第五十八回 韓令坤擒剮孟俊 李重進結好永德
第五十八回 韓令坤、孟俊を擒えて剮き、李重進、永徳と好を結ぶ。
詩に曰く:
将軍は胆気豪壮にして、
力を尽くして城濠を守る。
戎服をまとい忠言を受け、
兵を励まして勤労を尽くす。
されど勢いは日ごとに逼り、
国はすでに揺らぐ。
君は車を推して重く任ずるも、
天は実に南郊を厭う。
この凛然たる身を留め、
休戚いずれが揺るがし得ようか。
さて、周世宗は和議を許さず、大軍を率いて寿春を攻めに来た。
兵が城下に至ると、攻城の命が下る。
城上からは矢や石が雨のように降り注いだ。
部将の張瓊はこれを見て慌てて世宗に退避を請うたが、そのさなかに城上からの一箭が飛び、張瓊の背を射抜いた。
彼は一度は絶命したかに見えたが、やがて息を吹き返す。
兵が陣中へ運び入れて見ると、鏃(やじり)は骨の奥深くまで食い込み、抜くことができない。
張瓊は大杯に酒をあおると、部下に命じて骨を削らせ、鏃を取り出させた。
血は数升流れたが、最期まで顔色ひとつ変えなかった。
後人はこれを詩にたたえた。
万騎南より来たりて殺気高く、
危地に臨みてここに英豪を顕す。
鏃は深くして抜きがたし、心はなお烈しく、
君王のためなれば、いかで労を憚らん。
さて、鍾謨と李徳明の二人は帰朝して唐主に奏した。
「世宗が和議を許さぬのは、ひとえに陛下が臣と称さぬためにございます。
今の策は、表を奉って臣と称し、民を安んずるほかありませぬ」
唐主はこれに従い、司空孫晟と礼部尚書王崇質を遣わし、表を奉って臣と称し、年々朝貢する旨を誓わせた。
二臣は周営に至り、唐主の意を述べる。
世宗は言った。
「本来ならば許すところだが、劉仁贍が泰州を固守し、たびたび天命に抗している。彼が来降せぬ限り、この議は許さぬ」
そこで中使を孫晟らに伴わせ、泰州城下へ赴かせて仁贍に帰順を詔した。
仁贍は城上に立ち、孫晟・王崇質の二人を見ると、戎服のまま城上で拝した。
孫晟は言った。
「公は国恩を受けた身。降ってはなりませぬ」
仁贍は教えに礼を述べ、兵を厳しくして守りを固めた。
中使がこれを報告すると、世宗は怒り、孫晟を斬ろうとした。
孫晟は言う。
「臣は唐の宰相。節度使をして外に降らせるわけにはまいりませぬ」
世宗はその忠を賞し、罪を赦して帰国させた。
その際、
「帰って主に告げよ。早く決断せよ。みずから悔辱を招くな」
と伝えた。
孫晟は帰って唐主に告げた。
世宗の本意は、帝号を去り、さらに六州を割譲し、百万の金帛を納めれば、兵を退くというものであった。
唐主は急いで和議を望み、これをすべて承諾し、再び孫晟と李徳明を周営に遣わして六州を献じた。
しかし世宗は言った。
「朕に臣と称するならば、江北の地をすべて尽くしてこそ許す」
そして二人を帰らせ、唐主に書を賜った。
「諸郡を献ずれば大兵は即座に退く。ただ帝号を去るのみ、何ぞ歳寒(逆境)を爽やかならざらん。
もし堅く事大の心を持つならば、ついに険に遏ることなし。
言はここに尽きた。これ以上は示さぬ。
もし応じぬならば、ここに断つのみ。」
唐主は詔を受け、再び表を奉って臣と称し、謝罪した。
李徳明は世宗の威徳と兵の精強を称え、江北の地を割譲して和を図るべきだと力説した。
唐主はなお決断できずにいた。
そこへ枢密使の陳覚と副使の李微が進み出た。
二人はかねて孫晟・李徳明と不仲であり、唐主に讒言した。
「李徳明は主に地を割けと勧め、孫晟は国を売って栄を求めております。このたびの使行で必ず周主から爵位を受けるつもり。ゆえに朝に忠ならぬのです」
唐主は激怒した。
「この二人め、よくも孤(君主の一人称)を欺いたな」
