第五十七回 鄭子明斬將奪關 高懷亮貪功殞命
第五十七回 鄭子明、将を斬りて関を奪い、高懐亮、功を貪りて命を殞す。
詩に曰く:
広場にて破陣の楽、ようやく鳴りやみ
綵纛(大旗)は百尺の楼よりも高く翻る。
大将は気雄々しく、競って舞い立ち
管弦めぐりて、再び大纏頭を奏す。
行くときは常に決勝を期し
戻るたびに、身は陣頭にあり。
賊城破れて、先鋒まっ先に入り
紅妝(赤い装い)を目にしても、あえて手を出さず。
――右、王建の詩二首を録す。
さて、趙匡胤は皇甫暉が滁州へ退いて橋を落とし、城に籠もったと知ると、馬全義に命じて配下の兵を率いさせ、敵の体制が整わぬ隙を突いて木を集めて筏を作り、川を渡って奇襲をかけさせた。
自らは大軍を率いて続き、まっすぐ滁州城下に迫り、旗を翻し鬨の声を上げ、太鼓を打ち鳴らして挑戦した。
皇甫暉は城に登り、
「人はそれぞれ主に仕えるもの。陣を整える暇を与えてほしい。その後で戦おう。あまりに逼迫せぬよう願う」
と言った。
匡胤は笑って、
「自ら命乞いをするなら、しばし死を延ばしてやろう」
と答え、兵馬を一箭の距離だけ退かせた。
皇甫暉は鎧を整え、軍をまとめて出陣する。
両軍は円陣を結んだ。
周の陣では匡胤が自ら前に出て、左に馬全義、右に張瓊が控える。
唐の陣では皇甫暉が馬を進めた。
匡胤は指さして言う。
「時勢を知るなら、早く滁州を差し出せ。富貴は保てよう。さもなくば、首と胴が離れるだけだ。何の益がある」
皇甫暉は激怒し、槍を振るってまっすぐ匡胤に挑んだ。
馬全義がこれを受け止め、数合も交えぬうちに皇甫暉は力尽き、馬首を返して敗走する。
馬全義は門旗の下まで追いすがり、刀を振り上げて一閃。
皇甫暉は馬下に斬り落とされた。
周軍は馬全義の勝利を見るや、一気に攻め込み、唐軍は大混乱に陥る。
姚鳳は慌てて逃げようとしたが、張瓊に追いつかれて生け捕られた。
激しい斬り合いの末、ついに滁州を奪取し、使者を走らせて戦勝を報告した。
世宗は滁州攻略の報を受けると、ただちに学士の竇儀を滁州に派遣し、府庫の金銭や兵糧を点検させた。
竇儀は勅命を受けて城に入り、庫中の財物を一つ残らず帳簿に記し、行幸を待って奏上することにした。
このとき趙匡胤は人を遣わし、金銀や絹布を取り出して軍士に与えようとしたが、竇儀はこれを許さず、使者に言った。
「城を破ったばかりで府庫を傾けるのは、利あることではない。しかも私は勅命により帳簿を作っており、すでに官物である。詔書の命なくしては、取ることはできぬ」
使者がそのまま匡胤に伝えると、匡胤は嘆じて言った。
「竇公の忠義、どうして私がその一つ二つを動かせようか」
こうしてすべて世宗に帰された。
世宗は詔を下し、滁州攻略は実に南宋王の功であるとして、庫中の財物をすべて匡胤に賜おうとした。
竇儀は奏上した。
「趙元帥は王室に忠勤を尽くすお方。どうして独りで恩賜を受けましょうか。陛下は恩命を広く分け、将士すべてに行き渡らせるべきです」
世宗はこれに従い、竇儀に命じて庫内の財帛を南宋王ならびに三軍の将士に分け与えさせた。
軍士は等しく恩沢を受け、歓声は雷のように轟いた。
匡胤はさらに趙普を推挙した。
世宗はただちに趙普を滁州知州に任じる。
補足。
滁州捷報を受け、柴栄は趙弘殷(趙匡胤の父)に一隊を率いらせ、滁州に向かわせました。
趙弘殷は到着して開門を呼ばわったけど、すでに夜更け。趙匡胤は父親とわかっててこういいます。
「親子といえども城門の開閉は軍の大事である。その命令には従えません」
