を象徴する「ドブネズミの美しさ」とは、いったい何を意味するのかという、著者自ら掲げた「設問」の回答が、(さんざ持って回ったあげくに)結局は「甲本の実体験に基づく、本物のドブネズミに対するリアルな美的実感だろう」という、何のひねりもないところに落とし込まれてしまったり、「手紙」(作詞・真島昌利)に登場する「ヴァージニア・ウルフのメノウのボタン」とは何なのかという設問については「ウルフの全集を読んでみたが、結局、瑪瑙が一度だけ登場するけれども、それでこの歌詞の謎が明確に解けたわけではない」といった締まらないオチになったり、といったことである。つまり、結論としては何の解明もなく、わざわざ分析してもらうまでもない「当たり前の話」にしかなっていないのだ。
言うまでもなく、「文芸批評」とは「解釈」であり、それは「絶対客観的な正解」を提示しうるものではない。あくまでも、作品と評者の対決において見出される「秘められた可能性の説得力」でなければならない。ところが、本書著者には、そうした能力が皆無なのだ。』
しかし、上のレビューの眼目は、同書が「ひどい」という評価にあるのではなく、ブルーハーツが解散するに至る「宗教問題」の方にあるので、そちらに興味のある人は、ぜひ拙レビューを読んでほしいと思う。
また、ブルーハーツ絡みということでは、「安倍晋三元首相殺害事件」の容疑者・山上徹也をモデルとした映画『REVOLUTION+1』 (2022年・足立正生監督)を論じたレビューもあるので、こちらも興味が持てれば読んでほしい。この映画では、主人公がブルーハーツの曲を歌うシーンがあるのだ。
無論これは、山上徹也がブルーハーツのファンだったということではなく、あくまでも「フィクション」における演出なのだが、「足立監督は、どうして主人公にブルーハーツを歌わせたのか?」というところに、私は興味を持ったのである。
閑話休題。
私はどうして、ヴァージニア・ウルフの代表作『灯台へ』のレビューである本稿において、長々と「ザ・ブルーハーツ」のことを書いたのかというと、それはブルーハーツの曲「手紙」の歌詞にある『ヴァージニア・ウルフのメノウのボタン』が、何を意味するものなのか、一一それがわかったからなのだ。
上に紹介した長編評価に書かれていたとおり、著者の陣野俊史が、ヴァージニア・ウルフの全集を読んでまで、解明できなかった謎が、本書(新潮文庫版『灯台へ』)を読むことだけで、比較的あっさりと解けてしまったのである。

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翻訳家・エッセイスト・文芸評論家として知られる「鴻巣友季子」の翻訳になる、この新訳の新潮文庫版『灯台へ』には、鴻巣による懇切な「訳者あとがき」と、小説家・津村記久子の「解説」がついている。
ここで、特に紹介しておきたいのは、36ページに及ぶ、鴻巣による「訳者あとがき」の方で、それは、
Ⅰ 新しい文体、新しい小説
Ⅱ ヴァージニア・ウルフの生涯
の二部構成になっており、初めてウルフを読む読者には、とてもありがたいウルフ紹介となっている。
それは、ここを読むだけでも「知ったかぶりのレビュー」くらいなら楽に書けるだろうほど充実したもので、事実、Amazonのカスタマーレビューには、その手のものが散見できる。
無論、私のように、同じ「訳者あとがき」を読んだ者にはその手のうちが見え透いてしまうのだから、子供の「夏休みの宿題」でもあるまいし、そういうみっともないことはしない方が良いと、いらぬお節介を焼いておこう。
また、いくら鴻巣の「訳者あとがき」が懇切なものだとしても、ヴァージニア・ウルフ文学の「特性」を解説した「 Ⅰ 新しい文体、新しい小説」の方は、そう簡単に理解できるものではない。
なぜなら、そもそも「古い文体、古い小説」というものをある程度知っていなければ、ウルフの小説がどうして「新しい文体、新しい小説」なのかということを、実感を伴って理解することは困難だからである。
この「訳者あとがき」にも書かれているとおり、ウルフは「特異な文体」の持ち主であり、それゆえに一般には「難解」だとされている作家である。
だから、「古い文体、古い小説」ことをよく知らない、そう言われてもピンと来ない読者には、ウルフの「文体」が「新しい(という話だそうだ)」と考えることはできても、その「新しさの意味(価値)」を実感を持って理解することなどできはしない。
端的に言えば、今どきの「リーダビリティが高い」ことが「文章がうまい」「優れたライティングだ」つまり、そうしたことにこそ「価値がある」と思っているような、またその手の小説ばかり好んで読んでいるような読者には、ヴァージニア・ウルフの「難解だが新しい文体」の魅力など、説明されたって、わかるわけがないのである。
それでも彼らが本作『灯台へ』を褒めるのは、有名作家の有名作品で、有名解説者が褒めているから「すごいのだろう」とそう思って、いわば(習性的に)調子を合わせているだけなのである。一一だが、そんなものは「理解」とは言わないのだ。
ちなみに、私の個人的な感想を言えば、ヴァージニア・ウルフは「好みではない」。
正確には、本書『灯台へ』は、ということなのだが、たぶん他の作品を読んでも、その「意図は面白い」とは感じても、「好みの作家・作品」だと考えることはなかろうとは、容易にわかる。一一なぜか?
