兵頭新児論 :「男らしくなさ」の自己証明
兵頭新児の著書『ぼくたちの女災社会』について、昨年暮れにレビューを書いたところ、今年に入って、著者の兵頭新児が、私のレビューと私について、批判的な記事を「note」にアップしていることに気づいた。
「知った」のではなく「気づいた」というのは、そんな記事が書かれていたのを、「知らされた」のではなく、私が「またまた見つけた」からである。
その経緯について簡単にいえば、兵頭は、その論評対象である、私や私の書いた記事名を明示せず、私にバレないようにしつつ、身内にだけは、誰の何を批判しているのかがわかるかたちで、こっそりと批判文を書いていたのだ。
私のことを「エヌ氏」だなどと略称で書いて批判し、悦に入っていたのである。
私の記事にリンクも張っていなければ、名指しもしていないので、普通ならばまず「バレる」はずのない「陰口」ならぬ「陰論評」であったわけだ。これは、兵頭自身も認めている事実である。
『そもそもバレることを想定していなかったので、恐縮しております。
(中略)
アレは本当に、あなたの記事を見た上でこの記事を見た人がいたら笑うかな、と軽い気持ちでやったことで、ちょっとしたギャグです。』(01-03)
だが、兵頭がこの記事のタグに「北村紗衣」の名前を加えていたために、「北村紗衣関連人気記事」の検索ページを見ていた私が、たまたま、この記事の存在に気づいたのだ。
まさに「天網恢恢疎にして漏らさず」である。
無論、「男らしさ」を尊ぶ私は、こういうコソコソした批判なり「陰口」なりを好まない。
だから、この記事のコメント欄に直接コメントをしに出向くことになり、その結果、私と兵頭新児との「対話」が始まることになった。
それをまとめたのが、下の記事である。
○ ○ ○
さて、兵頭新児と直接対話をしてみて、わかったのは、『ぼくたちの女災社会』のレビューに書いた、
兵頭新児は「男らしくない」
という指摘の至当性である。
『ぼくたちの女災社会』のレビューにおいて私は、同書の内容については、勉強になる部分とあるが、個々に論ずべきほどのものではなく、根本的な問題は、著者・兵頭新児の批評スタンスが「男らしくない」点にあると、そう指摘していた。
当の兵頭としては、著書の内容について具体的に論じることもなく、著者をいきなりバッサリと斬り捨てたような論評に、不満を覚えたのであろう。その気持ちは、わからないでもない。
しかしながら、それが不満であり、かつ自身に「理」があると思うのであれば、
(1)堂々と名指しで反論する
(2)採るに足らないと思うのなら黙殺する
の、いずれかをすれば良かった。
それが「男らしい」態度というものだ。
ところが兵頭は、私の記事について、その記事名も書き手の私の名前も伏せたまま、しかしその「トップ画像」でだけは、その批判の対象が、『ぼくたちの女災社会』への酷評を書いた私だと、ハッキリわかるようにしていた。
つまり、兵頭新児がやったのは、批判文を書いたことが、批判対象である私には決してバレないよう、検索に引っかからないための策まで弄して、こっそりと批判した、ということなのである。
この兵頭の記事について、私が「コソコソとした批判」とか「陰口」と評する所以である。
『ぼくたちの女災社会』のレビューにおいて、私は当初、同書の装画に、その著書名と著書名を入れたものをトップ画像にしていた。

これについて兵頭は、自身の記事のトップ画像に、
『他人の本の表紙を勝手にいじるな』
と書き入れることで、私を批判していたのだ。
厳密に言うならば、私の行為が「著作権」の侵害に当たるからである。

ただし、私のこの行為は、厳密には「著作権の侵害」ではあっても、現実には「慣例的な許容範囲のうち」である。
私は何も、『ぼくたちの女災社会』とはまったく無関係なところでその画像を使ったのでもなければ、それを金儲けの道具にしたわけでもない。
まさに同書の論評記事のトップ画像として使用しただけだし、このレビューは無料記事であり、私は一銭の利益も得ていない。
だが、著書として、自分を批判する記事に、自分の著書の画像が使われていたら、
『他人の本の表紙を勝手にいじるな』
と言いたくなる「気持ち」も、わからなくはない。
私の行為が、常識的な慣例における許容範囲内の行為であったとしても、著者である兵頭新児の「感情を害した」というのは事実なので、私はその点に限って、兵頭に謝罪することにした。
私の批評・批判の目的は、相手の感情を害することではなく、誤りを指摘して正すところにあるからである。
要は、謝罪して筋は通した上で、「話はそれからだ」と考えたのだ。
○ ○ ○
そんなわけで、私が最初に書き込んだコメントは次のようなものであった。
『(01-01~2)【2026年1月5日】
年間読書人
初めてコメントさせていただきます。
まず、最初にお詫びを。
貴兄の著作『女災社会』のレビューを書いたので、その記事のトップ画像に、同著の表紙画像を使わせていただきました。さらには、わかりやすいように、同著タイトルと著者名をこちらで入れたのですが、これが無断使用であり、著作権の侵害であるという認識はありました。
