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劇場版『ジャスティス・リーグ』 : ヒーローゆえの苦悩は「暗い」のか?

映画評:ジョス・ウェドン監督『ジャスティス・リーグ』(2017年/アメリカ映画)

本作『ジャスティス・リーグ』は、本来ならば、ザック・スナイダー監督の「ジャスティス・リーグ三部作」の完結編となるはずの作品であった

実際、本作劇場公開版『ジャスティス・リーグ』は、ザック・スナイダーが「監督」としてクレジットされているのだが、その4年後、ザック・スナイダー自身の手になる『ジャスティス・リーグ〈スナイダー・カット〉』(2021年)が公開されると、当然のことながら、同監督による「ジャスティス・リーグ三部作」の3作目とは、この「スナイダー・カット」版を指すことになっており、その結果、本作「劇場公開版」は宙に浮くようなかたちになってしまった。

つまりザック・スナイダー監督」作品を謳った『ジャスティス・リーグ』が2種類出来てしまったのだが、その2作をわかりやすく区別するためと、「劇場版」では、「脚本」とクレジットされているが、この「劇場版」の実質的な監督はジョス・ウェドンなのだから、ここでは本作「劇場公開版」を、ジョス・ウェドン監督版として、「スナイダー・カット版」との差別化を図ったのだ。

そんなわけで今回紹介するのは、この「ジョス・ウェドン監督版」の方である。

当初、ザック・スナイダー監督によって撮られていた『ジャスティス・リーグ』が、なぜ撮影も終了した段階で、スナイダー監督の降板により、ジョス・ウェドンへと引き継がれることになったのか?

公式には、スナイダーが実娘を失った心労などから創作意欲を失ってしまい、望んで監督を退いた、ということになっているようだ。

しかしながら、同時に無視し得ない要因としては、当初から三部作として構想され、それなりの資本が投下されて作られた、スーパーマンの登場を語り直した期待作、シリーズ第1作の『マン・オブ・スティール』が、特に評論家筋を中心に「ユーモアが無い」「暗い」と酷評されて、期待したほどのヒットにはならなかったこと。

そして、とは言え、そのスーパーマンがバットマンと「夢の対決」を果たす第2作 『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』 (以下 『バットマンvsスーパーマン』 )に、その不評を跳ね返すヒットが期待されたのだが、こちらもまた期待されたほどのヒットにはならなかった、ということ(ダブルパンチ)があったのだ。

つまり、当たり前に考えれば、シリーズ3作目を撮っていたザック・スナイダー監督には、「とにかく、ヒットする作品を作れ」という相当なプレッシャーがかかっていたはずだし、それはとりもなおさず「ユーモアを加えて作品を明るくしろ」という含みを持ったプレッシャーだったであろう。

だが、当然のことながら、前の2作『マン・オブ・スティール』 『バットマンvsスーパーマン』 が、いわゆる「暗かった」のには、それ相応の合理的な理由があったはずだ。

それは、スーパーマンであれバットマンあれ、あるいはワンダーウーマンフラッシュアクアマンサイボーグなども、もともとは単独で活躍するヒーローだったのだから、彼らがチームを組むにあたっては、それなりの理由と葛藤が必要だった、という事情である。

つまり、いくらスーパーヒーローである彼らでも、バラバラでは勝てないほどの「破格の敵」が登場しなければならないし、そうした敵が登場したからといって、これまでは世界観的に交差することもなければ、お互いの存在を相互に言及することのなかった彼らが、いきなり連絡を取り合って「チームを組みましょう」などという展開にはできなかったのだ。

したがって、一人では勝てない巨大な敵の登場が暗示されるとともに、彼ら個々の「力の限界」ということが、伏線的に描かれなければならない。
これまでは「必ず勝つ」ものと決まっていた彼らにも限界があって、勝てないかもしれないという陰鬱な現実を、あらかじめ描いておかなければならないのだから、物語は当然、相応に暗くなってしまう。