それは、ウルフが、小説での「描写」における「論理的構築性」の価値を、否定しているからだ。
ウルフは、それまでの小説について、エッセイ「現代小説論」の中で、次のように書いている。
『書き手が奴隷ではなく、自由な人間であるなら、「書くべきこと」ではなく「自ら選んだこと」を書くべきであろうし、約束事にとらわれず己が感じるものを作品の土台にできる人なら、型通りのプロットや悲劇喜劇、恋愛沙汰、大詰めの場面などが顔を出す事はなくなるはずである。』
(P388・本書「訳者あとがき」より孫引き)
つまり、ウルフは「小説」の「お約束」に縛られた、常識的な書き方に反対していたのだ。
だから、現代日本のエンタメ小説(つまり、型にハマった小説)しか読んでいないような読者には、ウルフが「何が言いたいのか書きたいのか」がわからないし「なんでわざわざ、こんなに読みにくい書き方をするの?」となり、「難解だ」という評価になるのも、理の当然なのである。
したがって、ここまでなら私もウルフに賛成なのだが、この先において、かなり立場が異なってくる。
「型通りの小説」であることを否定したウルフは、では一体なにを書きたかったのか?
それは、ひとことで言えば「リアルな人間」である。
ウルフの考えでは、「リアルな人間」を描くためには、「リアルな人間心理」を描かなくてはならないし、「リアルな人間心理」を描くためには、「リアルな人間の思考」を描かなくてはならない。
だが、それまでの「古い文体、古い小説」は、人間の思考の「煩瑣なリアルさ」を避けて、「整理された思考・心理・内面性」を描いてきたから「わかりやすかった」し「楽しみやすかった」のだが、ウルフに言わせれば、所詮それは、「本物の人間心理を描いてはいない」ということにしかならないのである。
つまり、ウルフがやりたかったのは「わかりやすくて楽しめる小説」を書くことではなく、「深くリアルな人間」を描くこと、「人間の生というものを深く味わうことのできる、リアルな小説」を書くこと、なのだ。
したがって、これも平たく言うならば、彼女は、わかりやすい「娯楽小説」が書きたいのではなく、「文学」が書きたかったのだ。
だから、「文学作品」と「娯楽小説」の区別もつかない読者には、おのずと「難解」だということになったのである。
では、ウルフは、どのようにして「リアルな思考・心理・内面性」を書こうとしたのか?
