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クリストファー・ノーラン監督『メメント』:クリストファー・ノーラン論

映画評:クリストファー・ノーラン監督『メメント』2000年/アメリカ映画)

じつに面白い作品だ。だが、この「面白い」というのは、「映画の内容」が面白いというのではないし、その意味で作品そのものが面白いというのでもない。こんな「変な作品」を作った「クリストファー・ノーランという人」が面白いのだ。より正確に言うと、「極めて興味深い」のである。
ノーランはどうして、こんな「変な作品」を作ったのであろうか? そこが興味深い。

もちろん、こんな変な作品を彼が作ったのは、彼自身がそれを「面白い」と思ったからなのだが、この作品の「変なところ」を面白いと思っている人は、ほとんどいないはずだ。
というのも、本作が評判になったのは、本作を「複雑な時間パズル」だと捉えて、そのパズルを解こうとした、いわゆる「考察好き」な人の興味を惹いたからなのだ。

しかし、ここで考えてほしいのは、こうした考察好きな人が行なっている本作「理解」のための「考察」とは、結局のところ、本作で示された、複雑に再構成された「奇妙な世界」の「法則性」を見つけ出し、それによって、本作の奇妙な世界を、元の「真っ当な世界(の時間軸)」に還元することでしかない、という点なのだ。
「本来は、こういうものだったのです。この作品は、こうした特殊な法則性によって再構成された世界であって、決して出鱈目なものではなかったのです」というようなことを、彼ら言いたいのだ。だから、「謎解き」として、それを行うのである。

だが、ノーランは、そうした「謎解きの快楽」を観客に与えるために、本作のような変な作品を作ったのだろうか? 一一私は、違うと思う。

そうではなく、ノーランが意図したのは、自分の頭が真っ当だと信じている私たちの「世界認識」の危うさ、信用ならなさということを、描きたかったのではないだろうか。

私たちは、「正常な時間軸に沿った世界観」として、それぞれに「この現実世界」を捉えているのだけれども、それも所詮は、本作『メメント』の主人公、10分間しか記憶を保てないという「前向性健忘症」を患ってしまったレナード・シェルビーガイ・ピアース)のそれ(世界認識)と、大差のないものなのではないだろうか?

一一私たちが当たり前に行動している時、それは本当に、その時点までの「途切れない時間の記憶」を元にして、その先を論理的に選択しながら生きている、ということなのだろうか?
そこに、「記憶の欠落」いや「記憶の排除・省略」は無いのだろうか?

無論「ある」。しかし、私たちは、そのことに何の疑問も抱かなければ、特に不都合を感じもせず、自分は真っ当な記憶(連続した記憶)において、整合性の取れた時間世界を生きているのだと、そう思い込んでいるのではないか?
確かに、主人公レナードの場合は「極端」なのだけれども、私たちだって基本的には「飛び飛びかつ多少前後した断片的な記憶を繋ぎ合わせることで、一貫した時間の流れる現実世界を生きている」という「つもり」になっているだけなのではないだろうか? いや、そうなっているはずだ。

だとすれば、レナードの「奇妙な世界」とは、私たち個々の「世界観」の、誇張された「戯画」だと言えるのではないだろうか。

無論レナードは、自分に「記憶障害」のあることを自覚しているのだけれども、それを補うために、何でもポラロイド写真を撮って、それに説明書きをメモしておく。
例えば、自分が宿泊しているモーテルの看板の写真を撮って、そこが自分の宿泊先だと記録しておく。あるいは、自身の「妻を殺した犯人への復讐という目的」に関して、深く関係してくるような、敵・味方と思しき人物たちの顔写真を撮っておき、それに「こいつの言うことは信用するな」「彼女は私に同情して協力してくれているようだ」などと書き込んで、それを「記憶」代わりして行動を決定する。
それだけではなく、絶対に忘れてはならないと思える事項に関しては、自分の身体に、刺青にして刻み込むのだ。

