第五十四回 王景分兵襲馬嶺 向訓建策取鳳州
第五十四回 王景、兵を分かちて馬嶺を襲い、向訓、策を建てて鳳州を取る。
詩に曰く:
天はまさに三宮を下し、
星門は五戎を招く。
座して謀れば廟略に資し、
飛檄は文雄を待つ。
赤土に流星の剣、
烏号は明月の弓。
秋陰は蜀道に生じ、
殺気は湟中をめぐる。
風雨、何年に別れしや、
琴と樽、今日は共にす。
離亭は望むべからず、
溝水は自ら西より東へ。
――右、楊炯「従軍詞」。
さて、世宗が近臣と治政の道を論じていると、忽ち黄門官が参上し、辺境よりの機密報告があると奏した。
世宗が理由を問うと、黄門官は言う。
「西蜀の孟昶は、久しく王化に背き、奢り高ぶって民を虐げ、淫楽に溺れ、贅を極め、法紀を乱しております。用を足す器にすら七宝を施すほどの放埒ぶりで、民の怨嗟は日に日に激しゅうございます。ゆえに、これをお奏しに参りました。」
世宗はこれを聞き、王朴と議した。
王朴は奏して言う。
「孟昶は西蜀に災いをなす暴君。欲に溺れて民を害するは、国法の許すところではございませぬ。いまこそ暴を除く兵を興し、水火に苦しむ民を救うべきです。
一つは偽命を滅し、王化を遠地にまで行き渡らせること。
二つには、南唐・北漢をして聞いて恐れしめること。
まさに一挙両得の策、急ぎ行うべきでございます。」
世宗は大いに喜び、
「蜀を討つはよいが、誰にこの任を負わせれば必勝できようか。先生、適任を挙げよ」
と問うた。
王朴は答えた。
「宣徽使の向訓は将才があり、鳳翔節度使の王景は兵の用い方に長けております。この二人に伐蜀を命じれば、必ず全功を収めましょう。」
世宗はこれを許し、詔を下して王景を大将、向訓を先鋒とし、精兵を率いて蜀を討たせた。
補足。
すごい言われようの孟昶。
直前の王朴の「平辺策」ではまず南唐に当たれ、という戦略だったのが、ここで後蜀が先になったのには理由があります。
この話では孟昶の無軌道ぶりに制裁を、という感じですが、一文にあるように「民の怨嗟」というのは実際あったのです。
後蜀の領土は、むろん成都を中心とした四川盆地と漢中を有していましたが、後晋朝が遼朝に滅ぼされたおり、秦・成・階・鳳という四つの州が後蜀の手に落ちていました。「三国志」で言うところの、天水・陰平・武都ですね。
ここの住民が「後蜀は嫌だ、元に戻してくれ」と、中原政権への帰属を嘆願してきたことがきっかけとなります。
後漢朝の時代は、後晋朝が力づくで滅亡させられたこともあって、各地に蜂起していた抵抗勢力の懐柔と、群盗の取り締まりがあって、国法を厳格としたので民は困窮し、諸外国へ逃亡するという人口流出が生じていました。
郭威の仁政で、それが一転しまた戻ってくるという現象となり、秦鳳州の住民の嘆願もその流れの一例ということでしょう。
向訓は二万を率い、鳳翔へ赴いて王景と合流した。
王景は聖旨を受け、人馬を点検し、出立の準備を整える。
その日、王景は向訓に言った。
「蜀道は山高く嶺険しく、一夫関に当たれば万夫も進めぬ。ゆえに我らは二路に分かれて進もう。
公は二万を率いて秦州より進み、私は一軍を率いて黄牛寨から入る。馬嶺関で合流しよう。」
向訓は命を受け、ただちに兵を率いて秦州へ向かった。
王景は一万五千を率い、鳳翔を発して黄牛寨へ進軍した。
このとき蜀には八つの寨があり、黄牛寨・馬嶺寨・木門寨・仙鶴寨・白澗寨・紫金寨・鉄寨・東河寨と称した。
中でも黄牛寨・木門寨・白澗寨の三寨は山に拠って築かれ、ことに険要であった。