ただちに孫晟と李徳明を引き出し、斬刑に処した。
孫晟は刑に臨み、嘆いて言った。
「臣の死は惜しくない。ただ先帝の恩を受けた身として、金陵が一朝にして周兵に蹂躙されるのを見るに忍びぬ」
言い終えて刑に伏した。
詩に曰く。
命を奉じ志を尽くすも、
讒言は先に入りてついに分かれず。
守土の志いずこに帰せん。
東門三尺の墳のみが残る。
唐主は孫・李を斬ると、弟の斉王李景達を兵馬大元帥に任じ、陳覚を監軍とし、兵五万を率いて周軍を防がせた。
まず大将陸孟俊に一万を与え、泰州救援に向かわせる。
孟俊は泰州に至り、劉仁贍と合兵して堅守し、声勢は大いに盛んであった。
周軍は一時退いた。
孟俊は勢いに乗じて揚州を奪回しようとする。
揚州守将の韓令坤はこれを聞き、守る気を失い、城を棄てようとした。
世宗はこの報を聞いて驚いた。
「唐兵が揚州を取り戻せば、大勢は去る」
急ぎ元帥趙匡胤に兵二万を率いて六合に駐屯し、揚州を援けさせた。
匡胤は命を受けて六合に至り、布告した。
「揚州兵(韓令坤の兵のこと)、六合を一歩でも越えれば、その足を斬る」
韓令坤はこれを聞いて城を棄てることができず、厳しく守備を固めた。
世宗は再び自ら兵を督して泰州を攻める。
劉仁贍の守備は極めて堅く、周軍は数日攻めても落とせない。
折しも秋雨が十日余り降り続き、営中は水が数尺に達し、糧草も尽きかけ、軍心は動揺した。
世宗は近臣と議し、一時兵を退いて再図しようとした。
馬全義が奏した。
「不可。泰州は唐の重鎮にして、劉仁贍は智勇兼備の将。ここで南へ退けば、まさに彼の策に落ちます。
いまは濠州(鍾離)へ移り、諸将の進取を待つべきです。
ここで事を成さずして帰れば、敵は後を追い、損を免れません」
世宗はこれに従い、濠州へと車駕を移した。
泰州城中では周軍が囲みを解いて去ったと聞き、諸将は追撃を望んだ。
だが劉仁贍は言った。
「何延錫が寿州で敗れたことを忘れたか。
周軍は敗れて退いたのではない。糧が続かぬゆえに去ったのだ。
我らが動けば、必ずその策に陥る」
諸将はその見識に感服し、追撃をやめた。
そのとき陸孟俊が進み出て言った。
「公はこの城を堅く守られよ。私は自ら兵を率い、揚州を奪いに参る」
劉仁贍は首を振った。
「ならぬ。揚州の韓令坤は驍勇の将で、並みの相手ではない。しかも趙匡胤が六合に兵を置き、互いに呼応している。勝敗は測りがたい。ここは共に守り、斉王の軍が到着してから策を練るのが上策だ」
しかし孟俊は怒って言った。
「こうして日を延ばし、恐れて進まぬなら、いつ故土を取り戻せるのだ」
ついに仁贍の言を聞かず、自ら兵を率いて揚州へ向かい、城から五里の地に陣を張った。
韓令坤は唐軍来襲の報を聞くと、急いで兵を整えて迎え撃つ。
両軍は陣を敷き、陸孟俊が刀を横たえて馬を進め、令坤を指して叫んだ。
「周兵め、早く退かず孤城を守るとは愚かなことだ。今日こそ汝の首を取り、唐主に献じてくれよう」
令坤は大喝した。
「我が中国には百万の師あり。南唐平定は指日だ。身の程を知らず挑むなら、必ず汝を斬り、士民の怨みを晴らす」
孟俊は怒って斬りかかり、令坤も応じる。
馬を交え、兵刃が激しく打ち合わされる。
詩に曰く。
番兵は遥かに北兵の営を望み、
谷も山も哭声に満つ。
刃は夜を徹して交わり、
明ければ血は空城を浸す。
三十余合を戦い、孟俊は支えきれず本陣へ退いた。
令坤は後軍を進めて追撃する。
そのとき山後から砲声が轟き、一将が躍り出た。
元帥趙匡胤である。
揚州での戦を聞き、六合から大軍を率いて駆けつけたのだ。
孟俊は匡胤の姿を見るや肝を潰し、戦う気も失って逃げる。
