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noteで夫婦喧嘩しました|同じ文章を読んでるのに全然ちがう話になるワケ

平穏なわが家で、久しぶりのいさかいが勃発しました。しかもnoteを理由に。これはゆゆしき事態ですので、以下、解決に向けて書き記そうと思います。

👨‍🎓

事件の概要

ある日の夜更け。妻(私)が夫に「今日こんなの書いた♪ 読んで!」とnoteの記事を見せた。夫は「眠いから無理〜」と乗り気ではなかったが、妻に押し切られる形でnoteを読むこととなった。事件はここから始まる。

読み終えた夫は感想を口にする。
聞いた妻、納得いかず反論。
だってそう書かれている、と夫。
そんなことは書いていない、と妻。

両者の主張はすれ違い「もう、読まんでいい!」「そんなん言うなら読まさんといて!」と完全に決裂。

果たしてなぜ、このような悲劇が起きたのだろうか。
本稿では、両者の証言と心理的観点に基づき、真相の究明にあたる。

↓発端となった記事はこちら↓

※以下本編は、勝手ながら上記記事を読んでいただいた前提で進みます

両者の意見

夫婦の意見は次のとおり。あなたはどちらの言い分に共感するだろうか。

〈夫の言い分〉

「んんん…どういうこと? 反射的な涙は生理現象やん。それは泣いてるわけじゃないやろ?感情の涙とは別物なのになんでつながったん…? 涙の種類の説明がしたかった感じ? なら、反射の涙の説明がもう一例ぐらいあってもよかったんじゃ…結局なにが言いたかったのか、もひとつよくわからんなあ」

要約すると、話の筋が見えない、である。

〈妻の言い分〉

「は? え? なんでそこ!? 対比やんか!おとなの!わたしと!子どもの!わたし!!の! 涙の違いなんか説明したくないの! 今泣いてる私の涙に意味なんてなくて、ちっちゃい私は意味を求めてたんかなって!感情の!証明が!その、この、きゅんって、なる、行間!余白!余韻!!ムキーーーーーー!!

要約すると、書かれてない余白を読んでよ、である。

両者一歩もゆずらず平行線で戦闘体制に突入。
私は事態の解決を図るため、人工知能という最も感情のない(たぶん)第三者鑑定人へ意見を求めた。


第三者による仮説

鑑定人より、重大な指摘が入る。
両者はそもそも「同じ作品を読んでいなかった」可能性がある。

両者の主張と文章の内容を照合した結果、
以下の仮説が浮上する。

仮説:
根本的に違う読み方をしているのでは?

すなわち、同じ文章を読んでいるのに、全く別の作品として受け取ってしまっている可能性である。これを裏づけるため、以下の検証を行う。


検証

ここからは第三者鑑定人によるアドバイスをもとに、読み方の違いを明らかにしていく。

─証拠① 構造で読む夫 VS 余白で読む妻

本件最大の要因となったのは、
文章の「入口」と「読み進む順番」が違うことにあった。

⚫︎夫:構造派の読み方
1. まず話の目的をつかみたい
2. これは何についての文章かを知りたい
3. 結論を探す
4. その上で細部を読み取る

つまり夫は、結論→理由→具体例 という一本道の構造をさがしながら読み、全体像から細部へ落としていくトップダウン型の読者である。

このタイプの読者は、地図や目的地があったうえで、道中を楽しみたい。そのため、当該記事の入り口の曖昧さから筋が見えず「どう読めばいいのか」迷子になった可能性が高い。

⚫︎妻:余白派の読み方
1. まず感じる
2. 細部の描写や感情の揺れから全体像をつかむ
3. 行間や「言っていないこと」を読む
4. 結論より瞬間の気づきを重視

妻は、細部から全体の意味を立ち上げようとするボトムアップ型の読者であり、結論よりも言い切らない曖昧さ、説明できない感情の揺れ、余白や余韻を好む。

地図を持たずに歩き始めても不安にならず、むしろ不安定さを楽しむタイプ。当該記事もこの考え方で執筆しており、さらに自分と同じように読み手は理解するはずだと捉えていた。

