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第五十九回 劉仁贍全節完名 南唐主臣服納貢

第五十九回 劉仁贍、節を全うして名をたもち、南唐主、臣に服して貢を納む。

 詩に曰く:

 南征の軍が凱旋して太華の東に至ると、
 夜のうちに天書が届き、功を第一と記した。
 将軍はかつて三司の重職をも圧して尊ばれ、
 相国は新たに五等の爵を兼ねていよいよ栄える。
 朝廷に列する鵷鷺えんろのごとき群臣は仙仗のうちへと帰り、
 熊や羆のごとき猛将もまた禁営へと入る。
 ただ典午の官にあって才なき身を恥じるばかりだが、
 閑職にとどまることこそかえって公にかなうのである。

 ――右、韓愈かんゆ《回軍詩》。

 さて話は変わる。

 鄭恩は凱旋してからというもの、久しく離れていた陶妃と再び睦み合い、いよいよ情を深めていた。
 ところが酒色にふけることが度を越え、やがて体に変調をきたす。あわてて太医官を呼んで診させた。

太医官は言った。
「これは七情の乱れが過ぎ、腎を損じて火が盛んになった症です。腎をうるおし肝を平らげ、肺を清め水を益す薬を用いれば害はありません。
 何よりも養生が第一。心を静め欲を少なくし、静かに元気を養い、災いを祓う薬を合わせれば快癒いたしましょう。」

 鄭恩は大いに喜び、左右に命じて太医官を送り出した。

 それからは邸内にこもり、静かに療養に専念する。薬を服し、食をとり、衣を重ねることに至るまで、すべて陶妃が自ら世話をし、片時も離れなかった。

 鄭恩が屋敷で養生していることはひとまず置こう。

 さて李重進は兵を督して泰州を攻め続けていた。城は周軍に囲まれてすでに二年。糧は尽き、軍も民も飢えに苦しむ。劉仁贍は急を告げて斉王に救援を求めた。

 斉王は大将の許文稹きょぶんしん朱元しゅげんを遣わし、兵糧を運ばせて紫金山しきんざんの麓に陣を張らせる。

 朱元は策を進言した。
「周軍は勢い鋭く、李重進は智勇兼備で用兵は神のごとし。我らの救援を知れば、あらかじめ退いて策をめぐらすに違いありません。
 ゆえに数里にわたって甬道を築き、敵の突撃を防ぎましょう。そうすれば兵糧の輸送は安全かつ迅速になり、敵の計略も防げます。兵法の要です。」

