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海猫沢めろん 『ディスクロニアの鳩時計』 : 「文学」とは、人間的な愚行の粋である。

書評:海猫沢めろんディスクロニアの鳩時計』(泡影社)

本作は、少なからぬ小説家たちが挑んだ、「第五の奇書」を意図した作品だと、そう理解してもいいだろう。

日本の読書界には、すでに定着したものとして、「三大奇書」と呼ばれている作品がある。それは、次の三作だ。

夢野久作ドグラ・マグラ
小栗虫太郎黒死館殺人事件
中井英夫虚無への供物

この三作に挑戦して「第四の奇書」と呼ばれることもあるのが、本書に推薦文を寄せている竹本健治の、デビュー作品にして代表作である『匣の中の失楽』だ。

この『匣の中の失楽』が、今はなき『幻影城』誌に連載の後、単行本化されたのは1978年だから、それから約半世紀が経たんとしており、『匣の中の失楽』の刊行以降、同作に続けと「第五の奇書」を目指した作品や、同作を超えて「第四の奇書」たらんした野心作が、私の記憶しているだけで、少なくとも5作ほどはある。

『ドグラ・マグラ』や『黒死館殺人事件』『虚無への供物』、そして『匣の中の失楽』が、基本的には「ミステリ小説(推理小説・探偵小説)」のジャンル作品として書かれ、かつ、そのジャンルに収まりきらないスケールを持つ作品だったからこそ、「第四」なり「第五」なりの「奇書」を目指したのは、主としてミステリー作家であった。

その代表的な作品としては、例えば、山口雅也の『奇遇』、芦辺拓綺想宮殺人事件』などがあるけれど、これらが「第四」なり「第五」なりの「奇書」だと、一般に認定されることは、ついになかった。
だから一般的に言って、「第五の奇書」だと認定された作品は、いまだ存在しないと、そう断じても良いだろう。

もっとも、私個人やミステリ評論家の千街晶之などの一部の者が、「第四」なり「第五」なりとまでは言わないまでも、その系譜に連なる「奇書」と認めて良いと、そう高く評価した作品に、舞城王太郎の巨編『ディスコ探偵水曜日』がある。
舞城王太郎は、今でこそ「純文学」系の作家だと考えられているが、デビューは、ミステリ系の公募新人賞である「メフィスト賞」だったから、その初期作品のいくつかは、少なくとも、「ミステリ小説」の形式で書かれていたのだ。

さて、いわゆる「三大奇書」を「わが聖典」として別格的に愛好する私としては、『匣の中の失楽』以降、「奇書」たらんことに挑戦した作品には、人並み以上の興味を持って注目してきたし、そのぶん、失望させられてもきた。
やはり残念ながら、「三大奇書」的な作品は「書こうとして書けるものではない」と、そう思えてならない。

実際、「三大奇書」を書いた、夢野久作、小栗虫太郎、中井英夫の誰一人として、自らの書いた「奇書」レベルの作品を、二度と書けなかったという事実が、その何よりの証左でもあろう。
つまり、「三大奇書」レベルの作品は、才能と個人としてのタイミングと時代などの要素が、すべて揃ってこそ、初めて書かれ得るものであって、だからこそ、作家の意図や意欲だけで「書こうと思ってかけるものではない」のだと、私は斯様に考えるのだ。

だが、「奇書」を意図して書かれたが、事実そうした「選ばれた作品」となり得ているのか否かは、読んでみないことにはわからない。人の評価は、あんがい当てにはならないからだ。
まただからこそ私も、「次こそは」と期待し、何度も何度もその期待を裏切られながら、それでもまだ、その期待を捨てられずに今日に至っているのである。

そして今回、多少なりともそうした期待を持って読んだのが、SF作家に分類されるのであろう海猫沢めろんによる巨編『ディグスロニアの鳩時計』であった。

私が本作の存在を知ったのは、『本の雑誌』誌の「新刊めったくだガイド」で、大森望が本書を紹介していたからである。

その同誌当該号が手元にないので正確なところは紹介できないが、そこでの本作に対する大森望の評価は、「5点満点の3.5点」くらいだったはずで、イチオシでも大絶賛でもないが、「悪くはない」といった評価であったと記憶する。

したがって、私も本作にさほど大きな期待はしなかったのだが、ただ、大森が本作を評するに、舞城王太郎の『ディスコ探偵水曜日』と「似た感じ」の作品というようなことを書いていたので、同作のファンとしては、本作『ディスクロニアの鳩時計』をスルーできなくなったのである。

