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川村元気監督 『8番出口』 : 理に落ちた中途半端な作品。

映画評:川村元気監督『8番出口』(2025年)

本作は、迷宮と化した地下鉄通路を、地上への脱出口とされる「8番出口」を探し求め、延々と歩き回るという同名ウォーキングシュミレーションゲーム『8番出口』を、ドラマ化した映画である。

原作のゲームがそうであるように、ゲームのプレイヤーの視点に立つのが、本作映画版では(一部「例外パート」はあるものの、基本的には)二宮和也の演ずる主人公ということになる。

なお、本作の登場人物たちには名前は与えられておらず、この主人公も、役名としては「迷う男」となっていて、この地下迷宮に登場する人物には、「歩く男」「少年」「女子高生風の女性」「ある女」などの呼称が与えられているだけである。

女子高生風の女性花瀬琴音):「おじさん=歩く男」がまだ通路を脱出しようとしていた頃を描くパートに登場する謎めいた女性。あとで「歩く男」に「バケモノ」と呼ばれることになる「異変」の一種的存在)

結論から言うと、本作はゲーム原作のユニークな設定を生かしたユニークな作品ではあるものの、そこに盛り込まれた映画独自のテーマやドラマ性が「ありきたりの良い話」に過ぎず、間違ってはいないが「当たり前のもの」にしかなっていない

だから見終えて思うのは「なるほどね。そういう話だと、すぐにわかってはいたが、そこから半歩も出るものが無かったから、物足りない」と、そういう感想にもなる。

したがって問題は、本作映画版に独自に盛り込まれたテーマ性でありドラマ性なのだが、そこがたぶん、小説や脚本も書く、川村元気監督の本作に盛り込んだものなのであろう。実際、川村は本作の脚本も書いているのだ。

したがって、この「テーマ性やドラマ性」のことを具体的に書くと、それがそのまま本作のネタバレになってしまう
ネタを割ってしまうことになるので、未鑑賞の方は、そのつもりで本稿を読んでいただきたい。

ただ、これも先に書いてしまうが、この映画が「どういう性格の作品なのか」つまり「何を語ろうとした作品なのか」という点については、私は開幕から15分ほどで、「ああ、これはそういう映画なんだな」と気づいてしまった。そして、そのとおりの作品であった。
一一つまり、その程度の作品なのだ。

だから、実際のところ、ネタをばらしてしまっても、大禍ない作品なのだ。
むしろ、
「こういうオチの作品だけど、ゲームの迷宮的な世界の見せ方は面白いので、そちらに興味のある人は、そこだけを見るために見てもいいんじゃないか」
と、私ならそう助言するだろう。

実際、私自身も、その程度の気持ちで、多くを期待せずに見に行ったので、オチが予想どおりだったとしても、とくに腹が立つようなこともなく、

「もうひと捻りが必要だったな。でも、この程度で止めておくからこそ、カルト映画にはならず、一般ウケを狙えるんだろうな」

と、そうも思えたのである。
本作は、そういう作品なのだ。

だから、私からすると、本作は「80点」くらいの作品だ。
つまり「見てもいいけど、見なくてもいい作品」。
「ご立派なテーマのわりには、さして感動もせず、そのテーマはまったく印象に残らない作品」ということになるのである。

 ○ ○ ○

さて、映画本篇を論じる前に、川村元気監督について、すこし書いておきたい。

私はこれまで、川村元気のプロデュースした作品として、新海誠監督の出世作『君の名は。』を見ているだけで、川村元気がプロデュースした作品や、脚本を書いた作品、監督した作品を、ほぼ見ていない。

で、どうしてそうなのかと考えてみると、どうも私は「川村元気」という名前に「俗ウケ狙いの、いささか胡散くさい才人」という印象を持っていたからであろう(秋元康的とでも言えようか)。

川村元気は、最初はプロデューサーとして名をあげた人なのだが、川村がプロデュースする作品というのは、ヒットするためのもの(ヒット商品作り)としては「いいところを突いてくるな」とは思うものの、私が見たいような「個人的なこだわりや熱量」が感じられるようなものがない。「こういうのが作りたいんだ」という作家性(作家的本能)がほとんど感じられず、「いまヒットするとしたら、これだ」みたいなものばかりが感じられる人なのだ。