 許文稹はこれに従い、甬道を数十里にわたって築かせた。兵士は往来して糧を運び、泰州城まで一直線に届けることができた。

 しかし早くも斥候がこの報を李重進の陣に伝える。

 重進は曹英に言った。
「唐軍は長駆して来て、甬道まで築き糧を運んでいる。いかに防ぐべきか。」

 曹英は答えた。
「寡は衆に敵せず、弱は強に敵せず。しかし奇兵をもってこれを破るべきです。」

 重進はうなずき、牙将の劉俊を呼んで命じた。
「歩兵五千を率いて泰州の南へ出よ。本隊が動けば両面から挟撃し、陣を破れ。敵は乱れるであろう。」

 さらに曹英に命じ、紫金山の北に伏兵させる。布陣は整った。

 翌日、李重進は兵を率いて紫金山へ向かう。両軍が対峙すると、門旗が開き、許文稹が馬を勒して進み出た。

「周の将よ。二年攻めても泰州は落ちぬ。無益に力を費やすより退兵せよ。捕らわれ命を失う前に。」

 重進は怒り、刀を振るって直ちに討ちかかる。文稹も応戦する。

 金鼓は天を震わせ、旗ははためき、鬨の声が響き渡る。百余合に及ぶも勝敗は決しない。

 そこへ南陣から辺高へんこうが槍を掲げて駆けつけた。重進は二将を相手にしてもひるまぬ。

 そのとき周軍の陣で砲声が轟き、山岳を震わせた。東より劉俊が兵を率いて唐軍の背後から襲いかかる。唐兵は大乱。朱元が迎え撃つが、さらに曹英が南から突入した。

 形勢不利と見た文稹は馬を返して退く。曹英が道を遮る。辺高が奮戦するも、一合で曹英の刀が閃き、辺高は馬下に斬り落とされた。

 文稹は包囲を破って北門へ逃れる。城上の劉仁贍はこれを見て出撃し、城内へ救い入れた。

 李重進は敵営を奪い、兵を分けてこれを守る。

 許文稹は大敗して入城し、兵の半ばを失ったことを知り、恥じ入った。

 劉仁贍は言う。
「そなたと朱将軍は城を守れ。明日、わたし自ら出て李重進と死戦する。」

 文稹は止めた。
「今は強いて戦うべきではありません。主帥の到着を待ち、再び議すべきです。」

 仁贍は従い、力を尽くして守備にあたったが、国難と怒り憂いが重なり、ついに病を得る。

 その子の劉宗が父に言った。
「勝つ者こそ奇と申します。父上は孤城を守り一度も敗れず、今や援軍も来たのに辱めを受けました。今夜、城を出て周の陣を襲い、恨みを晴らします。」

 仁贍は驚いて叱る。
劫営こうえいの術を知らぬ若輩が何を言う。主将たるわたしでさえ軽々しくは動かぬ。無謀に命を失うだけだ。許さぬ。」

 しかしその夜、劉宗は二千を率い、東門を開いて淮を渡り周営を襲おうとした。だが途中で李重進の遊兵に遭い、散々に打ち破られて退く。

 翌日、仁贍はこれを聞き、斬首を命じた。

 監軍の周廷構しゅうていこうが必死に諫める。
「小将軍は敗れましたが、国のために功を立てようとしたのです。私欲ではありません。どうかお赦しを。」

 しかし仁贍は聞かず、諸将が跪いても許さなかった。

 廷構はやむなく劉夫人に救いを求める。夫人は言った。
「母として子を愛さぬはずはありません。しかし軍法はわたくしにできず、名節は曲げられません。今日これを赦せば、劉氏は不忠となります。わたしと劉公は将士に顔向けできましょうか。」

 ついに斬らせた。諸将は皆、涙を流した。

 詩にいう。

 閫外こんがい(辺境)の元戎げんじゅう(元帥)、
 号令は明らか。
 忠勤の士がどうして私情に溺れようか。
 愛子をもって軍法に殉じさせ、
 その一念はただ忠に貫かれている。

