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庵野秀明監督 『式日』 : 親との確執と和解

映画評:庵野秀明監督『式日』2000年)

知る人ぞ知る、庵野秀明の実写映画監督作の2作目である。この他の実写作品としては、

『ラブ&ポップ』(1998年)
『キューティーハニー』(2004年)
『シン・ゴジラ』(2016年)
『シン・仮面ライダー』(2023年)

の4作があって、『キューティーハニー』以下の3作は、すべて劇場公開時に見ている。

つまり、『ラブ&ポップ』『式日』は、いわゆる「オタク」系の作品ではないため見ていなかったのだが、見ていない作品が残り少なくなると、残りもつぶしておきたいと思うのが、コレクターの性というものである。どうせなら「コンプリート」したいという心理だ。

しかしながら、村上龍が原作の『ラブ&ポップ』には、どうしても触手が動かない。
村上龍は、私が若い頃、つまり村上龍が第一線の小説家として、村上春樹と並び称されていた頃に何作か読んでいるのだが、どれも面白いとは思わなかったので、村上龍の原作だと言われると、それだけでもうダメなのだ。
一一それで今回は、庵野実写映画の残る2作のうちから、『式日』を選んだという次第なのである。

本作『式日』は、主演を務める藤谷文子が十代の頃に書いた小説「逃避夢」を原作とし、庵野が脚色して映画化した作品である。

だが、原作本となる『逃避夢/焼け犬』の刊行は、映画の翌年の「2001年」となっているので、要は、本になる前の藤谷の小説を庵野が読み、それが気に入って映画化した、という経緯なのであろう。

私は、この原作小説を読んでいないのだが、「花器内ほたる」という人が、「note」に『藤谷文子「逃避夢/焼け犬」を読んでみた(庵野秀明「式日」の原作)』という記事を書いていて、これが参考になった。

藤谷文子スティーヴン・セガールの娘ということは有名だが、ちょっと調べただけでも、父セガールは日本において重婚したり新宗教に入信したりした上で離婚したとかの乱倫ぶり、母美也子も何だか胡乱な感じ。
と、ひどく失礼な表現をすれば叩けば埃が出そうな出自。
1993年14歳で三井のリハウスガールになったのを皮切りにして、1995年から5年ほどの間に、「平成ガメラ」で演じたり、水着グラビア多数だったりと、アイドルから俳優への道を辿っていた。
庵野(1960年生まれ)が、三石琴乃(1967年生まれ)林原めぐみ(1967年生まれ)宮村優子(1972年生まれ)に袖にされた挙句、「平成ガメラ」関係者の美麗な女優に半ば下心で近づいてみたら、意外やアーティスティックな女優だったと判って奮発したのか、は定かではないが……というか邪推たっぷりだが。
(中略)
さすがに自伝小説ということはないだろうけれど、出自やキャリアと無関係でもないだろう。』

つまり、藤谷文子の方は生育環境にいろいろ問題があったようであり、本作『式日』のヒロイン(役名なし)も、家庭に問題があって母を憎んでおり、家出をしている少々精神を病んだ少女として描かれている。

したがって、「花器内ほたる」氏は『さすがに自伝小説ということはないだろうけれど、出自やキャリアと無関係でもないだろう。』と書かれているが、こと家庭環境においては、かなり自伝的な要素が含まれており、少なくとも「心理」的には、小説執筆当時の藤谷の「願望」を、色濃く投影した作品なのではないだろうか。

ちなみに、どうして庵野秀明が、出版されてもいない藤谷の若書き小説なんかを読んだのかといえば、それも「花器内ほたる」氏の指摘する「平成ガメラ」関連であると考えて、まず間違いないだろう。

「平成ガメラ」三部作(1995・1996・1999年)の監督は金子修介だが、庵野秀明の盟友・樋口真嗣が「特撮監督」として同シリーズに参加しており、その関係から、庵野も現場に入っていた蓋然性は十分にあるだろう。
なにしろ根っからの特撮オタクなのだし、まだ、テレビシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』から、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版』二部作をやってた頃で、実写映画には直接関わっていなかったのだから、純粋に「特撮映画オタク」として、制作現場に出入りしていたのではと推察できる。