黄牛寨を守るのは二人の猛将である。
一人は太原の人、張処存。黒い顔に濃い髭、筋骨隆々、鉄杆槍を得意とする。
もう一人は蕭必勝。山後の出身で、顔は白粉を塗ったように白く、唇は朱のごとし。大きな斬刀を振るう。
いずれも万人に当たる勇を備えていた。
周軍が蜀を討つと聞き、張処存は蕭必勝に言った。
「周の将王景がまもなく来る。今すぐ戦えば、敵は勢いに乗っており勝敗は測れぬ。ここは堅く守り、敵の糧が尽きるのを待ってから打って出れば、一鼓にして擒にできよう。」
蕭必勝はこれに従い、兵具を厳重に整え、出撃を控えた。
やがて王景の軍が黄牛寨下に到着した。
旗は峰のごとく並び、剣戟は林のように立ち、要衝を塞いで進めない。
王景は陣を敷き、攻略を図る。
そのとき副将の王儀が進み出て言った。
「黄牛寨の守将は張処存と蕭必勝。智勇兼備で、険を頼んで守る以上、正面からは進めませぬ。先に易きを取り、後に難きを攻めるのが上策です。
近ごろ土地の者に探らせたところ、馬嶺関へ通じる小道があり、守りは手薄とのこと。ここは旗鼓を偃し、密かにこの道を進みましょう。馬嶺関を得れば、黄牛寨は自ずと破れます。」
王景は大いに喜び、密かに軍令を伝え、夜のうちに小道を進ませた。
折よく残月の淡い光があり、松明も用いず、谷を越え沢を渡って進む。
夜明け前には、すでに馬嶺寨の下に至っていた。
馬嶺寨を守るのは于吉と趙季礼の二人である。
周軍が来ると知ってはいたが、前関の堅固さを頼み、警戒を怠っていた。
そこへ忽ち金鼓が鳴り響き、喊声が地を震わせる。
哨が告げる。
「大軍の周兵が、すでに寨下に迫っています。」
二人は仰天し、急ぎ兵を整えて出関し、王儀の軍と相まみえた。
王儀は叫ぶ。
「天兵はすでに巣穴へ入った。偽命の徒ども、今すぐ降って首を保て。なお抗えば、肉泥と化すのみだ。」
于吉は激怒し、言葉もなく槍を取って突進する。
王儀も刀を振るって迎え、関下で六、七合戦うが勝負は決しない。
そのとき側面から金鼓が鳴り、旗が翻り、一将が殺到した。
先鋒の向訓が、秦州より来て側面から挟撃したのである。
趙季礼は支え切れぬと見て、輜重や妾を車に載せ、家将を率いて逃走した。
于吉も抗しきれず、血路を開いて成都へ逃げ帰った。
王儀と向訓は兵を合わせ、馬嶺寨に突入し、残兵をすべて降した。
詩に曰く。
殺気は南より来たり、戦胆寒く
征雲冉冉として空山を蔽う。
英雄、あらかじめ戎を駆る策を定め
談笑のうちに、この関を越ゆ。
王景らが、すでに馬嶺寨を奪ったことは言うまでもない。
再び于吉・趙季礼の二将のことを語る。
二人は成都へ逃げ帰り、蜀主に拝謁してこう報告した。
「周軍は勢い鋭く、すでに馬嶺寨を奇襲されました。どうかお咎めをお許しください。」
蜀主はこれを聞いて激怒し、
「お前たちは守将でありながら、平素より兵を鍛えず、険を頼んで守ることもできず、今また力を尽くして抗うこともなく、敵の影を見るや逃げ帰った。その面で、よくも我が前に立てたものだ」
と叱咤し、引き出して斬首せよと命じた。
その後、群臣と周軍を退ける策を議した。
枢密使の王処古が進み出て言う。
「近年、周軍は勢い盛んで、行くところ敵なしです。西土を保とうとするなら、北漢と南唐と結び、利害を説いて援軍を求めるほかありません。二国が応じれば、周軍は前後から挟まれ、必ず退くでしょう。」
蜀主はこれに従い、両国へ救援を求める使者を遣わした。
北漢・南唐はいずれも書を受け取り、援軍を出すことを約した。
