ザック・スナイダー監督 『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』 : ヒーローたちの孤独と希望
映画評:ザック・スナイダー監督『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』(2016年/アメリカ映画)
本作『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』は、ザック・スナイダー監督による「ジャスティス・リーグ三部作」の2作目である。
なお、シリーズ1作目である『マン・オブ・スティール』のレビューにも書いたとおり、3作目に当たる『ジャスティス・リーグ』とは、当初ザック・スナイダーが監督して撮影を進めるも、諸般の事情から途中降板し、その後をジョス・ウェドンが引き継いで完成させた劇場公開版『ジャスティス・リーグ』(2017年)のことではなく、その後、ザック・スナイダーが当初の構想をもとに完成させた『ジャスティス・リーグ〈スナイダー・カット〉』(2021年)を指している。
劇場版『ジャスティス・リーグ』も、監督名としてはザック・スナイダーの名前が掲げられてはいるものの、『マン・オブ・スティール』や本作『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』の不評を受けて、ジョス・ウェドンが、追加撮影分を含めて、作品の調子を「明るく」変更したものなので、この劇場版は、実質的にジョス・ウェドンの監督作品と考えるべきだからである。
したがって、私が「ザック・スナイダー監督による、ジャスティス・リーグ三部作」と呼ぶ場合の「三部作」とは、次の3作のことを指している。
(1)『マン・オブ・スティール』(2013年)
(2)『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』(2016年)
(3)『ジャスティス・リーグ〈スナイダー・カット〉』(2021年)
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さて、今回は第2作目の『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』(以下『バットマンvsスーパーマン』と略記する)である。

前作『マン・オブ・スティール』が、特に批評家筋から不評だった理由は、ひとえに「ユーモアが無い」「暗い」という点だったというのは、『マン・オブ・スティール』のレビューの方で紹介したとおりだし、その批判が「不当」なものであるということも、縷々論駁しておいた。
私の反論とは、要は、
「孤高のヒーローが、悩みを抱え、苦悩するのは当然のことだ。スーパーマンは、肉体的には超人でも、心は普通に真面目で不器用な人間(地球人)なのだから」
ということである。
スーパーマン(ヘンリー・カヴィル)のことを、失われた「神」に代わる信仰対象にして依存したいような人たちには、「苦悩する神」など、ひ弱に見えて物足りなく、そのため認められないのかも知れないが、しかし、そんな人たちこそが、まさに神を殺すのである。
神とは、依存対象ではなく、その示すところに、及ばずながらも倣う対象でなければならない。それが、真の信仰というものだからだ。

スーパーマンが、身体だけではなく、心をも「鋼の男」であることを期待した人にとっては、本作『バットマンvsスーパーマン』に登場した、バットマンことブルース・ウェイン(ベン・アフレック)もまた、ヒーローとしては物足りなかっただろうし、その点で、本作に不満を持ったのも当然であろう。
本作のバットマンもまた、人並みに苦悩を抱えていたのである。決して「明るく」などなかったのだ。

スーパーマンが、地球人の心を持ちながら、「異星人」としての出自と特別な能力を持つが故に、一方的な賞賛と同時に、絶えることのない疑いと反発を向けられて「孤独」だったように、ブルース・ウェインもまた、やむを得ない「孤高の戦士」であった。

彼の代わりが務まるものは他におらず、いくら身体を鍛え、特殊なスーツで身を固めていても、彼はどこまでも普通の人間だったから、やがて肉体は老い、心だってくたびれてくる存在だった。いつまでも若々しい理想に燃えて、溌剌としていられるような超人ではなかったのである。
実際、本作におけるバットマンことブルース・ウェインは、もう若くはない、ということが強調されている。
執事のアルフレッド(ジェレミー・アイアンズ)がウェインに対し、軽口めかして「貴方ももう若くはない」と言うのだが、これはウェインが肉体的にも精神的にも「疲労」の局地にあることを感じ、不安に思っているからなのだ。
「貴方も人間なのだから、いつまでも戦い続けることはできないし、休むことも必要だ。また、そうしなければ、貴方は心まで病んでしまうだろう。私はそれが心配でならないのだ」
と、そう気を揉んでいるのである。
だがまた、そんな忠言に耳を貸すウェインではないことも、彼を子供の頃から知るアルフレッドは、重々承知していた。だから、率直に「休んでください=バットマンを引退してください」とは、言えなかったのだ。

