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第五十六回 楊仙人土遁救主 文長老金鐃傷人

第五十六回 楊仙人、土遁もて主を救い、文長老、金鐃きんどうもて人をやぶる。

 詩に曰く:

 雲は皇代を記し、
 星は太白の年に高く輝く。
 廟堂では上策が問われ、
 幕府では中権が制せられる。
 軍勢は三略を手にし、
 兵戎は九天より下るがごとし。
 朝に鉞を授かって出陣し、
 時に戈を偃して凱旋する。

 ――右、高適こうせき幕府詩ばくふし」。

 さて、趙匡胤ら一行は、擂台らいだいで教師の李豹を打ち殺したため、南唐の元帥・劉仁贍りゅうじんせんに兵を発せられ、追われる身となって馬を飛ばして逃げた。
 道中に顕真観けんしんかんがあり、ひとまず身を隠して休んだところ、先に家将たちが観中に入っており、さらに道長どうちょうとも出会った。
 話をしているうちに、外では追兵がすでに到着していた。
 兵は多く、こちらは少数であるため、諸侯はいささか色を失った。

 すると道長が言った。
「皆さま、驚くには及びません。取るに足らぬ兵卒です。貧道が退けてみせましょう。」

 そう言うと宝剣を取り、ゆっくりと歩み出た。
 山門の外では、多くの兵将が指差し合い、踏み込んで人を捕らえようとしている。
 道長は声をかけた。
「そなたたちが我が観の門を囲むのは、いかなる理由か。」

 副将四人が進み出て答えた。
「道人よ、知らぬとは言わせぬ。本日、馬商に化けた凶徒どもが擂台で李豹と比武し、これを打ち殺した。さらに奉差将軍ほうさしょうぐんの李虎まで殺したのだ。この罪、逃れられるはずがない。
 我らは元帥の命を受け、追ってきた。今すぐ引き渡せば、観には害を及ぼさぬ。」

 道長は言った。
「なるほど。しかし我が観には馬商など入っていない。思い違いであろう。他を当たるがよい。」

 副将は怒鳴った。
「賊道人め。凶徒がいないというなら、この馬の数はどこから来た。言い逃れするとは、同党ではないか。」

 道長は笑って言った。
「仮に同党だとしたら、どうする。」

 副将は激怒した。
「不届きな道士め。凶徒をかくまい、出しゃばるとは許さぬ。今すぐ捕らえ、まとめて裁く。」

 そう叫んで兵器を振りかざし、正面から斬りかかった。
 道長は宝剣を手に迎え撃ち、たちまち斬り合いとなった。
 数合も交えぬうち、道長は身を翻して退いた。
 四将はこれを追う。

 その時、道長は口に真言を唱え、手にした剣を投げ放った。
すると一瞬にして、それは一筋の蟒龍ぼうりゅうと化し、牙をむき爪を振るい、口から烈火を吐いて官兵に襲いかかった。
 兵たちは四散して逃げ、足の速い者は命拾いしたが、遅れた者は頭を焦がされ、身を焼かれた。

 殿内に伏していた諸侯は、官兵が敗走するのを見るや声を上げ、一斉に山門を飛び出した。
 落ちている槍や刀を拾い、前へ斬り込んで、官兵をことごとく討ち果たした。
 副将四人も、すべて黄泉の官となった。

 その後、一行は山門へ戻り、静室に入って腰を下ろした。
 諸侯は口々に礼を述べた。
「師父の法力により命を救われました。感謝に堪えません。どうか法号とお名前をお聞かせください。」

 道人は答えた。
「貧道は楊天真ようてんしんと申す。幼くして出家し、この観に三十余年おります。師も弟子もなく、独り身です。世の不平を見過ごせず、つい人のために動くので、世と相容れず、疎まれてきました。」

 諸侯は言った。
「その徳行は人に求めるものではありません。寡と合せぬからこそ高妙なのです。ただ、我らは救われた身とはいえ、敗兵が戻って再び来れば、師父に累が及ぶのが心配です。」

 楊天真は言った。
「心配は無用です。兵が来れば、貧道は自ら身を全うできます。皆さまがお帰りになるなら、江を渡らねばなりません。貧道が送りましょう。」

「渡江」という言葉を聞き、諸侯は内心で驚いた。
 名も告げていないのに、行き先を見抜かれたからである。
 そこで鄭恩が言った。
「我らは大遼の官商です。なぜ渡江などと。」

 楊天真は大笑いして言った。
王爺おうや、隠すには及びません。貧道が来歴を知らずして、家将をここに留め、飯を備えさせるはずがありましょうか。信じぬなら、試しに申してみましょう。」