そんなわけで、『マン・オブ・スティール』『バットマンvsスーパーマン』 の2作は、完結編に当たる第3作『ジャスティス・リーグ』で、チーム「ジャスティス・リーグ」が結成されるに至る経緯を描いているのだから、まだチームを結成できていない段階での彼らは、当然「完璧」ではあり得ないのだ。

その段階での彼らは「弱点」を抱えた存在であり、その限界に苦しむ存在として描かれなければならなかった。
だから、当然そこには相応の「苦悩」が滲むことにもなったのである。

彼らが真に、その愁眉をひらくのは、チーム「ジャスティス・リーグ」が結ばれた時、つまり第3作目の後半に至ってということになろう。
その段階に至って彼らは初めて、新たな希望の光に照らされることになる。一一そういう予定だったのだ、たぶん。

ところが、製作会社側の意向としては「そこまでは待てない」ということだったのであろう。

当初の予定では、第3作『ジャスティス・リーグ』の後半で、初めて明確に「明るい展望」がひらくはずだったのだろうが、それまでは待てないと、そうなったのではないだろうか。

すなわち「とにかく第3作は、明るくてウケの良いエンタメ作品に徹してほしい」という、暗示的あるいは明示的なプレッシャーが、スナイダー監督にかけられていたというのは、想像に難くないのである。

だが、スナイダー監督に「作家的な矜持」があるのなら、はいそうですかと、その要求をそのまま呑む気にならないのは当然のことであろう。
そんな、作家的な苦悩と葛藤があったところに、娘の死という不幸が追い討ちをかけたために、スナイダーは、すっかりやる気を失ってしまったのではないだろうか。

そこで、その急場を凌ぐためと、会社側の意向な応じることの出来る人物として、ジョス・ウェドンに白羽の矢が立ち、彼に作品が引き継がれることになった…。

映画というのは、一般には「監督」の名前で紹介されることが多いけれど、しかし、現実には、「監督」とは「演出(家)」のことであって、言うなればスタッフの一人でしかない。

作品の方向性を決める中心的な人物だとは言っても、所詮は寄せ集められたスタッフの一人なのだから、会社あるいはプロデューサーの意向に添えないということになれば、途中降板というのも、それほど珍しいことではない。
所詮、映画は、監督の所有物ではないのである。

とは言え、そのあたりの裏事情については、当然のことながら、正確なところはわからない。

だが、結果的にではあれ、のちにザック・スナイダー監督が、みずからの構想に従って(追加撮影なども含む)再構成した『ジャスティス・リーグ〈スナイダー・カット〉』を作ったというのは、動かぬ事実である。

ファンの「スナイダー監督の『ジャスティス・リーグ』が見たい」という、小さからぬ声が後押しになったというのは事実だが、しかし、スナイダー監督にその気がなければ、当初「新たに、スナイダー・カット版を作ることはない」としていた会社側の意向が翻されてまで、「スナイダー・カット版」が作られることはなかったはずだ。

つまり、娘の死を始めとしたあれやこれやで、一度はすっかりやる気を無くしていたスナイダーではあったが、やはり、三部作構成で力を入れて作っていた作品の、第3作目だけが、最後は他人の手にわたり自分の構想とは違ったものになってしまったということについては、忸怩たる思いがあったはずだし、出来れば「当初の構想どおりに作り直したい」という気持ちがあったはずなのだ。
そんな気持ちが無かったと考えることの方が、むしろ無理があるのである。

したがって、結果として『ジャスティス・リーグ〈スナイダー・カット〉』が作られた今となっては、当然のことながら、ザック・スナイダーによる「ジャスティス・リーグ三部作」の3作目とは、『ジャスティス・リーグ〈スナイダー・カット〉』のことを指すということになった。