特に、その印象が強かったのが、2012年の初小説作品『世界から猫が消えたなら』である。
このタイトルを見た時に「ああ、こいつは作家ではないな」「ウケしか狙ってないな」と、そう感じたのである。

猫ブームだというくらいのことは、私のような朴念仁でも知っていたし、じっさい猫が好きな作家も大勢いて、猫が重要な役回りで描かれる小説も少なくはない。

私が好きな作家では、保坂和志がそうで、私が10冊以上は読んで、ほぼ全冊買っていた保坂和志の小説の中で、とびきり好きだった作品も、自身の飼い猫を人間の子供(男の子)として擬人化して描いた『季節の記憶』(1997年/谷崎潤一郎賞平林たい子賞受賞)だった。
保坂和志の作品には、猫をテーマにした作品が多いのだ。

そのほかには、大の猫好きで、猫のために仕事をしているような笙野頼子のような小説家もいて、その猫がらみの小説も私は何冊かは買っていたが、結局それらは読めないまま、積読の山に埋もれさせてしまった。

つまり、私の場合は、特に猫好きだというわけではないが、猫嫌いだというわけでもなく、作家によってはそうした猫小説も読む、ということである。

だが、川村元気『世界から猫が消えたなら』という小説タイトルを見た時に、感じたのは、わかりやすくあざとい、「泣かせ」による「釣り」だということだったのだ。

しばしば若者が「恋人が余命1年ならどうするか?」みたいな、よくあるパターンの物語に、想像力を掻き立てられ、感情を煽られてしまうように、この川村の小説のタイトルは、タイトルだけで、猫好きの想像力を触発して、ドーパミンだか何だかを発出させて、小説を読む前から「興奮」させる、そんなタイトルなのだ。

言い換えれば、小説そのものは、タイトルほどの力を持たないだろうとも予想できたわけだが、「著者にとっては、作品の中身よりも、このキャッチーなタイトルの方が重要なんだろうな」と、そう感じられたのである。

で、私はそういうマーケティング的な発想」が大嫌いだから、川村元気が「良い話」系の作品ばかりを作っていても、決して好印象は持てなかった。
要は、川村の作る作品が「良い話」であるというのも、結局は「無難に売るための最低条件」だと、そう考えているのだろうなと、そんな「偽善性」を感じていたのである。

一一そんなわけで、これまでは、川村元気の作品には、基本的に興味はなかったのだ。

では、どうして今回は本作を見たのかというと、私は「出口の見つからない、迷宮めいた場所をぐるぐると彷徨うような話」に、惹かれるからだ。
実際、そんなあまり楽しくもない夢をよく見るのだが、なぜかそういう暗い世界観に惹かれる。

(最初、主人公「迷う男」は、右の「歩く男」と何気なくすれ違うが、そのあと何度も繰り返しすれ違うことになる)

例えば、ミステリ作家・竹本健治が原作を書き下ろしたウォーキングゲーム『月花霧幻譚〜TORICO〜』(1996年)もそうした魅力を持つゲームだったのだが、ゴールを目指すというイベント性が薄く、むしろ、不思議な世界をいつまでもうろうろしていたいというようなところが魅力の作品であった。サブタイトルの「虜(トリコ)」は、それを意味したものなのであらう。

だがまた、たぶんそのせいで、このゲームは、ほとんど売れなかったはずだ。
作品世界の雰囲気がメインの作品など、やはりゲーマー向きではなかっただろうからだ。

だが、私は竹本健治の家で一度だけプレイさせてもらったこのゲームが、今でも忘れられないでいる。
つまり、『月花霧幻譚』は、私のツボを突いた異端のゲームであり、竹本健治という作家の本質のよく表れた作品で、だからこそ私は、竹本健治の作品に惹かれもするのであろう。

閑話休題。
そんなわけで私は、映画『8番出口』のコマーシャル映像を初めて見た時、『月花霧幻譚』のことを思い出して、この映画を見たいと思ったのだ。

また、そのあとで監督が川村元気だと知って、あまり期待しない方がいいとは思ったのだが、その映像だけは堪能したいと思ったのである。

したがって、私が映画『8番出口』に惹かれた理由の大半は、原作のゲームに由来する部分だったということになるのだが、しかし、ゲームのCG映像ではなく、実写で見てみたいとそうも思ったので、本作を、映画作品としては過大な期待をせずに見に行き、それは正解だったのである。