一方、王景の軍は馬嶺関に駐屯し、進撃を図ろうとしたが、糧草が不足しており、軽々しく動けなかった。
王景は向訓と相談する。
「前には堅城、後ろには強敵。しかも軍中の糧が尽きかけている。これでどう持ちこたえるべきか。」
向訓は答えた。
「黄牛寨は、我らが馬嶺を奪ったと知れば、背後を突く余裕はありません。前面の関寨も守りに追われ、策を巡らす暇はないでしょう。糧草不足は当然のこと。
人を京へ遣わして奏聞すれば、必ず補給されます。我らは進撃の策を練り、王室を助けるのみです。」
王景は大いに喜び、その日のうちに使者を汴京へ遣わし、糧の支給を奏請した。
使者は星夜兼行で京に入り、朝廷に報告した。
世宗は奏を受け、群臣と議した。
諸臣の多くは、王景の伐蜀は功なく、金糧を空費するだけで益がないとして、兵を退くべきだと主張した。
世宗は決断できずにいた。
そこへ南宋王の趙匡胤が進み出て奏する。
「近ごろ王景は蜀兵をたびたび破り、軍威は大いに振るっております。ただ、まだ捷報が届かぬだけです。
軍中に糧が乏しいのは当然のこと。陛下は何を疑われましょう。臣が自ら軍糧を督して前線へ送り、その様子を見て進退を定めたいと存じます。」
世宗は言った。
「御弟が行ってくれるなら、朕に憂いはない。」
匡胤はただちに出立し、倉糧五百余車を押し立てて汴京を発ち、秦州に到着した。
まず人を遣わし、王景に到着を知らせる。
王景は向訓に言う。
「主上は趙王に軍糧を押送させ、すでに秦州まで来ている。しかし蜀道は険しく、この糧は運びにくい。蜀兵に察知されれば不利だ。」
向訓は答えた。
「ご心配なく。すでに算段は立ててあります。精兵五千を率いて陳倉口から密かに出て、趙王の糧を迎えれば、必ず成功します。」
話が決まると、向訓は兵を率いて匡胤に会い、こう述べた。
「蜀には必ず取るべき形勢があります。ただ糧の続かぬことだけが憂いです。大軍が成都に迫れば、蜀の君臣は戦わずして降るでしょう。」
匡胤は言った。
「そのとおりだ。しかし、この糧をどう運ぶ。」
向訓は答える。
「道は険しく、車は通れません。歩兵と騎兵に担がせ、間道を通って密かに馬嶺寨へ運ぶほかありません。」
匡胤は大いに喜び、
「王軍師がそなたを将才ありと推したのも、まことに理由がある」
と言った。
そこで糧をすべて布袋に詰め、歩卒五百余人に担がせ、向訓に従わせて密かに馬嶺寨へ向かわせた。
匡胤は兵を率いて汴京に帰り、世宗に拝謁して、糧の引き渡しが滞りなく済んだことを奏した。
さらに言う。
「西蜀は取るべき形勢にあり、将士が命を懸ける好機です。陛下は御心で断を下し、左右の言に惑わされ、この機を失ってはなりません。」
世宗はこれを聞いて大いに喜び、詔を下した。
「王景を招討使、向訓を都監軍とする。速やかに進軍し、天討を広めよ。」
使者は詔を携えて馬嶺寨に赴き、王景・向訓は拝謝した。
使者を厚くもてなして送り返した後、諸将に命じて戦具を整え、進軍に備えさせた。
蜀主はこの報を聞き、大小の臣を集めて議した。
雄武軍節度使の韓継勲が奏する。
「周軍は必ずまず鳳州を攻めましょう。ここは全蜀の咽喉で、敵が争う地です。大将を遣わして厳重に守らせ、さらに精鋭を選んで馬嶺寨の要衝を固め、小道をすべて塞いで周軍の糧道を断てば、たとえ百万の兵があっても役に立ちません。」
蜀主はこれを採り、李廷珪と支審征を統軍使として精兵二万を率いさせ、周軍を防がせた。
また趙彦韜に馬歩軍五千を与え、鳳州に駐屯させた。
