クリストファー・ノーラン監督 『バットマン ビギンズ』 : 次作『ダークナイト』のための「下拵え」作品
映画評:クリストファー・ノーラン監督『バットマン ビギンズ』(2005年/アメリカ・イギリス合作映画)
本作『バットマン ビギンズ』は、劇場公開時に見て以来の、再鑑賞である。
正直なところ、私は本作『バットマン ビギンズ』が物足りなかった。
当時、なにがどう物足りないのかまではよくわからなかったのだが、その後、本作の監督であるクリストファー・ノーランの他の作品をいくつか見て、ノーランの「個性」をある程度把握した今なら、『バットマン ビギンズ』を物足りなく感じたその理由も、おおむね掴めたと、そう思えるようになった。
したがって本稿では、そのあたりを明らかにしていきたい。

さて、私は昔から、スーパーマンとバットマンが好きだった。しかし、この二大ヒーローに対する愛好理由は、かなり「方向性」が違っている。
スーパーマンが好きな理由は、その「正統派ヒーローとしての、真面目なヒューマニズム」に惹かれたためだ。
一方、バットマンの方は、そのコスチュームからもわかるとおり、日本で言えば「仮面ライダー」などに通じる(実際には、『仮面ライダー』の祖先の一人なのだろうが)「仮面のヒーロー」という点と、それに伴う「暗さ」や「ゴシックさ」に惹かれたのだ。
スーパーマンが「光のヒーロー」ならば、バットマンは「闇のヒーロー」であり、まさに「ダークナイト」なのである。

言い換えれば、私がバットマンに惹かれたのは、その「暗さ」と、またそれに見合った、「狂気」を帯びたその「世界観」だったと言えよう。
宿敵ジョーカーなどに象徴される「暗くて狂った世界」での「異形同士の戦い」というところに、スーパーマンとはまったく違う種類の、独特の魅力を感じていたのである。
そんなわけで、私は1989年のティム・バートン版『バットマン』以降、バットマン映画はすべて劇場公開時に見ている。
つまり、バットマン映画で見ていないのは、たぶん1966年版の『バットマン』だけで、これは私の4歳時だから劇場で見るというわけにもいかなかった。だが、その後の幼少時に「テレビシリーズ版」を、すべてではないにしろ見ているし、1966年版の映画もテレビで見ているかもしれない。そのあたりの記憶は、どうしたって曖昧なのだ。
ただ、いずれにしろ、テレビで見たバットマンに惹かれるものを感じたればこそ、1989年版の『バットマン』を見に行ったのだし、その後の色々なバットマンも、それなりに楽しんで見たのである。
そんなわけで、大好きなバットマンについては、いずれまとまった評論文を書きたいと、私は長らく思ってきた。
特に肝心なのは、本作『バットマン ビギンズ』の続編で、ノーラン監督による「ダークナイト・トリロジー」3部作の第2作、ご存じ『ダークナイト』である。

『ダークナイト』は、バットマン映画の中で「別格」というだけではなく、私にとっては「映画のオールタイムベスト10」に入る作品である。
その証拠に10年以上前、本来なら、好きな「本」を紹介するためのSNS「ブクログ」に、旧ハンドルネーム「アレクセイ」名義で作ったページ「黒いコレクション99+1」に、映画作品として唯一、この『ダークナイト』を登録している。
映像作品としては『ダークナイト』の他に、テレビドラマである『ツイン・ピークス』を登録しているだけだから、私の「ダーク」趣味も、おのずとご理解いただけよう。
さて、こうした流れの中で、私は本作『バットマン ビギンズ』も、当たり前のように劇場へ見に行った。
だが、前記のとおりで、正直なところその出来には、かなり不満が残った。
だから、その続編ある『ダークナイト』が、まさかあのような大傑作になるとは、思いもしなかったのだ。
また、さらに言えば、『ダークナイト』があれだけの作品だったのだから、完結編の『ダークナイト ライジング』もさぞや傑作だろうと期待して見に行ったのに、これはまた、期待はずれに終わってしまった。
一一そこでおのずと「この極端な落差は、いったい何なのだろう?」という当然の疑問を、私は抱いてしまったのである。
そして、こうした疑問を抱えたまま、私は20年ほど前に一度、本作『バットマン ビギンズ』のレビューを、Amazonカスタマーレビューとして書いている(のちに「note」に転載)。
この時の私の、『バットマン ビギンズ』についての評価は、「優等生的な作品になっており、バットマンの世界らしい暗さや狂気が無くて、物足りない」ということだった。
つまり、「なぜ、狂気の世界が描かれなかったのか?」という疑問への解答までは、見出せていなかったのだ。
だが、そんな長らくの懸案だった「疑問」への解答が、ノーランの他の映画をいくらか見た今なら出せると、そう思えるようになった。
一一では、その「解答」とは如何なるものであったか?
それは、本作『バットマン ビギンズ』に限って言えば、その弱点は、ノーランらしい「リアリズム」にあった、ということだったのである。