しかしながら、まったく関係のないものに使った訳ではなく、いわゆるパクるつもりがないのはご理解いただけると思ったので、ご容赦いただけるかなと、考えてのことでしたが、そうではなかったようなので、近々画像は差し替えされていただきます。
https://note.com/nenkandokusyojin/n/nbfb028b80988
著作権ということについては、私も考えがあって、あまり厳格には捉えていませんが、著者の方が罷りならんとおっしゃるのなら、勝手に使用したことについては、お詫びさせていただきます。 申し訳ありませんでした。
しかしながら、拙レビューの中身についてご批判下さるのなら、私が気づくように、直接おっしゃって欲しかったし、私の記事を示すリンクを張って、読者の方に私の記事が読めるようにしてほしかった。
それで、議論の内容の是非を読者に判断するいただけるようにして欲しかったし、リンクを張れば、こちらにも通知があるので、貴兄による、このお叱りの記事に気づくこともでき、中身の議論もできたはずです。
今回は、またまた気づいたので、このようにコメント欄にコメントさせていただいたのですが、貴兄が私のお叱りになる立場なのであれば、もっと率直に、ご意見をいただきたかったと、残念に思います。
また、拙論に反論なさるのであれば、「エヌ氏」などと星新一みたいな書き方をせず、そのまま名前を書いて欲しかった。
私としては、そういうところが、物書きのあり方として、「男らしくない」と感じられるのです。
貴著の内容について、直接触れていないのは、参考になるところあれば、まったく評価できないところもあって、いちいち説明する価値を感じなかったからです。
ですから、批評態度の根本的なところの問題として、総論的に「男らしくない」という指摘をしたのです。
私としては、いくらでも議論させていただきますが、それならば、それこそ具体的に論点を絞っていただければと思います。私の言いたいことは、すでに書いたからです。
お詫びと思うところを率直に書かせていただきました。
どうぞ、悪しからず。』
これに対して、兵頭新児は、次のように応じた。
『(01-03)【2026年1月5日】
兵頭新児
@年間読書人さん
どうも、はじめまして。
丁寧なコメント、ありがとうございます。
そもそもバレることを想定していなかったので、恐縮しております。
ただまず、表紙画像については全くお気になさらないでください。
アレは本当に、あなたの記事を見た上でこの記事を見た人がいたら笑うかな、と軽い気持ちでやったことで、ちょっとしたギャグです。
画像も早速差し替えていただいたようですが、特にその必要はありませんでした……。』
たぶん、兵頭はこの段階で、自分が私のことを「許す立場」にあると、そう勘違いしたのであろう。だからこそ寛容ぶって、
『お気になさらないでください。』
などと書いているのだろうが、実のところ、気にしなければならなかったのは、自分の立場の方だったのだ。
私は、兵頭新児のこのレスを受けて、次のように返信した。
『(01-04)【2026年1月6日】
年間読書人
@兵頭新児さん
わざわざ、お返事ありがとうございます。
本当は、こっちが下手に出ても、まだ上から被せてきたら、
「ところで、あの装丁画の使用料を、貴方がお払いになってるんですか?」
と、お尋ねするつもりでした(笑)。
著作権というのは、大切なものですが、手塚治虫の『ジャングル大帝』をパクったくせに、法廷でディズニーが「パクリではない」で勝ったように、法律なんて、いい加減なところがあると思うんですね。
で、そんなアメリカでは、契約の際、電話帳みたいに、細かい取決めの書き込まれた、契約書が交わされるそうですが、幸い日本ではまだ、そこまでは行ってなくて「気は心」で済ませているところがあり、私はそこを高く評価しているんです。
要は、そんな「独占欲の塊みたいなことは言うなよ」って気分があるんですね。
なぜなら、どんな創作物も、ゼロから作ったものなんて無いんだから、お互い様ってところがあるでしょ、って思っているからです。
そこにつけ込むのは論外ですが、良識の範囲内でということで、やりたいんですね。 また、その点でも、やり過ぎフェミニストは批判してるんですよ。 度々の長文コメント、失礼しました。』
ここでの、
『本当は、こっちが下手に出ても、まだ上から被せてきたら、
「ところで、あの装丁画の使用料を、貴方がお払いになってるんですか?」
と、お尋ねするつもりでした(笑)。』
という言葉の意味を正しく理解していたなら、兵頭は、自身の「不利な立場」を理解して、私に対する「陰口」について、さっさと謝罪していたことであろう。
だが、それをしなかったのが、つまらない面子にこだわった兵頭の、「敗因」となったのである。
ピンと来ない人のために説明しよう。
「ところで、あの装丁画の使用料を、貴方がお払いになってるんですか?」
という言葉は、何を意味するのか?