で、そうした経緯で「平成ガメラ」三部作に出演していた藤谷文子と知り合ったのだろうが、その頃の庵野秀明といえば、テレビシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』の結末にかかわる「オタク嫌悪」が昂じて、アニメを作るのが嫌になり、ノイローゼ気味になっていた時期である。
だから、藤谷とは「生育環境」に問題を抱える者どうしとして意気投合し、それで藤谷の小説を読むことにもなったのではないだろうか。
周知のとおり、庵野秀明は「父親」との間に何らかの確執があったようで、それが『新世紀エヴァンゲリオン』の、非情な父親「碇ゲンドウ」に、色濃く反映されていたのである。

まあ、調べれば色々とこうした背景もわかるのだろうが、そこまでする気はない。
ただ、このくらいの前知識があれば、本作『式日』が、かなり藤谷文子の境遇や庵野秀明の当時の心境を反映したものであったというのも、理解しやすいのではないかと思う。

ちなみに、本作『式日』の二人の主人公には名前が与えられておらず、少女(藤谷文子)はその男性の職業が映画監督であると知って、からかい気味に「カントク」と呼び、「カントク」岩井俊二)の方は心内語では少女を「彼女は」と語り、会話の中では固有名詞では呼ばないのである(主語が省かれている)。

『「カントク」は、宇部市に里帰りする。鉄路と巨大なコンビナート地帯、人影のないシャッター通りのアーケード商店街に、コンクリート製の電柱ばかりが目立つ寂れた街並み。物語の冒頭、赤いブラウスとヒールを纏い、線路に横たわる若い女性に気がつく。

彼女は「明日は私の誕生日なの」と語る。カントクはそれまで、東京で映像作家としての仕事をして、大きな成功を得たが、ヒットによって生まれた無力感や、本当は実写をやりたいという不満を溜め込んでいた。物語の全期間を象徴する31日間の、「私の誕生日」の(※ くり返される)前の日を共に送りながら、彼女とカントクは次第に心を開いてゆく。

カントクは、自分の作品の素材として、彼女の日々を撮り始めるようになる。眠らない彼女。毎朝6時に決まって、住居としている廃墟ビルの屋上に上って、身を投げる勇気を試す「儀式」。入ってはならないと言われたビルの地下室は、水浸しの床に赤い傘と赤いろうそくが一面に並ぶ。

二人で生活し始めるうち、当初は被写体としてしか捉えていなかったカントクだが、彼女がうちに秘める喪失感、自分を捨てた母親への憎しみ、常に比較の対象にされてきた姉への嫉妬など…虚構の世界に引きこもる動機に直面し、次第に彼女の心の問題そのものに取り組むようになる。やがて「錯乱した彼女の心」を持て余すようになった、カントクと彼女の間に……。』

(Wikipedia「式日」

一一と、こういう物語である。

つまり「カントク」としては「虚構への逃避」というものにウンザリしていたのだけれど、「虚構の世界」に逃げ込まざるを得ない少女との出会いに直面して、少女を何とかしてやりたいという思いにとらわれたのである。
一方「彼女」の方は、現実逃避しながらも人恋しさがあって、「カントク」と一定の距離をとりながらも、一緒にいようとする。

しかし、そんな危うい関係など、いつまでも続くものではない。
時間が経つほどに、両者は相手への依存を深め、相手を求めざるを得なくなる。しかし、踏み込んでしまえば、そこに待っているのは、むかつけの「現実」なのだが、そうした「現実」の重さに持ち堪えるほどの強さを、はたしてこの二人は、持っていただろうか?

私が、本作に感じたのは、本作はあくまでも「ファンタジー」だということだ。しかも、男の側にとっての「ファンタジー」。
「呪われた姫」を、自分の愛で救ってあげたい。呪いを解いてあげたい、という「男のロマン」の描かれた作品だと、そう感じられたのだが、これは、私が男だからなのだろうか?