そこへ令坤が追いつき、孟俊は不意を突かれて馬上で生け捕られた。
唐軍は総崩れとなり四散する。
匡胤は孟俊が捕らえられたのを見て、兵を収め六合へ戻った。
令坤もまた城へ帰還し、孟俊を縛って檻車に入れ、世宗のもとへ送ろうとした。
ところが押し出そうとした折、令坤の側室楊氏がこれを見つけ、泣き叫びながら進み出た。
「この賊はかつて我が一族百余人を皆殺しにしました。今日ようやく天が巡らせたのです。どうか御営へ送らず、ここで八つ裂きにして、妾の仇を討たせてください」
かつて孟俊は馬希烈(楚の馬希崇)の部下として楊昭耀の家を滅ぼし、美貌の娘を希烈に献じた。
のちに韓令坤が揚州を破ると、希烈はその娘を令坤の側室とした。
その娘こそ楊氏であった。
令坤は事情を聞き、孟俊を軍前に引き戻して叱った。
「今日こそ我が首を取り唐主に献じると言っていたな。今や捕らえられ、言い残すことはあるか」
孟俊は淡々と答えた。
「死ぬなら死ぬまで。言うことはない」
令坤は左右に命じ、木床に縛りつけて凌遅刑(別名、剮)に処した。
たちまち体は切り刻まれた。
詩に曰く。
勇を恃み謀なきは嘆かわし。
一時に虜となり、刃も尽きる。
軍前で軽口をたたけば、
刑に臨み苦しみ多し。
孟俊を斬って軍威は大いに振るう。
この報は斉王李景達の陣に伝わり、衝撃が走った。
教練の呉用が進言した。
「韓令坤は揚州に拠り、趙匡胤は六合に兵を置き、互いに援け合っております。
今は要路を衝き、先に六合を攻めれば、揚州はすぐに落ちましょう」
斉王はこれに従い、兵を長江を渡らせ、六合へ向かった。
匡胤はこれを聞き、六合から二十里の地に重柵を設けて守り、動かずに待った。
数日後、斉王の軍が平川に布陣し、匡胤も軍を率いて対峙する。
牙将の高瓊が馬を進めて叫んだ。
「唐兵はたびたび敗れている。早く降り、民を救え」
斉王は応じた。
「周兵は進退を知らず、強を恃んで我が疆域を侵す。今すぐ退けば無事に帰れる。さもなくば葬る地も与えぬ」
高瓊は怒り、槍を振って南陣へ突撃した。
斉王の背後から大将岑楼景が出て、大刀を振るい迎え撃つ。
金鼓が鳴り、喊声が天地を震わせる。
三十余合、勝敗はつかない。
南陣の呉用が岑楼景の苦戦を見て、斧を携えて助勢に出た。
これを見た鄭恩が怒り、馬を蹴って突入し、唐軍を二つに割る。
呉用は戦わずして逃げたが、鄭恩に追いつかれ、一刀で斬られた。
鄭恩がさらに挟撃すると、岑楼景も支えきれず敗走する。
高瓊は雷のごとき怒号を上げて陣に突入し、匡胤も軍を催して総攻撃をかけた。
唐軍は大敗し、死傷は甚大であった。
斉王は戦を続けることができず、岑楼景とともに血路を開いて野州へ逃れた。
匡胤は大勝し、軍を収めて営へ戻る。
諸将はそれぞれ功を献じ、匡胤は使者を世宗のもとへ遣わして捷報を伝えた。
世宗は大いに喜び、揚州へ行幸する旨を下した。
しかし竇儀が奏した。
「今は兵も疲れ、糧も少のうございます。南唐はたびたび敗れ、もはや勢いは尽きました。
陛下は大梁へ還御し、要地に大将を置いて次の策を図るべきです。
数月もすれば、彼らは必ず自ら降ってまいりましょう」
世宗はこれを許し、即日帰京の詔を下した。
李重進は泰州を囲み、張永徳は滁州に屯し、韓令坤は揚州を鎮め、高瓊は六合を守る。
その他の文武官は車駕に従って班師した。
詔が下りると諸将は兵を分遣し、翌日、唐境を離れて砲声とともに三軍は汴梁へ向けて進発した。
詩に曰く。
勝ちて班師し、俘を献ず。
将軍はあらかじめ功を謀る。
兵は阻む者なく帰り、
箪食壺漿、道に満つ。
補足。
