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ザック・スナイダー監督 『マン・オブ・スティール』 : なぜ酷評されたのか?

映画評:ザック・スナイダー監督『マン・オブ・スティール』(2013年/アメリカ映画)

かねてからの懸案であった、クリストファー・ノーラン監督による「ダークナイト・トリロジー」三部作のレビューを片づけたので、今度は、こちらもかねてからの懸案であった、ザック・スナイダー監督による「ジャスティス・リーグ」三部作を片づけることにした。
なお、後者の三部作には、クリストファー・ノーランが「制作総指揮」の1人として加わっている。

そんなわけで今回は、三部作の第1作となる『マン・オブ・スティール』であり、その内容は、次のようなものである。

スーパーマンこと本名「カル=エル」の誕生から、故郷クリプトン星の崩壊と地球にやってきた経緯、そして地球での成長。
彼を追ってきたクリプトン星の反乱軍人ゾッド将軍との戦い。また、そのなかでの恋人ロイス・レインとの出会い。そして、デイリー・プラネット社の新聞記者クラーク・ケントになるまで。

ちなみにザック・スナイダー監督による、ジャスティス・リーグ三部作」とは、次の3作である。

(1)『マン・オブ・スティール』(2013年)
(2)『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』(2016年)
(3)『ジャスティス・リーグ〈スナイダー・カット〉』(2021年)

最後の(3)にわざわざ〈スナイダー・カット〉とあるのは、当初『ジャスティス・リーグ』として劇場公開された作品は、『マン・オブ・スティール』の評判が芳しくなく、期待された『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』(以下『バットマン vs スーパーマン』と略記)も期待されたほどの「結果」を出せなかったこと、そしてさらには、次のような事情となったためである。

『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』より。バットマンは、スーパーマンと戦うために、装甲武装された特殊スーツを着ている)

『2017年にワーナー・ブラザースが公開した劇場版『ジャスティス・リーグ』は、製作が大変難航した。脚本は、2016年から2017年の間に、制作前と制作中に大きな変更をした。2017年5月、監督を務めていたザック・スナイダーは娘の死を受けてポストプロダクション中に辞任し、ジョス・ウェドンが後を継ぎ、ノンクレジットの監督として本作を完成させた。ウェドンは再撮影などの変更を指揮し、明るいトーンとユーモアを加え、ワーナー・ブラザースからの指示で上映時間を120分に短縮した劇場版『ジャスティス・リーグ』は興行的に失敗し、さまざまな評価を受けたため、ワーナー・ブラザースはDCEUの将来を再評価し、個々の作品の製作を集中させることになった。

スナイダー監督が退任する前の作品の詳細が明らかになると、多くのファンがスナイダー監督のビジョンに忠実な代わりのカットに興味を示した。ファンやキャスト、スタッフは、スナイダー・カットと呼ばれるこのカットを公開してほしいと嘆願した。当時、業界関係者はこの公開はあり得ないと考えていた。しかし、ワーナー・ブラザースは2020年2月に公開を検討することを決定し、翌年5月にはスナイダーがオリジナルカットを「ザック・スナイダーのジャスティス・リーグ」としてストリーミング・サービスのHBO Maxで公開することを発表した。完成には特殊効果、追加撮影をし、2,000万~3,000万ドル以上の費用がかかる予定だという。』

(Wikipedia「ジャスティス・リーグ:ザック・スナイダーカット」

つまり、劇場公開された『ジャスティス・リーグ』は、実質的には、スナイダーの作品ではなく、作品を引き継いだジョス・ウェドンの作品なのだ。

(劇場公開版『ジャスティス・リーグ』/ポスターの色調が明るい)

で、私の場合は、この「スナイダー・カット」版ではない方、言うなれば「ウェドン・カット」版の方の『ジャスティス・リーグ』は、劇場の方で見たのだが、その後に公開された「スナイダー・カット」版の方を、まだ見ていないのだ。

「スナイダー・カット」が作られた配信されたと聞いた時には、私とてすごく見たかったのだが、私は映画のテレビ配信サービスの契約をしてなかったし、今もしていないから、それでは見られなかった。そんなものを契約すると、本が読めなくなることを危惧したためで、いずれにしろ、そのうちDVDが出るはずだと、そう考えたのである。