 さて斉王李景達は許文稹大敗の報を聞き、国を傾けて泰州を救わんとした。

李重進は諸将と議する。
「唐の援兵は多い。泰州はすぐには落ちぬ。しかも我が軍の糧は乏しい。主上に奏して策を仰ごう。我らはここに駐して長期の構えを示す。」

 奏表は世宗に届けられた。

 世宗は決しかねる。そのころ李穀は病で在宅していた。世宗は范質と王朴を遣わし、意見を問う。

 李穀は言った。
「泰州は旦夕たんせき(近々)に破れます。もし聖駕が親臨されれば、将士は命を惜しまず戦い、泰州は指日で落ちましょう。」

 この言葉を聞き、世宗は決断する。詔を下し、泰州攻略を命じ、趙匡胤を元帥として諸軍を統べさせた。

補足。
 淮南の大半が後周軍に奪われ、六合で斉王の南唐禁軍も壊滅したあと、ただの尚書員外郎だった朱元が軍権を得て、残存兵力を率いて淮南に乗り込み、舒州・和州・蘄州を取り返しました。
 その頃、後周軍は補給が続かず、もっとも遠い揚州に駐屯した部隊が、掠奪を始めたことで、現地民と諍いが起こり、朱元の回復した地がちょうど退路になることからも、寿州への撤退集結を決断しました。
 揚州の住民は後周軍を解放軍として歓迎したものの、掠奪されれば抵抗も辞さず、紙を服の上に貼って鎧のようにし、徒党を組んで襲い掛かってきたのです。この民衆の抵抗集団を「白甲子」といいました。
 寿州に退却する後周軍につけいり、朱元、辺鎬、許文縝、陳徳誠らは故地を回復させつつ、戦線を押し上げ、寿州城北の紫金山に集結し、寿州城との連携の態勢を取ったのです。
 朱元は《資治通鑑》では北面招討使、《舊五代史》では西北面行営都監使とされ、拒周の統帥となりました。柴栄が再親征を決意するほど、南唐軍の戦意はこれまでになく高まったのでした。

 そのとき趙匡胤は父の喪に服して家にあったが、王命に迫られ出陣する。 また鄭恩が病で出征できぬと奏し、世宗はこれを許した。

 匡胤は兵を分け、大船数百を造らせ、唐の降兵に水戦を教えさせた。数月の訓練ののち、波涛を自在に行き来し、激流を縦横に駆け、唐軍をも凌ぐほどとなる。

 三月、世宗は大梁だいりょう(都・開封)を発し、王環おうかんに水軍五万を率いさせ、汴河べんがから潁水えいすいを経て淮水へ入らせた。軍威は震い、遠近みな驚いた。

 その報せが南唐に届くと、斉王は大いに恐れ、急ぎ使者を金陵へ送り救援を求めた。

 唐主は群臣を集めて対策を議する。太史令の呂錦文りょきんぶんが進み出て言った。
「南唐と周は並び立つことはできませぬ。今こそ国を挙げて兵を起こし、迎え撃つべきです。敵はすでに深く入り込んでおりますが、長くとどまることはできましょうか。」

 唐主はこれを容れ、楊守忠ようしゅちゅうに五万の兵を授けて出陣させた。守忠は即日金陵を発し、紫金山の麓に陣を敷く。

 斉王李景達も救兵到来を聞き、自ら淮河口に軍営を構え、守忠と呼応した。城内の許文稹・朱元も城西に営を列ね、互いに角のごとく支え合い、出兵の日を定めた。

 そのころ世宗は泰州城を離れること十里に陣を張っていた。南唐が国を挙げて来るとの報を受け、各営に命じて心を一つにし、兵備を厳重に整えさせる。

 翌日、泰州城下に布陣。世宗は自ら甲冑を着け、趙匡胤ら諸将を従えて陣頭に立った。

補足。
 このとき柴栄が殿前軍を率いて陣取ったのは、紫金山の南だったといいます。つまり、寿州(ここでは泰州ですが)の劉仁贍軍と、紫金山の朱元軍との間というわけですね。
 なかなか挑戦的です。
 寿州は李重進に抑えさせ、自身は自ら紫金山の南唐軍主力を叩くため、山寨に向き合ったのでした。

 南唐の楊守忠も陣を整え、馬を躍らせ刀を振って叫ぶ。
「南唐と汝らとは本来関わりなきはず。なぜ年々争い、民を苦しめるのか。」

 世宗は答えた。
「天下は一つである。汝が主は庸愚ようぐにして一方に覇を唱え、万民を苦しめる。朕が天兵を率いて来たのはそのためだ。事の理を知るなら兵を挙げて降れ。爵位は失わぬ。なお悟らねば禍は免れぬぞ。」

 守忠は怒り、
「誰か先陣を切って敵の鋒を挫け。」

 その声に応じ、牙将の張兆仁ちょうちょうじんが大刀を手に馬を飛ばして挑み出る。
 周陣から曹英が迎え、激しく打ち合う。三十余合ののち、曹英はわざと隙を見せて馬を返す。追いすがる張兆仁が迫った瞬間、曹英は大刀を振り下ろし、張兆仁を真っ二つに斬った。