と締め出してしまいます。翌日、日が昇ってからようやく入城させました。
なお、趙弘殷はこの滁州にいるときに病になり、たまたま属官として赴任してきた趙普が親に仕えるように看病をし、趙匡胤の知己を得るに至ります。
匡胤と趙普は日々語り合い、意気はぴたりと合った。
天下を治める道を問えば、趙普はよどみなく答え、言葉ごとに要を射る。
匡胤は大いに喜び、万事を相談した。
趙普は心を尽くして意見を述べ、すべて適切であった。
このころ、戦場で捕らえた南唐の将士を、匡胤は皆殺しにしようとした。
趙普はこれを諫めて言う。
「国難多き時代に、英才は得がたいものです。元帥は彼らを釈放し、味方として用いてはどうでしょう。誠心誠意で遇すれば、誰がその徳を忘れましょうか」
匡胤はうなずいて賛同し、まず姚鳳と勇猛な者数十人を放免し、続いて残りもすべて釈放した。
後人はこれを詩に詠んでいる。
一言意気投合すれば、利は金を断つ。
君臣ここに至り、心を一つにす。
降俘を放ち用うるは、まことに得策。
ただ羨むは、当年の徳沢の深さのみ。
世宗は滁州に入城し、匡胤と諸将は拝謁した。
世宗はねぎらって言う。
「城を落とした功、二御弟が第一である。後世、名は竹帛に残り、まことに朽ちぬであろう。今や威名は日に盛んだ。さらに兵を進め、南唐を掃討して、朕の期待に応えてほしい」
趙匡胤は勅命を受け、進軍の準備を整えた。
ほどなくして、南唐主は牙将を滁州に遣わし、和を請う書を奉った。
その書にはこうある。
「唐皇帝、書を奉る。
交兵して戦を始めて以来、双方ともに損耗多く、いずれの利にもならぬ。
今より後は兵を休め、和好を結び、大周を兄として事え、年ごとに財帛を貢ぎ、軍資の助けとしたい」
世宗はその文言の不遜さを見て、匡胤を召して相談した。
匡胤は奏して言う。
「今や陛下の聖駕はすでに唐境に入り、李穀ら諸将は険要を押さえております。
ただし揚州一帯は兵力が脆弱です。軽騎を遣わして急襲すれば、一鼓にして落とせましょう。その時こそ陛下の威を示せば、金陵は必ずへりくだって降るはずです」
世宗はこれを聞いて大いに喜び、ただちに元帥に実行を命じた。
匡胤は命を下し、韓令坤に兵五千を与えて揚州を襲わせた。
令坤は令箭(命令印)を受け、出発に際して匡胤は言い含める。
「将軍、揚州を取るにあたり、百姓を害してはならぬ。李氏の陵墓が揚州にあるなら、必ず守らせ、決して発掘を許すな」
令坤は命を受けて進軍する。
兵が揚州に至ると、城中の士民は恐怖に震え、守城の兵は先に逃げ去った。
守 将の馬延曾はなすすべもなく、奥へ走り込み、ひげと髪を削って僧衣をまとい、南門から逃げ失せた。
城中は主を失い、ついに城門を開いて降伏した。
令坤は兵を率いて入城し、
「民を乱すことを許さぬ。命に背く者は斬る」
と厳命した。
こうして揚州の百姓は以前と変わらず安堵し、一本の草すら侵されることはなかった。
令坤は人を遣わして世宗に奏聞した。
世宗は報告を得て大いに喜び、詔を下して趙匡胤に泰州を取らせることにした。
匡胤は勅命を受けて進軍し、寿塘関へ向かう。
関を離れること数里の地で砲を放ち、陣を張った。
寿塘関の守将は王豹といい、この日ちょうど中堂に座していたところ、探子(偵察)が駆け込んで報告した。
「周主が宋王趙匡胤に兵を率いさせ、こちらへ侵攻しております。元帥、早くご決断を」
王豹はこれを聞くと、すぐさま兵に命じて城を固めさせた。
一夜が過ぎ、翌日、両軍はそれぞれ兵を出した。
王豹は歩兵の将で、鑌鉄の棍を操り、万人に当たる勇を持つ。
