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オーソン・ウェルズ監督 『黒い罠』 : 美しい評言

映画評:オーソン・ウェルズ監督『黒い罠』1958年/アメリカ映画)

名匠オーソン・ウェルズの犯罪映画(フィルム・ノワール)だが、いろんな意味で「うまくいかなかった作品」だと言えるだろう。したがって、作品の出来としても、いささか物足りない。オーソン・ウェルズに期待される水準には達しておらず、その点では、見る側としても「不満の残る作品」という他ない。
しかし、そんな作品になってしまったのには、それ相応にさまざまな事情があってのことではあった。

ストーリーとしては、メキシコとの国境な近いアメリカの田舎町で発生した、街の有力者に対する爆弾テロ事件をめぐって、メキシコ人麻薬捜査官ヴァルガスチャールトン・ヘストン)と、アメリカ側の捜査官として派遣されてきたクインラン警部(オーソン・ウェルズ)との対立を描いた作品だと言えるだろう。

もちろん「ダブル主演」の作品ではあるのだが、どちらが「主役」なのかと言えば、それはメキシコ人麻薬捜査官ヴァルガスの方であって、アメリカ人捜査官クインラン警部の方は「悪役」だ。

(美男美女のヴァルガス夫妻)
(見るからに暑苦しいクインラン警部)

この映画の場合「あらすじ」を読めば、そんなに「わかりにくいストーリー」でもないのだが、予備知識なしに本作を見ると「非常にわかりにくい作品」になってしまっている。そこが問題なのだ。

本作は簡単に言うなら、正義漢であるヴァルガスが、事件の真相解明を妨げようとしているクインランの悪事を暴くという、なんら難しいところなどないお話なのだが、次のような諸点において、見る者は「無用の深読みによる混乱」をきたしてしまうために、結果として「話がわかりにくい」という評価になってしまう。

(1)正義の主人公であるはずのヴァルガスがメキシコ人。
(2)悪役のクインラン警部を、オーソン・ウェルズが演じている。
(3)クインランの長年の部下メンジスが、クインランの正義感を信じている。

要は、ストーリー自体は、わりあい当たり前なのだが、「登場人物の設定」が普通ではないために、観客は「無用の深読み」をしてしまい、それで訳がわからなくなってしまう。

それはまず、主人公がアメリカ人ではなく、悪役がアメリカ人という設定によるところが大きい。
これは、アメリカ映画では、今も昔も珍しいところだろう。どうして、主役であるアメリカ人のチャールトン・ヘストンが、黒塗りをしてメキシコ人を演じなければならなかったのか?

じつは、オーソン・ウェルズが、そのように設定を変更したためなのだ。
「Wikipedia」に紹介されているとおり、原作小説では、主人公の麻薬捜査官(原作では、地方検事補佐)はアメリカ人でその妻はメキシコ人という設定になっている。つまり、ヴァルガスとクインランの対立は「アメリカ人同士の対立」であり「正義のアメリカ人と悪のアメリカ人の対決」だから、最後に「正義のアメリカ人であるヴァルガス」が勝利を収めるという展開は、ごくありふれたものだったのである。一一ところが、ウェルズは、自身が監督を勤めることになると、原作の設定を書き換えてしまった。

『1956年に出版されたホイット・マスタースン(マスターソン)の探偵小説『黒い罠』(邦訳:早川書房、原題:Badge of Evil=悪の記章、の意味)が原作である。映画の監督と脚本をオーソン・ウェルズが担当しているが、当初ウェルズは俳優としてのみ起用され、監督は別人に依頼される予定だった。小説の映画化を決定したユニヴァーサル・ピクチャーズがチャールトン・ヘストンと出演交渉を行った時、ヘストンがスタジオの役員にウェルズを監督として起用してはどうかと勧めたため、彼が映画の監督も担当することになった。監督を任されたウェルズは、同時に脚本の執筆に着手した。原作ではメキシコ人の妻を持つアメリカ人地方検事補佐が主人公だったが、夫婦の国籍を逆にしたのはウェルズのアイデアである。その他に物語の舞台をカリフォルニア州からアメリカとメキシコの国境地帯にするなど、ウェルズは映画化に当たって様々な設定の変更を行った。』