「箪食壺漿」とは、その地の民衆が、他国の軍を解放軍として歓迎し、軍糧を自主的に提供することをいいます。
大軍は三隊に分かれて祥閲を経て帰路についた。
ところがその夜、世宗は突然、発熱し、全身が激しく痛み出した。
急いで太医を呼び、脈を診させて薬を与えたが、二日もすると全身に碁石ほどの水疱が無数に吹き出し、痛みに耐えきれずうめき声を上げた。
趙匡胤ら諸将は一歩も離れず、左右に侍して看病する。
世宗は言った。
「胸が煩わしく、熱がこもって喉が渇く。清らかで冷たい水を探してくれ」
匡胤はただちに命じ、諸臣は壺や瓶を持って四方へ水を求めに走った。
匡胤自身も銀の壺を携え、馬に乗って探しに出た。
五、六里ほど走ったころ、山の麓からせせらぎの音が聞こえる。
急いで下馬して見ると、澄みきった山の小川が流れていた。
喜んで水を汲もうとしたそのとき、上流に三人の太った大きな僧が、破れた衣をまとい、水中で身を浸しているのが見えた。
匡胤は思わず言った。
「危ないところだった。もし見ずにこの水を持ち帰れば、聖上に毒を飲ませるところだ」
そして僧に向かって言った。
「仏に仕える身でありながら、なぜその傷だらけの体を水で洗うのだ。自分の心地よさばかりで、民に害が及ぶことを考えぬのか。慈悲とはそのようなものか」
三人の僧は呵々と笑った。
「貴人は知らぬようだ。我らはただ焼かれて痛むゆえ、この冷水に浸かっているだけだ。柴王に焼かれて苦しんでおるのだ」
匡胤ははっと悟った。
「まさか、この三人はあの三尊の銅仏ではないか。これほどの霊験、まことに不思議だ」
合掌して言った。
「阿弥陀仏。周天子は五代の乱を鎮め、民を救うために兵を起こしました。
軍に銭糧が足らず、やむなく菩薩の金身を借りて鋳銭いたしましたが、罪は重いことでしょう。
どうか仏祖の慈悲をもってお赦しください。
帰京ののち、必ず金身を鋳直し、懺悔いたします」
僧は答えた。
「小さきことよ。法像を戻すと約すなら、治してやろう。世宗にはなお二年の寿がある。これは火の熱の示しにすぎぬ。
この水を患部に塗れば癒える。急ぎ帰れ」
匡胤は深く礼拝し、顔を上げると僧の姿は消えていた。
急いで水を汲み、馬を飛ばして営に戻る。
世宗はすでに意識が朦朧としていた。
匡胤は金盆に水を注ぎ、孔雀の羽で患部に塗った。
たちまち涼気が広がり、世宗は目を開いた。
水が触れたところから水疱は消え、まるで甘露のごとく病はたちどころに退いた。
ほどなく全身の瘡は跡形もなくなった。
世宗は驚いて言った。
「どこでこの妙薬を得たのだ」
匡胤は山中での出来事を詳しく奏上する。
世宗は深く感じ入り、
「帰京したら必ず法像を鋳直そう。御弟の功、実に大きい」
と言った。
匡胤は頭を下げた。
「陛下の福徳によるものにございます。臣に功はございません」
補足。
仏像を鋳潰して鋳造された後周の銅銭は、「病を治すお守り」として伝わったそうです。
難産の夫人が手に周元通宝を握っていると無事に出産したとか、瘧(マラリア)が治ったとか、疫病がおこっても快癒できたとかなんとか。
こうして車駕は帰京した。
汴京に至ると、百官が迎えた。
世宗は宮中に戻り太后に拝謁する。
皇后は世宗の体に残る大きな痕を見て笑い、
「陛下、鱗のようでございます。どうか飛び去られませぬよう」
と冗談を言った。
世宗は笑って答えた。
「痛みのあまり、翼があれば飛んで帰りたかった」
銅仏鋳銭と霊水の話を語ると、太后は言った。
「ならば早く法像を鋳直しなさい。内宮の金銀も助けよう。悔いを清めるのです」
世宗は謝し、その夜は静かに更けた。
一方、諸功臣はそれぞれ帰宅したが、高懐徳だけは弟高懐亮の死を悼み、棺を迎えて葬儀を営んだ。