腰には銅鈴を二つ下げ、さらに馬や驢馬ほどもある大犬を鍛え上げ、戦場で人を噛み殺させるという恐るべき手を持っていた。
軍中では「鉄棍神犬将軍」と呼ばれていた。
この日、王豹は兵を率いて関を出て、周軍の陣と相対する。
両軍はそれぞれ陣を敷き、王豹が先頭に立って挑戦した。
周の陣では右営総兵の呉輪が進み出て、
「末将、ひと勝負願います」
と名乗る。
匡胤がこれを許し、呉輪は陣を出て王豹と名を通じ、すぐに斬り結んだ。
三十余合を戦ったところで、王豹は支えきれず、後ろへ退いて逃げる。
呉輪が馬を駆って追いかけると、王豹は腰の銅鈴を取り、激しく振った。
すると陣の後ろから大犬が跳び出し、呉輪に噛みついて一気に引きずり落とした。
王豹はすかさず棍を振り下ろし、呉輪を打ち殺して首級を取り、犬を引っ込めて再び挑戦に出た。
探子がこれを陣中に報告すると、匡胤は驚いて言った。
「どうしてあっさり討たれたのだ」
探子は答える。
「敵は鉄棍を使う歩将で、呉総兵が追ったところ、悪犬を放って噛み落とし、打ち殺しました」
匡胤は激怒し、
「誰が行ってあやつを捕らえるのだ」
と問うた。
鄭恩がすぐに応じて言った。
「小弟、不才ながら一戦願い出ます。王豹を討ち取り、呉輪の仇を報じましょう」
匡胤は言った。
「三弟、くれぐれも用心せよ」
鄭恩は笑って答える。
「孟家荘では鹿の妖怪さえ斬った。今日は兵も将も揃っている。一匹の犬など恐れるものか」
そう言って陣を出ると、家将に言い含めた。
「犬の怪物が出たら、皆で一斉にかかり、乱刀で斬り殺せ」
家将は命に従った。
鄭恩は陣前に進み、大声で罵る。
「賊将め、よくも我が大将を討ったな。さっさと出てきて罪を認め、死を受けよ。そうすれば命だけは助けてやる」
王豹は怒り、鉄棍を振り上げて打ちかかる。
鄭恩は刀で受け止め、激しく斬り結んだ。
二十余合を戦ったところで、王豹は力尽き、背を向けて逃げる。
鄭恩は深追いをしてしまう。
王豹は再び銅鈴を振った。
すると例の大犬が陣後から飛び出し、鄭恩に噛みつこうとする。
鄭恩は
「しまった」
と叫び、急いで刀を振るうが、犬はすでに跳びかかり、右腕に深く噛みついた。
鄭恩は叫ぶ。
「家将ども、早く来い」
しかし追撃が深く、家将たちはすぐには追いつけない。
王豹は犬が噛みついたのを見るや、鉄棍を高く振り上げ、鄭恩の頭上へ打ち下ろした。
鄭恩は受けきれず、とっさに頭を下げる。
その瞬間、轟音とともに頭頂から黒光が立ち上り、黒虎が現れて牙をむき、鉄棍を掴み取った。
王豹はこれを見て肝を潰し、振り返って逃げ出す。
大犬も黒虎を見て、恐怖のあまり失禁し、地面に転げ落ちた。
ちょうど家将たちが駆けつけ、一斉に槍刀を浴びせ、犬を肉泥にした。
鄭恩は正気に戻り、犬が死んだのを見て、さらに王豹が門旗の下で呆然としているのを目にする。
怒りに燃え、腕の痛みも顧みず、馬を駆って追撃した。
王豹はやむなく応戦するが、数合も持たずに大敗して逃げる。
鄭恩は騎馬で追い、関前に至るころ、徒歩の王豹は追いつかれ、力任せの一刀で真っ二つにされた。
まさに、
安邦定国の志は空しく
人も獣も、ここに共に滅ぶ。
鄭恩は王豹を斬り、兵を率いて関を奪った。
副将たちは主将の死を知ると、皆関を開いて降伏し、周軍は寿塘関に駐屯した。
匡胤は鄭恩が寿塘を取ったと聞き、大いに喜んだ。
一方で天子に報告し、また自ら兵を率いて関に入る。
降兵は一万を数え、鎧や武器も数えきれぬほどであった。
その日、布告を出して民を安んじ、府庫を点検し、汝南王の功を奏上する。