だから、私としても、ザック・スナイダーによる「ジャスティス・リーグ三部作」を紹介することを目的として、これまでシリーズ第1作『マン・オブ・スティール』、第2作 『バットマンvsスーパーマン』 とレビューを書いてきたのだから、本作、劇場版『ジャスティス・リーグ』を飛ばしても良かった。

しかし、私としては、「三部作」の「急場を凌いだ」ジョス・ウェドン監督の功績を無視して良いとは思わないし、また本作は「スナイダー・カット版」と比較対象すべき作品としても、大きな意味を有するのである。

スナイダー監督の退陣を受けて、ジョス・ウェドン監督は、会社側の意向を受けて、すでに撮影の終わっていたフィルムに「ユーモアと明るさ」を付け加えるべく、追加撮影と再構成(編集)を加えて、劇場版『ジャスティス・リーグ』を完成させた。

結果としては、この第3作も期待ほどのヒット作にはならなかったものの、しかしそれは、スナイダー監督の構想をそのままに完成させていたとしても、興行的な結果に、大した違いはなかっただろう。

だが、私個人にとっては、興行的な成否など、まったく問題ではない。
大コケした作品でも、傑作は傑作であり、私が求めているのは、ヒット作ではなく、傑作なのだ。

だから、もちろん私は、今のところ未見の『ジャスティス・リーグ〈スナイダー・カット〉』に大いに期待を寄せてはいるのだか、とは言え、スナイダー監督の作品だからという理由で、高く評価するのではない。
評価は、作品を見てからでないとできないからだ。

したがって、その「スナイダー・カット版」を正しく評価するためにも、あらためてジョス・ウェドン版と呼んでいい劇場版『ジャスティス・リーグ』を、再鑑賞しておくことにした。
比較対照作品があるというのは、作品を評価する上では、とても便利なことだというのは、論を俟たないからである。

 ○ ○ ○

さて、ここからはいよいよ、ジョス・ウェドン監督版『ジャスティス・リーグ』そのものについてである。

本作のストーリーは次のとおり。
いささか、大きな話となっており、それをコンパクトにはまとめにくいので、Wikipediaの「ストーリー」を、そのままここに引用させてもらう。じつに見事なまとめである。

『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』でのドゥームス・デイとの戦いで、自らの命を犠牲にして世界を救ったスーパーマンの行動を目にし、バットマンことブルース・ウェインは「信頼」の重要性を実感した。戦いの中で出会ったアマゾン族の王女ダイアナ・プリンス(※ ワンダーウーマン)と共に、地球防衛のために特殊能力を持った他の超人たちを探し始めるブルース。

五千年前、破滅の征服王であるステッペンウルフは地球を狙ったが、アマゾン族やアトランティス、人間や古代の神々らが同盟して戦い、封じ込めに成功した。今、ステッペンウルフは蘇り、破滅と創造をもたらす「マザーボックス」を手に入れようと狙っていた。3つ揃うと強大な力を発する「マザーボックス」は、アマゾン族と海底王国アトランティス、人間が1つづつ保管し守っていたが、アマゾン族のボックスはステッペンウルフに奪われ、女王と大勢の戦士が殺された。

ステッペンウルフとその手下である無数の餓鬼・パラデーモンを迎え撃つために、アクアマンのアーサー・カリーに接触するブルース。だが、他人を信用できないアーサーは、ひとり海に消えて行った。。

超速のフラッシュであるバリー・アレンは友を求めて自らチームに参加した。サイボーグのビクター・ストーンは体内の機能によって、探し出される前にブルースらの存在を感知し様子を探っていた。父親であるS.T.A.R.ラボのストーン博士をステッペンウルフに拐われ、チーム入りするビクター。

海底王国アトランティスから2つ目の「マザーボックス」を奪うステッペンウルフ。阻止しようとしたがステッペンウルフを取り逃がし、ブルースの言っていた危機を実感するアクアマンのアーサー。