朝廷の文武百官も弔いに訪れ、葬儀ののち墳墓に葬られた。
さて、ある日世宗が朝を受けたのち、南宋王趙匡胤を召して言った。
「南唐征討は未だ終わらぬが、度重なる勝利は御弟の力による。功は大きい」
匡胤は拝して答えた。
「すべては陛下の天福と諸将の尽力によるもの。臣に功はございません」
世宗は言った。
「謙るな。南宋王は閑職だ。定国節度使、兼殿前都指揮使に任ずる」
他の諸将にもそれぞれ恩賞が与えられた。
高懐亮には忠勇侯を追贈し、配下の兵にも賞が行き渡った。
匡胤は謝恩ののち、趙普を推挙した。
世宗は趙普を節度副使に任じた。
補足。
定国軍節度使は、本来、匡国軍節度使と書きます。趙匡胤の避諱ですね。
趙匡胤、初の節鉞。ちょうど30歳のときでした。
このとき渭州の軍事判官の命を帯びていた趙普を、自分の節度推官に転属することを願い出ます。
節度推官は、節度使の機密に携わる幕職官で、軍師や参謀ですね。
この日、朝は散じ、君臣はそれぞれ退いた。
数日後、張永徳が李重進は泰州の陣で進軍を怠り、反意があると上奏した。
世宗は群臣に向かって言った。
「臣を知るは君に如かず。李重進は忠勤の将だ。反心などあるはずがない。これは永徳の捕風捉影(無根拠な言い分)にすぎぬ。もし詔を下して慰諭すれば、かえって疑いを招こう。何も知らぬふりをして、静かに様子を見ればよい」
群臣はこれを善しとし、世宗は事を秘して不問に付した。
やがて軍中に永徳の上奏が知れ渡ると、李重進は単騎で永徳の陣を訪れた。
永徳は兵に人数を問うと、「ただ一騎のみ」と聞き、自ら出迎えた。
二人は手を取り合って営に入り、酒宴を開いた。
酔いが回ったころ、重進が語りかけた。
「我らは腹心の友であり、国家の大将として共に国を支えている。どうして疑い合う必要がある。昔、藺相如と廉頗は私怨を捨て国難を先にした。人はその義を称えた。今、我らもその風に倣わずしてどうする」
永徳は手を合わせて詫びた。
「小弟の過ちであった。罪を知った」
こうして疑いは氷解し、両軍も安堵した。
詩に曰く。
単馬にて営へ赴き、智は高し。
一言にて怨みは消ゆ。
心は交わり義は合し、
周王のもとに俊豪多し。
そのころ南唐は両将の不和を聞き、反間の計を用いた。
密書を蝋封して李重進に送った。
書にはこうあった。
「将の権は時勢にあり。
足下は泰州を囲み南唐の糧道を断つ。策は巧みである。
しかし守将劉仁贍は死を辞さぬ覚悟で、城内の庫も充実している。百万の軍でも容易には破れまい。
しかも張永徳が朝廷に足下を讒し、兵を進めぬと告げたと聞く。朝廷が疑わぬはずがあるか。
いずれ兵権を奪われ、散地に置かれれば一匹夫にすぎぬ。
いま兵を擁して自ら立つは子孫の計にあらずや。
もし心を傾けて来降すれば、孤は重鎮をもって封じ、決して負かぬ」
重進は怒り、
「この小賊、我が君臣を離間せんとするか」
と叫び、使者を捕らえて書を世宗に届けた。
世宗は喜び、
「重進は朕を裏切らぬ」
と称えた。
范質は奏した。
「帥臣がかくのごとく忠勤であれば、南唐を憂うるに足りませぬ」
世宗は李重進を青州節度使に加封し、外の将士に励行を命じた。
独語。
李重進と張永徳は、ともに重臣というよりは、親類です。
李重進は郭威の妹の子(《資治通鑑》巻290)、張永徳は郭威の娘の婿。
二人は禁軍の大将として双璧です。
余談ながら、柴栄は郭威の実の息子を自任していたのかなと、考えています。顕職に郭威以来の旧臣を多く充て、柴一族が表に出てきていない。
ぎりぎり父親の柴守礼がいますが、洛陽で好き勝手しているだけの、息子に迷惑をかけるような不出来な実父です。