ところが、その後に発売された「スナイダー・カット」のDVDは、Blu-rayのみ対応で、うちの古いDVDプレイヤーは、Blu-rayに対応していなかった。
なにしろ、ビデオカセットデッキとの一体型という、年季の入ったものだったのである。

それでも、「スナイダー・カット」のDVDは買ったのだが、それだけでDVDプレイヤーを買い換える気にはならなかった。ビデオカセットが見られなくなるからである。
それで「このデッキが壊れたら、その時は買い替えて、三部作を最初から見直し、スナイダー・カット版を見よう」と、そう考えてうちに、2年前にはDVDプレイヤーを買い替えたものの、ジャン=リュック・ゴダール作品との出会いによって、映画というジャンルそのものに興味を持つようななったことから、三部作を最初から見てという、手間のかかるこのプロジェクトは、どんどん後回しになってしまい、そのせいで今日に至ったという次第である。

つまり、「ダークナイト・トリロジー」を片づけた勢いで、こちらも長年の懸案だった、ザック・スナイダーの「ジャスティス・リーグ」三部作を片づけることも、ついに決意したのだ。

したがって、今回の『マン・オブ・スティール』と次回の『バットマン vs スーパーマン』は、劇場で見て以来の再鑑賞だが、スナイダー・カット版の『ジャスティス・リーグ』は今回が初めてであり、とても期待しているのである。

 ○ ○ ○

さて、そんなわけで今回は『マン・オブ・スティール』なのだが、この作品で問題となるのは、先行するクリストファー・リーブの主演による劇場用「スーパーマン」四部作以来の、劇場用「スーパーマン」として期待されたわりには、評判が芳しくなかった、という点であろう。

一般からの評判もあるが、とにかく評論家筋からの評判が、よくなかったのである。

批評家の反応
2013年8月28日時点でRotten Tomatoesでは287件のレビューで支持率が55%であり、「スーパーマンが大作ブロックバスター映画として復活するために紆余曲折あったが、本作はそのために必要なアクションおよびスペクタクルを提供したことで、スクリーンへの復活はほぼ成功した」とまとめられた。Metacriticでは47件のレビューで加重平均値は55/100となっている。
シカゴ・サンタイムズ』のリチャード・ローパー「スーパーマン映画としては新しい部分が何もない。ユーモアや楽しみもほとんどない」と酷評した。『ボストン・グローブ』のタイ・バリーは「このスーパーマン・サーガから欠けているものは明るく、ポップな場面だ」と評した。『ワシントン・ポスト』のアン・ホーナディはハンス・ジマーの仰々しい、過剰な音楽」「非常に不愉快な視聴体験」と評した。『The Denver Post』のリサ・ケネディは『マン・オブ・スティール』の主な問題点を「ストーリーと演出上のリズムとバランス」であり、その結果「破壊的な誇張とぶざまな説教の間」で揺れ動く映画になったと指摘した。
IGNは10点満点中のスコア9.0を記録し、アクションシーン及びケビン・コスナーラッセル・クロウマイケル・シャノンの演技を称賛した。『タンパベイ・タイムズ』のスティーヴ・パーサルは「『マン・オブ・スティール』は『アベンジャーズ』級以上のエスケーピズムで、それは唯一の我々が知ってると思ったスーパーヒーロー映画の芸術的イントロダクションだ」と評した。
日本の映画雑誌映画秘宝が発表した2013年度の映画に対するワーストランキング「HIHOはくさいアワード」では2位と評価された。』

(Wikipedia「マン・オブ・スティール」 ※ ゴシック強調は引用者)

例外的に IGNのウェブサイトの評価は高いものの、その評価のなかみまでは知らないから、これについてはコメントしない。また同作出演者らが作品を擁護するのは当然だろう。
だが、「批評家筋」の評価が、とにかく厳しいというか、ほとんどボロクソなのである。

で、私も、期待した『マン・オブ・スティール』を見た一人としては、この作品に十全に満足させられたわけではないものの、しかし、そこまで貶されるほど悪い作品だとは思えず、こうした酷評には、腹が立ちさえした。
なぜなら、常に厳しい評価をしている評論家なのであればともかく、けっこうつまらない作品を絶賛したりもしているような(そもそも批評眼が疑われるような)連中が、妙に力を込めて本作を貶していたので、何か裏があるのではとまで、疑ってしまったほどだったのだ。

しかしながら、そんな陰謀論的な疑いをかけても、立証のしようもないことだから、それはここでは置くとして、彼らの評価で注目すべきは、『マン・オブ・スティール』には「ユーモアが無い」とか「暗い(辛気臭い)」と言っている点であろう。

たしかに、『マン・オブ・スティール』には、ユーモアらしいユーモアは無い。
しかし、それが何だというのか?