S.T.A.R.ラボが保管している人間界の「マザーボックス」の在り処を聞き出す為に、廃墟の地下トンネルで誘拐したストーン博士らを拷問するステッペンウルフ。救助に駆けつけ、戦うバットマンたち。ステッペンウルフが天井を破壊して逃げた為に海水が流れ込み、バットマンらは溺れかけたが、現れたアクアマンによって救われた。

S.T.A.R.ラボの技術と「マザーボックス」のパワーでサイボーグ化されたビクターは、3つ目の「マザーボックス」の在り処を知っていた。ボックスの無限のエネルギーを利用してスーパーマンを蘇らせようと考えるブルース。

クラーク・ケントの遺体をクリプトンの宇宙船に運び込み、「マザーボックス」と触れさせるバットマンたち。クラークは蘇ったが記憶を失い、バットマンたちを敵とみなして殺そうとした。ブルースが呼んでおいたロイス・レインを見て記憶を取り戻すクラーク。だが、クラークはロイスと共に飛び去り、チームには合流しなかった。

バットマンたちがクラークと戦う隙を突いて、人間界の「マザーボックス」を奪い去る餓鬼パラデーモン。3つのボックスを手に入れたステッペンウルフは、ロシア北部の廃炉になった、原発を改造してアジトとし、「マザーボックス」を稼働させる準備を始めた。ブルースの新型輸送機でロシアに向かい、アジトに乗り込むチーム。作戦の鍵は3つのボックスを引き離し、威力を剥ぐことだった。

チームが戦う中、ボックスに辿り着き引き離そうとするサイボーグのビクター。だが、ボックスのパワーが強すぎて動かせない。チームが劣勢になった時、スーパーマンが駆けつけた。スーパーマンの力を借りて3つのボックスを引き離すサイボーグ。ステッペンウルフの武器である斧が砕けた瞬間、配下のパラデーモンたちの様子が変わった。元々はステッペンウルフによって征服された星々で切り殺され、姿を変えて配下とされていた彼らは、ステッペンウルフが感じた恐怖心に反応して憎しみに駆られたのだ。ステッペンウルフに襲いかかり、異空間まで運び上げて食い尽くすパラデーモンたち。

スーパーマンが戻って『ジャスティス・リーグ(正義の仲間)』が勢揃いし、それぞれ孤独に生きて来たヒーローたちは、友と共に人々のために戦う喜びを手に入れた。』

(Wikipedia「ジャスティス・リーグ(映画)」

ひと言でいうと、本作は「当たり前に面白い、ヒーロー活劇」である。

ザック・スナイダー監督による『マン・オブ・スティール』 『バットマンvsスーパーマン』 に続く「第3作」ということを意識しなければ、これはこれで十分に面白い。

例えば、「アベンジャーズ」映画の凡作などよりは、よほど楽しめる作品ではあるのだが、しかしながら、言い換えれば、どこか「アベンジャーズ」的な佳作、という印象も受けてしまう。つまり、独自性に欠けるのだ。

その際たるところが、やはりヒーローたちの「葛藤」で、もちろん「アベンジャーズ」シリーズにもヒーローたちの葛藤は描かれているものの、それは個々の様々な、人としての事情であり、時には仲間内の立場の違いによる対立といったことが中心だった。

だが、『マン・オブ・スティール』 『バットマンvsスーパーマン』におけるスーパーマンやバットマンの葛藤とは、まさに「ヒーローとして生きる」ということの葛藤だった。

その意味では、私たちの現実世界にはほとんど存在しない、特殊な悩みや葛藤だったのだが、だからこそ、そこには映画ならではの独自性があったのだとも言えよう。
私たちは、知り得ない「神々の苦悩」に、フィクションというかたちで接することができるのである。

ところが、3作目の本作になると、そうした葛藤描写が明らかに薄れており、世界を守るためにはその身を犠牲にしてでも戦うという、ある意味で極めて悲壮なその生き方に、あまり深く疑問を持ったり拘泥したりはしてしない