ある作中人物は、こうした彼の現在の生き方を評し、彼に対して「メモで生きるなんてことには、所詮限界がある」と批判的に忠告する。
だが、これに対してレナードは「そんなことはない。そもそも人間の記憶なんて不確かなものであり、記憶の中で事実が改変されることなんて、いくらでもある。青いシャツを着ていたと思い込んでいた人物が、実は赤い服を着ていたなんてことも、よくある。そうした、曖昧な記憶にくらべたら、俺のように、写真を撮りメモした記録というのは、よほど確かなものだ。それがいつの間にか歪められていて、違うものになっていた、なんてことはあり得ないからだ。だから、俺はこのやり方で、自分の目的を果たす。妻の仇を取るんだ」と、おおよそそのように反論するのである。

レナードの言うとおり、たしかに「記憶」というものは、じつにしばしば「当てにならないもの」ではあろう。
だが、それでは「記録」の方は、そんなに確かなものであろうか? 

一一もちろん、そうではない。なぜなら、その記録自体が「一定の立場からの、世界の切り取り(解釈)」でしかないからで、決して「客観的なもの」ではないからだ。
同じものでも、角度を変えれば全く別のものに見えてしまう。同じものを見ても、人によって評価(意味するところ)は違う。

そもそも、写真やメモなどの記録は、それそのものとしては「無意味」なのだ。
それを見る者が、その写真やメモが「意味する」と思えるものを「解釈する(解釈的に見出す)」ことで、それらは初めて「意味を成す」。
したがって、こうした客観的な「記録」とされるものも、「解釈」と無縁ではあり得ないという事実において、じつは「記憶」という「解釈を経た内的な記録」と大差はなく、「記憶」が曖昧なもののように、「記録」もまた、本質的には曖昧なものなのである。

だから、「記録」を「記憶」の代わりにして生きる(行動する)ことは、レナードの言うとおり、確かに可能だし、ひとつの方法論ではあろう。
だが、その生き方は、「記憶による生き方」と「同様に」、じつのところ「不確か」なものでしかない。
またその意味で、レナードの行動は「当てにならないもの」に依拠した危なっかしい行動であるというのは確かなのだが、しかしまた、私たちの「記憶に依拠した生き方」だって、程度の差こそあれ、「記憶」という「当てにならないもの」に依拠した、半ば「博打的」な生き方でしかないのだ。一一そして、そうした意味において、レナードの生き方は、「正常」とされる私たちの生き方の、誇張された「戯画」だということになるのである。

したがって、本作を「理解」するのに、それを「時間パズル」のように捉えて、パーツの「並べ替え」により「正常な時間軸に沿って再構成する」ことで、この作品を「理解した」と考えるのは、まず間違いなく、誤りである。

それは単に、「レナードの世界観」を「私たちの世界観」に「還元」したに過ぎない。
レナードが、正常なものとされる「記憶に基づく世界観」を「不確かなもの」だと批判したのと同じ感覚において、私たちもまた「レナードの世界観」に対して、誤った「世界観的な還元」を行っただけなのだ。そうすることによって、「こっちこそが正しい」と、そう思い込みたがりがちなのである。

〈世界とは「ひとつ」でなければならない〉〈いろんな世界観が、同等のものとして多数あるなどということは認めがたい〉一一と、私たちは当たり前に考えがちなのだけれども、実際には「世界観」はいろいろであり、「人の数だけある」と言っても過言ではない。
だが、その多様な価値観とは、通常は「似たり寄ったり」のものだから、私たちは「細かい違い」を切り捨てることで、解釈学的な「誤差」はあれども「世界は一つ」だと、そう信じているのである。

ところが、レナードのように「極端に異なった世界観」が登場して、私たちが「当たり前だと思っている世界観」に疑義を呈することになると、私たちは、そうした「異端の世界観」を解体して、「私たちの世界観」へと接収しようとする。それが一一「考察」という作業の本質なのではないだろうか。

だが、ノーランが本作を作ることで目指したのは、そうした「当たり前の世界観」を補強するための「奇妙なパズル」の提供、ということではないだろう。
そうではなく、私たちが正常なものだと思っている「当たり前の世界観」もまた、「多数派の世界観」だと誤認されている「個人的な世界観の、雑多な寄せ集め」でしかなく、そうした「個人的な世界観」以外に、「客観的な世界観」だの「絶対的な世界観」だのは存在しないのだ、ということを、ノーランは示したかったのではないだろうか。