 楊守忠は怒りに燃え、自ら槍を取って突進する。

 それを見た趙匡胤は赤兎馬を駆り、八環刀はちかんとうを提げて飛び出した。両雄は武器を振るい、馬を交えて五十余合。勝負はつかない。

 そこへ城西から許文稹が兵を率いて突入し、世宗軍を二つに分断した。

 李重進は主君に危険あらばと馬を駆け、文稹を迎え撃つ。百余合の激戦の末、重進は猿のように腕を伸ばし、文稹を馬上から引きずり落として捕えた。

 匡胤はそれを見るや馬を返し、南陣を巡って退く。楊守忠が追撃する。

 匡胤は連珠の矢を放ち、守忠の乗馬を射抜いた。守忠は地に転げ落ち、周兵に捕えられる。

 唐軍は総崩れとなり、討たれる者数知れず。朱元は危うきを見て西営を捨て、兵を率いて川沿いに逃走した。王環の水軍が流れに乗って鼓噪しつつ迫る。

 斉王は守忠が捕らえられたと聞き、もはや迎撃できず、陳覚とともに船を捨てて金陵へ逃げ帰った。

 世宗は自ら騎兵を率い、両岸から追撃する。唐兵で溺死した者は二万余。周軍は大勝し、船・糧・甲冑・兵器は数えきれぬほど奪った。

補足。
 紫金山で崩れた南唐軍は、東=濠州(南唐軍司令部が置かれていた)を目指して潰走していたのですが、柴栄はその逃走路を想定し、先回りして趙歩(梁城北)に追撃軍を展開していました。
 趙匡胤に追い立てられ逃げ落ちてくる南唐軍を、迎え撃ちさらに淮水に沿って追撃し、自ら100騎を従え荊山まで追い徹底的に殲滅したのです。
 南唐軍は5万のうち4万を失ったとされます。

 ここで南唐軍の崩れについて。
 後周軍と南唐軍は朝から交戦し、夜まで決着はつきませんでした。しかしその夜、朱元が後周軍に寝返ります。朱元一人ではなく、その指揮下にあった1万の軍勢と朱仁裕、孫璘などといった将帥もろともでした。
 なぜそんなことになったのか。それは南唐の枢密使・陳覚との確執でした。陳覚は権臣で、いわば政敵の足を引っ張る達人でした。
 陳覚と朱元はずいぶん前から確執があって、朱元がただの員外郎程度だったからほぼ問題視されることはなかったのですが、ここへきて急に軍権を得てしかも後周軍に勝ち、旧領を回復するという他の誰にも成しえなかった軍功を建てたことから、二人の溝はごまかすことができなくなったのでした。
 実績のある朱元は、机上の空論の陳覚の命令を聞こうとしない、陳覚は自分が立場が上なのに、命令に従わない朱元が憎い、ということで南唐主にかけあって将帥の交代を主命の名のもとに強硬しました。
 ここが陳覚のズルいところで、皇帝の威をもって我意を通そうとしたわけです。そういう地位の固め方をしてきた人なのです。
 単なる交代ではなく罪を着せられてのことなので、朱元は絶望し自刃を考えましたが、これを諸将が止め、後周軍に降るよう勧めたのです。
 朱元は半年ほど前に初めて軍の指揮をしてより、兵をいつくしみ甘苦を共にし、開戦に臨んでは困難な現状や忠節について泣きながら演説したので、将兵は奮起したといいます。
 そんな朱元だから、1万もの兵がそのまま主将に付き従い、後周軍へ降ったのでした。
 節を全うし殉死した劉仁贍、李延鄒、張彦卿、鄭昭業らとの対比であまり評価は高くはないのですが、同情的な見方もされています。