これは、新たに加わった、フラッシュ、アクアマン、サイボーグが、すでに登場しているスーパーマン(クラーク・ケント:ヘンリー・カヴィル)、バットマン(ブルース・ウェイン:ベン・アフレック)、ワンダーウーマン(ダイアナ・プリンス:ガル・ガドット)よりも、「若い世代」として描かれていることが大きいだろう。

実際のところ、「歳をとった」ということが強調されるのは、特殊能力を持たない普通の人間であるバットマンだけで、ワンダーウーマンはそもそも歳を取らない永遠の妙齢の美女だし、スーパーマンだって、ヤングスーパーマンではないにしても、中年というわけではない。つまり、年齢的には青年のうちなのだ。だが、スーパーマンの場合は、その特殊な出自に伴う苦労の前半生から、ある意味、大人の雰囲気を備えており、初老に差し掛かっているバットマンと対峙しても、対等に見える貫禄がある。

もちろん、ワンダーウーマンについては、 『バットマンvsスーパーマン』のレビューで指摘したとおり、見かけこそ若いが、なにしろ永遠の時を生きてきた人だから、最も老成した大人なのだ。
最愛の人を失った心の傷は抱えてきたけれど、それを乗り越えて人間界に帰ってきた人なのである。

つまり、このスーパーマン、バットマン、ワンダーウーマンに比べると、実質的にまだヒーローデビューしていなかったフラッシュ、アクアマン、サイボーグの3人は、「メタヒューマン(異能力者)」の特殊性ゆえの葛藤はあったものの、人間社会の平和に対する責任までは負っておらず、その意味で、当たり前に自分のために生きている若者だったから、その分、先輩ヒーローたちに比べると、明らかに軽かったのだ。

サイボーグことビクター・ストーン(レイ・フィッシャー)などは、良かれと思ってやったこととは言え、親の人体実験につきあったために、半分は機械のバケモノになってしまったために、人前に出ることのできない身体になっていた。
彼は、自分のいまの姿を恥じており、父に怒りを感じてはいても、その特殊能力を正義のために使おうなどという発想などはまだ無かったから、言うなれば、ただ暗かっただけなのだ。

その点、若手3人の中では最も若く、また、若者らしくヒーローに憧れるところもあるフラッシュことバリー・アレン(エズラ・ミラー)は、その若者らしさが強調されて、チームの中では唯一剽軽なムードメイカーであり、笑いを取る役回りとなっていた。
とは言え、彼も単独のヒーローとしては、冤罪の殺人容疑で勾留されたままの父を支えており、決して(スパイダーマンのピーター・パーカー)のように、特殊能力を隠して活躍している以外は「普通の若者」、というわけではない。
だが、フラッシュのそうした個人的な苦悩は、ヒーローチームの中にいる時には、ほとんど表に出てくることはない。なぜなら、彼の個人的な苦労は、ヒーロー故の特殊性に由来するものではなかったからであろう。

若手3人組の内で、もっとも気楽に生きていたのが、アトランティス人の王家の末裔であるアクアマンことアーサー・カリー(ジェイソン・モモア)である。
彼はそもそもの自由人であって、海底国家アトランティスの王族としての役目を放棄して、自由に生きている若者だ。そんな役目になど縛られたくないと、勝手にほっつき歩いては、海中と地上とを行き来して生きてきた自由人なのである。
だが、今回は地球の惑星規模での危機ということでバットマンからのチームへの誘いを断りきれなかったというのと、アトランティスで保管されていた「マザーボックス」のひとつが、世界の破滅を狙う、宇宙からやってきた悪の制服王ステッペンウルフによって、目の前で持ち去られてしまったことへの報復戦ということもあった。
だから、心ならずもバットマンたちのチームに協力することになり、共闘の後になって初めて、すすんでチーム入りすることにしたのである。
だから本作の中では、バットマンがアクアマンを初めて他のメンバーに紹介した際には「彼は、今のところ仮採用みたいなものだが」というような表現を使っている。