したがって、映画独自の「テーマ性」や、それに由来する「ドラマ性」は抜きにして、あの「イヤ〜な世界観」を味わいたい人には、一見の価値はあると、そうオススメしたい、本作はそんな作品なのだ。

【以下で、本作『8番出口』のネタを破りますので、未鑑賞の方はご注意ください】

○ ○ ○

すでに説明したとおり、本作の原作ゲーム『8番出口』は、イヤ〜な雰囲気の、実際しばしば気味の悪い怪異が登場する、脱出シュミレーションゲームとでもいったものでしかないのだが、川村元気はその原作ゲームの世界観を、ある「テーマ」を盛りつけるための「器」として利用した

そのテーマとは何なのか?

それは「あなたは子供たちを守れるか?」というものである。

「子供を救え」というのは、『狂人日記』における魯迅の有名なテーゼだが、それのエンタメ版だと考えても良いだろう。

つまり、テーマ自体は悪くないし、むしろ私好みのテーマなのだが、いかんせん、そのテーマの描き方や掘り下げが、通り一遍で薄っぺらく、しかもバレバレなのだ。

本作映画版『8番出口』の冒頭は、次のようなものだ。

プロローグ

満員の地下鉄に乗り込んだ「迷う男」(※ 二宮和也)は、泣き叫ぶ赤ん坊とその母親が、怒った男に怒鳴られている様子を目撃する。迷う男は母子を気に掛けつつも、結局は視線を逸らし、何もせずに地下鉄を降りた。

派遣現場に出勤するため駅の出口へ向かう迷う男の元に、別れ話が持ち上がっている恋人の「ある女」(※ 小松菜奈)から電話がかかってくる。妊娠が発覚したと言う彼女に、何も決められない迷う男は歯切れの悪い返事を続けるが、不自然に電波が圏外になる。

迷う男

迷う男は、前方の曲がり角から歩いてきて通り過ぎていく「おじさん」(※ 河内大和)と何度も遭遇したことで、自分が同じ通路(空間)を歩き続けていることと、通路の曲がり角に見慣れぬ案内板が設置されていることに気付く。

「異変を見逃さないこと」「異変を見つけたら、すぐに引き返すこと」「異変が見つからなかったら、引き返さないこと」「8番出口から外に出ること」

(Wikipedia「8番出口(映画)」より/(※)は引用者)

つまり、「迷う男」は、派遣社員の不安定な身分であり、しかも「喘息持ち」で、(たぶん、その将来的な展望の暗さから)別れ話の出ていた恋人から「子供ができた」と言われても、とうてい喜べない、自分に自信など持ちようもない、不安定な状況にあったのだ。

彼女が「私、どうしたらいいか、わからないの」と言って、遠慮がちに苦しんでいるのを察しながらも、「子供を産んで」とか「結婚しよう」という言葉は出てこず、ただ「今はどこ? 病院なんだね? なら、今からそっちに行くよ」と言うのが、精一杯なのだ。

だが、病院へ行けば、派遣の仕事をすっぽかすことになるから、彼の身分がさらに不安定になることは、二人ともわかっているのである。

つまり、「迷う男」とは、今の自分に自信を持てない男であり、そのために恋人を守ることもできなければ、生まれかけている子供を守ることもできないでいる。
また、そうした「迷う男」の自信の無さを象徴的に描いているのが、映画冒頭の、

『満員の地下鉄に乗り込んだ「迷う男」は、泣き叫ぶ赤ん坊とその母親が、怒った男に怒鳴られている様子を目撃する。迷う男は母子を気に掛けつつも、結局は視線を逸らし、何もせずに地下鉄を降りた。』

というシーンなのだ。

「迷う男」は、子供を守ることも救うことも出来ない、自分のことで精一杯の、自信の持てない男であることが、この冒頭のシーンで描かれる。
そして、その後に恋人からの「妊娠している」という電話報告あって、明らかにそれに狼狽える「迷う男」が描かれ、その直後に「出口のない迷宮世界」に突入するのだから、この不思議な空間は、「迷う男」の、出口が見つけられずに、あれこれと思考を彷徨わせるしかない「閉塞状況の象徴」だと、容易に察しがつくのである。

つまり、本作映画版『8番出口』は、恋人とその自分の子供も守れない男が、その「出口なし」の状況を克服して、恋人と子供を守れる男へと成長し、その堂々めぐりの状況を乗り越えた姿を、象徴的な描いた物語だ、ということも、容易に推測可能なのだ。