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本作『バットマン ビギンズ』は、「ビギンズ」というタイトルでもわかるとおり、「バットマンの誕生」を描いた作品である。
そのあたりの事情をまとめた、「映画.com」の作品紹介文を、まずは引用しておこう。
『クリストファー・ノーラン監督がクリスチャン・ベールを主演に迎え、DCコミックの人気ヒーロー「バットマン」を新たに映画化した「ダークナイト・トリロジー」3部作の第1作。ノーラン監督と「ブレイド」シリーズのデビッド・S・ゴイヤーが共同で脚本を手がけ、大富豪ブルース・ウェインがバットマンになるまでの物語を描き出す。
ゴッサム・シティで暮らす大富豪の御曹司ブルースは、幼い頃に両親を目の前で強盗に殺され、復讐心を抱えたまま成長する。やがて自分の無力さを思い知った彼は世界中を放浪した末に、ヒマラヤ奥地の秘密組織「影の同盟」で過酷な修行を積む。数年ぶりにゴッサム・シティに戻ったブルースは、犯罪と不正がはびこる街の現状を目の当たりにし、漆黒のスーツに身を包んだ闇の騎士・バットマンとなって巨悪と闘うことを決意する。
共演にはマイケル・ケイン、リーアム・ニーソン、ゲイリー・オールドマン、渡辺謙といった名優たちが顔をそろえた。』
(映画.com『バットマン ビギンズ』「解説・あらすじ」より)
つまり本作『バットマン ビギンズ』は、怪しい黒衣に身を包んでいるとは言え、理想主義的な騎士の精神を持つバットマンの誕生を描いた作品であり、その点では「正統派ヒーローもの」になっていたのだが、一一そここそが、問題だったのだ。
と言うのも、一般的と言えるかどうかは別にして、少なくとも私にとってのバットマンの魅力とは、その独特の「暗さ」や「ゴシックさ」にあった。
そこが、スーパーマンには無い、独自の魅力だったのだが、ノーランはその特性を、実質的に「消そう」としてしまったのである。言い換えれば、バットマンを「正統派のヒーロー」に「解釈し直そうとした」のだ。
そして、そのための手法が、「リアリズム」だったのである。
バットマンの世界は、いわゆる「狂気の世界」であって、「リアリズム」の世界とは、元来、ほど遠いと言えよう。
バットマンが守ろうとする生まれ育った街ゴッサム・シティに巣食う、ジョーカーをはじめとした「狂気の犯罪者」たちは、バットマンと同様、いずれも「人間」だとは言え、これもバットマンと同様に「異様な扮装」をしている。