それは、真っ正直に「リアルな思考・心理・内面性」を書く(再現する)努力をすることであった。
「思考・心理・内面性」というものを、「読者ファースト」で分かりやすく書くとか、「リーダビリティを重視する」とかいった、読者に媚びた書き方ではなく、あくまでも全力を尽くして「リアルな思考・心理・内面性」を、文章に移そうとしたのである。
言い換えれば、これは、読者のための「論理的な整理を施した説明のための(人工的)描写」というものを排除した、ということだ。
その結果、ウルフの文学は、「意識の流れ」文学の一種であると考えられるようになった。
「意識の流れ」文学とは、一時期流行った文学潮流のひとつだが、その特徴は、その名のとおりで「意識の流れ」のままの「描写」がなされる、という点である。

リアルな「意識の流れ」とは、要は「論理的」なものではないのだ。
人が普段行っている「思考」とは、「主観と客観」「現在と過去(記憶)」が複雑に入り混じったものなのだが、それで当人は何の不都合も感じないので、私たちは普段そのことを、ほとんど意識することがない。
ところが、「自分の考え」を他人に伝えようとした際には、自分が頭の中で考えていたことを「そのまま」語るわけにはいかない。なぜなら「主観と客観」「現在と過去(記憶)」が複雑に入り混じったものを「そのまま」話されても、他人には理解不能だからである。
喩えて言えば、それは「統合失調的な言葉」でしかないのである。
だから私たちは、「自分の考え」を他人に伝えようとする際には、(無意識的にではあれ)その「考え」をいったん分解して「論理的に再構築」することになる。
当然その場合には、「枝葉」として切り捨てられる情報が山ほど出てくるわけだが、他人に「自分の考え」の「主旨」を伝えるためには、そうした「枝葉の切り捨てと、主旨に沿った思考内容の整理的な再構築」は、どうしても必要なことなのだ。
例えば、「自分の考え」を他人に説明するのが下手な人、話が「要領を得ない」人というのは、この「枝葉の切り捨てと、主旨に沿った思考の整理的な再構築」というのが苦手なのだ。
自分の考えていたことを「細大もらさず」に語ろうとするから、話がこんがらがって「要領を得ない」ということになってしまうのである。
そして、これは「小説」においても同じことなのだ。
「人間の思考や心理」を「リアルに描く」ことは、厳密にいうなら、本来は「不可能」事である。
なぜなら、人間の「思考」というものは「言葉」だけで出来ているのではなく、そこには「映像イメージ」なども含まれているからで、それを「言葉に移す」のには、おのずと限界があるためだ。
人間の「思考」とは、単に「主観と客観」「現在と過去(記憶)」が複雑に入り混じっているだけではなく、言葉に由来する「論理」のほかに「イメージ」や「直感的なもの(雰囲気)」などが複雑に絡み合ったものなのだ。一一だから、そうした「人間の心理」を「そのまま文章に移す(言語化する)」のは、「原理的に不可能」なのである。
そのため、多くの作家は「人間のリアルな心理」というものを、いったんは分解し、「その主旨に沿って再構成」することで、他者である「読者(あるいは聞き手)」に伝わるように「書き換える(語る)」のだ。
だが、「意識の流れ」派の作家は、そうした「整理」が、「不自然」であり「嘘(虚構)」でしかなく、その意味で「人間をそのまま描こうとしていない(描く努力を避けている)」と考えて、「人間の物の認識の仕方や思考」を「意識の流れ」に沿って「可能なかぎり」リアルに描こうとしたのである。
で、ヴァージニア・ウルフの考え方も基本的には、この「意識の流れ」派と同じだったのだが、しかし、彼らとウルフのどこが違ったのかというと、「意識の流れ」派というのは、基本的に「文学表現」における「前衛」であり「新しい方法論」として「意識の流れ」を用いた人たちなのである。これまでは出来なかったことをやろうとしていた人たちなのだ。
だが、ウルフの場合には、むしろ「前衛」であるとか「方法論」的であることが好きではなかった。
彼女の場合は、あくまでも「生活実感に即した表現」を求めたため、「方法的な心理の整理整頓(論理化)」という近代理性主義的な、形式論理性重視や伝達効率性重視的な書き方に、反発したのである。
だから、ウルフと「意識の流れ」派とは、「わかりにくい文体」であるという点では似ていたけれども、そうした「手法」によって書かれたことの「内容」は、おのずと大きく違っていた。
ウルフが書きたかったのは、特別に先鋭な人間の心理なのではなく、「当たり前の人間の心理」であり、ウルフはそうした「当たり前の人々」を愛していたのだ。そして、その「当たり前」が、本来「複雑」なものであったから、その「当たり前の複雑さ」を「そのまま」描こうとしたのである。

したがって、本作『灯台へ』も、「ストーリー」としては、それほど複雑なものではないし、哲学的なテーマが語られるわけでもない。