また軍士に命じ、呉総兵の遺体を手厚く葬らせた。
馬を五日養い、六日目に軍を整え、匡胤は将を残して関を守らせ、自ら大軍を率いて鳳祥関へ向かった。
さて、鳳祥関の守将は花槍将軍の劉猛という。
この日、公堂で政務を執っていると、巡城の将校が報告した。
「城外に数百の敗兵が逃げ込んできて、助けを求めています」
劉猛は問う。
「どこから来た」
将校は答えた。
「寿州から逃れてきたと言っております」
劉猛は言った。
「ならば入れてやり、隊伍に編入せよ」
守備に命じて調べさせ、編成を整えさせる。
さらに兵を配して厳重に城を守らせた。
一方、匡胤の軍は鳳祥関から十里の地に陣を張った。
諸将の拝謁が終わると、匡胤は問う。
「誰か兵を率いて、この関を取る者はいないか」
正印先鋒の高懐亮が進み出て言った。
「小将、南唐に来てからまだ一つの功も立てておりません。願わくばこの関を取らせてください」
匡胤は言った。
「将軍が行くなら、この関は必ず落ちよう」
懐亮は別れを告げ、馬に乗って兵を率い、関前で挑戦した。
早馬が城に報せ、劉猛は兵を整えて出陣する。
両軍は名を名乗らず、馬を交えて戦った。
三十余合ののち、懐亮は密かに挟み槍を繰り出し、
「くらえ」
と叫んで突く。
槍は劉猛の肩に命中し、劉猛は馬から落ちた。
懐亮はさらに一槍を加え、とどめを刺す。
そのまま兵を振るって突撃すると、南唐軍は大敗し、四散して逃げ、周軍は勢いに乗って鳳祥関を奪った。
懐亮は関に入り、布告を出して民を安んじ、軍を賞し、庫を点検し、勝利を元帥に報告した。
匡胤はこれを聞いて世宗に奏し、その後大軍を率いて鳳祥に入る。
懐亮が拝謁すると、匡胤は大いに喜び、
「将軍がこの関を落とした功は小さくない」
と言って功簿に記した。
このとき関に兵を留め、進軍の準備を待っていたが、軍政司が進み出て言った。
「軍中は兵が多く、糧が少ない。どのように支給すべきでしょうか」
匡胤は深く憂い、表を奉って世宗に奏聞した。
世宗は君臣と協議したが、すぐには策が出ない。
すると楊子禄という臣が進み出て奏した。
「この地に銅仏寺があり、丈六の金身三尊がございます。これを一時借り受け、鋳局を開いて銭を鋳造し、軍士に配って用いさせてはどうでしょう。南唐を平定したのち、改めて仏像を鋳直せば、急場しのぎの策となりましょう」
世宗はこれに従った。
しかし別の臣が奏する。
「不可です。仏像を壊して銭を鋳れば、罪を招き、国家のためになりません」
世宗は言った。
「いや。仏祖は説法の折、肉を割いて鷹に与え、身を捨てて虎に施したと聞く。銅像は観瞻(見た目)の具にすぎぬではないか」
こうして詔を伝え、工匠を召して鋳局を開き、銀と併用して新銭を流通させた。
補足。
有名な「三武一宗の法難」にオマージュされた挿話という感じでしょうか。この物語では語られなかった、「廃仏令」によって寺社保有の銅仏などが、当時不足していた銅銭、「周通元宝」として生まれ変わり、後周朝の強力な財源となったわけですが、そのとき廷臣から「仏像を潰して銭にするなどと」と批判を受けた柴栄は、「仏は自らの身を供して衆を救うと聞く。ましてこれは単なる像ではないか。もし朕の身で民を救えるなら惜しみはしない」と、論破旋風で黙らせました。
ある逸話では、それでも仏像を破壊することに躊躇う諸臣に業を煮やし、鎮州の大悲銅像の胸元に自ら斧を振るったため、のちに胸を病んで報いを受けたといわれています。
ところが、この銭には周朝の年号があり、南唐では通用しなかった。