さらに精鋭を馬嶺周辺の小道に派し、すべて封鎖させた。
李廷珪ら諸将は、それぞれ命を受けて出陣した。
李廷珪は白澗寨に陣を敷き、支審征と相談する。
「ここから十五里に黄花谷という地がある。蜀の要害だ。ここを一将に守らせ、我らが精兵を率いて馬嶺寨へ回り込めば、周軍は恐れるに足らぬ。」
支審征は言った。
「妙計だ。誰が黄花谷を守るか。」
言い終わらぬうちに、健将の王鑾が進み出て、
「小将が参りましょう」
と名乗り出た。
廷珪は大いに喜び、精兵五千を与えた。
王鑾はただちに黄花谷へ向かった。
廷珪と審征は残兵を率いて馬嶺寨へ進軍した。
そのころ哨馬が王景の陣に入り、王景は向訓と議する。
「蜀道は入り組み、急進は難しい。黄花谷という要害があり、蜀兵がここを押さえれば、我が軍は進めぬ。誰か先に黄花谷を取ってくれぬか。」
副将の張建雄が進み出て言った。
「小将が参ります。」
王景は大いに喜び、兵二千を与えた。
張建雄は命を受けて出陣した。
さらに勇将の康倉に兵一千を与え、鳳州へ向かわせ、蜀兵の退路を断たせた。
こうして布陣を定め、王景と向訓は陣を固め、動かずに機を待った。
さて、張建雄は兵を率いて黄花谷に至ると、金を鳴らし太鼓を打ち、喊声を上げて旗を振らせた。
これを知った王鑾は、急ぎ甲冑を着けて馬に乗り、兵を率いて関を出るや、大声で罵った。
「進退も知らぬ賊め。すでに我が地に深く踏み入り、なお死期が分からぬか。」
張建雄は応じず、刀を振るって馬を駆り、一直線に王鑾へ斬りかかる。
王鑾も槍を突き出して迎え、二騎は激しく交錯した。
刀槍が打ち合わされ、七十余合戦った末、王鑾は力尽き、敗れて関へ退いた。
張建雄は腕を振り上げて叫んだ。
「将を斬り、関を奪うは今この時だ。」
兵を駆って勝ちに乗じて攻め込むと、蜀兵は支え切れず、関を捨てて逃げ散った。
王鑾は大敗し、成都へと逃げ帰った。
張建雄は黄花谷を奪い、兵を駐めて堅く守った。
ほどなくして急報が李廷珪に届く。
黄花谷陥落を知った廷珪は、地団駄を踏んで罵った。
「匹夫め、我が大事を誤らせおって。」
急ぎ支審征とともに兵を返したが、その動きを王景と向訓に察知され、関を開いて討って出られた。
周軍は勇を奮い、争って追撃する。
蜀兵は大敗し、屍は野に横たわり、血は山野を染めた。
李廷珪は周軍の勢いの激しさを見て、やむなく支審征とともに青泥嶺へ退いた。
向訓はまたも蜀兵を破り、その威名はいよいよ高まる。
黄花谷に至ると、張建雄を厚く賞し、京師へ勝報を送らせた。
独語。
李廷珪の名誉のために一言。
大散関を南に越えて蜀の桟道にはいる鳳州に進撃した後周軍の出鼻を挫いて、後周朝廷に撤兵論さえ出た後蜀の勝利をもたらしたのは李廷珪なのです。
ごっそり削られてて気の毒なことですが。
そのあと、黄花谷の戦いで、かような敗北を喫してしまうわけですが。
このとき向訓は王景に言った。
「我が軍は連勝し、すでに深く蜀地に入っております。しかし黄牛寨の守将、張処存と蕭必勝がいまだ服しておりません。
もし我が背後を押さえ、帰路を断てば大患となります。勇将を遣わしてこれを討ち破り、後顧の憂いを除くべきです。」
王景は答えた。
「その言、まことにもっともだ。ただし張・蕭の二将は智勇の士。まずは弁の立つ者を遣わし、禍福を説いて降らせるのがよかろう。
蜀兵が連敗している今、彼らも従うはずだ。もし応じねば、そのとき兵を加えればよい。」
向訓は言った。
「主将のお考え、もっともです。小将が行きましょう。」
王景は首を振り、