(「注意書き」を確認する主人公)

まさか、二宮和也が演じる「迷う男」が、最後までダメ男のままのわけがないし、監督は「いい話」しか作らない川村元気なのだから、最後はハッピーエンドに決まっている。

一一と、そこまでが、早い段階で、あっという間に読めてしまうのだ。

だが、本作でひとつだけ、「おっ」と驚かされたのは、物語の中盤で、視点人物が「迷う男」から別の人物に移るところだ。
これはゲームでは、普通はあり得ない「転調」であろう。

それは、「迷う男」が地下通路を8番出口を求めて彷徨う際に、繰り返し前方から現れてくる、まるでCGキャラクターのような無表情で、無機質に歩く「おじさん=歩く男」である。

(強烈なインパクトを残した「歩く男」)

ただし、視点人物である際の「歩く男」は、「迷う男」視点の時のような不気味で非人間的な人物ではなく、「迷う男」と同様に、地下通路から出られなくなり、そこから脱出しようと必死になっている、普通に人間的な会社員風の男である。
しかも彼は、通路の途中で出会った、迷子らしい8歳くらいの無口な少年も助けてやらなければと、少年を連れて出口を目指しているのだ。

だが、この「歩く男」のパートは、次のようにして終わる。
やっと見つけたと思った8番出口から、外へ出る階段を駆け登ろうとしたところ、なぜか少年が男の手を引いて、そっちへ行っちゃダメだと引き止めようとする。
それに苛立った男は、思わず少年の手を振り払ってしまい、少年は転倒するのだが、男は少年がどうしてもついてこない様子なので、ついに「俺は悪くない」と自分に言い聞かせるつぶやいて、少年を残して、一人で出口を出て行ってしまうのだ。

(上から降り注いでいたのは、果たして「希望の光」だったのか?)

その後、少年は一人で通路を戻っていき、そこで「迷う男」と出会い、今度は「迷う男」と行動を共にするのだが、すると、その前方から、8番出口から出て行ったはずの、顔見知りだったはずの「歩く男」が無表情かつ機械的な歩き方でやって来て、少年が声をかけても、その存在にさえ気づかない様子で、通り過ぎていくのである。

さて、この展開が意味ところは、もちろん明らかだろう。
要は「子供を見捨てた男」は、結局、地下通路の迷宮から出られなかったのだろう(偽の8番出口=異変のひとつ、だった)し、むしろ、そのせいで地下通路の一部として取り込まれてしまった、ということなのである。
彼も最初は「普通の人間」だったのだが、子供を見捨て、犠牲にするその冷たい心が、彼を「歩く男」という、機械人形のような存在に変えてしまったのだ。

で、そうなれば、この少年を救う者が、この地下通路の迷宮を脱出できるはずだし、それは、「迷う男」をおいて他にはいない。
つまり、「迷う男」が、「この子を救おう」と決意して「迷わない男」へと成長した時、彼は初めて、この文字どおりの「迷いの迷宮」から出ていくことが出来る、ということだ。

したがって、ここまでわかれば「少年」の正体ももはや明らかであろう。それは言うまでもなく、「迷う男」と恋人との間に生まれた、子供の「未来の姿」なのだ。
子供が「過去の迷える父」を、救いに来ていたのである。

(途中から登場した「少年」と行動を共にする「迷う男」)

そうとは明示的には語られないが、「パパ、その迷いから脱して、僕を生み育てて」と、そのように感じての、少年の行動だったのであろう。つまり、少年自身は「迷子」ではなかったのだ。
だから、誰よりも冷静に状況を理解していたし、それで「歩く男」も助けようとしたのだが、それはうまくいかなかったのだ。

その後、地下通路の中で、電波が一時的に回復して、彼女との通話が可能となり、彼女と再び話した「迷う男」は、前回よりは少し前向きな態度に変わっていたようだが、まだ、その迷いが、完全に払拭されたわけではない。

だからこそ、地下通路の迷宮から脱出できないのだが、再び電波が途切れて彼女からの通話が絶たれた後、いきなりその彼女が、いるはずのない通路にこつぜんと現れる。

「迷う男」は、これも地下通路が見せる「異変」のひとつなのではないかと警戒するのだが、その時、少年が、その幻と思しき「迷う男の恋人」を「ママ!」と呼んで駆け寄ろうとする
「迷う男」は少年を引き止めて「違う。あれは君のママなんかじゃない」と否定するのだが、これで「少年」の正体が、「迷う男の子供の将来の姿」だというのが確定的になる。