なお、本作『ディスクロニアの鳩時計』は、『ゲンロン』誌に連載された作品なので、本来でなら「ゲンロン」社から刊行されるべきものだったのだが、本書の帯に、

本書は一部過激な表現を含みます。ご注意ください。

という注意書きがあるとおりで、どうやらそのあたりで、同社からの刊行が見合わされることになったようだ。

その結果、まず「私家版」(要は、自費出版版)が刊行され、それが通販や即売会などを通して完売したので、今度は本作のために、版元となる「泡影社」を設立し、ISBNを取得して、元版に加筆修正を加えた「一般流通版」を刊行したという経緯のようだ。
これが、今回私の手にした本書である。

で、まず最初に断っておくと、本書における『一部過激な表現』というのは、さほどのものではない

本作には「未成年者に対する性的虐待」事件が描かれており、主としてこれが、その『一部過激な表現』ということになるのだろうが、この程度のものは、ひと昔前にならいくらでもあったものでしかない。
だから、私からすれば、「表現」が過激だと言うよりは、未成年に対する性的虐待という「こと」そのものが、それを小説に書いたということだけで、「過激」だとされたのであろうとしか思えない。

「こうした表現は、公刊物として不適切である」などと、どこかから指摘され、それに呼応した「今どきの世間様」の顰蹙を買い、バッシングを受けかねないと判断したから、「ゲンロン」は、無難に刊行を控えた(自粛した)ということなのであろう。

もっとも、「ゲンロン」としては、本当は、この「未成年に対する性的虐待」描写よりも、本作の舞台が「東日本大震災後の被災地の街」をモデルにしたもので、それを「ディストピア」的に表現した点に対する批判を恐れた(面倒だと考えた)のかも知れない。

なにしろ、「ゲンロン」誌の生みの親である東浩紀は、以前、福島第一原発 観光地化計画」という大胆な提案をしており、想定内のこととは言え、それなりの反発も招いていたから、その上に、その想定外のものでしかない、海猫沢めろんの小説の影響までは、引き受けてられないと、同出版社としても判断したのではないだろうか。

そんなわけで、本作『ディスクロニアの鳩時計』は、今どきの「潔癖症的無菌化社会の常識」からすれば、「過激」だとか「ヤバい」ことをやっているとも言えよう。

だが、マルキ・ド・サドに代表される、澁澤龍彦関連の「フランス・エロティシズム文学」などを、かつて多少なりとも齧った世代の私からすれば、本作の「残酷描写」など、別にどうというほどのことではない

私は「即物的な残酷描写」には何の興味もなく、例えば、むかし流行った「スラッシャー映画」だの「スプラッター映画」だのには、見向きもしなかった人間なのだが、文章表現での残酷描写というのは、どこまで可能なものなのかという興味はあったから、グロテスクな残酷表現で一部に知られた、友成純一の小説などを読んでみたりはした。
だがそれも、所詮は「切った・刺した・引き裂いた」といった即物的なものでしかなく、私には「この程度のものか」という印象しかなかったから、この手のものを喜んでいる人の気が知れなかった。

まあこうした私の図太さは、もしかすると、私が長らく警察官として、現実のさまざまな死体に接してきたからかも知れない。
あるいは、もともと私は、死体を「怖い」とか「気味悪い」とは思わず、どちらかと言えば「汚い(触りたくない)」と「即物的」に感じるような人間だったので、小説表現などには、さほどのものを感じなかったのかも知れない。

この手の「残酷表現」で、私が唯一、ものすごく不快に感じたのは、昔読んだ、綾辻行人『殺人鬼』(か『殺人鬼 Ⅱ』)というホラーミステリで、幼児が惨殺されるシーンだった(たしか、あっさりと頭を地面に叩きつけられて潰される)。
これは、残酷表現の内容が酷いというよりも、子供の殺され方が妙に生々しかったので、子供好きの私は、その描写に対して、ある種の義憤を感じ、不愉快になり腹が立ったったというような感じであった。
表現そのものよりも、その表現に対する作者の感性が不快に感じられたのだと思う。
だがまあこのあたりは、気にならない人には、まったく伝わらないところなのかも知れない。

ともあれ、そうした観点からすれば、本作『ディスクロニアの鳩時計』は、たしかに「未成年者に対する性的虐待」を描いているとは言え、それを描きたいがために描いているという感じは無く、あくまでも、作劇上の要請から書かれているという印象だったので、良くも悪くも、特に不愉快さを感じることもなく、「そういうお話なんだな」と思う程度でしかなかった。