そのひとつの証拠としては、私が見たDVDに付録されたインタビューにおいて、ノーランは「影響を受けた作品は?」と尋ねられて、アラン・パーカー監督の『エンゼル・ハート』(1987年)と、「最近」のものとして、M・ナイト・シャマラン監督の『シックス・センス』(1999年)を挙げていたのだが、しかしノーランは本作『メメント』を、「こうした作品とは違う(タイプの作品だ)」というふうに語っていた。一一どういうことか。

(『エンゼル・ハート』)
(『シックス・センス』)

『エンゼル・ハート』も『シックス・センス』も、ミステリ小説で言うところの「叙述トリック」を駆使した、その典型的かつ良く出来た作品だと言えるだろう。
つまり、すべてのネタを振りながら観客を引っ張って行った後、最後に「じつは、あなたの見方は間違っていたのですよ。真相(作中現実)はこういうものだったのです」と「別の角度から再構成した世界観」を提示して、観客を、アッと言わせるタイプの作品だった。

そして、そうした意味では、『エンゼル・ハート』や『シックス・センス』は、「正解としての世界観」を前提とした作品であり、それをわざと「誤解を招く角度から描く」ことで観客を「誤導」し、最後に「真相」としての「正しい角度からの世界観」を提示する、という形式の作品なのだ。

一一だが、世界観に「正しい角度」とか「誤った角度」などといったものが、本当に存在するのだろうか?
少なくとも、多くの場合のそれは、単に「多数派の世界観」と「少数派の世界観」というだけのことではないのか? 例えば、「ヒトラーが支持される世界観」と「ヒトラーが拒否される世界観」。
だが、その渦中にいる人は、前者であろうと後者であろうと「自分は、客観的に世界を見ている」と、そう思って(信じて)いるのではないだろうか?

つまりノーランは、そうした「絶対的な世界観」や「唯一の世界観」といった「認識」に、疑義を呈しているのである。「そんなものは無いよ」と。
「レナードの世界観もまた、それはそれで、彼の能力の限界に枠付けられた、正しい世界観なのだ。一一私たちの世界観と同じように」と、そう言いたいのではないだろうか。

クリストファー・ノーランという人は、「客観的事実」だと見えているものに対して、いつでも胡散臭さを感じており「それ、本当なの?」という疑義を呈さないではいられない人なのではないだろうか。

その意味で彼は、徹底した「懐疑派」であり、その懐疑をエンタメの形式に落とし込んだものが、「時間操作によるパズル映画」だということなのではないだろうか。
そしてそのように理解するならば、本作に対する「考察」的な態度、「還元論的な考察」で満足してしまう態度というのは、決定的な誤りだということになるではないだろうか。

だから私は、本稿において、そうした「還元論的な説明」はしないで、ノーランが本作に込めた「意図」の方を考察し、その意図のあり方において、クリストファー・ノーランという人の「特異性」を論じたのだ。
それが「クリストファー・ノーラン論」と題した所以である。

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とは言え、本作がどのような「作り」の作品なのかについても、簡単に説明しておこう。

まずは、本作『メメント』の基本的な「解説とあらすじ」

『クリストファー・ノーラン監督の出世作となった長編第2作で、記憶障害によりわずか10分間しか記憶を保てなくなった男が妻を殺した犯人を追う姿を描いたクライムサスペンス。物語の時系列を逆行させながら描くトリッキーな構造が話題を集め、ノーラン監督の名を一躍世界に知らしめた。

ロサンゼルスで保険調査員として働くレナードは、自宅に侵入してきた男に妻を殺され、自らも頭部を損傷して記憶障害を負ってしまう。それ以来、新しい記憶を約10分しか覚えていられなくなった彼は、ポラロイド写真を撮ってメモを書き入れ、重要な情報を身体のあちこちにタトゥーで刻んで記憶を繋ぎ止めながら、妻を殺した犯人を追うが……。』

映画.com『メメント』

上に紹介された「あらすじ」は、要は「正常な人間によって再構成された、このドラマのあらすじ」だということになるだろう。

だが、本作は基本的に、主人公レナードの立場から描かれているので、こんなにわかりやすいものではない。
そもそも、彼にあるのは、最新10分間の記憶と、この記憶障害を発症する以前の古い記憶、彼の妻が殺される事件までの「過去の記憶」だけなのである。