さて、以上のように、若手の3人は、先輩ヒーローの3人とは違い、まだ、この世界の平和を背負って立つという、ヒーローとしての積極的な責任感は持っていない
ただ、協力しないことには、この世界が滅んでしまうので、協力しないわけにはいかないと、そんなスタンスであるため、先輩3人より「軽い」印象を与えるのだろう。

そんなわけで、シリーズ3作目の本作が、『マン・オブ・スティール』『バットマンvsスーパーマン』よりも「明るい」作品になるというのは、ある意味では必然的なことであって、それは、監督がザック・スナイダーであるか、ジョス・ウェドンであるかということとは、基本的に関係がない。

ヒーローとしても「重責」を担ってこなかった若者が参加することで、それまで一人でその重責を担ってきた先輩ヒーローの重責も、そのぶん多少は「軽く」なるというだけのことだとしても、頼れる仲間がそばにいるというのは、何よりも心の休まることなのだから、チームを結成する物語である本作『ジャスティス・リーグ』が、前の2作よりも「明るい」話になるというのは、当初から予定されていたことだと考えていいのである。

つまり、ザック・スナイダーだって、ずーっと「眉間に皺を寄せたような作品」を作るつもりではなかった、ということだ。
この第3作では、これまでの「暗さ」が振り払われて、未来への希望の感じられる「明るい」作品となることが、当初から予定されていたはずなのである。

一一だが、ザック・スナイダーは、その自ら立てていた予定を、自らの手で実現することが出来なかった。
その時まで、世間や会社は待ってくれなかった。

では、ジョス・ウェドンが、誰の目にもわかりやすく明るい作品へとシフトして見せた本作・劇場版『ジャスティス・リーグ』とは違って、ザック・スナイダーはどのようなかたちで、明るくなる予定だった3作目を、『ジャスティス・リーグ〈スナイダー・カット〉』として完成させたのだろうか?

一一そこが問題であり、そこに、ザック・スナイダーの作家性を見ることも出来るはずだと、私そのように期待しているのだ。

スーパーマンやバットマン、ワンダーウーマンが主体的な抱えていた「重荷」に由来する「重さや暗さ」を、それを抱えていない「新メンバー」を加えることで、相対的に薄め、全体として「軽く・明るく」するというのではない、真の「明るさ」の実現。

基本的には「マッチョ」であり、たぶん「軽い」よりは「重い」方が好きなのであろうザック・スナイダー監督が、シリーズ完結編で描こうとした「明るさ」とは、一体どのようなものだったのか?

私が推察するに、ザック・スナイダーが意図した「明るさ」は、若手3人が加わることによる「明るさ」などではなく、もっと積極的に、先輩ヒーローの抱え持つ「重さ」の意味が、変わることではないだろうか。

本作・劇場版『ジャスティス・リーグ』の中で、ワンダーウーマンがバットマンに対して、次のような言葉をかける。

「自分の肉体で戦うことだけが、戦うというこたではないわ。指揮官となり、責任者となって、仲間に命を捨ててくれと言わなければならない立場に立つことも、もっと苦しい戦いよ。自分一人で戦っていられるのなら、こんなに気楽なことはないのに」

つまり、他のメンバーとは違って、ただの人間であり、すでに体力の限界を感じているバットマンが、前作でスーパーマンの犠牲を目の当たりにして、仲間の必要性を痛感し、その必要を認めざるを得なかったことからの「無力感」のようなものに対して、ワンダーウーマンは、そうではないのだと、彼を励ましたのであろう。

(バットマンことブルース・ウェイン)

心の底で「俺がスーパーマンを殺してしまったようなものだ」という罪の意識を抱えているバットマンに「そうではない。あなたには、より大きな責任が付与されたのだ。だから、悔やんでいる暇などないのだ」と、そう励ましたのであろう。