しかも周軍は銀を隠し、新銭だけを使ったため、南唐の百姓は周軍が去った後、この銭をどこで使えばよいのかと不安に陥った。
一時、民間に負担が広がり、不平の声が各地に起こった。
そのころ、王徳盛という者がいた。
布店を営んで生計を立てていた男である。
この日、周軍が布を買いに来たが、新たに鋳た銭を無理やり通用させ、布だけを取って去ってしまった。
王徳盛は怒りに堪えきれず、刃物を懐に忍ばせ、鋳銭の場へと向かい、物陰に身を潜めて刺殺の機会をうかがった。
趙匡胤は中央に端坐し、左右に文武の官が立ち並び、ちょうど銭を分配している最中であった。
王徳盛が脇から忍び寄ろうとしたのを、匡胤が見とがめ、
「家将ども、この者の様子は怪しい。捕らえよ」
と一喝した。
左右から家将が駆け出し、王徳盛を取り押さえる。
身体を改めると利刃が出てきたため、縛り上げて引き出し、
「この者は奸細(スパイ)にございます。利刃を隠し持っておりました。ご裁断を」
と申し上げた。
匡胤は王徳盛の顔に殺気があるのを見、しかも跪こうともしないため、厳しく問いただした。
「何者の差し金だ。刃を忍ばせ、誰を刺すつもりだった」
王徳盛は大声で叫んだ。
「昏君に昏臣め。上は明らかでなく、下の苦しみを知らぬ。
お前たちは天下を取ることばかりで、百姓の生死を顧みぬ。
古人も言った、民こそ国の本だと。
お前たちに銭や糧がないのは、百姓に何の罪がある。
銅仏を壊して銭を鋳て使わせているが、後にお前たちが去ったら、この銭はどこで使えるのだ。
兵を放って品を強買いし、この銭を押し付けるばかりで、我らの元手は滞り、生きていけぬ。
だからこそ、ここへ来てお前を殺そうとした。
捕らえられたのは我が運命。どう処分するなり、勝手にしろ、犬王め」
匡胤はこれを聞いて激怒した。
「この死に損ないの刁民(卑劣漢)め。
これは天子の詔であり、銭には国号が刻まれている。なぜ使えぬと言う。
南唐を平らげれば、回収の法もある。
それを逆恨みして刺客となるとは、理も法も通らぬ。
お前を斬らねば、この銭はどうして通用しようか」
そして左右に命じ、鋳場の門外へ引き出して斬首し、号令として示し、百姓を鎮めさせた。
同時に世宗へ奏上して鋳造を停止させ、将を派遣して鳳祥関を鎮守させたのち、兵を進めて徐州(舒州?)を攻めることにした。
徐州の守将は丹托といい、丹令公と称されていた。
二人の子、丹鑾と丹鳳がおり、配下の将もいずれも勇猛無敵で、兵三万を率いてこの地を守っていた。
この日、丹托は二子と周軍来攻について相談していると、探子が駆け込んできた。
「前関の王豹、劉猛はいずれも戦死し、関も失われました。さらに兵が来て、徐州を取ろうとしております」
丹托は二子に向かって言った。
「趙匡胤を大将とし、高懐亮を先鋒とする周軍は、将兵すべて強敵と聞く。
今度の攻勢は鋭く、我が兵では敵うまい。何か策はないか」
参軍の陶栄が進み出て言った。
「一計がございます。
吊り橋を可動式にし、水中に鉄杭を打ち、城上に弓弩兵を伏せます。
戦って敵を橋へ誘い込めば、徒歩なら渡れても、騎馬なら勢い余って人馬もろとも水に落ちましょう。
そのとき鉄杭が体を貫き、矢が突き刺さります。
いかなる英雄といえど、逃れられませぬ」
丹托はこれを聞いて大喜びし、妙計だと称えた。
そこへ、周軍がすでに到着したとの報が入る。
丹托はただちに兵を関に配して厳守させ、灰瓶や炮石を多く備え、攻城に備えた。
一方、趙匡胤は徐州に兵を進め、陣を敷いて帳を上げた。
諸将の拝謁が終わると、
「誰が行って関を取るか」