実際、本作のバットマンは、本編最後のスーパーマンとの和解に至るまでは、ずっと暗い。
「私がやらなければ」という使命感だけに駆られており、精神的な余裕がないとも言えよう。だからこそ彼は、容易にスーパーマンを「敵」であると誤認し、誤信してしまうのだ。

彼にとって、心底信じられるのは、育ての親も同然のアルフレッドだけであり、生まれ育ったゴッサムシティのために戦いながらも、今の彼は、街の人たちでさえ信用しきれなくなっていただろう。
そんなブルース・ウェインの抜きがたい「懐疑と苛立ちと疲れ」をよく表わす言葉が、本作中で漏らされる次の言葉だ。
「悪は永久に消えることはない。雑草のように、抜いても抜いても、次から次に生えてくる」
つまり、ゴッサムの人々の中からも、新たな犯罪者は生まれてくる。
今は犯罪者でない人が、犯罪者になるのである。
したがって、「悪」の存在しなくなる日など来ない。
では、なぜそうなのか?
それは無論、人間とは、善と悪とを併せ持つ存在であり、その葛藤の中で生きてこそ人間だからである。
善だけしかない「人間」の世界など、およそ想像もできないし、それはたぶん「死の世界」めいたものなのではないだろうか。
人間が人間であり得るのは、たぶん誤っても、またやり直せる可能性を秘めた存在であるからであって、初めから誤らない存在だからではない。
バットマンが、悪人たちを殺すのではなく、刑務所へと送り出すのは、彼らもいつかは変われるという可能性を信じるからに他ならない。
だが、そうした「人間に対する希望」が、バットマンの中で崩れつつある。
長年の「疲れ」が、彼の精神をも蝕んで、人間を信じることの困難を引き受けるだけの「強靭さ」を蝕んでいたからだ。
そして、そうしたことの直接的な原因は、本作の中で暗示的に語られる「ロビンの死」なのであろう。
バットマンの武器庫のなかには、ロビンの遺品と思しきスーツが展示されているのだが、そのスーツには「これはジョークだ」というような落書きがなされている。

これはほぼ間違いなく、ジョーカーとの戦いの中で、ロビンが犠牲になったということを示唆しているのであろう。
ジョーカーは、殺したロビンのスーツにこの落書きを残して、バットマンをからかったのである。
このほかに、ブルース・ウェインの「この街は、かつてピエロに悩まされたことがあったからな」というようなセリフもあって、このピエロとは、無論ジョーカーのことを指しているのだ。
「かつて悩まされたことがある」ということは、すでにジョーカーは活動を停止しているということで、これは当たり前に、ジョーカーを刑務所に入れたということなのか、あるいは、ロビンを殺されたバットマンがジョーカーを殺した、ということを暗示するものなのか…。
いずれにしろ、本作で描かれるバットマンことブルース・ウェインは、心に深い傷を負っており、疲れ切っている。
それでも、そんな自分を鼓舞するために、ロビンのバトルスーツを、落書きの残された状態のままで、殊更に展示しているのだろう。決して、ロビンを失ったことの「痛み」と、犯罪者たちへの「憎しみ」を、忘れないようにと。