「公は帷幄を預かる重任の身。軽々しく動くべきではない。別将を遣わそう」
と言った。
そこへ部将の韓烈が進み出て、
「小将が参り、二人を説いて降らせましょう」
と願い出た。
王景は大いに喜び、これを許した。
その日、韓烈は馬に乗り、わずかな従者を連れて黄牛寨へ向かった。
関下に至ると声を張り上げる。
「守関の者、主将に伝えよ。周の将、韓烈が用あって来たとな。」
兵は中軍に報せ、張処存と蕭必勝は関を開いて入らせた。
帳中で相まみえ、席に着く。
張処存が問う。
「将軍が来られたのは、いかなる御用か。」
韓烈は言った。
「我が主将は、二将が世に稀なる豪傑であると常に聞き、ぜひ会いたいと願っておりました。ゆえに暴を討つ勅を受けながらも、貴地に一兵たりとも加えずにおります。
すでに我が軍は蜀境に入り、ただ二将のみが孤寨にあって援軍もありません。これは実に危ういことです。
我が国の聖主は恩沢広く、遠近すべてこれを慕っております。斧鉞を恐れず参ったのも、そのためです。
どうか暗きを捨て明きに帰し、決然と帰附なされよ。さすれば後日の英名は史冊に輝き、功績は鼎鐘に刻まれましょう。いかがでしょうか。」
処存はこの言葉を聞き、内心こう思った。
「蜀主は荒淫に溺れ、時勢はすでに去った。我らがここに孤立して何を成せよう。不如、ひとまず帰附し、後日を図るべきだ。」
そこで口を開き、
「将軍が大義をもって招いてくださったこと、まことにありがたい。明日、我らは部下を率いて参上しよう」
と答えた。
韓烈は辞して寨を出、王景と向訓に会い、張・蕭が翌日に降ることを伝えた。
王景は大いに喜び、厚礼を備えて迎えるよう命じた。
部下の将佐の中には、
「降伏は未だ確かでない。深く信じるのは危うい」
と言う者もあった。
しかし向訓は、
「張・蕭は雄烈の丈夫。不義な振る舞いをするはずがない。疑って大事を誤るな」
と戒めた。
翌日の昼近く、人が報せる。
「張・蕭の軍が到着しました。」
王景は命じて軍中の武装を解かせ、自ら単騎で迎えに出た。
この様子を見て張処存・蕭必勝は深く感激し、馬から転げ落ちて軍前に伏した。
王景は馬を下り、二人を扶け起こして帳中に招き、順に座らせた。
そして周主の徳と、自ら二人を敬愛する心を語った。
張・蕭は身を屈めて言う。
「我ら二人、将軍の厚情を受け、犬馬の力を尽くして仁徳に報いましょう。」
王景は大いに喜び、盛大な宴を設け、新たに降った将士を祝うとともに、兵卒を犒い、仁恩を示した。
詩に曰く。
驍勇なる王公、武略は奇にして
征西の将卒、旌旗を建つ。
張弓を労せず英雄を伏し
千載の功勲、遠夷に布く。
さて、世宗は早朝の座にあり、王景の捷報が届いた。
百官はこぞって賀した。
世宗は王朴に言った。
「出兵の利は、すべて先生が人を挙げた力による。」
王朴は叩頭して答えた。
「これは陛下の天威が遠く及び、将士が命を尽くした結果でございます。臣に何の力がありましょう。」
世宗は使者を遣わし、王景・向訓および諸将に錦袍一領ずつを賜い、その他の将卒にも財帛を与えた。
使者は詔を携えて王景の陣に赴き、旨を宣して賜物を引き渡した。
王景は拝受すると、将士に分け与え、使者を京へ送り返した。
その後、諸将と進軍の策を議する。
向訓は言った。
「蜀兵は連敗して勢いを失い、もはや正面から戦おうとはしません。当面は康倉が鳳州で勝敗を決するのを待ち、その後に進軍しても遅くはありません。」
王景はこの意見に従い、ひとまず兵を動かさず、陣を固めて待機することとした。