と問う。
先鋒の高懐亮が進み出て、
「小将が参ります」
と願い出た。
匡胤がこれを許すと、懐亮は馬に乗り槍を携え、兵を率いて進んだ。
途中で丹托の兵と遭遇し、両軍は陣を整える。
唐軍の陣から丹鑾が馬を進めた。
懐亮は喝して言う。
「賊将、名を名乗れ」
丹鑾は答えた。
「俺は大唐皇帝の下、丹令公の子、丹鑾である。
お前こそ何者だ、よくも侵してきたな」
懐亮は言い返す。
「我は周天子の御前、趙元帥配下の正印先鋒、高懐亮である。
無名の小僧は引っ込め。丹托を呼び出せ」
丹鑾は激怒し、刀を振り上げて斬りかかる。
懐亮は槍で受け止め、両将は力を尽くして二十余合を戦った。
丹鑾は心中で、
「噂どおりの強さだ」
と悟り、支えきれずに馬首を返した。
懐亮は大喝し、
「賊め、どこへ逃げる」
と追い、槍を突き出して丹鑾の左脇を貫いた。
丹鑾は馬から落ちる。
これを見た丹鳳が怒り、馬を駆って前に出て罵った。
「よくも兄を討ったな。決して許さぬ」
撾を振るって打ちかかるが、懐亮は槍で受け流し、丹鳳は馬上で大きくよろめいた。
再び打ち合い、十合も経たぬうちに、懐亮は鞭を取り、撾を弾いて肩に打ち下ろし、丹鳳を馬下に落とした。
かくして丹托の二子は、ともに高懐亮の手に倒れた。
まさに、
将軍の胆力、敵なく
名は天下に轟き、戦士は震え上がる。
懐亮は首級を取り、鼓を打たせて陣に戻り、匡胤に戦功を報告した。
さて、南唐の敗兵が丹托に報告すると、丹托は声を上げて泣いた。
「まさに仇を討たんとしていたのに、思いもよらず二人の息子が先に高懐亮に討たれるとは。この恨み、どうして晴らせようか」
兵に命じて遺骸を収めさせる一方、急ぎ人を金陵へ遣わして救援を求め、同時に策をそのまま用いるべく、夜を徹して準備を整えた。
翌日、丹托は兵を率いて城を出、名指しで高懐亮に出陣を求めた。
探子の報せを受け、懐亮は匡胤に面会して言った。
「丹托のこの無礼、断じて許せませぬ。必ず討ち取り、この関を奪ってみせます」
匡胤は諭した。
「将軍、みだりに自ら出てはならぬ。策があるやもしれぬ。十分に警戒せよ」
しかし懐亮は聞き入れず、兵を率いて出陣する。
両軍はそれぞれ陣を敷き、懐亮は先頭に立って大喝した。
「丹托老賊、さっさと出てきて死を受けよ」
丹托は仇を目前にし、怒りに胸を満たして罵った。
「おのれが高行周の子、高懐亮か。よくも我が二子を殺したな。今日はこの手で貴様を討ち、子の仇を報いる」
そう言って馬を駆り、刀を振るって斬りかかる。
懐亮は槍を構えて迎え撃った。
数合も交えぬうちに、丹托は虚勢の一刀を振り、馬首を返して逃げる。
懐亮は心中で思った。
「二子はすでに討たれ、関にはもはや人がいない。今こそ関を奪わずして、いつ攻めるというのだ」
そう考え、馬を飛ばして追撃した。
丹家の敗兵は左右へ川沿いに散り、丹托は脇の小さな木橋を渡る。
橋守の兵は合図とともに橋を引き上げた。
高懐亮は吊り橋のたもとに至り、内心でほくそ笑み、深く考えることなく橋へ突っ込んだ。
ところが人も馬も強健で、槍鎧は重く、橋は朽ち木であらかじめ仕掛けが施されていた。
橋の中央に差しかかった瞬間、轟音とともに橋が落ち、人馬もろとも河中へ転落する。
下には鉄杭、上からは乱れ飛ぶ矢。
あわれ、天下無双の英雄も、ついに徐州の河底で命を落とした。
後続の家将や兵が駆けつけたとき、主将が策に落ちたのを見て、助けることもできず、声を上げて泣き、やむなく陣へ引き返して匡胤に報告した。
匡胤は大いに驚き、思わず涙を落とした。