(「迷う男」の「彼女=ある女」。背景の海は、後半に登場する「未来の記憶」の舞台のイメージであろう)

ここまで来れば、あとは説明する必要もないのだが、このあと「少年」を連れた「迷う男」を、突然、通路に流れ込んできた「濁流」という異変が襲う。
たぶん、スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』における「ホテルの廊下に現れる血の奔流」を意識したものなのだろう。

ともあれ、「迷う男」は、その濁流から少年を守るため、少年を天井から吊り下げられている案内板の上に押し上げて逃すのだが、そのためにみずからは、濁流に呑まれてしまうのである。

だが、この「子供を救う」行動によって、男は死ぬことはなく、再び目を覚ました男の前には、当たり前の地下通路が現れており、男はその通路をプラットホームの方へ降りていく。

そして電車がやってくると、男は当たり前のようにその電車に乗り込んで、物語冒頭とそっくりそのまま、車内のドア前で、イヤホンで音楽を聴きながらスマホを見ていると、一一なにやら騒々しい。
それで、イヤホンを片方外してみると、泣き叫ぶ赤ちゃんの声が聞こえてきて、やがてその「母子」の前に立っていた会社員風の男が、その母親に向かって「泣き止ませろ!」と怒鳴りはじめるという、物語冒頭のシーンが、そのまま繰り返される。

「迷う男」は、いったんは前回と同じ、再びイヤホンをして、知らん顔をしようとするのだが、やがてその瞳は微妙に揺らぎ、やがて決意したかのようにイヤホンをはずと、「母子を怒鳴りつける男」の方へ視線を向けたところで、この物語は終わるのである。

男は「迷う男」から「決意する男」へと成長したのである。

一一これが本作の「ハッピーエンド」なのだ。

きっと、このあと男は、「怒鳴る男」から、母子を救うのだろう。

そしてそのあと、彼女の待つ病院へと駆けつけて、迷っている彼女に対して「産んでくれ」と言い切り、「でも…」と躊躇する彼女に対して彼は「責任は俺が持つ。君と子供のために死に物狂いで働くつもりだし、それで死んだりはしない。俺がきっと何とかする」と断言して、彼女を納得させ、安心の涙を流させることだろう。

そして、地下通路の濁流に流された際に見た、彼と妻と8歳くらいの少年の三人家族が、美しい海岸で遊ぶ姿を、現実のものとするだろう。

そんな未来から、彼の息子は、彼を救いに来たのだから。

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一一だが、この想定は、いかにも大甘だ。

身体の弱い、貧しい派遣労働者でしかない彼が、果たして、彼女に子供を産ませて、その責任を取れるという保証が、どこにあるというのだろうか?

言い換えれば、彼がそんな現状に自信を持てずに「迷う」というのは、当然のことであり、望ましいことではなくても、決して間違ったことではないのである。

たしかに、子供に責任を持つことは大切だが、もてない責任を無責任に引き受けると断言することもまた、無責任な態度に他ならない

つまり、本作の「子供に責任を持て。腹を括れば、それくらい何とかなるはずだ」という「主張」は、いかにも「成功者のそれらしい、無責任な決断主義、あるいは精神主義」にすぎないのである。

「大丈夫だ、やれる!」と肩を押すのはいいが、それで上手くいかなかった時に、そう助言した責任を取れるのかと言えば、むろん何万人もの観客に向けた作品であろう本作の作り手には、そんな責任など取れるわけがないし、そもそも責任を取る気などないだろう。

つまり、本作における「子供を救え」という主張は、所詮「聞こえの良い綺麗事にすぎない」ということなのである。

だから、一見「良いこと」を語っているようでいながら、決してそれが「心に響く」ことはなく、せいぜいが「感動パターン」のツボを押されて「感動」してしまうような、何も考えていない一部観客の「勘違い」を生むのが、精一杯の作品であるに止まってしまったのだ。

(本当に出られたのだろうか? 主人公は、実は物語前半で死んでいたのではないのだろうか? それを暗示する描写もあるのだ。それ以降「迷う男」は喘息の発作に襲われなくなる


(2025年10月20日)


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