したがって、そんな私としては、「作者の意図」を考慮せずに、その「表現」を表面的にだけ捉え、そこを問題視するような評価は、単なる知的劣化の結果だとしか思えない。
そんなものは、まともに「文学」と向き合ったことのない人間の、「表現」ということの重要性と難しさを考えたことのない人間の、それとしか思えないのだ。

「このような表現が、本当に必要だったのか?」「このような表現を選ぶ作者の、社会や人権に対する意識は、本当に何も問題はないのか?」といった、真面目な「議論」や真面目な「批判」は、どんどん為されるべきである。

だが、「こうした表現はアウト」などというリストを作って、それで一律に表現を規制するような安易なやり方は、あきらかに「思想表現の自由」という「人権」を侵害するものであり、ソフトな「全体主義」への第一歩でしかない
だからこそ、そんなものには、私はとうてい賛成できないのである。

したがって、本作『ディスクロニアの鳩時計』における「残酷描写」程度のことで、公刊が差し控えられるような「今の日本」の状況は、きわめて不健全であると、私はそう強く批判したいのだ。

大きな問題になる前の「自粛」が、当たり前のように行われる「萎縮した社会」とは、当然、不自由で息苦しい社会なのである。
滅菌だの予防だのも、ほどほどにしなければ、結果として、ろくなことにはならない。

風呂に1週間入らないからといって「それがどうした」と、男おいどんは思うのである。

 ○ ○ ○

さて、では、そんな本作とは、一体どういう作品なのだろうか。

それは、本書の帯にいろいろと紹介されているから、まずはそれを引用しておこう。

SFにして変格ミステリ。
思弁小説にして青春文学。
連載10年の魂と混沌を凝縮した、
現代に放つ新たなる奇書

「時間とは何か」を巡る
壮大な探求一一
崩壊と再構築を繰り返す
巨大な謎を描いた、
渾身のクロニクル。
ノベルゲーム、加速器、機械知性、
脳科学、最先端AIまで、
あらゆるギミックを
詰め込んだ
現代の千夜一夜物語。
 (ゲームAI研究者)
三宅陽一郎

「21世紀の
ロートレアモンに称讃を、
そして唾棄せよ。これは
凶悪な
進化を遂げた
『マルドロールの歌』だ」
 (『匣の中の失楽』
竹本健治

そして、表紙背面には、次のような「ストーリー紹介」がある。

拡張現実「カクリヨ」と人工知能に
覆いつくされた近未米の日本。
孤独なl7歳の少年「白鳥鳥彦」は、
夏祭りの夜、不思議な少女
「時彫美々夏」と出会う。
彼女は時間に関する
あらゆる事物を収集する
謎の大富豪「時彫家」の令嬢だった。
その瞳を覗き込んだ瞬間、
鳥彦は激しい衝動に貫かれる一一
「この女を殺したい」。
国家権力と量子人工知能を巻き込み、
少年の狂気に満ちた計画が始動する。

結論から先に書いておくと、本作は「力作」には違いないが、「傑作」とまでは言えず、ましてや、「奇書」と呼ぶほどのものではない

だから、無論「第四」や「第五」の奇書には程遠い。
ミステリであれ、SFであれ、年間のベスト3に入るかどうかといったところでしかない。

面白くないわけではないが、面白いと断ずるほどのこともない、そのくらいの作品だと言えるだろう。

本作の弱点は、なんと言っても「文体的に重厚さに欠ける」という点であろう。

「三大奇書」あるいは『匣の中の失楽』を含めての「四大奇書」に共通するのは、時に「読みにくい」と言われることもある、その重厚な文体なのだが、本作『ディスクロニアの鳩時計』には、それが無い。
良くも悪くも、いま風に読みやすくて「軽い」のだ。

だが、それでは、「三大」とか「四大」と言われる時の「大」きさ、作品としてのスケール感や重厚さは出ない。
ただ長ければ良いというものではないのだ。

また、本作の特徴をなす「多彩な時間論」も、「四大奇書」的な「過剰さ」とは違って、「時間SF」としての、構造上の要請から必然的に出てきたもの、という印象以上のものではない。
例えば、『黒死館殺人事件』のペダントリー(衒学)ように、それ自体が「特異な異空間」を醸成しているといったものには、なっていない

「雰囲気」ということで言えば、本書の「全編黒地に白文字という版面」の方が、独特の雰囲気を醸し出していると言えるのかも知れないが、当然それは、小説そのものの力ではない。
そうした工夫も悪くはないが、やはりそれでは物足りないし、「文学」の力ではないのである。

本作の文体が、その内容や狙いに反して軽い印象を与えるものになってしまったのは、たぶん、テーマと重さに反して、その必要性から出てきた「道具立て」との、齟齬のせいではないかと、私は見た。