有名なジョーカーはもとより、ペンギンやスケアクロウなどの怪人が、奇妙とも珍妙とも言えるような扮装をするにあたっては「それなりの理由づけ」がなされてはいる。
しかし、とは言うものの、やはり「リアリズムの観点」からすれば、それらの扮装は所詮、正気を疑わせる「珍妙」なものでしかないだろう。一一だが、その「珍妙」さがどこから出てきたものなのかと言えば、それこそが、まさに「狂気」からなのだ。
と言うのも、「バットマン」シリーズに登場するジョーカーなどの「扮装した悪役」たちは、いずれも「精神病院」を脱走した犯罪者なのだ。
彼らが収監されていた精神病院とは、正式名称「アーカム・アサイラム」、通称「アーカム精神病院」で、この精神病院は、普通の精神病院ではなく、精神に異常をきたした犯罪者専用の精神病院なのである。
だからこそ(頭がおかしいからこそ)「あんな珍妙な扮装をしている」のだ、という話にもなるのだ。
ところがだ、私の見たところ、クリストファー・ノーランという人は、こういう「漫画っぽい」のが、あまり好きではないように見える。
と言うのも、彼のそれまでの作品を見てみると、ノーランというのは、基本的には「リアルな世界」を描きながら、それでいて、それを「ひねって見せる」のが好きな人なのだ。
つまり、ノーランは「リアルな世界」そのものを描きたいのではなく、彼がやりたいのは、「ひねって見せる」の方(=まともな世界を、方法的に歪めて見せること)なのである。
言い換えればこれは、「ひねった見せ方」の面白さを強調するためには、ひねる前の世界は「オーソドックスにリアルな世界=真っ当な世界」でなければならない、ということである。
最初から「世界」が歪んでいたのでは、いくら見せ方に工夫をして「ひねって見せた」ところで、観客は「そういうものなんだろう」と、何も考えずに受け入れてしまうことになる。
だが、ノーランとしては、そうではなく、観客に「なにこれ? どうなっているの?」と考えて欲しいのだ。
そうしたノーランの嗜好から出た典型的な作品が、劇場用映画第2作である『メメント』や、難解な造りで知られる『TENET テネット』なのである。
『メメント』では、やりたい放題でその極限にまで達した、世界を断片化して「再編集する」という手法は、多かれ少なかれ他の作品でも使われている。
私がこれまでに見たノーラン作品で言えば、一種の「伝記映画」であるはずの『オッペンハイマー』にさえこの手法が使われており、ある意味では無用に「わかりづらい描写」になっていたりもするのである。
だが、一見、不思議なことに、本作『バットマン ビギンズ』では、その手法が用いられていない。
映画の造りとして、オーソドックスでストレートであり、およそ「ノーランらしくない」のである。
ともあれ、こうしたことからもわかるとおりで、ノーランが本来やりたいのは「ひねった、世界の見せ方」であり、それをするためには、その前提として「リアルな世界」を描く必要があった。
ところが、前述のとおりで「バットマンの世界」というのは、基本的には「狂気の世界(歪んだ世界)」であり、そこで少々変なことをやっても、観客たちは「そういうものなのだろう」と安易に納得してしまうから、ノーランがやりたいような「論理的なひねり」が、効果を発しにくい。
「何でそうなるの? 普通はそうはならないよね」という「知的な疑問」を観客に持たせにくい世界観だからこそ、ノーランは、バットマンの世界を、「リアリズム」の手法において「再構築」しようとしたのだ。
自分がやりたいことをやれる世界に、基礎から作り替えようとしたのが、この「ダークナイト・トリロジー」の第1作である、『バットマン ビギンズ』だったのである。
だからまた、本作では、ノーランらしい「ひねった構成的描写」が、採用されていないのだ。本作が、何よりもまず「基礎作りのための作品」だったためなのである。
本作の中で、バットマンが「自警団」的に悪人狩りを始めたことを知って、それに職域を荒らされたと不快感を露わにした警察官が、バットマンのことを「コスプレ野郎」と謗るシーンがあるけれども、じつのところこの言葉は、ノーランの求める「リアルな世界観」から必然的に出てきたものであり、たぶん、ノーランの実感にも近いものなのだろう。
「こんなヘンテコな扮装で、犯罪者と闘うなんてあり得ない。リアリティが無さすぎる」というのが、ノーランの実感だったはずなのだ。

だから、もしかするとノーランは、本当はアメコミ・ヒーローには、あまり興味は無かったのかもしれない。
ただ、映画作家としてのキャリア形成を考えれば、無視できないビッグチャンスだからと、あえて本来の自分の好みとは違ったものに挑戦し、それを「自分なりのものに仕上げてやろう」と、そう考えたのではないだろうか。
だからこそ、そのためにノーランは、本作『バットマン ビギンズ』で、徹底して「リアルな根拠づけ」を行なったのだ。
例えばそれは、
(1)バットマンが、並外れて格闘で強い理由
(2)バットマンのコスチュームや武器のリアルな根拠づけ
(3)なぜ、ジョーカー以下の奇妙な扮装の犯罪者が生み出されることになったのかの理由づけ
といったことだ。
(1)については、本作で描かれているとおりで、バットマンは悪と戦える力をつけるために、「武者修行」の旅に出て、世界各地で各種の格闘技を身につけ、最後は本作で描かれるヒマラヤ奥地の「忍者集団」で修行した、ということになっている。
バットマンの戦い方とは、超人のスーパーマンとは違って、「忍者的リアリズム」だということなのだ。

(2)については、バットマンのコスチュームや武器の製造過程がリアルに描かれ、バットマンのブルー・ウェイン自身が、コスチュームを黒色に塗装するために、塗料の吹付を行うというシーンまで描かれている。

また、特に本作の「リアリズム指向」が典型的に表れているのが、バットマンの愛用車「バットモービル」の、大幅なデザイン変更である。
それまでのバットモービルは、多かれ少なかれ「典型的なアメリカ車に、派手な飾りつけとマーキングをしたもの」であり、およそ戦闘向きではない、派手なデザインだったのだが、今回は「戦車」と呼ばれることさえあるほどの「高速装甲車」とでも呼ぶべきものに、変わっている。