さて、蜀将の李廷珪と支審征は敗れて蜀中へ戻り、喪服を着けて罪を請うた。
蜀主はこれを赦し、群臣と迎撃の策を議した。
枢密副使の劉邦義が奏する。
「周軍は堅く鋭く、向かうところ敵なし。近ごろは立て続けに要害を失っております。いまさらに出兵すれば、勝敗は測れませぬ。ここは人を遣わし書を中原へ届け、世宗と講和し、兵を収め戦をやめるのが上策かと存じます。」
蜀主はこの意見を採り、儒臣に書を起草させ、使者を京へ送り、和睦を求める書状を奉った。
その書には、次のように記されていた。
――兵は危うき事、戦は徳に逆らうものと聞く。
臣は西蜀一隅を守り、未だ侵す心など持たなかった。
しかるに中国は武威を誇り兵を興し、我が辺境を侵す。いったい何をもってのことか。
今、臣は年ごとに修好の礼を尽くし、兄弟の国として往来し、兵を休め民を安んじ、糧を蓄え費えを省きたい。これは陛下にとっても益なきことではあるまい。
さもなくば、蜀道は険しく糧の運送は難しい。軍を労し年を越えて戦えば、兵は野に屍をさらすばかりで、戦にも益なく、また天下を撫で治める陛下の御心にも適わぬ。
実情をもって申し上げる。どうかご高慮あれ。
世宗はこれを読み、その言辞の傲慢さに怒り、返書は出さず、使者にのみこう言い渡した。
「汝の主に告げよ。貪り残忍に民を虐げ、政を乱したゆえ、朕は天命を奉じて暴を討つのだ。
もし奉表して臣を称し、土地を献ずるなら、ただちに甲を収め兵を休めよう。
そうでなければ、兵と将をさらに増し、坐して俘囚の献上を受けるのみだ。」
使者は命を受けて帰国し、世宗が和睦を許さなかったことを蜀主に伝えた。
蜀主は大いに恐れ、急ぎ群臣と協議する。
補足。
孟昶が致書として講和を請願してきましたが、「大蜀皇帝」と対等のつもりだったので、柴栄は致書をポイ捨てしました。
宰相の王昭遠が奏する。
「中国が和を許さぬ以上、我が国には沃野千里、府庫も充実しております。周軍が来ようと、さほど恐れるには及びませぬ。
しかも桟道は険しく、糧の輸送は困難。彼は速戦を利とし、我らは堅守を功とすべきです。年を経れば、周兵も久しくは留まれまい。」
蜀主はこれを信じ、剣門と白帝城の二か所に兵糧を集め、守備を固めさせた。
これはさておく。
一方、王景は康倉の消息を探っていたが、鳳州の城は堅固で守りも厳しく、康倉は蜀将と戦って利を得られず、救援を求めて屯していると報が入った。
王景は向訓を招いて議する。
向訓は言った。
「鳳州は蜀の咽喉。必ず重兵が固く守っております。しかし、まずここを取らねば糧道が通らず、後顧の憂いが残ります。主将みずから赴かれれば、必ず成果がありましょう。」
王景はこれをよしとし、向訓に黄花谷を守らせ、自ら馬軍一万を率い、張処存・蕭必勝とともに鳳州へ向かった。
城から十里の地に陣を敷き、兵器を整えて交戦に備える。
この報が城内に入ると、守将の趙彦韜と節度使の王環は兵を出して迎え撃とうとした。
しかし都監の趙彦栄が諫める。
「王景は周の名将。戦えば利は得られぬでしょう。ここは堅守して敵を疲れさせるべきです。」
趙彦韜は言った。
「それは臆病というものだ。正面から一戦して勢いを挫き、鳳州を軽んじさせてはならぬ。」
王環もこれに同意し、迎撃を命じた。
翌朝、先鋒の趙彦韜がまず出馬する。
王景は刀を横たえ、門旗の下に立って言った。
「天兵が入境し、諸々の関隘はすでに我が手に落ちた。汝、何の力あって、なお降らずに抗うのか。」