(Wikipedia「黒い罠」

このような「設定の変更と、それに伴う筋の書き換え」が無かったら、本作はもっとわかりやすい作品になっていただろうし、当然「わかりにくい」という評価を受けることもなかっただろう。
一一では、ウェルズは何を「トチ狂って」このような書き換えをしたのか?

現時点においては、そんな無茶をしたウェルズの「意図」を示す資料を、私は持っていない。無論「Wikipedia」にも書かれてはいないのだが、ウェルズの作品をいくつか見てきた私が、まず間違いないであろう「推理」として語れるのは、ウェルズがまたぞろ、その「臍曲がりの反骨心」を発揮したのだろう、ということだ。

『市民ケーン』では存命であった新聞王ハーストを揶揄い、『(オーソン・ウェルズの)フェイク』では「映画のペテン的な技術」を見せつけると同時に、パブロ・ピカソを揶揄った。『(オーソン・ウェルズの)フォルスタッフ』では、陽気な道化的悪党の敗れ去る姿を、共感を込めて描いた。『偉大なるアンバーソン家の人々』でも、捻くれ者の青年の姿を明らかに自己投影しながら描いたし、カフカ原作の『審判』では、なんと世界的な大作家の原作の結末を、真逆と言って良い方向に書き換えてしまったのだ。

そんなオーソン・ウェルズであれば、本作のような「ありきたりな話」を「ありきたりのまま」ではやれなかったのは、むしろ当然のことであったはずだ。

つまり、ウェルズは「アメリカ人が主役で、正義の味方」という「アメリカ映画の自明性」を否定したのだ。
「どうして、アメリカ人がいつでも正義の側なんだ?」ということで、わざわざ主人公をメキシコ人に変えてしまったのである。

そしてその結果、「正義の主人公は、非アメリカ人」であるばかりではなく、「悪役がアメリカ人」という結果になってしまった。しかも、その「悪役」を、監督で脚本も手がけたオーソン・ウェルズ自身が演じたのである。

これが何を意味するのかと言えば、それは、オーソン・ウェルズという人が「反骨心のある捻くれ者」であるばかりではなく、「弱者の側に心を寄せる優しい人」であり、かつ「正義の味方」なんて恥ずかしくて演じられないという「シャイな人(照れ屋)」だということだろう。だから、彼は好んで「悪役」「憎まれ役」「敗者」を演じてきた。
彼の監督作品ではないかが、オーソン・ウェルズの作風の影響が色濃い、キャロル・リード監督の『第三の男』でも、彼が演じたのは、主人公以上の強烈な印象を残す、悪党ハリー・ライムだったのである。

だが、こういう「読解」は、映画を見た後だから出来ることで、このように書いている私ですら、本作の鑑賞時には完全に混乱してしまった。

つまり、『跛足で肥満した異形の老刑事』Wiki)という見た目に冴えない人物をオーソン・ウェルズが演じているのなら、かえってそんな彼こそが「正義の側の人物」なのではないかとそう考えたし、そうした推測は、彼の長年の部下であるメンジースが「撃たれかけた俺を、彼が身を挺して庇ってくれたおかげで、俺は今も生きているんだ。その代わりに彼は跛足になってしまった」とその恩義を語り、そんなクインランの刑事としての正義感は疑いないと、そう保証するのだから、やはり彼のいうとおりなのだと思ってしまう。

(腹心の部下メンジースは、禁酒中のクインランの健康を案じる)
(クインランの元情婦であるジプシーの女を、マレーネ・ディートリッヒが好演)