だが、端的に言えば、現実には、こんな男女の関係は、間違いなく破綻することだろう。
本作中でも描かれていたとおり、「彼女」が「カントク」と出会う前に世話になっていた男(役名は「自転車の男」、演者は村上淳)は、間違いなく親切な男だったのだろうが、彼女を愛してしまったために、その関係が破綻したのであろうことは容易に推察できるし、それがリアルというものでもあろう。

だから、当たり前に考えれば、「カントク」と「彼女」との関係も、遅かれ早かれ「自転車の男」の場合とほぼ同様パターンを辿って破綻するしかないと、私はそう思いながら本作を見ていたのである。

ところが、物語の終盤、「カントク」の仲介により、「彼女」が、会うことを拒絶していた母親(演者は大竹しのぶ)との対面を果たすことになり、母親が「彼女」に対して、涙ながらの必死の謝罪をし「帰ってきて」という懇願がなされる。
そしてシーンが変わったラストでは、「彼女」が母親を許したことで、心の病み(闇)を乗り越え、訪れることのなかった「誕生日」を初めて認めて、それを楽しみにしている彼女の笑顔が描かれる。止まっていた時間が、動きだしたのだ。

つまり、本作は無事「ハッピーエンド」となったのだが、わたし的には、このラストには、少々あっけに取られる感じだった。
「それは無理だろう。現実は、そううまくいかないよ」と思ったからである。

これは、私が40年間、警察官をやってきて、多くの「破綻した家族=破綻を繰り返す家族」を見てきたからではあろう。だから「現実はそんなに甘くはない」と思うし、「そんなことを甘いことを期待したら、きっと裏切られる」と、そのように考えるようになっていたのである。

しかし、たぶん藤谷文子に同情していたのであろう庵野秀明は、彼女が家族と和解して癒される日を、心から願っていたのではないか。
だからこそ、この作品の結末を、母との和解によるハッピーエンドにしないではいられなかったのではないだろうか。

『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公「碇シンジ」のセリフではないが、庵野秀明とて「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ!」と、そう自分自身に言い聞かせながら生きてきて、それでも父との和解を果たせないでいたのである。

つまり、本作『式日』には、庵野秀明の、藤谷文子への同情としての「救われてほしい。癒されてほしい」という想いが込められていたのと同時に、たぶん、自分の中で乗り越えがたいものとして存在してきた「父との和解」の問題があったのであろう。

庵野は、ずっと父との和解を願いながら、しかしそれを、どうしても果たせずにいたので、その「代償行為」として、本作では、いささか無理のある「ハッピーエンド」を、付けてしまったのではないか。つまり、代償行為としての「和解」を描いたのではないだろうか。
自分のことだと、そう簡単にはいかないが、他人のことであれば、願望含みで、「和解」が可能だと思えたのではなかったろうか。

そんな庵野秀明の「父との和解」が描かれるのは、2021年の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』においてであった。一一というのは、周知の事実である。

最初の『劇場版エヴァ』二部作とは別の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版シリーズ」は、

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:(2007年)
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:』(2009年)
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q(2012年)

と3作作られて、これでも決着がつかず、その完成が長らく危ぶまれた後、9年の時を経た2021年の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』で、まるで「憑き物が落ちた」かのような「ハッピーエンド」がつけられたのだ。

つまり、『Q』の2012年から2021年の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』までの間のいつかの時期に、庵野秀明は、父との和解を果たしていたのであろう。

たしか、庵野の妻である漫画家の安野モヨコが、夫婦の日常を(誇張しつつも)描いたエッセイ漫画『還暦不行届』で、庵野秀明と父親の「和解」について触れていた部分があったと記憶するが、無論、突っ込んだ描写ではなかったので、和解に至る経緯などはよくわからない。

庵野秀明が父親との和解を果たしたのは、無論、喜ばしいことだ。
しかし、いちファンとして言わせて貰えば、幸せになってから、少し「毒が抜けたんじゃないの?」と、そう思わないでもない。

庵野秀明は、たしかに「オタク」ではあるけれど、単なるオタクではないところに、作家としての魅力があったというも事実で、そうした側面において、庵野秀明の「父との和解」は、果たしてプラスだったと言えるのかどうか。

非情な言い方になるけれども、「作家」というのは「満たされてはいけない(まずい)」というのは、否定しがたい事実なのである。


(2025年5月4日)


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