私の見たところ、本書のテーマは「この悪と不条理が当たり前に蔓延る世界にあって、それでも正しく生きるとは、どういう意味を持つのか」といった、極めて真面目で重厚なものだと思う。

だが、そのテーマを描くにあたって、一人称の語りの中心をなす主人公を「その悲惨な生育環境のせいで、この世界を生きることに肯定的な意味を見出せず、この世界や生を否定することばかりを考えている、すっかり性格の歪んだ少年」と設定したための、齟齬なのではないか。

この「世界を憎悪する少年」の語りが、一見「軽い」ものになってしまったのは、彼が、あまりにもこの世界を憎悪しているために、「真面目に憎む」という、文学的に「正統派」のキャラクターにはなり得ず、「真面目に憎むことすら拒否して、ふざけた態度に終始しようとする」人物として、造形されたためではないだろうか。

主人公は、決して「真面目」に悩んだりはせず、少し真面目にその憎悪を語ったとしても、次の瞬間には、そんな自分をも嘲笑してまぜっ返し、ふざけて見せるために、その「憎悪」の表現が深まらず、結果として「重厚」だとか「深遠」とかにはならないのだ。

そして、そんな主人公の混乱した内面世界を反映するかのように、本作の登場人物の大半は、ふざけているか、狂っているとしか思えない人物ばかりである。

喩えて言うなら、『バットマン』における狂気の街「ゴッサム」に、よりによってジョーカーみたいな人物ばかりが登場して、唯一完全にまともなのは、本作で描かれる連続殺人事件の謎を追う警察トリオのうちの一人だけなのだ。

ジョーカーも一人だけなら、それはユニークなキャラクターになるだろうし、その狂気の世界の「暗さ」を引き立たせるワンポイントにもなるだろう。
だが、いろんなジョーカーが出てきて大騒ぎするのでは、妙に賑やかになって、本来の暗さが霞んでしまうのだ。「狂気の世界」が、どこか単なる「馬鹿騒ぎ」めいたものにしか見えなくなってしまっている。

こうした「軽さ」というのは、無論、主人公の「この世界に、重い意味を認めない」という拒絶的なスタンスの反映ではあるのだが、それがそのまま、本作自体の「軽さ」として印象されるものになってしまっており、本作の決定的な弱点となっている

もちろん、最後まで読めば、本作に込められた「真摯なテーマ」が迫り上がってきて、決して悪い作品ではないというのは、よくわかる

しかし、そこへ至るまでが長すぎて、そうしたラストだけでは、長々と醸成してきた「軽さ」を覆すことに、成功してはいない

それは、「ミステリ」形式の物語として、本作の最後に明かされる「世界の真相」が、しかしそれほどの意外性を持たず、その世界観を覆すほどの、「どんでん返し」的な衝撃を、読者に与えることに成功していないことからもわかるだろう。

たしかに「説明」されれば、頭ではその語られたところを理解することはできるのだが、それで、そこまでに築かれてきた世界観を崩壊させ得たかと言えば、そこまでの強い印象は無かったのだ。

一一しかしながら、それでも「作者自身の世界観」は、私の世界観にかなり近いのではとも思えた。

それは、作者が否定しようとした「主人公の世界観」と、それに対置された「AI」と「探偵」の世界観との、対照に見てとることができると思う。

まず、本作の世界観の中心をなす主人公だが、彼は次のようなことを、真面目に、ふざけて語る人物だ。

(1)『「ぼくのこの頭脳があまりにも素晴らしすぎてもはや宇宙史に残すべき価値があるのはぼくの個人的な記録だけと言えるほどだ!ぼくのすべてが暗黒のブラックホールのように闇の輝きを放っている!おい、聞いているか ゆず!」』(P265)

(2)『(略)ぼくは差別主義者だし利己的な人間なので、自分の気分以外のなにも気にしない。気分で人を傷つけ、気分で表現する。そこには高尚なものは一切ない。そこがぼくの素晴らしいところだ」』(P283)

主人公のこうした物言いは、その深い「絶望」を、端的に表していよう。

(1)のふざけた「自己肯定感」というのは、無論、自身の存在を徹底的に否認されて育ってきた人のものだ。いま風に言うところの「承認欲求が満たされなかった」では済まされない、「徹底的に否認されてきた人」の絶望が、こうした「ふざけた(つまり、自分でも信じていない)自己肯定」を語らせている。