「ある一家のお話」と言ってしまえばそれだけのものでしかないというのは、「訳者あとがき」でも、津村記久子の「解説」でも指摘されるとおりであり、私も、そんな作品の「あらすじ紹介」を、ここで繰り返すようなことはしない。
本作『灯台へ』は、基本的には「物語的なイベントを、ほとんど持たない家族の物語」なのだ。
ただし、まったく「仕掛け」的なものが無いのかというと、そうではなく、読者が本書をいささか退屈しながら読んでいくと、ある時点で「えっ!」と驚かされることになるはずだ(「あっ!」ではない)。
しかしそれは、「ミステリー小説」における「どんでん返し」的なものではなく、ごく自然な、ある出来事の提示でしかないのだが、読者はそれまでの「物語の調子」に慣れてしまっているため、よもやそんな展開が待っているとは思いもせず、意表をつかれることになるのである。
だがまた、そこで描かれる「意表をつく展開」とは、誰もが一生のうちで何度か経験する類いの「当たり前のもの」でしかない。
ウルフは、読者を驚かせたくて、殊更な「仕掛け」を施したのではなく、「リアルな人生」を描くために、それをしたのだ。
だからそれは、「ミステリー小説」的な「構築的虚構」とは、真逆の狙いに立つものだと考えるべきなのである。
一一さて、ここまで書いてきたことを簡単にまとめると、こうなる。
ヴァージニア・ウルフという作家は、「当たり前な人間」や「身近な人間の人生」をリアルに描きたいと考えて、それまでの「整理された説明的な文体」を否定して、「主観と客観」「現在と過去(記憶)」などの要素が錯綜した「複雑極まりない文体」を編み出した。
これが、「新しい文体」ということであり、ヴァージニア・ウルフの持つ「文学史的な意義(新しさ)」なのである。
だが、繰り返すけれども、ウルフの「文体」は「文学史」的には「新しかった」けれども、ウルフ自身は「新しい小説」を生み出すために「新しい文体」を編み出したのではない。ここが重要である。
むしろウルフは、「愛するもの」をそのままに描くために「新しい文体」を作り上げ、そのことで結果として「これまでの論理的で説明的な文体」を否定しなければならなかっただけなのだ。
ウルフの試みは、「新しいもの」を目指したものではなく、「本来あるべきとおりに」という趣旨のものだったのである。
さて、ここで話を冒頭にもどして言うと、私がヴァージニア・ウルフの小説が「好みではない」と言ったのは、ウルフのこうした「身近なものに対する愛」に発する「寄り添い」的な文体が、私の趣味ではなかったからだ。端的に言ってそれは、私には暑苦しい。
私の趣味とは、ウルフとは「真逆」と言って良いほど「徹底的に論理的な文体(思考形式)」である。
例えば、大西巨人の「リゴリズム(厳格主義)」と評されるような、徹底的な客観性にこそ私は惹かれる。
だから、ウルフが批判するような「当たり前に中途半端な論理性」では物足りないとしても、だからと言って「物事を抽象化する論理性」を拒絶するようなウルフの「リアルな混濁の是認」的な立場も、決して好ましいものとは思えない。私は「明晰」を好むのだ。
例えば、私は自覚的に「宗教批判」ということをしているのだが、これは「宗教的なものを信じてしまう人間」というものの存在自体を否定しているのではない。
人間とは所詮その程度に「弱い」ものだと理解してはいるのだが、しかしだからと言って私は、そうした人間的な「弱さ」を無条件には容認しないし、ましてや、そうした「弱さ」に「寄り添おう」とも思わない。
そうではなく、いったんは「徹底的に分析し、その難点や弱点を剔抉して、その現実を突きつける」ということをやった上で、しかしそれでも、人間というのはそうした「現実との直面」が出来ないものだという「現実」の方は、容認するし、容認せざるをえないと、そういう二段構えなのである。
つまり、私としては、最初から「所詮、人間ってそんなものだよ」とは、言いたくないのである。
私の場合は、そうした「人間の曖昧さ」に対する「対決姿勢のリアリズム」に立つからこそ、ウルフが「それまでの説明的な小説表現」を否定したというところまでは共感しても、その上でウルフのやろうとしたことが、「人間の現実との対決」ではなかったという点に「物足りなさ」を感じるのである。だから「好みではない」。
言い換えれば、私はいかにも「男性的」なのだが、ウルフはいかにも「女性的」なのである。

ともあれ、「人間の思考・心理・内面性」というものの「複雑性」を、出来るかぎり「そのまま」描こうとしたウルフの文体は、おのずと「難解」なものになってしまう。
他人による「説明」は簡単なもの(整理されたもの)であっても、その他人の「頭の中」は、決して簡単に理解できるようなものではないのだが、ウルフが目指したのは、その「頭の中」おける「世界認識」の再現だったのである。だからこそ、「わかりにくい」ものとならざるを得なかったのだ。
では、ここで再び話を戻せば、一一ブルーハーツの歌う『ヴァージニア・ウルフのメノウのボタン』とは、いったい何だったのか?
