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再読の効用

昔読んだ本の内容を覚えていることは、そんなに多くない。
逆に言えば、よく覚えている本はそれだけ読後が強烈だったということだ。

気に入った小説は何度も読み返す。
ミステリーの再読も好きだ。
犯人やトリックがわかったあとに読むと「うわー!こんなところに伏線がぁっ!」とひと粒で二度も三度も美味しいことだってある。
ただ、文句なく面白かったものの、明かされた真相があまりに衝撃的すぎて再読できない本もいくつかある。

エラリー・クイーン「Yの悲劇」
綾辻行人「十角館の殺人」
アガサ・クリスティ「そして誰もいなくなった」
などがそうだ。

「Xの悲劇」や「アクロイド殺し」も真相には驚いたが、3周くらいした。
それと上記の作品との差は自分でもよくわからない。
「Yの悲劇」は半世紀以上昔に(どんだけ昔?)読んで、細部は全く覚えていないが、意外な犯人と、その犯人が分かったときの体が震えるような衝撃だけは鮮明に覚えていて、いまだにお腹いっぱいだ。おかわりはできない。

「十角館」と「そして誰もいなくなった」を再読しないのは、一番最初の鮮やかな驚きを上書きしたくないから。
総じて、真相や結末に驚愕した本ほど再読できない。
だからといって、「ただ驚かされればいい」というものではないのが厄介オタクたる所以。
最近はたんにアクロバティックに着地するだけの本が多くて、オタクの嘆息は深い。
ビックリさせればいいってもんじゃぁないんだよ。

「最後の最後になぜこれをぶっ込んだ?」とひたすらびっくりしたのが、宮部みゆき「ペテロの葬列」
あまりに驚きすぎて、ラストは忘れようにも忘れられない。
繰り返すが本当に驚いて、それまでの話がいっぺんに吹き飛んだ。
ラストだけ覚えている。それ以外はもうどうでもよくなるくらいに。

結末がわかっているので今更再読するほどでもないと思っていたのだが、「ソロモンの偽証」のあと、畑違いの一冊を挟んで、また宮部みゆきを読むことにした。
なんというか、あの安定した語り口に戻りたいというか。
まぁ、宮部が単純に好きだからである。

で、杉村三郎シリーズを最初から順に読み返し、やっと三作目の「ペテロの葬列」を読み終えた。
続けて順に読むと、第一作には二作目の伏線があり、二作目には三作目の伏線がある。
あ、逆かもしれない。一作目の小さなエピソードを膨らませて二作目で使い、二作目のエピソードを三作目でまた絡ませた。
胸糞悪さで言えば、二作目の「名もなき毒」の底知れぬ悪意のほうがダメージが大きかった。
「名もなき毒」が悪意の話だとすると、「ペテロの葬列」は噓の話。
そして、その嘘は、すでに第一作目の前から始まっていたのだと、いまならわかる。
もともといびつなものを、そうと知らず積み重ねてきて、ある日壊れた。
ここに行き着くしかなかった。
それは物語が始まる前から決まっていたのだ。
ラストの衝撃のあまり突然壊れたように感じていたけど、読み返すとずっと前から少しずつ壊れていくさまが丁寧に描かれていた。
それに気づけるのが、再読の効用だ。
決着を登場人物全員に、相応以上に引き受けさせるのが、宮部みゆきの素晴らしいところだ。
結末はわかっていたのに、一回目よりも読後は重かった。