彼が「衒学的」であり、自身の「頭の良さ」を誇示したがるのも、承認が得られないまま育った人であり、かつ、そのために本物の自己肯定感を持てないが故なのだ。だからこそ、ふざけるしかない。みずから茶化すしかのである。

(2)の「差別主義者」宣言が、反語的なものだというのは、容易に理解できよう。
彼は「差別主義者」が、いかに愚劣で醜いものかを、十二分に理解しているのだ。だが、だからこそ、あえて差別主義者を自称することで、この世界を侮蔑し、自らをも傷つけて否定している。つまり、彼の身振りは、徹底的に「自傷」的なものなのだ。

次は、本作で描かれる「もうひとつの未来の日本」を牛耳っているらしいスーパーAI〈IXANAMI〉が、ロボットの口を借りて(ハックして)語った自意識だ。

(3)『「(略)あなたの疑問に答えよう。あなたたち人間の個人レベルの思い入れを、(※ 私たち)機械は考慮しない。(※ あなた方を悩ませている問題とは)それはあなたがた人間の言葉で云えば、そう一一文学的問題だ」』(P513〜514)

彼が語っているのは、物事の「善悪」とか「美醜」といったことに、「機械」は関わらず、あくまでも「事実」にしか興味がないし、それでしか判断できない、という事実である。つまり、機械は、「人間的な価値観=文学的問題」には関与できないと、そう言っているのだ。

言い換えれば、人間的な価値判断とは「事実に即して、合理的で功利的なもの」ではあり得ない、ということを指摘する言葉でもある。
人間と機械、それぞれの価値観は、最終的には両立し難いのだと、そう言っているのだ。

そして次は、そうした「機械」的な「現実」を認めた上での、「探偵」の、人間としての言葉である。

(4)『「俺ちゃんはあらゆる世界で、そういう間違ったやつらが世界を救うのを見てきた。倫理や道徳は単なる人間の美学にすぎない。世界は信念に無関心なのさ」』(P513)

実際、人類はしばしば「良かれと思って、悪をなしてきた」というのは、否定できない事実だ。
どんな理想を掲げて遂行された行いや運動も、それが成功して成果を上げれば上げるほど、負の部分もまた大きくなった。常に「理想のための犠牲」が伴ったのだ。

だが、かと言って「犠牲を一切出さない」という理想は、不可能である。
なぜなら、それは「何もしないこと」を意味するからであり、しかし、何もしなければ、現状における犠牲の存在を黙認することになるのだがら、結果としては「やって犠牲を出すか、やらずに犠牲を出すか」しかない、ということになる。
したがって、いずれにしろ私たちは、「罪なき正義」「無垢な正義」などではいられないのだ。

まただからこそ、『間違ったやつらが世界を救う』ことなど、いくらでもあったし、そうした「偉人」たちの掲げた『倫理や道徳は単なる人間の美学にすぎない』ということにもなる。
その意味で、すべては「結果オーライ」であり、この『世界(※ 現実)は信念(※ 中身)に無関心なのさ』ということにもなるのである。

(5)『「悪というのはどの世界でも凡庸で矮小なもので、それがやがて世界を触んでいった。けれど、正義もまた同じように凡庸で優小で、それが世界を救うことだってあった」
』(P515)

まさに「悪」とはいつでも『凡庸で矮小なもの』であった。偉大で深遠な「悪」など存在しない。
なぜなら、「悪」とは所詮、人間が生んだ「ひとつの美意識」にすぎず、それ以上のものではあり得ないからだ。

また、理の当然として、「正義」もまた同様に『凡庸で矮小なもの』でしかあり得ない。

しかし、そんなものでも、「悪」と同様に、この世界を救うことだってあったのだ。
なぜなら、「結果」からすれば、主観的なものでしかない人の「動機」というものは、〈IXANAMI〉が言ったとおりに、ほとんど客観的な意味を持たないからだ。所詮は「自己満足」でしかないからである。

一一で、こうした「世界観」が、私のそれと似ているというのは、私の世界観が、次のようなものだからである。

「本当は、この世界には善も悪もない。だがだからこそ、私は私の美意識が指し示すところに従うしかない。なぜなら、それだけが、疑いようのない、私だけの倫理だからである」

この度し難い世界の中で、しかしその「現実」を認めた上で、しかし「倫理的に生きる」には、どうすればいいのか?

本作は、そうした「文学的=人間的」な問いに、真正面から向き合った作品なのである。
たとえ、その結果が、問いの大きさには、はるかに及ばなかったとしてもだ。

一一所詮「文学」とは、そんな人間的な「愚行」、時には崇高にも見える「愚行」の中でしか、存在し得ないものなのである。


(2025年9月3日)

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