 世宗は軍を収めて帰営した。

 翌日、諸将を分けて泰州攻城にあたらせる。

 劉仁贍は救兵敗北を聞き、病はさらに重くなる。監軍の周廷構は周軍の攻勢急なるを見て、左騎都指揮の章全しょうぜんと語る。

「主帥は重病で政務も執れぬ。城は久しく囲まれ、糧も尽きた。今降らねば民変が起こり、かえって不名誉となる。いかが思われるか。」

 章全は嘆いて答えた。
「我らは民のために守ってきた。だが今やこの有様。城を開いて降り、民の命を救うほかあるまい。」

 二人は意を同じくし、劉仁贍の名で降表を偽作した。

 翌日、諸将は仁贍を支えて城門を開き、降伏する。

 世宗は自ら帳中に迎え、ねぎらいの言葉をかけた。仁贍はただうつむき、言葉を発しない。

 世宗はその忠義を称え、厚く賜物を与え、病を養わせるため城内へ送り返した。

 だが仁贍は義をもって受けず、邸へ戻った。

 世宗は詔を下し、州県の囚徒を大赦し、唐主の命を受けて山林に逃れた民もすべて帰業させた。不都合ある者は役所に申し出させ、一つ一つ奏聞させた。

 さらに仁贍を天下節度使兼中書令に封じたが、仁贍は受けず、その夜ついに城中で没した。のち彭城郡王に進爵される。

 南唐主はその死を聞き、深く痛惜して太師を追贈した。世宗は清淮を忠正軍と改め、仁贍の節義を顕彰した。

 詩にいう。

 孤城を守り忠節は揺らがず。
 兵尽き糧尽き、病は身を責める。
 ただその一死、恥じることなく、
 千古に雷のごとく名を響かす。

 泰州は二年の包囲で民は飢えに苦しんでいた。世宗は詔を下し、寿州の倉を開いて救済する。民は食を得て、歓声が道に満ちた。

 四月、世宗は諸将を率いて濠州を攻める。

 濠州の守将黄天祥こうてんしょうは周軍来襲を聞き、三千を率いて城外へ迎え出た。両軍対峙。北陣から劉俊が刀を横たえ叫ぶ。

「唐将よ、早く関を献じよ。無駄な屠殺を受けるな。」

 黄天祥は怒って言う。
「飽くことを知らぬ侵略者め、また我が城を犯すか。」

 槍を掲げて劉俊に突進する。劉俊も刀を振るって迎え撃つ。

 戦場は凄まじい。

 夕雨に旗は濡れ、残煙と枯草に日は寒し。
 沙場は夜明けまで戦い続き、ただ番兵の空の鞍ばかりが残る。

 数合も戦わぬうち、東から砲声が轟く。

 趙匡胤が一騎で駆けつけ、黄天祥の備えていた水寨を打ち破り、戦船に火を放った。煙は天を蒸し、紅光は野を染める。

 水寨を失った黄天祥は戦意を失い、急ぎ城へ退く。李重進・劉俊らが追撃し、匡胤と合流して水陸から挟撃する。

 黄天祥は防ぎきれず、敗兵を率いて羊馬城へ退いて守った。

 趙匡胤は濠州を落とすと、ただちに世宗を迎えて入城させ、さらに進言した。

「唐軍は敗れ、勢いは破竹のごとく、数度打てば刃を当てるまでもなく崩れましょう。陛下みずから矢石の中に臨まれるには及びません。御営はこの城に置かれ、臣と諸将に金陵を直撃させてください。唐主を擒え、南方を平定いたします。」

 世宗は大いに喜び、
「すべては御弟らが心を尽くして朕を助けてくれるゆえだ。」

 こうして匡胤は李重進と兵を合わせ、まず羊馬城を攻めた。城中はその報に震え上がる。

 水軍元帥の江顕明こうけんめいは数百の戦船を渙水かんすいの東に並べて陣を張り、濠州陥落を知って救援に向かおうとしていたが、敗走してきた黄天祥に出会う。周軍の勢いは防ぎがたいという。