アメリカの知識人は、ユーモアだのウィットだのを、やたらに強調するのが好きだし、たしかにそれは、あって悪いものではない。

けれども本作『マン・オブ・スティール』を見れば、本作の目指すところは、そうしたものではなく、「逆境に立ち向かっていく男の姿を描いたもの」であるというのは、一目瞭然ではないか。

無論、いつでもユーモアを忘れないというのは大切なことだが、真面目一方の不器用な男ではいけない、とでも言うのだろうか。

本作はどう見ても、スーパーマンの悲劇的な出自とそれに伴う苦悩と苦闘を描いた作品であり、それを真っ正直に描いているだけなのだが、それが「暗い」とか「ユーモアに欠ける」などと言われなければならないことなのだろうか?
そんな評論家たちは、自身が逆境に遭って、それでも決してユーモアを忘れない超人でいられる、とでも言うのであろうか?

つまり、本作『マン・オブ・スティール』は、「超人であるスーパーマンの、人間的な苦悩」を前面に押し出して描いた作品なのだから、暗くなるのも、ユーモアを入れる余地が無かったのも、それは理の当然でしかない。

それでも、「アリバイ」のように、ユーモアを入れておかないと、アメリカの批評家には高く評価されないのだとしたら、そんなものは「クソ喰らえ」であろう。

たしかに、スーパーマンとは、「マン・オブ・スティール」つまり「鋼の男」であり、その意味で、肉体的に超人なのは無論、精神的にも超人であることが求められたのかも知らない。

スーパーマンは「強く正しく優しい」アメリカの象徴的な存在なのだと、そう考えられているのかも知れない。
また、クリストファー・リーヴの演じたスーパーマンは、そうした「伝統」に沿った、「どんな困難な時にもユーモアを忘れない鋼の人」として描かれていたのかも知れない。

クリストファー・リーヴ主演の、1978年版の『スーパーマン』

しかし、スーパーマンは、超人ではなく、つまり「神のような存在」ではなく、むしろ、人々の希望になろうとした、強大な力を持った「真面目な普通の男」だと考える方が、正しい理解なのではないか。
なぜなら、彼は、少なくとも精神的には「超人」ではなく、地球で育った「普通の人間」に他ならなかったからだ。

だから、ザック・スナイダーが、スーパーマンの「普通の人間」の部分を強調しようとしたのは、決して間違いではないし、スーパーマンの孤独を思えば、彼にユーモアを前面に出す余裕がなくても、それは当然のことでしかない。
アメリカの評論家たちは、スーパーマンを自分たちのための、「神」の代わりにしたかったのかも知れないが、そうした、実のないリベラルな依存願望の結果が、ドナルド・トランプのような「実のない強い男」を、「神」の代理人にも等しい「アメリカ大統領」に据える結果を招いてしまったのではないのか?

スーパーマンが、人々の「希望」であらんとして行ったのは、自分が苦しい時でも、周囲の人にはニッコリと微笑んで、安心させるというような、強さと優しさである。
つまり、人々がスーパーマンから学ぶべきことは、ただ「強い」ということだけではなく、「弱い立場の人にこそ優しく」ということだったはずだ。

ところが、そんなスーパーマンに、すっかり依存してしまった人たちは、強いスーパーマンと同化することで、弱い立場の人たちへの、無理を押してでもの共感ということを忘れてしまった。
それは、スーパーマンの中にもある「人間的な弱さ」を無視したところから来る、思いやりを欠いた「傲慢」だったのではないだろうか。

人間なら、理想がどうあれ「どんな逆境にあっても、ユーモアを忘れない」なんてことは、とうてい不可能だ。
目の前で、自分の家族や愛する人を殺されて、それでもユーモアを発揮できるとしたら、それは「ユーモアのバケモノ」でしかないだろう。