その一方、クインランの悪を暴こうとするメキシコ人麻薬捜査官をチャールトン・ヘストンが演じており、彼自身「カッコいい二枚目(イケメン)」だし、そのアメリカ人妻も美人だとなれば、かえって「この正義感ぶった男の方が、実は悪党なんじゃないか?」と、そう疑ってしまうのである。

(ヴァルガスの妻スーザン/ジャネット・リー

つまり、これが「原作」どおりの設定であったなら、ごく当たり前のストーリー展開であったものも、人物設定がひっくり返されているために、観客はつい「裏」を読んでしまい、ヴァルガスが「正義漢らしい行動」をとり「正義漢らしいセリフを吐く」と、かえってそこに「裏」があるのではないかと疑ってしまう。
またその一方、クインランに「不利な証拠」が出てくると、これもかえって「ハメられたんじゃないか」とか「クインランの怪しげな言葉も、ダブルミーニングによって真意の隠された、観客に対するミスリードなのではないか」などと考えてしまうのである。

しかしながら、「どんでん返しの真相暴露が、いつ訪れるのだろう」と期待して見ていると、結局そんなものは最後まで訪れることはなく、当たり前に、ヴァルガスが「正義の味方」で、クインランはヴァルガスの睨んだとおりに「悪徳警官」だったということになってしまう。

では、クインランの「正義」を保証していた、彼の長年の部下であるメンジースの証言は、どうなるのか? 一一結論から言えば、「長年騙され、利用され続けてきた」という説明である。

だが、この説明はいささか弱く、いかにも無理筋だ。いくらメンジースがお人好しだとしても、彼もいちおうは刑事なのだし、長年利用されてきたのなら、「おかしい」と気づかないはずがない。

(上司への疑いを徐々に深めるメンジース)

仮に「自分のために跛足になった、命の恩人」という「負い目」がメンジースの目を眩ませていたのだとしても、逮捕した被疑者を100%有罪にしてしまう有能な刑事クインランに、一抹の疑いも抱かないというのは、いかにも不自然。
なぜなら、クインランが逮捕した被疑者を必ず有罪にできたのは、必ずその「決定的な物証」を上げたからであり、その「物証」を発見したのは、いつでもクインランの指示に従って捜索を行ったメンジースだったからである。

つまり、クインランは、自分に忠実なメンジスを利用して、証拠の捏ち上げを行なっていたのだが、しかし、それも長年のこととなれば、普通は「おかしい」と気づくはずなのだ。
だが、そうであるにもかかわらず、それにまったく気づかなかったとしているところが、本作における否定し難い「無理」なのである。

一一だがまた、そんな「初歩的な無理」をするはずがないと、観客の側が「好意的に解釈」してしまうと、やはりクインランは「いかにも胡散臭い人物」だからこそ、かえって「白」なのではないかと、そう考えてしまう。

そんなわけで、本作は、基本的には「シンプルなストーリー」なのに、それをオーソン・ウェルズが持ち前の「反骨ぶり」を発揮して、設定を逆転させてしまったために、結果として「狙ったものではない複雑さ」を持ってしまい、観客には無駄に「わかりにくい」作品になってしまった。

そしてその点では、明らかにオーソン・ウェルズは、本作において、「読みを誤る」という誤りを犯してしまっていたのだ。

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本作の出来を悪くしてしまった「その他の事情」については、「Wikipedia」で縷々説明されている。すなわち、

・ 低予算の範囲内で作った。

『当時のハリウッドでは、芸術家肌のウェルズは映画製作にやたらと金と時間を掛ける扱いにくい監督だと認識されていた。そのためハリウッドで孤立していると感じていたウェルズは、その風評を払拭するために映画会社が設定した予算と期間内で映画を撮影することに尽力した。映画は約90万ドルの制作費を掛け、39日で撮影を完了した。若干予算と期間をオーバーしたものの、これはほぼスタジオの構想に近いものだった。』