これは、本作の中では『軍隊の工兵部隊が戦地で河川などに橋を架ける為に試作された特殊装甲車両』(wiki)として「ウェイン社」が開発した戦闘車両を、黒く塗ることで、バットマン専用車として「転用」したものという、「リアルな設定」になっているのである。

(3)については、もともと「犯罪者専用の精神病院」であるアーカム精神病院のあった島が、本作で描かれる「毒性の強い幻覚薬物の大量散布事件」のせいで、島ごとその薬物に侵されてしまい、アーカム精神病院の収監患者の犯罪者たちは、もともと犯罪者だったところに、薬物による脳汚染のために「おかしくなってしまった」と、このような「続編への伏線」が張られているのである。
まただからこそ、本作『バットマン・ビギンズ』に登場する悪役は、基本的に素面の「普通の犯罪者」であり、せいぜいのところ、極端な「思想的確信犯(集団)」でしかない。
唯一の「怪人」であるスケアクロウさえ、「怪人」そのものではなく、「普通の犯罪者」で、ただ、彼が問題の麻薬を使って人を脅す際に、ズタ袋の覆面を被ると、その姿が麻薬による幻覚で「実際(リアル)以上の、バケモノに見える」というだけのことなのである。つまり、本作のスケアクロウは「ただの悪人」なのだ。

ノーランは、以上のようにして、本作『バットマン ビギンズ』では、自分が描きたい「ひねった世界」を見せるための、「下拵え」をした。それに徹したのだ。
徹底的に「合理的な根拠」付けを行うことで、「リアルな世界」へと「世界観の構築」をし直したのである。
しかしながら、言い換えれば本作では、やりたいことの「準備を整えた」だけ、なのだ。
だから、「正統派のヒーロー」の作り変えられたとは言え、それがために、「バットマン」シリーズ特有の「狂気の世界=歪んだ世界」観が、本作からは失われてしまい、そうした本来の世界観が好きな私のようなファンには、いかにも物足りない作品になってしまったのである。
したがって、実際のところ本作『バットマン ビギンズ』は、本作単体では「完成作品」ではなかったのだ。あくまでも、続編があっての「前振り・下拵え」的な作品でしかなかった。
ノーランはまだ、本作ではその本領を発揮してはいなかったのである。

したがって、本作を「高く評価する」人というのは、そもそも「バットマンの世界」観が、まるでわかっていないのだ。
例えば、本作の「Wikipedia」で紹介されている、次のような、笑える「知ったかぶりの評価」が、その好例である。
『 批評家の反応
本作は批評家から好評を得ており、映画批評サイトのRotten Tomatoesは、269件のレビューに基づいて84%の支持率を示し、評価の平均点は10点満点中7.7点である。また批評家の総意は本作について「不気味で暗いが、エキサイティングでスマートであり、『バットマン ビギンズ』は最高のスーパーヒーロー達の本質を理解している映画である」としている。
Metacriticには41件のレビューがあり、加重平均値は70/100となっている。
著名な批評家のロジャー・イーバートは、4つ星満点中最高の4つ星をつけた。また「バットマン・ビギンズは、ついにバットマンの伝説の暗くて厄介な深みに浸透し、スーパー・ヒーローを創造した」「この映画は単にコミックを起源とするストーリーの伝統の中で、バットマンの始まりを提供するだけではなく、ブルース・ウェインが親のいない幼年期から友のいない大人へと変化するまでの苦しい道のりを模索している」と評しており、「これこそ私が待ち望んでいたバットマン映画だ。もっと正確にいうならば、これを待ち望んでいたということに私は気づいていなかった」と絶賛している。』
(Wikipedia「バットマン ビギンズ」)
一一「著名な批評家」と言っても、所詮は「この程度」なのだ。
だから、著名人の言うことを鵜呑みするのは、「見る目のない人間」の「権威主義」的盲従でしかないと、いつも私は批判しているのである。
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なお、本作『バットマン ビギンズ』でなされた「前振り・下拵え」が、次作『ダークナイト』で、どのように「開花」するのかについては、こちらもひさしぶりに同作を再鑑賞した上で、『ダークナイト』のレビューとして、近々アップしたいと思うので、今しばらくお待ちいただくことにしよう。
ともあれ、私の評価としては、本作『バットマン ビギンズ』は、次作『ダークナイト』の下拵えのための作品でしかない。
さらに先走って言えば、シリーズ第3作『ダークナイト ライジング』は、『ダークナイト』でやりたいことをやり切った後の、「蛇足的まとめ」作品でしかなかった、ということになろう。
三部作完結編として『ダークナイト ライジング』のレビューも書く予定ではあるが、メインはあくまでも『ダークナイト』なのだということで、次回を期待して、お待ちいただきたい。

(2025年8月25日)
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