だから、本作を「記憶障害者の世界を追体験する作品」だとか「レナードの視点に立った作品」だと評するのは、じつのところ正確ではない。
レナードの視点とは、継続したものではなく、「事件以前の古いの記憶」と「10分以内に手持ちの資料などによって再構築した世界観」だけしかない。その間がごっそりと抜け落ちているため、残ったものだけでは、そもそも「物語」にはならないのだ。
そのため、この映画で描かれるのは、レナードの「すでに失われた記憶」を含めたものであり、それをノーラン監督によって、殊更に複雑に「再構成された世界」なのである。
それは、決してレナードの「世界観」ではないし、レナード自身の「世界観」や「世界体験」は、本作に描かれたような複雑なものではないのである。

では、ノーランによる「複雑な再構成」とは、どういうものなのだろうか?

それを、上の「映画.com」の「解説」では『物語の時系列を逆行させながら描くトリッキーな構造』とシンプルに表現しているが、これはあまり正確なものではない。
この映画で描かれるのは、ビデオ映像を「逆再生」するような、シンプルなものではないのだ。そうではなく、レナードの「10分しか持たない記憶」という形式に合わせて、作品を細切れにして、それを、ある一定の法則に従って再構成した、きわめて人工的なものなのである。

そして、その「複雑な再構成」については、本作の「Wikipedia」でかなり事細かく紹介されているのだが、本作を見る前は無論、本作を見てからでも、この説明をすぐに理解できる人は、ほとんどいないだろう。
けっこう長い、具体的なストーリー紹介なのだが、しかしこれでも、作品構造の説明としては、まったく不十分なのである。

だから私はここで、「Wikipedia」とは違った角度から、本作の「複雑な構成」の、基本的な部分を説明したい。
「Wikipedia」では、本作を「白黒のシークエンス」と「カラーのシークエンス」に分けて、その関係性を説明しているが、私は、ここではまず、物語の主たる部分をなす「カラーのシークエンス」の構造を、重点的に説明しよう。

さて、ここに「A」という1本の「羊羹」があるとする(ロールケーキでも良いが)。
これは、本作を象徴するもの(の素材)として、目の前な横たわっていると考えて欲しい。私たちは、物語の時間全体を見通す「神の立場」に立っているのだ。

この羊羹は、私たちから見て、当たり前に「横向き」に置かれている(縦向きではない)。羊羹に包丁を入れて切り分ける際にそうするように、「横向き」に置かれているのだ。

で、この羊羹「A」の、向かって左端を「物語の時間的起点」とし、右端を「物語の時間的終点」とする。
つまり、物語の「時間」は、羊羹「A」という世界の中を、左から右へと、右向きに流れていくのである。

そして、この羊羹を、仮に10等分することにする。つまり、「A−1」「A−2」〜「Aー10」という10個の「パート」に切り分けるのだ。
映画の実際としては、レナードの「10分間しか持たない記憶」に合わせて、もっと細切れにされるのだが、ここでは説明のために、仮に「10キレ」にしたのである。

で、ノーランは、この「10キレ」を、どのように再構成したかというと、まず「A−1」の右側の「A−2」を取り上げて、これを「A−1」の左隣に移し替える。次に「A-3」を取り上げて「A-2」の左隣に移し替える。一一このような作業を「A-10」まで順次くり返し、前に移動させたパートの左隣に移し替えていくのである。
すると、出来上がるのは、時間軸に沿って左から「A-10」「A-9」「A-8」〜「A-2」「A-1」と並んだ(再構成された)羊羹だ。

では、この「羊羹世界」の中を、時間軸に沿って「左から右へ」と体験していけば、それはどんな世界体験になるだろうか?