南唐の建国祖、烈祖李昪は、義父である徐温をもちろん尊重していますが、李姓に戻し唐皇室の苗裔を名乗ったというので、対照的に見えますね。それだけ唐と李姓の重みがまだまだあったからなのですが。
それよりもです。
後周朝が淮南に攻め入って、各地をほぼ蹂躙したのに、南唐の名将・劉仁贍の強固な守りのせいで、最初の攻略目標がいまだ陥落せず、大方1年になろうかという長い戦役になってしまったこの時期、軍のツートップが反目するという最悪な事態になりました。
しかし、柴栄は意に介しなかったと言います。
張永徳が李重進の叛心を訴えたときも信じなかったわけです。
二人が反目した理由は伝えられていないのですが、劉仁贍不落のなか南唐も勢いを盛り返していて、ピリピリして癇癪でも起こした些細なことだったかもしれません。
しかしこのまま軍が割れてお互い協力しなくなり、最悪片方が南唐に奔るという事態さえあり得たのですが、柴栄が下手に仲裁しなかったからか、二人はこの物語にあるように、腹を割ってすっかり仲直りしてしまいます。
二人は柴栄にとってもそうした頼りになる親類なのです。そうなると、そこに割って入ってくる趙匡胤が相当異質ですね。
柴栄は趙匡胤の軍功に「殿前都指揮使」という殿前軍の総大将にすることで報いました。
それまではその職は張永徳が任じられていたのですが、じゃあ張永徳はどうなったのか? ここで出てくるのが「殿前都点検」職なわけです。
結局、兵権の分散には違いないのですが、より上位職を設けたというわけですね。これは李重進が就いている侍衛親軍都指揮使よりは格上になったとみていいのではないでしょうか。
禁軍三柱の立場も、殿前軍>侍衛親軍>六軍という図式になります。
その後、世宗は華山の処士陳摶を召し、諫議大夫に任じようとした。
陳摶は辞して言った。
「臣は野心麋性(群れには入らず)、功名を志さぬ身」
世宗が飛升の術を問うと、陳摶は答えた。
「陛下は天下を治めるべき御身。何ぞその術を問われるか」
世宗がなお共に治めよと言うと、
「堯舜の上にあっても、巣由(巣父と許由)は志を全うした」
と応じた。
ついに屈せず、世宗は帰山を許した。
臨別に詩を遺した。
十年の跡も夢のごとし。
富貴は夢中に見るのみ。
紫闕(宮殿)は誰が治める。
陳橋に帝子安し。
世宗は意味を解せず、金櫃に納めて後日の検証を待った。
崇元殿に宴を設け、君臣は歓飲して散じた。
補足。
陳摶は、この物語の冒頭をはじめ、時々出没しては重要な占いをしてきた苗訓の師になるとされていますが、その苗訓は一体どこへ消えてしまったのか?
そのころ趙匡胤は帰府したが、父趙弘殷が中風に倒れ、声も出せぬ状態であった。
太医を呼ぶが、「急症にて薬も効き難し」と言う。
匡胤は言った。
「座して見るよりは、効かずとも服させよ。罪には問わぬ」
牛黄(牛の胆のう)・鬱金などを煎じて飲ませたが、ついに意識は戻らず、五更に息絶えた。
匡胤は家族とともに慟哭し、喪を整え、世宗に丁憂を奏し、朝廷にも告げた。
世宗は王朴に命じて主祭とし、諸王侯も弔いに参じた。
葬儀が終わると匡胤は家で喪に服した。
一方、鄭恩は班師後、久々に陶妃と再会し、互いに情を深め、日夜歓を尽くした。
三月あまりが過ぎたころ、鄭恩は発熱し、咳が止まらず、食欲も落ち、寝ても覚めても落ち着かぬ。
太医を呼ぶと、脈を診て事情を察し、静かに原因を述べた。
ここに一段の教えあり。
床下の風流を貪れば、戦場の争いは免れる。
詩に曰く。
人は名利を貪る。
楽は色と酒に勝るものなし。
さて、太医が告げた病とは何か。
それは次回に明らかとなる。