だから、「苦悩するスーパーマン」にユーモアが欠けるのは当然だし、「暗い」のも当然だ。

だが、そうした苦悩や厳しい状況の先にこそ、ユーモアがあるのであり、ユーモアがあるから逆境が堪えられるなどというものではないのである。
なぜなら、現実の困難と直面しない「逃避的なユーモア」とは、トランプのユーモアであり、ジョーカーのユーモアでしかないからだ。

だから私は、本作『マン・オブ・スティール』にユーモアを求める評論家の評価は、完全に的を失していると評価する。
ユーモアが無いからといって、スーパーマンを描き損ねているとは、少しも思わない。

それに、本作『マン・オブ・スティール』は、「ジャスティス・リーグ」を見据えた作品であるというのは明らかだ。
つまり、孤独なスーパーマンは、のちに共に戦う「仲間」を見つけることになるのだから、彼の表情に「余裕」が生まれるのは、それからだというのも、当然の流れではないだろうか。
そもそも、彼ひとりで、世界全体の平和を守れるわけはなく、守れなかった部分については、彼はいつだって慚愧の念に堪えなかったはずなのだ。

『マン・オブ・スティール』で、スーパーマンを演じたヘンリー・カヴィル

だから私は、本作『マン・オブ・スティール』が、アメリカや日本の評論家筋が言うところの、失敗作だとは思わない。

そうした否定評価は、単に、「あの神は、われわれの知る神ではない。あれは、神への冒涜である」と考えるような信者の評価であるか、もしくは「強くてユーモアさえあれば」その中身や質を問わない、トランプ信者の評価でしかない。

無神論者の私としては、そんな「信者」たちの方が、「我が神は尊し」という、いかにも世間の狭い馬鹿だとしか思えないのである。

 ○ ○ ○

さて、その一方で、私が本作の欠点として挙げたいのは、次の2点だ。

(1)スーパーマンが、スーパーマンになるまでの話が長く、いささか退屈

(2)肉弾戦のアクションが、その超人的な力とスピードを強調するあまり、まるで対戦ゲームのそれのようなものとなってしまっており、肉弾戦(生身の殴り合い的な格闘)の魅力を、大いに損ねている。

(1)については、2025年度版『スーパーマン』を作るに当たって、ジェームズ・ガンが主張していたところでもある。
つまり、スーパーマンのファンは、スーパーマンの活躍を見たいのであって、それまでの経緯など、今更あまり見たくはない。なにしろ、その大筋はすでに知っているからである。

もっとも、本作『マン・オブ・スティール』の場合は、のちに続く三部作構想を考えれば、そういうわけにもいかなかった、ということがあるだろう。
つまり、『マン・オブ・スティール』で、スーパーマンの「孤独」の理由をしっかり描くからこそ、のちに同等の仲間を得た時の喜びも、また生きてくるからである。

(2)については、ゲーム世代にとっては、あまり違和感が無いのかも知れないが、私はぜんぜんダメだった。
それに、そうした違和感は、いろいろ見たマーベルの「アベンジャーズもの」の方では、あまり感じられなかったものだし、ガン版の『スーパーマン』のアクションでも感じられなかった。

だから、やはりこれは、まだCGが無かった時代の、旧「スーパーマン」四部作を意識しての、時代の変化(スピード化)を強調しすぎた、ということなのではないか。
たしかに、CGなら、スーパーマンの人間離れした力やスピードを、リアルかつ簡単に表現することは出来るだろう。
だが、それをそのままやってしまうと、人間の「快楽原則」から外れてしまう、ということなのではないだろうか。つまり、やたらに強ければ、速ければ良いというものではない。
例えば、プロボクシングの試合で、毎回1ラウンド2秒で、対戦相手を倒すチャンピオンがいたら、それは「すごい」けれども、誰もがその試合を見に行こうととは思わないだろう。なぜなら、そんな試合自体は、つまらないからである。
つまり、スナイダーは楽しめる「肉弾戦の描写」に失敗していたのではないかと、私はそう感じるのだ。

