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手塚治虫・山本暎一監督 『クレオパトラ』 : 失敗を予想しながら作られた作品

映画評:手塚治虫山本暎一監督『クレオパトラ』(1970年)

虫プロダクション日本ヘラルド映画が提携した大人向けのアニメシリーズ「アニメラマ」第2作』wiki)なのだが、第1作の『千夜一夜物語』に比べると、驚くほど見劣りする作品だ。

ハッキリと「駄作」と評しても良いし、「この作品は見る価値がない」と断じても良かろう。

何がダメかと言って、

(1)作画やレイアウト(画面構成)が全然ダメ。
劇場用作品の水準に達していないどころか、テレビアニメの凡作並みの作画であり、必要な手間のかけられていない作品であることは、一瞥して明らかなレベルなのだ。
もちろん何らかの事情があったのは確かだろう。もしかすると、前作『千夜一夜物語』の成功を受けて、準備期間もないまま、急遽、制作公開をせざるを得ないといった事情があったのかもしれない。

だが、そうした裏事情は、作品を評価する上では重要なことではない。
作品は、結果としての完成品の出来がすべてだからである。

(キャラクター原案は、『清酒黄桜』のTVCM「カッパ黄桜」の色っぽい美女カッパでも有名であった、漫画家の小島巧。だが、この人の絵は、横顔が印象的な基本二次元の絵であって正面を描くことがなかった。それをアニメ用にデザインし直したために、横顔以外には無理が出てしまった)

もちろん、二、三の見るべきシーンはある。しかしそれは、戦争シーンの一部とアクションシーンが1箇所、といった程度のことだ。

開幕からそうした見るべきところのあるシーンへ到達するまでの間は、劇場版にしては、そのあまりのちゃちさに「この映画、大丈夫か?」と、見ているこっちの方が心配になるくらいだし、また、ここからは持ち直すのかと思いきや、結局は最後まで持ち直すことのないまま終わってしまった。
つまり、一部断片的なシーンに見るべき点はあったものの、それだけの作品だったのである。

上のような「絵面のチープさ」のほかにも、本作には、数々の問題点がある。

(2)主人公のクレオパトラの人格設定が曖昧であり、そのために物語全体として、盛り上がりに欠けて平板な印象が強い。

(3)本作の目立った特徴である、パロディの多用
Wikipedia『『サザエさん』『カムイ外伝』『ハレンチ学園』といった当時の漫画キャラクターが友情出演しているほか、当時の流行やパロディが取り入れられている。』と紹介されている部分だが、ストーリーにはまったく関係のない、およそ必然性のない「お遊び」のパロディシーンがやたらに多くて、俗ウケを狙ったその安易さが鼻についてならず、心底うんざりさせられた。

(上3枚は、当時の人気漫画キャラのカメオ出演。下はパレードシーンでの名画のパロディ)

こうした「お遊び」は、お遊びだから楽しいのであって、それを「売り物」にすらした本作は、その時点ですでに、志が低いと言うべきだし、結果としても、本作を「時代に取り残された作品」にしてしまった。
本作を見たクリエイターたちは、きっと「こういう安易はお遊びはやめておこう」という教訓を、そこから学んだに違いない。

(4)アニメラマの売りである「エロチックシーン」も、当然のことながら今の目から見れば、まったくどうと言うことのないものでしかなく、いささか退屈である。

また、海外で話題になった、『千夜一夜物語』でのハンス・ベルメールを下敷きにした抽象的なエロチック描写を意識したのであろう、線画による抽象化されたベットシーンの描写も、二匹目のドジョウを狙った、二番煎じの域を出ないものになってしまっている。

(5)本作は、地球人類が宇宙に進出して、他の惑星への植民地化を進めている未来を「現在時」として、登場人物の3人が「精神だけを過去に送り込む形式のタイムマシン」により、クレオパトラの時代に立ち会った後、最後に現在時の未来へと戻ってくるという、「枠物語」の形式を採っている。

しかし、この形式も、冒頭シーンの「実写映像の人物に、顔の部分だけ二次元アニメの顔を重ねる」という手法と同じで、所詮は「奇を衒った」ものでしかない。
たしかに「なんだこれ?」とは思うものの、それで作品の魅力が、すこしでも増したわけではないのだ。

(実写映像の上に、二次元のアニメの顔を重ねているが、そもそも顔のデッサンが頼りない)

冒頭の宇宙船のカットと惑星のカットは、本作の2年前に公開された『2001年宇宙の旅』を明らかに意識したものだが、パロディと呼ぶにも値しない、単なるパクリの域を出ないもの。

また、本作の額縁を形成する未来世界の設定は、エジプトを植民地支配しようとするローマ帝国に、地球の側を重ね、その植民地主義を批判する立場での描写になっているのだが、これはたぶん、当時盛り上がっていたベトナム反戦運動を意識したものなのであろう。
だが、この反戦的な批評的描写も、所詮は「時流に乗っただけ」の安易なものでしかなく、取って付けた感しかない。

つまり、本作『クレオパトラ』における、未来世界を額縁にした「枠物語」の設定というのも、クレオパトラの物語を描くためのものとしては、ほとんど必然性のないものなのだ。
単に、それくらいの工夫はしないと、この単調冗漫な物語が「もたない」から、といった程度のものでしかなかったのである。

以上のようなわけで、本作の失敗要因は、次のような点になろう。

・ 歴史上の人物を描くのに、一部SF的な設定を使いながらも、中途半端に歴史的経緯に縛られたために、クレオパトラの性格設定を曖昧にしてしまった

・ そもそも、クレオパトラという題材を選んだのは、「エロティック描写」ありきであったのではないか
だから、クレオパトラが、複数の男性を、登場順に本気で好きになったわりには、わりあいあっさりと過去の男を忘れていくその態度に、説得力が与えられなかったのではないか。
主人公であるクレオパトラを、不実な女性に描きたくはないが、しかし過去の男に縛られていては、物語を先へ進められないという事情もあって、その心理的な整合性をつけられないまま、スケジュールに追われて作ってしまったのではないか、というような疑いである。

(イラストとして見れば悪くないが、動画で見てもさほどエロティックではない)

したがって、本作の失敗を総括するなら、それは、大作を作るための準備として必要な、基本的な部分での「練り込み不足」と、作画などを含む実作業における「時間不足」による、当然の失敗だったと、そうまとめても間違いないだろう。

では、どうして、前作『千夜一夜物語』では、山本暎一の単独監督であったのに、この不出来な本作では、わざわざ手塚治虫が共同監督として名を連ねているのだろうか?

前作『千夜一夜物語』の方がむしろ、手塚の関与(作画やアイデア出しなど)が大きかったはずだし、作品の出来としても誇れる作品だったのに、どうしてわざわざ、不出来な本作の方で、手塚治虫は山本と名前を並べたのであろうか?

私が推測するにそれは、本作に自信があったからではなく、逆に、本作が度し難い駄作になるのが目に見えていたからこそ、山本暎一一人にそこ責めを負わせられないと考えた手塚治虫社長が、その責めを分かち合うべく、連名作品にした、ということような事情だったのではなかったか

たぶん本作は、その制作段階においてすでに、「これではまともな作品にはならない」と見込まれていたのではないだろうか
それでも、今後もアニメ作りを継続していくためには、とにかく完成させて公開しないわけにはいかかった、そんな、あらかじめ「負け戦」を覚悟した、苦し紛れの作品だったのではなかったろうか。


(2026年1月21日)


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