 江顕明は言った。
「渙水南岸に水陣を敷き、周兵を防ごう。同時に主上へ急報し、援兵を求める。そうすれば敵の横行も抑えられよう。」

 黄天祥は喜び、二軍は南岸に並び、戦船を横たえて水面を封じた。堅く守って隙がない。

 やがて匡胤の軍が渙水に至り、対岸に布陣する。匡胤は歩軍使の高瓊こうけいと策を練った。

「敵は水を頼みに陣を敷き、我らが渡れぬと見ている。汝は兵千を率い、岸沿いに回って明日の黄昏に火を放て。岸上が乱れれば水軍も慌てる。そのとき我は正面から攻め、大勝を得よう。」

 高瓊は命を受けて去った。

 翌日の午後、匡胤は寨を出て諸将に弓弩を配し、水軍へ乱射させる。矢を防ぐので精一杯で、唐兵は出撃できない。

 その隙に周軍は渙水を渡り、南岸へ迫った。黄天祥は驚いて迎え撃つが、匡胤と数合戦って敗走する。

 折しも黄昏。南陣から砲声が響き、旗が揺れ、松明が赤く燃え上がる。折からの狂風にあおられ、顕明の営は炎に包まれた。唐兵は踏み合い、叫び合い、乱れに乱れる。

 江顕明は逃げ出すが、高瓊に道を塞がれる。慌てて馬を走らせるも、前脚を踏み外して転倒。その隙に高瓊の一刀が閃き、二つに斬られた。部下はみな降伏する。

 高瓊は匡胤と合流し、黄天祥を追撃。勝ち目なしと悟った天祥は宝剣を抜き、自刎して果てた。

 ――哀れ節義の士、空の鞍のみが帰る。

 水軍は主将を失い、降る者、逃げる者で一掃された。

 匡胤は大勝し、その威名は遠近に轟く。李重進と合流し、勢いのまま泗州へ進み、四方から攻撃する。守将の范載はんさいは支えきれず、城門を開いて降った。

 匡胤は入城すると、兵に厳命する。略奪や民への暴行を禁じ、違えば斬首。兵は整然と入り、民は歓喜した。

 ――王師の至るところ仁義を施し、民は旧日のごとく安んずる。

 十一月、通州を攻める。守将郭延かくえんは部将孫信らと議す。

「周軍の勢いは盛んだ。抗しても益なし。降るが上策。」

 皆これに賛した。郭延が言う。
「誰が降表を書くか。」

 孫信は参軍李廷鄒りていすうを推す。だが廷鄒はきっぱり拒んだ。

「諸公は唐の宿将、国恩を受けて久しい。城は堅く糧もある。戦い守って臣の職を尽くすべきだ。なぜ備えもせず、不義を先にするのか。」

 郭延は嘆く。
「時勢はすでに決した。天意に従い民を救うのだ。」

 廷鄒はなお拒む。孫信は刀を抜き脅した。

「従わねば斬る。」

 廷鄒は言い放つ。
「大丈夫は忠義を誓う。一死を恐れぬ。どうして狗豚くとんに従い、生きながらえて降表を書くものか。」

 孫信は怒り、一刀で斬り殺した。翌日、通州は降伏した。

 ――忠心屈せず、草表もせぬうちに命を落とす。血は階に染みる。