 そう言って、諸侯の姓名を一人残らず言い当てた。
 皆は驚嘆し、深く敬服した。

 やがて諸侯は家将に命じ、馬を整え、荷をまとめさせた。
 楊天真も室に入って什物を包み、一同で渡江の支度を整えた。

 ところがその頃、逃げ延びた敗兵が城へ戻り、帥府で劉仁贍に報告していた。
「元帥、李将軍と四人の副将は、汴京から来た馬商の仲間に討たれました。顕真院の道士が助け、法術で将を殺し兵を焼きました。まことに恐るべき者です。」

 劉仁贍はこれを聞いて激怒し、大将の王能おうのう趙叔ちょうしゅくに命じ、兵三千を率いてただちに顕真院へ向かわせ、汴京の奸細かんさい(スパイ)である馬商どもを捕らえよと厳命した。
 両将は命を受け、兵を飛ばして顕真院を包囲した。

 その時、諸侯と楊天真は支度を終え、門を出ようとしていたが、前方で大きな喊声が上がり、包囲を悟った。
 一同は突き破って出ようと相談したが、楊天真は言った。
「ならぬ。夜の突囲は利が薄い。貧道に脱身の法があります。」

 そう言って包みから符印を十数枚取り出し、諸侯と家将の額に貼りつけた。
 楊天真が真言を唱え、
「疾走。」
と喝すると、一同は手ぶらのまま、ふわりと身が浮き、土遁どとんの術に乗って前方へ消え去った。

 まさにこうである。
 天命により王を興す客でなければ、
 どうして高人が災いを解くことがあろうか。

 外では兵たちが長く呼び立てていたが、いくら待っても中から人影は現れない。
 不審に思った兵たちは一斉に押し入り、松明をかざして四方を捜索したが、人の姿はなく、ただ馬と包みだけが残されていた。
 王能・趙叔の両将も手の打ちようがなく、やむなく軍士に命じて馬を引かせ、包みを携え、帥府へ戻って復命した。
 劉仁贍は、馬を捨てて逃げた以上、追跡は困難と見て、密かに探索させるとともに、警戒を強めることにした。
 この件はひとまず措く。

 さて、諸侯たちは楊天真の道法によって目を閉じたまま遁走した。
 耳にはただ風雨の音だけが響き、ほどなくして、ふと足が確かな地を踏んだ。
 楊天真が言った。
「目を開けなさい。」
 符印を外され、皆が見渡すと、そこはすでに汴梁の地であった。
 一同は驚嘆し、心中で不思議な思いに打たれた。

 楊天真は言った。
「貧道は、ここまでお送りしました。これでお別れです。」
 諸侯は言った。
「師父、どうしてそのようなことを。命を救っていただいた恩に、報いるすべもありません。
 明日、主上に奏上し、我らが交代でお仕えして、わずかでも大徳に報いたいと思うのですが、なぜお別れを。」

 楊天真は答えた。
「貧道は名利を求めて動いたのではありません。皆さまに厄があったので、少しばかり術を用い、虎口を脱したまでのこと。報いなど不要です。
 今は無事に戻られた。それで貧道の心は足りました。ここで去るのが道理です。」

 皆が懸命に引き留めたが、楊天真は固く辞し、
「また会う時がありましょう。」
と一言残すと、清らかな風となって姿を消した。

 諸侯は虚空に向かって拝謝し、それぞれの府邸へ帰った。

 翌日、朝廷に出仕し、山呼拝舞さんこはいぶ(声を上げて拝礼する作法)が行われた。
 世宗は趙匡胤を殿上に召し、座を賜って問うた。

「金陵を探ったが、情勢はいかがであったか。」

 匡胤は、馬商に身をやつして金陵に入ったことから、楊天真の土遁によって救われ帰還したことまで、前後の事情を余すところなく奏上した。

 世宗は聞き終えると、驚きと喜びを同時に覚えた。
 諸侯が幾度も危地に陥り、朝廷が棟梁の材を失いかねなかったことに驚き、また凶を転じて吉とし、仙人に救われて無事に戻ったことを喜んだのである。

 世宗は問うた。
「御弟の考えでは、いつ兵を起こすべきか。」

 匡胤は答えた。
「南唐は地が広く民は富みますが、城邑じょうゆうの備えは手薄で、攻め取るに足る形勢です。今は秋高く馬も肥え、まさに出兵の好機。陛下のご裁断を仰ぎます。」

 世宗はこれを聞いて喜び、直ちに従うことにした。

 そして詔書を下した。

 ――愚かなる淮甸わいでんの地、あえて大邦に抗し、一方を盗み取って僭称帝号を名乗る。
 晋・漢の代、天下はいまだ安からず、しかるに叛亡を招き、凶逆を助けた。
 かつて李金全りきんぜん安陸あんりくに拠り、李守貞りしゅていが河中に叛し、兵を大いに起こして応援と称し、閩越びんえつを侵し、生民を塗炭に陥れた。
 慕容彦超ぼようげんちょうを迎え、徐部(徐州)を侵し沐陽もくようの役の是非は明らかである。
 契丹を引き入れて辺患とし、西蜀と結んだのは、まさに世の仇敵。
 その罪は数え切れず、人神ともに憤るところである。