諸将もこれを聞いて皆悲嘆し、そろって申し出た。
「我ら皆で城を攻め、丹托を捕らえ、懐亮の仇を討たせてください」
匡胤はこれを許した。
翌日、鄭恩ら諸将が兵を率いて関下に至り、罵声を浴びせつつ包囲した。
丹托は城上から周将の激しさを見て、打って出る勇気もなく、ただ守りを固めるばかりであった。
匡胤は怒り、自ら兵を督して力を尽くし、連日攻め立てたが、なおも落ちない。
丹托は諸将と相談して言った。
「周将はこれほど勇猛で、攻勢も激しい。この関は兵少なく、いずれ守りきれぬ。いっそ捨てて退き、後日の策を図るべきではないか」
諸将は同意し、急ぎ出立することを決めた。
その夜、密かに城を開き、斬り抜けて去っていった。
周軍は追いつけず、それぞれ引き返した。
城中の百姓は主を失い、香や花を設えて関門を開き、周軍を迎えた。
匡胤は諸将を率いて入城し、布告を出して民を安んじた。
また人を遣わし、高懐亮の遺体を捜し集め、棺に納め、帰還の際に持ち帰ることとした。
続いて府庫を点検し、馬を休ませて兵を留め、南唐の動静を探らせた。
一方、唐主は揚州、滁州などが相次いで失われたと聞き、驚き慌てて策を失い、急ぎ群臣を集めて協議した。
御史の陳景が進み出て言った。
「先に和を議す使者を遣わしましたが、周主は応じず、そのため国境は日に日に狭まっております。今や事態は危急、戦っても利はありません。改めて使者を遣わし、言を低くして和を請えば、兵端も止みましょう」
唐主はこれを聞き、急ぎ翰林学士の鍾謨と大理寺卿の李徳明の二人に表文を持たせ、金宝や茶葉、器物を添えて滁州へ赴かせ、世宗に通告させた。
世宗は、鍾・李の二人が弁舌に長けた者と知り、甲兵を並べ、左右に猛将を侍らせてから召し入れた。
二人は帳中に入り、地に伏して拝した。
世宗は言った。
「汝らの主は唐室の末裔を自称するなら、礼義を知り、他国とは違う振る舞いをすべきである。
しかるに小が大に仕える道を尽くさず、海を越えて契丹と結び、天朝に抗した。
汝らの口先で、どうして朕を惑わせられようか。
朕はいま金陵へ赴き、府庫を借りて軍士に賞を与えようとしている。そのとき、汝らの君臣は後悔せずにいられるか」
二人は一言も答えられず、恐れ入って退いた。
世宗はみずから大軍を率いて進軍した。
時は深秋、落葉は舞い、雁は列をなして飛び、行く旗はきらめき、陣雲は高くたなびく。
車駕が淝橋(淝水にかけた浮橋。所在は寿州)に至ると、世宗は馬上で石を一つ取り、軍中の者にもそれぞれ石を取らせた。
その勢いは測り知れない。
大軍は寿春城下に到着し、攻城の命が下る。
城上からは矢や石が雨のように降り注いだ。
部将の張瓊がこれを見て叫んだ。
「主上、どうかお避けください。城上の強弩は危険です」
そう言い終えぬうちに、不意に矢が放たれ、張瓊の背に命中した。
ここに一段の因縁あり。
敵国に身を投じ、再び戦場で命を尽くすのか。
王師は旗を返し、将士の大計を改めて図るのか。
まさに、
恐れて馬が色を変えたのではない。
ただ兵の力が、すでに尽きかけていたのだ。
張瓊の命運いかに。
それは、次回に明かされる。
独語。
張瓊が静かに登場した回でした。
一体何者か? 実は鄭恩のモデルとなった実在の人物なんじゃないのかなぁと言われています。
ここでは柴栄をかばって矢を受けていますが、《宋史》張瓊伝によると趙匡胤をかばってケガをしていますね。
寿春とは寿州の治所がある県ですが、地名など錯綜しているようで、最初の方に陥落した寿州とは別のなにかだったのでしょう。たぶん。