 匡胤は通州を得ると、勢いのまま楚州へ。防御使張彦卿ちょうげんけいは堅城を守り、四十余日攻めても落ちない。

 世宗は自ら大軍を率いて督戦に来た。匡胤は奏する。

「張彦卿は民心を得て死守しております。ゆえに即克できません。ただ糧は尽きつつあります。合力すれば遠からず破れましょう。」

 世宗は言った。
「諸将に心を尽くさせよ。功に応じて必ず賞す。」

 翌日、匡胤と李重進らは分かれて攻める。将士は力を振り絞り、朝から正午まで戦ううち、西北の一角が崩れた。

 曹英が先陣を切り、鸞牌らんはい(盾)を掲げて城に登り、守兵を斬り払う。兵は蜂のごとく続き、唐兵は持ちこたえられず逃走。

 西門が開かれ、周兵は雪崩れ込む。

 張彦卿は都監鄭招業ていしょうぎょうとともに迎え撃つが、南門で李重進の一刀により鄭招業は馬下に斬られた。

 張彦卿は形勢尽きたと悟り、天を仰いで嘆く。
「今日こそ主君に報いる時だ。」

 宝剣を抜き、自刎。部下千余も皆これに殉じた。

 ――節を全うし、義は田横でんおうにも劣らず。

 匡胤は楚州を得て兵を収め、世宗を迎え入城。ぼう(告知の看板)を出して民を安じ、倉を開いて救済する。

 周軍は破竹の勢いで、行くところ敵なし。

 この報せが金陵に届くと、唐主は恐れおののき、食も喉を通らず、針のむしろに座す心地。だが屈辱の降号は耐え難く、太子弘冀こうきに位を譲り、中国に臣従する表を奉った。

 南唐の地でなお未下は廬州ろしゅう舒州じょしゅう蘄州きしゅう黄州こうしゅうの四郡のみ。地を献じ、罷兵を乞う。

 世宗はその表を読み、言葉の哀切に心を動かされた。

「朕の本意は江北を取るのみ。唐主が国を挙げて降るなら、これ以上何を望もうか。」

 かくして返書を賜う。

「大周皇帝より唐主へ。朕が兵を興したのは土地を貪るためでも民を害するためでもない。天下は一家。それぞれの封域を守り、人民を安んじ、永く平和を享けさせるためである。子々孫々までその恩恵に浴するであろう。通好は今始まったばかり。ここでは多くを述べぬ。」

 使者は書を受け取り、金陵へ戻って唐主に拝謁した。

 唐主は書を読んでようやく心が動き、深く感激する。あらためて使者を遣わし、謝表を奉った。その表に曰く。

「唐国主臣李、謹んで頓首して皇帝陛下に上表す。
 臣は陳覚を遣わし、天朝に表を奉りました。詔書を拝受し、兵を休め戦を息め、和好を許されましたこと、小国に天地のごとき大徳を仰がしめたまい、感激に堪えません。謹んで江北四州を献じ、毎年銀百万緡を納め、上国の歳時の用に供します。命を賭して申し上げ、赦書を伏してお待ちいたします。」