また、同じ観点から、本作で蘇生させられることになるスーパーマンにも、なおも抱えている問題がある。
それは本作で繰り返し語られる「スーパーマンは、安らかに眠っていたいのではないか(いたかったのではないか)」ということだ。

つまり、生前のスーパーマンは、それくらい重いものを背負っていたというのを、皆が承知していたのである。

ところが、スーパーマンを死なせたことに負い目を感じており、スーパーマンこそが「人類の希望」だと考えているバットマンは、本作に登場する「破滅と創造・死と生」を司る力を持つ超エネルギー体である「マザーボックス」の力を借りて、スーパーマンを生き返えらせようとする。

周囲は、それを不自然であり無理のあることだと止めようとする。スーパーマンの力を考えれば、それはあまりにも危険な賭けだと考えたのだ。
アクアマンなどは「死者を蘇られても、きっと何か失っているものがあるはずだ」と、意味慎重な発言をして、スーパーマンの復活が、そううまくはいかないだろうということを示唆する。

それでもバットマンはスーパーマンの復活を強行し、その結果、復活したスーパーマンは記憶を失っており、かつ自分を眠りから覚ましたバットマンたちに「反感」のようなものを抱えていたために、バットマンたちを敵と見なし、その圧倒的な力で攻撃してくるのである。

(甦ったスーパーマン。だが、様子がおかしい)

しかし、危機一髪のところで、バットマンの「奥の手」として呼び寄せられていた、スーパーマンの恋人ロイス・レインが、スーパーマン復活の現場に到着する。
そして、その姿を見たスーパーマンは、初めて記憶を照り戻し、バットマンたちをその場に残したまま、ロイスと二人で故郷のカンザスへと帰ってしまう。

一一はたして、スーパーマンは、無理やり復活させられたことを許して、バットマンたちの仲間になってくれるのだろうか?

もちろん、本作のラストでは、圧倒的な強さを誇るステッペンウルフの前に、バットマンたちが危機を陥った際、スーパーマンが駆けつけてステッペンウルフを退治し、彼もめでたくチームの一員となるところで、本作はハッピーエンドとなる。

(6人が揃うラストシーン)

ここに、チーム「ジャスティス・リーグ」は結成され、たとえどんな強敵が現れようとも世界の未来は「明るい」、というところで、この三部作は完結するのだ。

だが、以上の展開で物足りないと感じられたのは、スーパーマンの「内面描写」であろう。

第1作では「重い葛藤」の中にあり、第2作では、その身を犠牲にし敵を倒して死んだ、スーパーマン。
その彼が、シリーズ完結編で復活させられ、ひと悶着あったわりには、その複雑な内面が掘り下げられることもなく、結局は、ロイスや母と、故郷で平和な日常を数日過ごすうちに、やはりヒーローとしての使命を自覚して、バットマンたちのもとに馳せ参じることになるわけなのだが、前2作の掘り下げに比べると、これだけの描写では、いかにも「薄い」、薄すぎるのだ。

つまり、本作・劇場版『ジャスティス・リーグ』では、バットマンとスーパーマンの心理的な掘り下げが、前2作に比べて明らかに弱い

もちろん、そこを掘り下げたが故に前2作は「暗い」とも言われてしまったのだが、やはり、三部作として見た場合、その「ヒーローの苦悩」の掘り下げを、ほとんど放棄したことで「明るくなった」本作・劇場版では、いかにも物足りないし、これではシリーズとして、まさに「腰砕け」だとも言えるだろう。

だから「スナイダー・カット」版には、その掘り下げの完徹を期待したい。

「ヒーローゆえの苦悩」の「先にある」希望を描くことで、真の「明るさ」を描いて欲しいと、私はそう期待しているのだ。

ユーモアやジョークによる「明るさ」などではなく、大真面目な正攻法の完徹の先に、真の「明るさ」を見出して欲しいと、そう期待するのである。


(2025年10月24日)


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