それは無論、
「あの装丁画は、貴方の作品ではなく、装丁画家の作品なんだから、まるで自分作品のように言うのは、筋違いだよ」
ということなのだ。
つまり、法的に厳密に言えば、私の画像利用が著作権の侵害なら、兵頭が(著作者の許可を得ないまま)装画に、
『他人の本の表紙を勝手にいじるな』
と書き込んで、作品を「改変」した行為も、著作権侵害なのだ。
したがって「人のことを言えた義理ではない」のである。
『(01-05)【2026年1月7日】
兵頭新児
@年間読書人さん
了解しました。
実際にはデザイナーさんの著作物になるでしょうしね。』
『(01-06)【2026年1月7日】
年間読書人
@兵頭新児さん
そうです。
一般に著作の装丁で、その画像の利用料(あるいは装丁料)を払うのは出版社であって、著者ではありません。
したがって、アメリカ式に厳密に言えば、著者に利用権は無いし、ましてや、私と同様に、文字を入れたりしたら、それは作品の改変になって、著作権の侵害になります。
ただし、そこは「気は心」で、作者がその著作の宣伝をする場合にまでは、とやかく言わないのが、今の日本の出版社の常識でしょう。
同様に、一般人が営利目的ではなく、二次創作やその本の批評などで書影を使ったからと言って、いちいち問題にする出版社は、日本にはまずありません。
なぜなら、それも宣伝になるからです。
しかし、褒めてもらえる場合にだけOKで、批判的な批評なら(あるいは、エロの入ったパロディなら)「使うな」というのは、あまりにもケチくさいと思うんですね。金儲け主義丸出しですから。
だから私は、その画像利用が金儲けのためでないのであれば、あまり厳格な法解釈による法行使をすべきではない、と考えるわけです。
実際、すべての法律においても、例外を一切みとめなかったら、世の中は回りませんしね。』
私がここで何を言っているのかといえば、それは、
「私の場合、自身の著作権観に従い、慣例の範囲で許容されると判断して、あの画像を利用した。
しかしそれでも、著者である貴方の感情を害したという点については、キチンと筋を通して謝罪もした。
しかるに貴方は、著作権者でもないのに、まるで自分が著作権者であるかのように居丈高に振る舞い、それでいて、同じ基準に照らせば、自分も同じことをやっている。
つまり、他人のことを言えた義理でもないのに、自分が、同じことをしている相手を〝許す立場〟だなんて思い違いをしているんだから、なんとも滑稽な無認識ではないか」
ということなのだ。
実際、私は最初に書いた『ぼくたちの女災社会』のレビューの中で、兵頭新児について、次のように評していた。
『たしか、元オタクだというような自己紹介をなさっていた』
また、このレビューを書くに当たっては、当然のことながら、兵頭の「note」のホームページもチェックしていた。なにしろ、そこへリンクも張っているのだから。
で、そこを覗いていれば、当然のことながら、兵頭が今も「オタク系の記事」を書いているということを知ってもいれば、そこで論評した作品の「画像」を使用していることも知っていた。
つまり、そうした「他人の著作物としての画像」を、ほぼ間違いなく無断使用しているであろうことは、事前に承知していたのである。
だが、言うまでもなく、そうした画像の利用は、私の言う「常識的な慣例の範囲内」のことであり、普通は問題にならないし、同じことをやっている私も問題にはしない。
だが、兵頭の方は無自覚にも、自分と同じことをやっている私に対して、
『他人の本の表紙を勝手にいじるな』
などという居丈高な批判をしたのである。
だから、この段階で、すでに兵頭新児は「墓穴を掘って」おり、詰んでいたのだ。
一一ただ、その自覚が無かっただけなのである。
しかし、だからと言って私は、「貴方だって同じことをしているじゃないか」なんていう幼稚な「反論」はせず、自分の「著作権」観がどうであれ、著者の感情を害した点については謝罪し、その上で、
「でも、貴方も同じことをしていますよね。そのことにお気づきですか?」
という意味で、
『本当は、こっちが下手に出ても、まだ上から被せてきたら、
「ところで、あの装丁画の使用料を、貴方がお払いになってるんですか?」
と、お尋ねするつもりでした(笑)。』
と書き、これでもピンと来ないだろうから、その後に続けて「著作権講義」をしたのである。
「貴方のように、厳格に著作権を主張するのであれば、貴方は私と同じ立場なのですよ」
ということを示し、さらに、
「私の場合は、自身に配慮の足りなかった部分が少しでもあったと思えば、謝罪をして筋を通した。
しかるに貴方は、どうなのか?