総合すると…
夫は道順(構造)から旅の全体を味わう人
妻は風景(余白)から旅の意味をつかむ人

同じ旅をしているのに、見えている景色や立ち止まる場所がまるで違う。それが今回のすれ違いの原因である。


─証拠② 日常にも現れる傾向

興味深いことに、この違いは文章の中だけでなく、日常の振る舞いにも影響している。

●夫(構造派)
・本音を隠す人が苦手
・要点のない話は苦手
・話の軸を求める
・結論から聞きたい

●妻(余白派)
・沈黙から意味を図る
・ふわっとした話から察する
・感情の揺れを好む
・結論がなくてもいい

つまり、文章に限らず
普段の「世界の読み方」そのものが違っていると考える。


最終弁論

「ちょっとこれ読んでほしいの」
と、本記事ここまでの下書きを渡す私。

「ええ〜もういいよ〜」
抵抗する夫。

お願い!お願い!と懇願して、晩ごはんをチンする間に読んでもらった。そして…

「どう?」
「うん、あってる」
「構造型よね?」
「うん、映画とか見る時もだいたいこの楽しみ方」
「おお!日常の傾向は?」
「あてはまる」
「やったあ!」
「いろんな読み方があるんやね」
「そうなのそうなの、見方が違うだけやったのよ
で、どう思った?」
「どうって?」
「最終弁論やから」
「余白型の読み方もできたらいいなと思いました」
「うふうふ、私も構造力をもっと磨きます」

和解に向けて踏み出した2人、固く握手を…
と思いきや「でもさぁ…」と、夫が続ける。

ん?

「単純に、書かれてる内容への興味とか趣味嗜好もあるわけで」
「ほう…それはつまり、問題の記事のエピソード自体があんまり刺さらんかったという…」
「まぁ、そう。オレは反射の涙からこんなこと思わへんし。ふうん、って感じ」
「なん…だと…」
「キミはそう思うって言う、個人の感覚でしょ」
「ぐ…普遍性のある話では…なかったやも、しれん…」
「やろ?ほな、しゃあなくない?」

撃沈。さらに夫が続ける。

「確かに、余白をまずわざわざ探しにいくような読み方はせんけど、オレかって余白がわからんわけちゃうからね。余白がカッコいい文章も知ってるし。興味があることなら拾うし。やのにさ、オレがちゃんと読めないみたいなさ、心外やわっ。だいたい、オレ眠いって言ったのに。読んでって言うからサーって読んだだけやん。じっくり読み込んだわけちゃうのに」

ここにきて、夫の反論が加速する。うそん。

「つまり結論。感想は違って当然ってこと。全部共感する必要なんかないでしょ。あと!眠い人に無理やり読ませたらあかんってこと」
「はぁい。で、これからもnoteは読んでくれるかな?」
「読むから。眠くないときにな!」

はぁい。


結論

両名無罪
本件は、「読み方の不一致」に端を発した、夫婦間のすれ違いであったとみなす。
以降、互いの違いを認め合うと同時に、どのような環境・状態で読まれているかにも考慮すべし。

👨‍🎓

無意識に、自分が理解しているのと同じように読み手も読んでくれるものと思ってました、私。そんなわけないですね。

今回顕著だった文章の読み方の違い、趣味嗜好や関心の置きどころの違い。さらにじっくり読んでるのか、流し読みなのか。合致することの方が稀なのかも。

この違いはきっとあらゆる人との間にあって、前提として持っておくことで自分も楽になるんじゃないかなと。

伝わらない、届かないことがあったとして。それは別に、書いた文章の価値を嘆くことでもないし、読み手の読解力を責めることでもないし。大切なのは、自分がより良いと思えるように磨き、伝えよう・届けようとすることだけ。それをどう受け取ってもらえるかは、結果であり相手の自由だと思うのでした。

ひとまずこれにて和解成立!
こんどこそ固く握手をしてお開きとなりました。

どうもみなさま、お騒がせいたしました。


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