つまり、いかな天才ウェルズであっても、予算と制作期間が厳しく限定されては、いつも通りの力は発揮できなかった、ということだ。

・ 撮影後の会社側の意向で、ウェルズの意に沿わない編集がなされてしまった。

撮影後のトラブル
映画の撮影と編集を一通り完了したウェルズは、そのフィルムをユニヴァーサル・ピクチャーズに託し次の映画製作の資金集めのためにメキシコに旅立った。しかしスタジオの役員たちは物語のプロットが難解すぎるとしてそのままでの公開に難色を示し、ウェルズに無断で映画の脚本変更と追加撮影、そして再編集を行った。このとき製作された109分のバージョンは、後に「試写会版」と呼ばれるものである。メキシコから帰ってきたウェルズはスタジオの独断専行に激怒し、彼らに自分の意見を述べた58ページにもおよぶメモを提出した。しかしスタジオは結局ウェルズの嘆願を殆ど無視、それどころかロサンゼルスで行われた先行上映会での不評(映画を俗悪だと感じた女性客が、映画会社の取締役をハンドバッグで殴りつけたという)を受けて更に映画を96分まで短縮した。これが最終的に一般公開されたバージョン、つまり「劇場公開版」である。』

しかし、私が見たDVDは、この「劇場公開版」ではなく、それよりはよほどマシであろう「ディレクターズカット版」である。

(私が見た、現行の「ディレクターズカット版」DVD)

この「ディレクターズカット版」は、実際にはオーソン・ウェルズの死後に再編集の行われたものだから、厳密には「ディレクターズカット版」とは呼べないのだが、ウェルズの残したメモを元に、その構想を可能なかぎり再現したものなので、便宜的に「ディレクターズカット版」と呼ばれているものだ。

なお、批評家の評価も低く、興行的にも失敗した「劇場公開版」が、どうして、のちに他人の手により「ディレクターズカット版」として復活することになったのか。それは、以下のような事情による。

『(※ アメリカでの劇場公開と)同年のブリュッセル万国博覧会で上映されたときは審査員のジャン=リュック・ゴダールフランソワ・トリュフォーたちから絶賛され、万博の最高賞を与えられたという。1960年代に入り若い世代の映画製作者たちを中心に再評価の機運が高まり、現在ではカルト映画として認識されている。』

(Wikipedia「黒い罠」

つまり、国内での評判は散々だったものの、海外では、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の旗手として世界的に注目されていた、ジャン=リュック・ゴダールフランソワ・トリュフォーらが本作を絶賛したために、「わかりにくい犯罪映画」であるにもかかわらず、むしろ(普通ではない)「カルト映画」として評価されるようになっていったのだ。

(いかにもウェルズらしいアングルが素晴らしい。だが、そうしたカットがいつもより少ないという印象は否めない)

では、どうしてゴダールやトリュフォーが本作を褒めたのかと言えば、それは、そもそも彼らがオーソン・ウェルズという「個性的な作家」を敬愛しており、そうした作家の作品においては、その「個性」さえ発揮されているのなら「ストーリーなど、どうでも良い=映画は、ストーリーで見るものではない」と、そうした独自の価値観を持っていたからである。
だから、本作『黒い罠』が「筋のわかりにくい作品」であることは、彼らには、少なくともゴダールにとっては、まったく問題にならなかった。
のちに「商業映画」に転向するトリュフォーは別にして、ゴダールの作品は、そもそもわかりにくい作品が大半であり、たまにわかりやすく評判の良い作品を撮っても、それはゴダール自身にとっては「不本意な妥協の産物」であったりするのだから、ゴダールが本作『黒い罠』の褒めたというのは、なんら不思議なことではなかったのである。

ただし、ゴダールが「時代の寵児」であったからこそ、彼が褒めれば、何でも「すごいすごい」と騒ぎ始める手合いが出てくるのは、避けられないことであった。
だからこそ本作『黒い罠』は、一般的な意味では「不出来な作品(問題点のある作品)」ではあっても、それでも巨匠オーソン・ウェルズのマイナー作品として、「カルト的に」一定の人気を得ることになったのである。