自分のした、他人の画像の改変について、著作権者に謝罪する気はあるのか? 今後は利用料を払うつもりでもあるのか?
いや、それだけではない。これまで無断利用してきた数々の他人の画像については、どうするつもりなのか?
ぜんぶ謝罪して回り、利用料を払うのか?」
と、そう問うているも同然なのである。
つまり、そんなことは出来ないし、そのつもりもないというのであれば、兵頭新児には、私を責める資格がないどころが、資格もないのに責めたことについて、私に謝罪しなければならない立場だということになる。
「偉そうなこと言ってすみませんでした。
貴方のことを言えた立場じゃありませんよね」
と。
だが、無反省な兵頭は、その後も、他人の著作物である画像に、
『バトル中。』
などという幼稚な文言を書き入れて、著作物の改変を行なった。
私の指摘を受けた後なのだから、これはもう確信犯だということになるのだから、兵頭の方がタチが悪いというのは、この事実によって立証されたというべきであろう。
ともあれ、多少なりとも言葉の「含み」を読みとる能力(読解力)があれば、私が、
『本当は、こっちが下手に出ても、まだ上から被せてきたら、
「ところで、あの装丁画の使用料を、貴方がお払いになってるんですか?」
と、お尋ねするつもりでした(笑)。』
と書いた段階で、兵頭新児は、賢く矛を納めていたはずなのだ。
だが、残念ながら「男らしくない」兵頭は、自分の不利な立場を「漠然」と感じると、その劣勢を取り戻そうと、話を自身の「著書の評価」の問題に、限定しようとした。
要は、まずい話題から話を逸らして、劣勢を挽回しようとしたのだ。
『あなたの文章を読んでいると、本来の問題である(と、ぼくには思える)『女災』の書評の当否というテーマから次第に離れ、「悪事を暴いた/暴かれて焦っている」という物語が、あなたの中で出来上がってしまっているように感じます。』(14-01)
兵頭にとっては自著『ぼくたちの女災社会』についての私の評価の当否が問題なのだろう。
だが、自信の著書を完全否定されて「当たっています」などと考える著者などいないのだから、初めから議論でどうなるようなことでもないというのは、わかりきった話だ。
それに、私にとっては、同書は「詳しく論じるまでもない本」という評価がすでに下されているのだから、今更それを論じる意味など見出せないというのも明らかで、となれば、問題は同書ではなく、同書の著者の方だとなるのも当然の帰結であろう。

無論、それで自著について議論したいというのは、兵頭が自著にそれなりの自信を持ち、特にそれは「痴漢冤罪事件」の部分で、そこについては、私がレビューで「否定しきれなかったから、論及を避けたんだろう」と、そういう「甘い見込み」を持っていたからであろう。
だが、兵頭へのレスにも書いたとおりで、そのあたりの問題については、私はすでに昔から考えており、明確な回答も持っていた。
それは、
「痴漢事件には、冤罪もあれば、事実そのとおりの犯罪もある。だから、事件個々に対応するしかなく、総論で片づくような問題ではない。
男なら男の共感が得られるように、男の側の冤罪被害をアピールをするというのが、兵頭のような党派理論家の仕事なのではあろう。だが、そんなものは、批評とは呼べない。
問題の全体性を見ず、考慮せず、党派の利益のみを追求して、身内からの支持だけを求めるような、志の低い主張など、論評にも値しないものだ」
というのが、私の考えなのだ。
そして、この「論評にも値しない」ものを、「社会批評」のつもりで書いていたのが、兵頭新児の『ぼくたちの女災社会』なのである。
「対話」の中でも「相手の立場に立って考えてみろ」と、何度か指摘したのだが、兵頭新児の主張は、徹頭徹尾「自己中心」であり「男中心」である。
なぜそうなのかと言えば、それは兵頭が「男組」という党派の利益しか考えていない、党派理論家にすぎないからだ。
兵頭は、「何が正しいのか」には興味がなく、
「われわれ男にとって、何が得なのか」
ということしか考えていないし、そのようにしか考えられない、視野の了見の狭い人なのだ。
兵頭は、私の理屈が「観念論」にすぎず、現実に即していないと、「対話」のなかで、次のように書いている。
『(07-01)【2026年1月9日】
兵頭新児
漠然とした観念論を弄ぶばかりで、パンチが届いていない。
男というのは天下国家を語ることは好きでも、自分の身の回りのこと、公に対する私、マクロに対するミクロに対する解像度が極めて低い存在です。ぼくはそれを三人称性、と呼びました。
あなたはその解像度の低さに自覚がないままに、UFOを見て「鳥でしょ」と言い続けているのです。ぼくの本には宇宙人のクリアな写真までが載っているのですが、恐らくあなたはそれを見ても一瞬で忘却してしまっているのです。』
「男」は、天下国家のことを「観念的」に論ずるのは好きだが、「自分の身の周りのこと」、つまり「ミクロ」の視点に欠けている。
その点、私(兵頭新児)は、「解像度」が高くて、身の回りのことや、ミクロなことも見えている。
一一という、これはそんな身も蓋もない「自己賛美」なのだが、そんな有能な人が、他人の著作物の無断利用について、自分のことを棚に上げてと言うか、すっかり忘れて、人のことを責めたり出来るものだろうか?