だが、アルフレッドは、そんなウェインを心配しているのである。
正義と理想のためではなく、すでに「復讐」のために犯罪者と戦っているかのようなバットマンは、ほとんど「復讐鬼」に近いものになってきている。
そして、その抑圧された憎悪の象徴が、本作で描かれる、捕まえた犯罪者に対して押す「コウモリマークの焼ごて」であろう。
犯罪者を殺すことまでは思い止まっているけれども、そのまま警察に引き渡すだけでは、気が収まらないので、サディスティックにも焼ごてを印す。
そして、この焼ごてが意味するのは「お前は刑期を終えて出てきても、生涯犯罪者であることに変わりはないのだ」と、そういうことなのであろう。
この時のバットマンは、すでに「人間は変われる」とは、信じられなくなっていたのだ。
また、だからこそ、本作のラストで、警察に囚われて刑務所入りしたレックス・ルーサーJr.(ジェシー・アイゼンバーグ)の前にバットマンが現れ、コウモリマークの焼ごてを振るうのだが、その焼ごてはレックス・ルーサーJr.を逸れて、横の壁に印される。
これはたぶん、バットマンが「人間への信頼と希望」を取り戻したということを示すものであり、本来のバットマンへと回復したことを示すシーンだったのではないだろうか。

ともあれ、本作のバットマンは、人間に絶望しかけており、犯罪者への「報復」に燃えて、逆に、犯罪者との距離は無限に近づきつつあった。
だからこそアルフレッドは、このままではいけないと思いつつ、犯罪者狩りへと赴いていくウェインを止めることができないでいたのである。
本作を見ていて、バットマンが簡単にスーパーマンを敵視したことに引っ掛かりを覚える人も多いのだろう。
だがなぜ、ああも簡単にスーパーマンを敵視できたのかと言えば、それはバットマンが精神的に疲れていたからであり、理想を見失いかけていたからなのではないだろうか。
だからこそ、「人々の希望になろう」という、無垢で崇高な理想に生きる、かつての自分のようなスーパーマンの存在が、苛立たしく感じられていたのではないか。
「おまえはわかっていない。そんなもんじゃないんだよ、現実は。特別な力があると思って、いい気になるな」
一一そんな妬みにも似た苛立ちがあったのではないだろうか?
そうでなければ、スーパーマンとゾット将軍との戦闘の中で、やむなくそれに巻き込まれた犠牲者が出たことに対し、バットマンが逆恨みめいた怒りを、スーパーマンに向けることなどしないはずなのだ。
たぶん、バットマンがスーパーマンを憎まざるを得なかったのは、かつての自分が、自身の理想に巻き込んだために死なせざるを得なかったロビンのことを、深く悔いていたからであろう。
「スーパーマン、おまえはいい気になって、正義のヒーローを演じているのだろう。だが、その陰で犠牲になっている人たちの存在になど、気づいてはいないだろう」
と、かつての自分を憎むようにして、バットマンは、殊更にスーパーマンを憎み、敵視したために、スーパーマンと戦わざるを得なかったのではないだろうか。

だから、本作に「不死の超人」であるワンダーウーマン(ガル・ガドット)が登場することには、必然性がある。
彼女は「不老不死」の人であり、当然、その人生の中で、愛する人とのつらい別れを幾度も経験してきているのだ。
それでも彼女は、守るべきものを守り続けてきたし、決して絶望することはなかった。
なぜなら、永遠に生きる彼女には、絶望は許されてはいなかったからである。

だから、そんな彼女から見れば、スーパーマンは無論、バットマンもまた、まだまだ子供なのだ。
「僕が戦う」と言って、独りで前に出ていっては、傷ついて帰ってくる。しかし、いくら強がっても、「独りでは寂しい」と陰では泣いている。そして時には「お前なんか嫌いだ」と心にもない言葉を友達にぶつけて喧嘩するような、幼さの残る「男の子」なのである。
本当に「困った男の子」。でも、だからこそ「愛おしい男の子」なのである。
したがって、本作の最後の戦いでは、レックス・ルーサーJr.の生んだ、クリプトンの怪物ドゥームズデイから、二人を守るかたちでワンダーウーマンは登場し、二人を結びつける役目を果たす。