そして、こうしたことから、この「不本意な改ざんに遭った作品」を、何とかウェルズの構想に近いものにし戻してあげたいと考えるファンが出てきた結果、現在の「ディレクターズカット版」が作られた。

ディレクターズ・カット
1992年に映画評論家のロバート・ローゼンバウムが、ウェルズのメモの断片をフィルム・クォータリー誌で公開した。それに触発されたフィルム修復の第一人者リック・シュミドリンは、『黒い罠』の権利を保有しているユニヴァーサル・ピクチャーズと交渉し映画の修復を行う許可を得た。シュミドリンはウォルター・マーチを編集に迎え、現存する試写会版と劇場公開版を用いて映画の再編集を行った。ウェルズ本人は1985年に既に他界していたので厳密に言うとディレクターズ・カットではないが、彼の残したメモに忠実に再構成された上映時間111分の「修復版」は好評を博し、作品の評価を不動のものにした。

修復版は1998年9月11日に北米で公開され、アメリカ国内で約220万ドルの興行収入を挙げた。プロデューサーのシュミドリンは『黒い罠』の修復作業を評価されて、同年度のニューヨーク映画批評家協会賞の特別賞を受賞し、マーチを含むスタッフも全米映画批評家協会賞ロサンゼルス映画批評家協会賞から特別表彰を受けた。2008年10月には修復版のみならず、試写会版や劇場公開版も含めた50周年記念DVDがユニヴァーサル・スタジオから発売された。このDVDにはウェルズがユニヴァーサル・スタジオに提出したメモを模した小冊子が特典として付属しているが、これまでスタジオに秘匿されていたメモの完全な内容が一般に公開されたのはこれが初めてのことである。』

(Wikipedia「黒い罠」

このようにして、見事に名誉回復を果たした『黒い罠』だったが、しかし、私としては現在の「ディレクターズカット版」でさえ、やはり「話がわかりにくい」という難点を抱えていると評価するし、その責任を「勝手にフィルムを切り刻んだ映画会社」側にすべて押しつけることで「めでたしめでたし」とするのは、それはそれで「欺瞞」でしかないと思う。
また、あのオーソン・ウェルズであれば、そんな「権威主義的なお追従」を喜びはしないだろう。

本作が「わかりにくい作品」になってしまったことについては、やはりウェルズ本人も、その責めは免れないし、ゴダールのような特殊な「芸術派」は別にして、私たちの多くが、やはり「ストーリーも大切」だと考えている以上、本作の「筋のわかりにくさ」は、無視して良いことではないのである。

実際、ウェルズと個人的にも親しく、ウェルズのインタビュー本まで刊行している後輩映画監督のピーター・ボグダノヴィッチは、自身の感想を、正直かつ率直にウェルズに語っているが、これはボグダノヴィッチが、ウェルズの映像美だけではなく、その人柄としての「反骨心」までをも愛していたからではないだろうか? そんなボグダノヴィッチだからこそ「お世辞」が言えなかったのだと、私はそのように理解している。

『視覚的には非常に優れていると賞賛される『黒い罠』だが、物語自体はとるにたらないものだと評価する者も居る。ウェルズの研究者であるロバート・ガリスは、作品のスリラー的要素はさして面白くなく、薄っぺらで陳腐でさえあると述べた。映画監督のピーター・ボグダノヴィッチは、『黒い罠』を5回か6回は観ているが筋はあまり面白くなかったので殆ど覚えていない、と友人であるオーソン・ウェルズに語った。それを聞いたウェルズは唖然としたとされる。』

(Wikipedia「黒い罠」

私としては、「百万の絶賛の言葉」よりも、ボグダノヴィッチのこの言葉の方が、数百万倍も「美しい評言」だと、そう思っている。


(2025年3月22日)


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