無論それは、結末から発端に「逆再生」されたような、単純に一方向的な「世界」ではない。
結末に近い「A-10」パートの左端(本来は「A-9」の右端と接していた側面)から物語は始まって、「A-10」の中においては、それは時間軸どおりに(右へと)進行する。だが、それが「A-10」パートの右端に達した段階で、次の「A-9」パートの左端に接続される。つまり、「過去へ(飛躍的に、ぴょんと)逆戻りする」のだ。
そして、その「A-9」のパートの中においては、それは時間軸どおりに(右へと)進行するのだが、それが右端に到達すると、そこは「A-8」のパートの左端に接続されて、再び「より過去へと飛躍的に逆戻りする」のである。そして、これが発端のパートである「A-1」の右端に到達するまで繰り返されるのだ。

つまり、ノーランによって再構成された後の、新たな「羊羹世界A」の中を時間軸に沿って左から右へと体験していく者は、最も未来の、結末に近い「A-10」パートから始まって、その中でしばらくは「まともな時間体験」をした後、いきなり時間が過去に飛躍して、またその新たな「過去のパートの中」で「まともな時間を体験し」ということを繰り返した後、起点に近い「A-1」のパートに達して、その右端にまで達した段階で、この物語は終了するのである。

したがって、本作における時間体験は、単純に「時間が(一方向的に)逆行する」のではなく、「正常な時間の流れを体験した後に、いきなり過去に飛躍する」という体験の「繰り返し」になるのだ。
つまり、遠目には「時間的に行ったり来たり(進んだり戻ったり)を繰り返しながら、全体としては、過去に戻っていく」という、そんな「ジグザグ後退」的な時間を経験することになるのである。

そして、以上のことを踏まえて、本作を見れば、「まったく訳がわからない」とか「出鱈目なんじゃないの?」ということにはならない。
本作は、こうした「法則性」によって、再構成されているのである。

ただし、これは「基本的な構造としてのカラーのシークエンス」の説明であって、「白黒のシークエンス」については、省いて説明したものにすぎない。

実際の作品には、この「白黒のシークエンス」が、「A-10」〜「A-1」までのそれぞれのパートの間にさし挟まれるので、余計に訳がわからなくなってしまう。

しかも、この「白黒のシークエンス」は、劇中で主人公のレナードが「モーテルにいるごく限られた時間(部分)」を抜き出してきて、それを細切れにし、しかし、その細切れのパーツを「時間軸どおりに」、「A-10」〜「A-1」までのそれぞれのパートの間にさし挟んでいくのである。
だから、「白黒のシークエンス」は、細切れにされているとは言っても、「カラーのシークエンス」のように順序が入れ替えられているわけではないのだ。映画全体として見れば、「時間軸どおりに、しかし細切れに進行する」のであり、そんな「白黒のシークエンス」と、パート単位で「順序が入れ替えられ、終点に近いパートから始点に近いパートへと遡行していく、カラーのシークエンス」が、交互に登場する、ということになる。
しかも、さらにはそこに、「偽の記憶」までが加わっているのだ。

だから本作は、一度見ただけでは、その「筋」を完全に理解することはできない。最後の方では「逆になっているんだな」と、おおよそのことはわかっても、その再構成原理を正確に理解することは、ほとんど不可能。そのため、鑑賞後に、すでに数多く書かれているであろう「考察」記事を参照するか、自分で何度も鑑賞して、少しづつその構造を理解するしかないのである。

だが、最初に書いたとおり、この作品の「構造」を理解するという「還元主義的な謎解き」で満足していたのでは、クリストファー・ノーランが本作で描こうとしたものを「理解した」ことにはならない。

肝心なのは「ノーランはなぜ、こんなヘンテコな映画を作ってしまった(しまう)のか? 単に、謎解きパズルを作りたかったのか?」ということであり、それくらいのことは、考えてみるべきなのである。

無論、ノーランは「謎解きパズル」が作りたかったのではない。

ノーランが、『エンゼル・ハート』や『シックス・センス』を「面白い」と思いながらも、しかしそれらと本作『メメント』とは「違う」と言ったのは、ノーランとしては、『エンゼル・ハート』や『シックス・センス』の、その「捻った見せ方」を面白いと評価しはするものの、自分が作りたいのは、そんな「謎解きパズル」などではないと、そういうことだったのではないか。

ノーランがしたかったのは、もっと大きな「解き得ない謎かけ」だったのではないだろうか。


(2025年3月17日)


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