 世宗は表を受け、群臣はこぞって賀した。江北はすべて平定され、十四州六十県を得る。

 さらに唐主へ書を賜り、
「今より朕は戦を罷める。ゆえに伝位するに及ばず。」
と諭した。

 また銭弘俶・高保融らにも軍を労う銭帛数十万を賜う。

 唐主は平章の馮廷ふうていを遣わし、銀銭・茶・穀あわせて二百万を御営に届け、軍を慰労した。世宗は厚くこれを遇する。馮廷は帰国後、世宗の徳を称えた。

 かくして唐主は心から周に臣服した。

 詩にいう。

 大将南征して戦旗を掲げ、
 降りて土を献じて奇功を立つ。
 辺境の民の恨みを知りたくば、
 烽火に目を迷わせた歳月を思え。

 世宗は南方平定を喜び、班師して京へ還ると命じた。諸営は歓喜し、翌日寨を抜いて出立する。

 天子はすでに麟閣りんかくを開いて待つ。
 今や誰が二師の功を数えよう。

 駕は汴京に帰り、世宗は功に応じて封爵を与え、三軍に賞を施し、盛大な宴を開いて功臣をねぎらった。

 これより君臣は政に励み、百姓は安楽を得る。兵戈は収められ、太平の兆しが次第に見え始めた。

 ある日、世宗は文書の中に一本の木簡を見つける。長さ三尺、そこには「検点作天子けんてんさくてんし」の五字が記されていた。

 世宗は怪しみ、誰が置いたのか探らせたが分からない。

 当時、張永徳が殿前都検点であった。世宗は疑念を抱き、趙匡胤をもってこれに代えさせた。

 顕徳六年、蜀征伐の将帥王景・向訓らを召し戻す。

 その折、近臣が奏した。
「昨夜、枢密使昌邑侯しょうゆうこう王朴おうぼくが逝去いたしました。」

 世宗はその報を聞き、みずから弔問に赴き、数日慟哭してやまず、天を仰いで嘆いた。

「天は朕に治世を成させぬのか。なぜかくも早く奪うのだ。」

 王侯の礼をもって葬り、百官も皆これに従う。汴京の民は王朴が平素より民を子のごとく遇したことを思い、悲しみ祭を捧げ、市を三日閉じ、父母を失ったかのように嘆いた。

 詩にいう。

 術数に明らかにして皇家を佐け、
 新君を補い遠謀を立てる。
 昇平まさに至らんとき身はすでに逝き、
 黎民は千古に嘆く。

 さて南唐主は中国にしたがってから、群臣と貢献の礼を議した。宋斉丘そうせいきゅうが奏する。

「昔、後漢主が即位した折、主公は女楽数十名を献じて数年の兵乱を免れました。今も美貌聡明の者を献じれば、金玉より勝ります。江南は泰山の安きを得ましょう。」

 唐主は言う。
「世宗は英明の主である。もし納めねば、かえって罪を得るやもしれぬ。」

 斉丘は答えた。
「美色は人の好むところ。漢帝も英明でしたが、棄てられたとは聞きません。速やかに行えば憂いなし。」

 唐主は従い、宦官に美女を選ばせた。

 選ばれたのは秦若蘭しんじゃくらん杜文姫とぶんきの二人。いずれも姿秀でて人目を奪う。礼部尚書王崇質おうすうしつを使とし、二女を中国へ送る。

 崇質は金陵を発ち、汴京に至る。

 世宗は入殿させ、崇質は階下に拝して奏した。
「主命により美女二名を献じます。御閑暇の慰めに。」

 世宗は二女を召し入れ、名を問う。

「秦若蘭、杜文姫にございます。」

 世宗は喜び、御楽院に収めよと命じた。

 このとき趙匡胤が進み出て諫める。

「陛下は英明にして天下を治め給う。外邦がいほうの女色を受けるべきではありません。玉帛は軍を養い、米は兵を賞すに足ります。
 だが女色を受ければ、外邦は陛下を色を好む君と見なし、美女を日々送り、政は怠り徳は損なわれましょう。
 万々不可。どうか熟慮を。」

 世宗は言う。
「朕には処す術がある。心配には及ばぬ。」

 諫めを退け、宴を設けて崇質をもてなす。

 そして問う。
「汝の主は今も武備を整えているか。」

 崇質は答える。
「天朝に帰順してより、国は主を得ました。もはや甲兵を修める必要はありません。」

 世宗は言った。
「その見解は明らかだ。しかし朕が兵を起こせば敵となる。今は一家となったが、人心は測り難い。後世のことは分からぬ。帰って告げよ。城郭兵甲は修めよ。子孫のためだ。」

 崇質は拝命して帰国し、唐主に伝える。唐主は感激し、城郭を修め、兵を増し、軍備を整えた。

 さて世宗は美女を納めてから、日ごと宮中で宴を開き、昼は音曲舞楽、夜は歓楽にふける。情に溺れ、日を重ねて朝に出ず、政は范質はんしつ王溥おうふの二人に委ねられた。

 二人は心安からず、群臣を率いて趙匡胤の邸に赴き、軍国の大事を議した。

 ここにまた一波乱が起ころうとしている。

 憂国勤民の志は怠りを払って淳化じゅんかに帰し、
 天に応じ民に順い、蒙を掃いて重華ちょうかを見る。

 いったい諸臣は何を議したのか。
 それは次回を待って知るべし。

独語。
 柴栄が女色に溺れる? 馬鹿言っちゃあいけませんよ。


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