同じ「マーサ」という名を持つ母の存在がきっかけとなって、スーパーマンへの誤解を解くことになるバットマンだったが、本作の鍵となるのは「母」の存在であり、「母性」というものなのではないだろうか。
ややもすると孤独になりがちな、孤高のヒーローたちだが、それでも彼らも人間であり、どこかで、心の支えとなってくれる存在を欲してはいないはずがない。
スーパーマンがスーパーマンであろうとしたのは、盾になって守る男としての「父」の背中を追ったからであり、それはバットマンことブルース・ウェインだって同じことだ。父が守ろうとしたした街を、彼も守ろうと奮闘したのである。
・ スーパーマンの養父:ジョナサン・ケント(ケビン・コスナー)
だが、彼らも人間であれば、孤独な戦いに耐え続けことには限界がある。
そしてそんな時、彼らを支えたの「母」の存在であり、スーパーマンの場合はロイス・レイン(エイミー・アダムス)の存在でもあったのだろう。
ザック・スナイダーという人は、いかにも「マッチョな作風」の人だが、しかしその分、「母性」に惹かれる人でもあったのではないだろうか。
ともあれ、元来が陽性のスーパーマンに対して、バットマンは、どこまでもストイックだった。
金持ちであり、武器に恵まれているとは言え、実際に戦うのは生身の人間である彼なのだから、本作でも描かれているとおりで、彼はいつでも、ストイックに自らの身体を鍛えていなければならなかった。
人間である彼が、その使命を果たすためには、人間であることを超えなければならない部分が確かにあったのだ。
また、幼くして両親を目の前で殺された彼が、結婚や子供を作ることに臆病であったとしても、それは当然のことだろう。
「子供に、自分と同じような、つらい思いをさせたくない。けれども、バットマンとして戦うかぎり自分は、必要とあらば、いつでも死ねる人間であらねばならない。だから、個人的に守るべき、妻や子を持つことはできない」
と、彼がそうストイックに考えても、何の不思議もないのである。
しかし、そんなふうに真面目かつストイックであるバットマンだからこそ、その疲れは、本人も気づかないうちに蓄積されてゆき、彼の精神をも蝕むことになっていた。
だから、本作の最後で、自らを命の引き換えにドゥームズデイを倒したスーパーマンの犠牲を目の当たりにした時に、彼は己れの限界を悟って、「仲間」が必要だと認めたのであろう。

「ロビンの死」以来、決して仲間を待つまいと考えたバットマン。
自分の弱さゆえに、ロビンを巻き込んで死なせてしまったという悔いに囚われてきたバットマン。
だから、自分は独りで戦わなければならないのだと、そう思い詰めていたバットマン。
だが、それはある種の「傲慢」だったことに、彼は気づいたのであろう。
独りでは、大切なもののすべてを守ることはできない。それは、わかっているつもりだった。
だからこそ、自分の活動の場を、生まれ育ったゴッサムに限定していたのだが、そこにはやはり自己欺瞞のあったことを、彼は認めざるを得なかっただろう。
つまり、決してゴッサムさえ平和になればそれで良いとは、彼だって思ってはいなかったのだ。
ただ、自分一人にできることには限界があるとわかっていたから、やむなく活動の場をゴッサムに限定せざるを得なかったにすぎないのである。
だが本当は、ゴッサムの外で起こることに、目をつむり続けることなどできないというのは、分かりきっていたのだ。
だから、ドゥームズデイのような「怪物」が出てきた以上、もうそんな自己欺瞞の殻に閉じこもっているわけにはいかない。
「ゴッサムの守護神」であることに満足しているわけにはいかなくなったのである。
となれば「仲間」を見つけるしかないではないか。
「正義のヒーロー」は、何も自分一人ではない。自身を犠牲にしてでも戦えるのは、何も自分一人ではない。
現に、スーパーマンやワンダーウーマンがいたし、ロビンだってそうだ。
だから、諦めずに「仲間」を探さなければならない。そして、協力して「悪」に立ち向かうしかないではないか。
「ジャスティス・リーグ」の結成が目指されたのは、必然だったのである。

(2025年10月12日)
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