教室に入れない幼稚園児〜発達障害グレーの半生
40代、無職のフリーランス志望。
ここに至るまでに、俺は幼稚園の廊下でフリーズし、高校で対人恐怖症になり、大学を中退し、14年働いて壊れ、東京で漂流し、生活保護を受け、また5年働いて、また壊れた。
これはその記録だ。
廊下に座っていた幼稚園児
幼稚園のころだ。
入園当初、俺は教室に入れなくて、廊下に座り込んでいた。
「教室に入って集団行動をする」――その義務はなんとなく理解していた。でも、体が動かない。教室に入ると視線が集まってくるような感覚があって、それが怖かった。
繰り返し先生に説得されて、ようやく入れるようになった。
教室には入れるようになったが、今度は集団行動ができない。特にグループで遊んだりするのはめちゃくちゃ苦手で、先生から「グループを組んで」と言われても誰にも声をかけられず、自分も声をかけることはできず、園庭の端っこで、遊んでいる園児たちをぼーっと眺めていた。
これが俺の原体験だったと思う。
その後、少数ながら友達ができ、ごっこ遊びなどで遊ぶようになった。
不器用なりに社会性を身につけていき、小学生時代は意外と苦労はしなかった。

高校2年で対人恐怖症に
高校は第一志望のすべり止めの進学校に進んだ。
成績順のクラス編成で、最初は3組だったが、全然勉強をしなかったので、2年で7組に落ちた。
その7組には、クラスに声のでかい悪口野郎が一人いて、なんとなく雰囲気が悪かった。
さらに、そのクラスには同じ中学出身の奴がいた。中学時代は別に仲が悪くはなかったが、時々話す程度の関係だったと思う。
そいつは距離感のつかむのが苦手で、みんなに避けられていた。自分は鈍感だったので最初は普通に接していたら、休み時間のたびにべったり絡んでくるようになった。顔を30cmくらいまで近づけてきて、毎回同じ話をしてくる。
自分もだんだん鬱陶しくなってきた上、「みんなから嫌われているこいつと一緒にいる俺も、実はみんなに嫌われているんじゃないか」――そう推測した。確認することなく、自分から心を閉ざした。
休み時間は机に突っ伏しているようになった。距離感の近いクラスメイトも、その様子を見て俺に話しかけるのを諦めた。周囲をシャットアウト。頭が真っ白になって思考停止、ただ苦しい。放課後のチャイムだけが解放の合図だった。
1年間、そうしていた。

大学中退、60単位弱しか取れなかった
大学はとある地方の小さな国立大学に進学した。ゲームクリエイターになりたかったので、情報系の学科を選択した。
だが、4年在籍して中退した。4年生ではない。「4年在籍した」だけだ。
取得単位の8割は1年で取った。2年以降は徐々にフェードアウト。インターネット上のチャットルームにのめり込んで、ゲームへの興味が完全に消えた。持っていたソフトを全て売り払った。10万円になった。
「ゲームクリエイターになる」という夢が消え、チャットで日本中に人間関係を築き、頻繁にオフ会などに行くようになった。
3年目以降はファーストフードでアルバイトを開始。さらに大学が遠のいた。
チャット仲間との遠距離恋愛の失恋を機に中退を決意。俺の大学生活は終わった。
なんとか社会に適合した13年間
大学中退後、地方の小さなIT企業に入社した。
最初の3年は営業で鳴かず飛ばず。騙し騙し業務をこなしていた。5年目にマーケティングに転身してから風向きが変わった。売上5億から10億への成長を牽引して、実質的な会社のNo.2にまでなった。
13年間、そこにいた。俺の人生で唯一、「適合した13年間」だった。

東京漂流で職を転々した5年間
30代半ば、うつ病で1年弱休職した末に会社を辞めた。13年のキャリアを捨てて上京した。
しかし、メンタルダウン上がりの人間に東京という場所はそれほど甘くなかった。そこから5年間、漂流が始まった。
とにかく東京の電車通勤がつらい。会社に行けば普通に仕事はできるが、会社に行くのがとにかく苦しい。
NTT系の派遣は勤怠不良で1ヶ月でクビ。IR支援会社は通勤時間が長く、2週間でバックレ。お金が尽きて仕方なく大阪の自動車メーカーの工場に寮付きの派遣社員として短期間働いた。シェアハウスでは泥酔して廊下で放尿、強制退去。飲食店のプロジェクトに参加したが、オーナーからの80万の借金を返せず姿を消した。
人材系派遣、通信系派遣。全て2週間以内で出社拒否。「通勤」という最初のボスを倒せなかった。
最後は熱海の温泉旅館に救いを求めた。フロント補助の仕事で寮付き、3食付きだったが、高度な臨機応変の顧客対応を求められるのは俺にもっとも向かない仕事だった。次第に仕事を与えられなくなり、3ヶ月でクビを言い渡された。
所持金2万円
熱海から東京に戻り、とある場所の相部屋のシェアハウスに入居したが、その時の所持金は2万円だった。
主治医の勧めもあり、俺は生活保護を申請した。

人生最大の努力
生活保護を受給しながら就労移行支援に通った。人生最大の努力をした。30社以上に応募して、10社以上と面接した。
そして無事に就職が決まった。
最後の適応、そして崩壊
40代前半、とあるソフトウェア企業に、自社プロダクトのマーケティング担当として再就職した。
最初の2年は安定していた。上司に恵まれた。でも数年後、組織改編があった。苦手な上司に加え、自社プロダクトへ愛着を持てなくなった。そしてメンタルダウン。
1回目の休職、3ヶ月。復帰した。2回目の休職、6ヶ月。復帰した。
「会社に行くこと自体が一種のトラウマで動けない」――そういう状態になっていた。
そして今
40代半ば、最後の会社を辞めた。通勤できなくなった。
退職後は数ヶ月、何もしなかった。
徐々に元気が出てきて、何かを生み出そうとMacBookを買った。AIと話し始めた。
今は無職のフリーランス志望。noteを書きながらアプリを作っている。
朝は遅めの時間に起きる。妻の仕事は朝が早い。俺が起きる頃にはすでに出勤している。洗濯機を回し、朝食を摂る。そして洗濯物を干すのだが、先延ばしする日が多く、いかに先延ばしせずに済むか日々試行錯誤している。
なんとか洗濯物を干し終わったら、そこからは自分の時間。ひたすらPCに向かう。夕方になれば洗濯物を取り込み、Geminiに夕食のレシピを相談する。夕食を作って妻が帰ってきたら一緒に食べ、風呂に入り、再びPCに向かう。そんな暮らしだ。
自分なりに、自分らしい社会適合とは何かを探して日々過ごしている。

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