兵頭は、私についてを、とにかく「決めつけ」で否定的に論評するが、それはすべて、自分自身に撥ね返ってくるものでしかない事実に気づけないところにこそ、兵頭新児という人の「能力」が、よく表れている。
「対話」の中で私は、兵頭の先のような評価を受けて、
『自分で自分のことを不明確な人間だと思う人は、あまりいませんよ。だから、そんなこと自分で言っても意味はない。
だから、第三者の判断に任せるんですよ。』(09-04)
と書いたが、兵頭新児という人は、自分の論説はいつも「明確だ」と、そう思い込んでいて疑わない。だからこんなふうに恥じることもなく、自己申告で自分の能力を褒められるのである。
だがこれは、「自己懐疑を欠いている」という点において、極めて「非知的な態度」なのだ。
知的な人間であれば「自分としては万全を尽くしたつもりだけれど、それでも人間のすることだから、見落としや抜け落ちがあるかもしれない」と、そう慎重に考えるし、だからこそ「私は明確(明晰)だ」なんてことを、自分からは言わない。
そんな幼稚な自慢をしてから、あとで「見落としや抜け落ち」が見つかったら、赤っ恥をかくことになるのだから、そこは慎重に「最善を尽くしている」くらいに言うのが、賢い人の態度なのである。
だが、兵頭新児には、こうした慎重な知性がまるで無く、自分で自分を賢いと連呼しておけば、それで周囲も説得できると勘違いしている。
そりゃあ、『ぼくたちの女災社会』のような著作を絶賛するような読者も、世の中には大勢いるだろう。
それで兵頭は、誤った自信をつけてしまったのかもしれないが、それも視野の狭い話でしかない。
なぜなら、兵頭が批判しているフェミニストで、兵頭よりも高く評価され絶賛されている者など、いくらでもいるからだ。
例えば、北村紗衣なんかもその代表的な一人で、北村紗衣のクズのような著作でも、心から共感できる読者というのは、世の中にいくらでも存在するのだ。
だから、同様に兵頭の著作をどんなに絶賛する読者がいても、それは少しも不思議なことではないのである。
(※ 下は、北村紗衣が主導した「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」に、発起人(呼びかけ人)として参加した大学教授の著作についてのレビュー)
北村紗衣の著作が、フェミニズムや批評に興味のある、しかしあまり本を読んでいない、被害者意識の強いという、そんな若い女性にウケたように、兵頭新児の著作は、「男は、女に比べて損ばかりしている」という被害者意識をこじられた高齢者男性を慰めるものとして、一部に売れて、一部に絶賛されているものにすぎない。
北村紗衣にしろ、兵頭新児にしろ、所詮は「身内ウケ」を狙って書いている「党派理論家」でしかないのだから、そうなるのは当然なのだ。
なにしろ、そのつもりで書いているのだから。
兵頭新児は、なぜ私の論説を「観念論」だと言うのか?