話は変わるが、あとひとつ、本作で興味深かったのは、ゾット将軍の攻撃により、ニューヨークのビル群が崩壊し、人々が逃げ惑うシーンだ。
明らかにここには、2001年「アメリカ同時多発テロ事件」の記憶(世界貿易センタービルの崩壊)が、色濃く反映されている。

同時多発テロ時の、貿易センタービル〈ワールドトレードセンタービル〉の実景)

具体的に言えば、身の危険を顧みず、市民の避難誘導をする警察官の姿などがそれだし、ビルの瓦礫に埋もれた同僚を、命がけで助けようとする、デイリー・プラネット社の記者たちの姿などがそうだ。
この描写は、決して、単なる「逃げ惑う人々」といった紋切り型の描写ではなかったし、ありがちな「美談の描写」でもなかった。あくまでも、歴史的事実に即した、アメリカの誇るべきものについて描写だったのだ。

だが、それと同時に私たちが忘れてならないのは、同時多発テロ事件の後、アメリカは、国民の支持もあって、一方的な「テロとの戦い(対テロ戦争)へと突き進んでいき、存在しない「大量破壊兵器の存在」を理由としたイラク戦争を起こし、イラクの政治体制を転覆すると同時に、多くのイラク国民と自国の兵を、死に至らしめたという、歴史的な事実だ。

イラク戦争におけるアメリカ軍の主力戦車「M1A2エイブラムス」

ちなみに「イラク戦争」は、2003年3月から2011年の12月までとされているので、本作『マン・オブ・スティール』が制作されたのは、イラク戦争への反省が実感されていた当時のことなのだ。

(スーパーマンの身柄が、ゾッド将軍に引き渡されるシーン)

つまり、同時多発テロの現場で、勇敢な行動をとった者もアメリカ人なら、その後の時期において、テロの実行犯と同じイスラム系の人を中心に標的とした「外国人差別」をしたのもアメリカ人なのである。

だとすれば、「異星人」であるスーパーマンが、地球人たちの偏見や差別を怖れ悩むのは、当然のことではないか。
(ちなみに、本作主演のヘンリー・カヴィルは、アメリカ人以外では初の、スーパーマンを演じた俳優だとか)

(ゾッド将軍に引き渡されるために、自ら出頭したスーパーマンに手錠が掛けられている)

だから、そんな過去の体験(9.11イラク戦争)を、「暗い話」で済ませる権利など、アメリカ人にはない。
だがまた、こうしたことも、今となっては、それに気づく人がほとんどいないだろうからこそ、ここで改めて指摘しておかなければならないのだ。

さて、これで、私の『マン・オブ・スティール』評価は、ほぼ語り終えた。

本作は、映画評論家たちが貶すほど、悪い作品ではない。

日本の『映画秘宝』の評価も、あれは「お遊び」みたいなもので、だからこそ、生身の戦いでは「北村紗衣のそっくりさん」の前に、手もなく膝を屈することにもなったのだ。

しかしながら、本稿では『マン・オブ・スティール』を強く擁護したものの、だからと言って、完全に満足しているわけでもないというのも、上に書いたとおりである。

次作『バットマン vs スーパーマン』は、私にとっては、まさに「夢の対決」を描いた作品で、『マン・オブ・スティール』よりも、バットマンが登場する分、余計に楽しめたし、バットマンが人間であり、スーパーマンのようなスピードでは闘えない以上、その闘い方は、より人間的なものになっていて、そこが良くもあった。
だがまた、最後に共闘する部分で、怪物を相手に戦う際は、またスピードが強調されたアクションに戻って、『マン・オブ・スティール』の時と同様の物足りなさを感じさせられもした。

だから、最後の『ジャスティス・リーグ』(スナイダー・カット版)も、アクションシーンについてはあまり期待していないのだが、物語の方には、大いに期待しているのである。

とは言え、それを見る前に、『バットマン vs スーパーマン』を見てレビューを書くし、その後、「スナイダー・カット」版『ジャスティス・リーグ』を見る前に、劇場公開版を再鑑賞して、レビューを書こうと思っている。
こちらについては、「スナイダー・カット版」と比較するためである。

とにかく、美味しいものは最後に取っておくので、本稿を含めて全4本分のレビューに、お付き合いいただければ幸いだ。



(2025年9月29日)


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