それは、「人間の複雑な内面性」のリアルを体現した「ヴァージニア・ウルフの文体」であり、その比喩だったのである。
先に孫引きした、ウルフのエッセイ「現代文学論」を、もう少し長く引用すると、こうなる。
『書き手が奴隷ではなく、自由な人間であるなら、「書くべきこと」ではなく「自ら選んだこと」を書くべきであろうし、約束事にとらわれず己が感じるものを作品の土台にできる人なら、型通りのプロットや悲劇喜劇、恋愛沙汰、大詰めの場面などが顔を出す事はなくなるはずである。釦(ボタン)ひとつにしても、ボンド・ストリートの仕立屋が縫いつけたようなボタンは出てこないだろう。人生とは対象形に配置された馬車のランプではない。人生とは輝く暈輪(halo)であり、意識の始まりから終わりまでわれわれを取り巻く半透明の包被(envelope)なのだ。この絶えず移り変わる、この未だ知られざる、輪郭の定かではない精髄(spirit)を一一それがどんな逸脱や複雑さを見せようと一一内面を離れた外面的なことを極力交えずに伝えることこそ、小説家の仕事ではないか?』
つまり、『ヴァージニア・ウルフのメノウのボタン』とは、
『対象形に配置された馬車のランプではない。人生とは輝く暈輪(halo)であり、意識の始まりから終わりまでわれわれを取り巻く半透明の包被(envelope)なのだ。この絶えず移り変わる、この未だ知られざる、輪郭の定かではない精髄(spirit)』
といった「複雑性」のことであり、それを内包した「文体」のことなのだ。
「メノウ(瑪瑙)」という宝石をご存知でないとピンと来ないだろうが、メノウは、ダイヤモンドやエメラルドのような「シンプルな結晶体」ではない。
『メノウ(瑪瑙、碼碯、agate、アゲート、アゲット)は、縞状の玉髄の一種で、オパール(蛋白石)、石英、玉髄が、火成岩あるいは堆積岩の空洞中に層状に沈殿してできた、鉱物の変種である。
(中略)
しばしば中心部にすき間を残し、晶洞を形成していることがあり、またまれに液体・気体がそのすき間に存在することもある。』
(Wikipedia「メノウ」)

つまり、メノウとは「複雑な成分が、複雑に入り混じって構成された、複合的な石」であり、ヴァージニア・ウルフの「メノウのボタン」とは、そのように「複雑な文体」のことを指していたのである。
私の場合、たまたま本書にウルフの「現代文学論」が引用されていたために、本書一冊を読んだだけで、ブルーハーツが歌ったところの『ヴァージニア・ウルフのメノウのボタン』の意味を見つけることができたのだが、それにしても、ウルフの「全集」を読んだと言うのであれば、陣野俊史は、この点に気づいて然るべきだった。
だが、陣野にそれが出来なかったのは、なぜか?
それは、「文芸評論家」にも、ピンからキリまでいるからである。
しかしまたそれは、「文芸評論家」に限ったことではなく、北村紗衣のような「シェクスピアの研究家」だとか「大学教授」「フェミニスト」などであっても、当然、それだってピンからキリまでいる。
一一しかしながら、こうした現実にもかかわらず、多くの人は、そんな「肩書き」を崇拝する「盲信者」でしかない場合が多いのだ。
だからこそ私は、ヴェージニア・ウルフのような「自身の愛する半径数百メートル」的な文学には、あまり惹かれないのである。
身近な人を愛するのはけっこう。そこにも人間の深い真実はあるだろう。
だが、その外にも、人間の度しがたい現実(リアル)がある以上、ヴァージニア・ウルフの「リアル」は、「リアル」のすべてではない、ということにもなる。
だからこそ、物事の抽象化は、是非とも必要なものなのであって、嫌ってすませられるようなものではないのだ。
こうした「世界認識」において、私は、ヴァージニア・ウルフの、視野の狭い「リアル偏愛」だけでは、ダメだと言いたい。
文学にとっては、「人間」とは、その「人生」を介して「人間社会」までも包含する、複雑なものなのである。
それは「複雑なものは複雑なままに」だけでは済まされない相手なのだ。
(2025年5月8日)
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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)
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