「天下国家」を論ずるばかりで具体性に欠け、「周囲」のことが見えておらず、ミクロの視点を欠いていると、そう主張するのか。
簡単なことである。
物事を見るためには、兵頭も言うとおり、マクロの視点とミクロの視点の、「両方」が必要だ。
言い換えれば、「鳥の視点(鳥瞰)」と「虫の視点(生活リアリズム)」である。
で、視野を「男性の利益」という、ごく狭く低い範囲に限定している「党派理論家」である兵頭新児は、たしかに自分の身の回りにある「男性の側の被害」については、よく見えているはずだ。
だが、兵頭には「女性の側の被害」が、まるで見えていない。
見る気がないというのではなく、見る能力がないから、身の周りに固執するしかないだけなのだ。
つまり、兵頭新児には「鳥の視点」が無いのである。
で、私の場合は、「鳥の視点」からも物を言うから、兵頭からすれば、天下国家レベルだけでものを言う「観念論」だということになるわけなのだが、「鳥の視点」を持つ者にとっては、一部の党派の利益のために、全体をダメにするというわけにもいかないから、おのずと「全体」に配慮するということにもなるのだ。
例えば、「ロシアの視点(という、政治的な虫の視点)」に立つウラジミール・プーチンからすれば、ウクライナに侵攻するのは当然の正義なのだが、「鳥の視点」に立てば、それを許すわけにはいかないということになるのと、同じ話なのだ。
限定された視点においての「正義」は、必ずしも「全体」における正義ではない。
「男にとっての利益」は、しばしば「女にとっての不利益」だったからこそ、フェミニズムは生まれ、女性の権利が尊重されるようになり、それが「一部」行き過ぎて、今度は「一部」の男性が「我々こそが被害者だ」と騒ぎ出して、兵頭新児みたいな「党派理論家」も登場してくる。
けれども、こうした「虫の視点」しか持たない「一部」の人の問題を、「全体」の問題と混同するわけにはいかない、というのが、「鳥の視点」を持つ者の、当然の判断なのだ。
「局所的な判断」を、安易に「全体」に適用するわけにはいかない。
けれども、だからと言って「一部の意見」「局所的な正義」を切り捨てれば良いのかと言えば、そうはいかない。
なぜならば、「全体」とは「一部・局所」の集合であって、「一部・局所」の尊重なくして、「全体」は、あり得ないからである。
言うまでもなく、「鳥の視点」を持つ者も、多かれ少なかれ「虫の視点」も、兼ね備えている。
なぜなら、人間誰しも「肉体(身体)」に縛られており、その存在論的な重力からも自由ではないからである。
つまり、「鳥の視点」とは本来的に、「虫の視点」をベースにした「プラスアルファ」であって、それだけで存在するものではないのだ。
いくら「心頭滅却すれば火もまた涼し」と思っても、身体がある以上、火は熱いし焼け死にもするのである。
だから「鳥の視点」だけではダメだ、などということは、それこそ「鳥の視点」を持っている者にこそ自明なことなのだが、「虫の視点(党派的な視点)」しか持たない者は、その視野の狭い「妬み」によって、「鳥の視点だけではダメだ」などと、聞いたふうな口を利くのである。
したがって、兵頭新児が言うところの「観念論」とは、「虫の視点(党派的視点)」だけ(オンリー)による、「鳥の視点だけではダメだ」論にすぎないのだ。
また、だからこそ私は、
『時代が違えば、男女が逆だったこともあるわけで、そうした非対称は、絶対に無くならない。
だから、個々の事例に即して、筋を通していくしかない、ということです。』(03-02)
『正しく是々非々で個々の事例にあたっていくしかない、ということです。
立場の一発逆転を狙うのは、まさに「革新(左翼)」の問題点そのもの。 「保守」の長所とは、現実を見ながら、漸進するところにあって、それこそが保守の精神なのです。』(03-06)
と書いたのである。
これが意味するのは、ひと言で言えば「バランス感覚が必要だ」ということだ。
「極端」に走るのではなく、つまり「一部」や「局所」の利益に立つのではなく、可能なかぎり、あちらもこちらも立てられるように、バランスを取る努力が必要だし、それには「鳥の視点」と「虫の視点」を併せ持った上での、バランス感覚が必要なのだ。
だが、そういう視点を持たない「虫の視点」オンリーの人は、自分の周囲だけを見て「こんな被害が出ているのに、どうしてこちらを優先しないのだ!」と、本気で怒る。
だが、それは彼に見えていないものについても配慮しているからであって、そうした局所的現実を、無視しているわけでもなければ、ましてや、知らないわけでもない。
なにしろ、「鳥の視点」を併せ持っているのだから、いやでも遠くまで見えており、だからこそそちらへも配慮せざるを得ないのだ。
○ ○ ○
兵頭新児が、自分の行った「陰口」について、その事実を認めながらも謝罪することはせず、ぐずぐずと「言い訳」を重ねるのも、それは、「虫の視点」オンリーのゆえなのだ。