趙彦韜は激怒し、
「無故に蜀へ兵を向け、なお陣前で饒舌とは、自ら死を求めるか」
と叫び、刀を振るって王景に斬りかかった。
王景が応じようとしたそのとき、陣後から一将が躍り出て叫ぶ。
「この匹夫、拙者が斬る。」
蕭必勝であった。
必勝は馬を駆り刀を振るい、彦韜と戦う。
金鼓が鳴り、喊声が上がる。
六十余合戦った末、彦韜は力尽きて敗走した。
必勝は追撃し、城河のほとりで一刀のもとに彦韜を斬り落とした。
王景は兵を進めて追撃し、蜀兵は大敗する。
張処存は勇を奮って突進し、王環と出会い、三合でこれを生け捕った。
周兵は一斉に城へなだれ込み、そこへ康倉も兵を率いて駆けつけた。
蜀兵は逃げきれず、戈を捨て甲を脱いで散り散りに逃げ、降る者は数え切れなかった。
王景は手綱を引いて入城し、百姓を慰撫した。
乱兵が趙彦栄を捕らえて縛ってきたが、王景は縛を解かせ、王環とともに軍中に留め置いた。
二人は恨みを抱いたまま食を断ち、ほどなく死んだ。
王景が鳳州を得ると、その威名は大いに振るい、遠近は震え上がった。
成州・階州の二州も相次いで城を献じ、降った。
蜀主はこれを聞いて驚愕し、急ぎ王昭遠を招いて議する。
昭遠は言った。
「事ここに至っては、再び南唐へ使者を遣わし、救援を求めるほかありませぬ。」
蜀主はこれを許し、王立中を使者として書を持たせ、南唐へ急使した。
南唐の主は書を読み終えると、王立中に言った。
「先ごろ出兵を考えたが、糧が整わず果たせなかった。いま周兵はすでに深く入り込んでいる。将を命じ兵を起こし、その後路を断てば、ほどなく周将の首を斬り、怨みを晴らせよう。まずはこの書を持ち帰り、蜀主を安心させよ。」
王立中は命を受けて帰途についたが、高陽の地で向訓の巡邏兵に捕らえられ、ただちに営中へ引き立てられた。
向訓は身体検査を命じ、懐中から返書を見つけて驚く。
「もし主上の洪福がなければ、我らは皆この企てに巻き込まれていたところだ。」
向訓は王立中を京へ送らせ、事の次第を奏上し、あわせて朝廷に出兵を請うた。
王立中は昼夜を分かたず汴京へ送られ、入朝して事情が奏聞された。
世宗は激怒し、王立中を引き出して斬るよう命じ、群臣と征討の策を議した。
趙匡胤が奏する。
「南唐の李景は、近年兵も精鋭で糧も充実し、北漢とは比べものになりません。
しかし、蜀征討の兵はすでに境内に入り、蜀は肝を潰しております。もはや兵を出して抗う勇気はないでしょう。
陛下は王景・向訓に秦州・鳳州を守らせ、天兵の指すところに従って進めばよろしい。
李景を擒にして成都に斬り示せば、孟昶は自ら手を束ねて降りましょう。」
世宗は大いに喜び、ただちに王景の軍中へ詔を下して旨意を伝え、一方で将士を閲して、出師の日を選んだ。
この一連の動きによって――
西境はいまだ枕を安んじ得ず、南方が先に兵火を被ることとなる。
まことに、
事に警めば心に憂いあり
機が露わになれば、敵は策を施す。
さて、世宗はいかなる時に出師するのか。
それは次回に明らかとなる。
独語。
実際の名前をもじったようなキャラクターがいろいろと登場した隴右・山南の役ですが、四州奪還をもってこの戦役は終わることになります(さすがに成都までは行けません)。
しかし実際には、鳳州だけはもうしばらく持ちこたえ、戦役を長引かせる抵抗をし、そのため「後周朝は西に意識が向いている」からと、南唐朝に北への備えの油断が生じてしまうのです。
西の戦役がまた完全に終わらぬうちに、柴栄は大挙、南唐へと征旅を催すのでした。