「虫の視点」からすれば、「謝罪したら負けで、損をする」ということになるから、是が非でも謝罪しない。
同様の理由で、男性の被害は強くアピールしても、女性の被害については見向きもしない。
こうした兵頭新児の、悪い意味での「政治的」な態度は、例えば、障害殺人で現行犯逮捕された犯人が、
「刺したことは認めるが、殺そうと思って刺したわけではない」
などと、その「犯意(故意)」を否認するのと、まったく同じことである。
彼は、「事実」は認めても、「犯意」さえ認めなければ、罪が一等軽くなることを知っている。
だから、すでに証拠が挙がって誤魔化しようもない犯行事実は否認しない(認めざるを得ない)けれど、心の中の問題である「犯意」については「否認しないと損だ」と、そう考えているのだ。
だから、
『(02-01)【2026年1月6日】
兵頭新児
さて、ただ、あなた側のことについて明示して欲しかった、という旨についてですが、この件について、本来であればぼくは相手の名を伏せるということはほとんどしないし、その意味で本件は非常に珍しいパターンです。
しかし、では何故今回は伏せたのかというと……大変申し訳ないですが、あまりご意見に意味を感じなかった、「よくある意見のワンオブゼム」であると感じたことに加え、議論しても話が通じないんじゃないかなあ、という印象を持ったためです。』
とか、
『(02-03)【2026年1月7日】
兵頭新児
@年間読書人さん
まあ、ご覧にならないだろうと思って書いたのだから、その意味では確かに「陰口」かも知れません。
ただ、こちらも個人の特定は、「わかる人にはわかる」程度にしたつもりではあります。ご本人に見つけられるとは思っておりませんでしたw』
などという、言い訳にもならない言い訳をしたのだ。一一決して、謝罪だけはせずに。
自分がどんな「つもり」でやろうと、「陰口は陰口」なのだが、その「犯意」を否定することで、罪一等減じられることを期待して、このように見苦しい言い訳を連ねる。
一一だが、こういう態度こそが、私の言う、
「兵頭新児は、男らしくない」
ということの証拠なのである。
兵頭新児は、その著書で「痴漢冤罪事件」を採り上げて、もっぱら「男性こそが被害者だ」と訴えている。
「女の言い分ばかりが通ってしまい、男は不当に扱われている」と、「被害者意識」丸出しで、一方的に弁じ立てているのだ。
だが、兵頭新児が論じるのが、どうして「痴漢事件」であって、「盗撮事件」ではないのか、という点を考えてみるといい。
この2種類の「ハレンチ罪」の大きな違いは、前者には「物的な証拠」が無く、後者にはそれがあるという点だ。つまり「盗撮写真」という、動かぬ証拠の存在である。
「盗撮」で捕まった男は、写真という物証を押さえられてしまっているので、「間違いだ」「冤罪だ」などとアピールすることはできない。
だが、「痴漢」で捕まった場合は、たいがいは物証がないからこそ、実際にやっていても、「間違いだ」「冤罪だ」とアピールする者が、少なからず出てくる。
それこそ、兵頭新児ではないが、
「犯意を認めたら負けであり、損だから」
である。
無論、兵頭だって「痴漢」事件のすべてが、冤罪ではないことくらいは承知しており、おのずと、同情すべき女性被害者の存在することも知っている。
にもかかわらず、そうした女性被害者は一顧だにすることもなく、「痴漢」事件は「女の言い分を一方的に採用する、司法による冤罪だ」というようなことばかり訴える。
なぜそうなるのかと言えば、それは兵頭新児自身が、実際に「やった」犯人の側の人間だからなのだ。
「手が当たったのかも知れませんが、わざとじゃありません。押されて当たっただけです」
とか、
「たしかに、陰口だと言われれば、形式的には陰口かも知れません。だけど、陰口を言ったつもりはありませんから、陰口だとは認めません。したがって、謝罪するつもりもありません」
というのが、「兵頭新児のロジック」なのである。
しかし、「盗撮」犯人があれほど実在する以上、当然、通勤電車などでの「痴漢男」というのも、同じ程度に存在していると考えるべきであろう。
無論、男が全員痴漢だというわけではないが、犯罪者というのは、確実に少なからず存在しているのである。
また、だからこそ司法は存在し、警察が存在する。
兵頭新児が期待するような「厳重注意」(03-05)の「叱りおき」で、すべてが片づけられれば、これほど楽なことはない。
だが、何度も指摘したように、兵頭自身が「被害者」になった場合を想像できれば、それで済ましはしないはずだ。
例えば、兵頭が歩いていると、通りすがりの見知らぬ男性と肩があたり、口論となって殴られたとする。兵頭は我慢して手を出さず、110番をした。
その逮捕現場に臨場した警察官が、事情聴取した上で、兵頭に対して、
「それで貴方は、一方的に殴られていたんですか? 相手も一人でしょ? ならどうしてやり返さなかったんです? 自分が弱いから、やられっぱなしだったくせに、こんなつまらない喧嘩なんかで、いちいち警察を呼ぶんですか? 警察権力に頼って、負けた喧嘩の報復をしようなんて、男として恥ずかしいとは思わないんですか? だから悪いことは言わない、喧嘩に負けたくらいで、被害届を出すなんて、恥ずかしいことはやめておきなさい。こんなつまらない事件を捜査していられるほど、警察は暇ではないんですよ。だから、ここでお互いに握手して別れなさい。それが大人というものですよ」
一一なんて言われたら、どう思うか。
こうしたことを、少しでも考えることのできる想像力があれば、痴漢に遭った(と感じた)女性が、犯人(と思える男性)を「絶対に許せない」と感じるのは当然であり、それが仮に「勘違い」であったとしても、「絶対にこの人は、わざと触りました」と訴えたくなる気持ちも理解できるはずだ。
だから、警察は、どちらの言い分が正しいのかを捜査するのだし、それが仕事なのだ。
無論、警察は「神様」ではないから、間違うこともあるし、それは検察でも裁判所でも同じことだ。
だが、だからと言って、「司法は当てにならない」などと言って済む問題ではない。
当てにならないのは、人間すべての話で、「当てにならない」と言っている当人も、当然、当てにはならないのである。
だからこそ、私は「理想と現実の兼ね合い」だと言うのである。
当然のことながら、「人間なんだから完璧は無理。だから、まあ適当なところでいいじゃないか」では、済まされない。
だが、だからといって、「人間に完璧を求める」こともまた、理不尽である。
ならばどうすればいいのかと言えば、その「理想と現実の兼ね合い」を見ながら、個々に最善を尽くして判断するしかない。
「この事案については、被害女性の言い分が正しそうだ(被疑者の供述には信憑性がない)」とか、「この事案については、被害女性の言い分は、信憑性に欠ける(被疑者の釈明の方が信憑性がある)」といった具合に、捜査をした上で判断するしかない。
そうした判断が、いつでも正しいという保証など無いが、それでも判断するしかないから判断し、結果としてそれが間違っていれば、今度はそれが正されなければならない。
最初から、必ず正解を出せるのなら、誰も苦労はしない。
だが、神ならぬ身の人間のやることなのだから、可能なかぎり理想を目指して努力するしかない。
「理想」という「鳥の視点」に立つものと、「人間的な限界=現実」という「虫の視点」のせめぎ合う場所で、精一杯やるしかないのが、人間という存在なのだ。
にもかかわらず、幼稚な「虫の視点」だけに立って、自己利益だけを追求し、時には、そのためにウソまでつくというのが、「虫の視点」しか持たない人間のやることなのである。
なぜ、兵頭新児は、堂々と謝罪できないのか?
それでいて、自分を被害者の位置に置きたがるのか?
それは、彼が本質的に「男らしくない」からである。
『ぼくたちの女災社会』のレビューの中で私は、「男らしさ」の意味を語った歌、高倉健の歌う映画『昭和残侠伝』の主題歌である「唐獅子牡丹」の歌詞を解説して、次のように書いていた。
『高倉の唄う主題歌「唐獅子牡丹」の歌詞「義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい男の世界」の「義理」とは、「正義の道理」という意味であり、「貸し借り」の話ではない。つまり「人情よりも義理が重たい」とは、たとえ恩義のある個人的には好きな人であっても、浮世の義理を果たすためならば、自分の手で倒さなければならない時がある、女性のように「情に流される」わけにはいかない、人としての道理の筋目を通さなければならない、というほどの意味だ』
つまり、「男なんだから男の利益を優先したい」とか「女なんだから女の利益を優先したい」とかいうのは、「人情」なのである。
だから、それも「わからないではない」のだけれども、しかし、そうした「人情」に流されることなく、「人としての筋を通そうとする態度」こそが、私のいう「男らしさ」であり、男らしい態度なのだ。
だが、兵頭新児には、そうした「男らしさ」が、かけらも無い。
それが無いから私に批判されたのであり、それが無いから、「陰口」の現場を押さえられ、私人逮捕(現行犯逮捕)されたも同然であるにもかかわらず、「その気は無かった」などと、ぐずぐずと言い訳を並べたてることにもなったのだ。
私が『ぼくたちの女災社会』のレビューに書いた、「男らしくない」という兵頭新児評ほど、簡にして要を得た評価もまたとないし、それを証明しているのが、他でもない、私との「対話」における、兵頭新児自身の言い分や、その態度なのである。
(2026年1月14日)
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