 詔が下り、御駕ぎょがは親征となった。
 同時に、王景おうけい向訓しょうくんに命じ、蜀攻略の策を引き続き進めさせた。
 即日、趙匡胤を元帥、高懐亮を先鋒、李穀りこくを左右救応使、韓令坤かんれいこんを糧運督として任じ、李重進ら十二人を随軍させた。
 大軍二十万を点検し、日を選んで出立することとなった。

補足。
 ついに征淮南の詔が下されたのですが、並べられた南唐の罪が、ことごとくこの物語では語られていないので不詳千万。
・安州の李金全が進退窮まって南唐への亡命を図ったときその援護をしたこと。
・河中で李守貞が挙兵したとき呼応して領界へ攻め寄せたこと。
・閩国の内乱につけこんで華北王朝の味方である呉越国と事を構えたこと。
・慕容彦超の反乱のとき、呼応して徐州を伺ったこと。
 などが実際にはあったのでした。

 さらに補足として、この柴栄が起こした征淮南では、宰相・李穀が第一陣の統帥として、武官を指揮下に置いての出陣でした。先鋒は韓令坤(趙匡胤以下主要メンバーは皇帝に密接した懐刀なので、第一陣ではまだ出陣していない)。
 これは宋代によって完成される、文人による軍部統制を目論んだ最初の一手といえます。しかし文人なので、いきなりはうまくはいかず、皇帝来臨まででした。

 匡胤は軍令を下し、李穀・李重進に兵を率いさせ、まず滁州じょしゅう揚州ようしゅう泰州たいしゅうを攻めて敵勢を分断させ、自らは大軍を率いて南界牌関なんかいはいかんから進むことにした。
 配置が定まり、諸将はそれぞれ軍を整えて先行した。

 その後、世宗は范質はんしつ王朴おうぼくに国政を委ね、高懐徳を留めて監軍とし、城を守らせた。
 期日を定め、車駕は汴梁を発ち、先鋒軍に続いて進軍した。

 見れば、征雲は重く垂れ、殺気は濃く立ちこめ、
 戈戟かげきは林のごとく、旌旗は霧のようであった。

 詩にいう。

 征旗は南を指し、北軍は進む。
 戦鼓はしきりに鳴り、地雷を震わせる。
 この行きに鷹揚の大功を成し、
 必ずや凱歌をもって帰還せん。

 大軍は滞りなく進み、ほどなく南界関に到着した。
 関主の総兵官・董清とうせい行宮こうきゅう(仮宮殿)を整え、出迎えた。
 君臣は関に入り、そこに駐した。

 早くも哨馬が南唐に急報を入れた。
 唐主は大いに驚き、群臣を集めて防戦の策を議したが、文武ともに言葉を失った。
 ただ元帥の劉仁贍だけが落ち着いて進み出て奏した。

「主上、驚かれるには及びません。水が来れば土で塞ぎ、兵が来れば将が防ぐ。かつて西蜀を救って覇を成そうとされた折、機密が漏れ、周軍に先んじられました。
 今ここで慌てれば、かえって蜀人に笑われましょう。今の策は、六軍りくぐんを大いに興し、周軍を迎え撃つことです。勝敗は、まだ分かりませぬ。」

 唐主はこれを聞き、劉彦真りゅうげんしん統軍節度使とうぐんせつどし、劉仁贍を清淮節度使しんわいせつどしとして任じ、兵五万を率い、淮州わいしゅう揚州ようしゅうで周軍を迎え撃たせた。
 さらに国師の文修和尚ぶんしゅうわしょうに兵五万を預け、清流関せいりゅうかんへ救援に向かわせた。
 劉彦真は兵を率いて鳳陽・淮西に至り、淮河に数百艘の戦船を並べ、周の浮橋を攻める構えを見せ、軍勢は大いに振るった。

 一方、周軍前軍の李穀は、寿州を攻めきれず、唐軍が淮西に到着して戦船を並べたと聞き、諸将と協議した。

「我が軍は水戦に不慣れだ。もし浮橋を断たれれば、前後から挟まれ、生きる道はない。いったん浮橋を守り、聖駕の到着を待ってから進むべきではないか。」

 意見は分かれ、攻勢を主張する者もいれば、退守を唱える者もいた。
 李穀は決しきれず、奏状を世宗に送りつつ、兵を動かして浮橋へ退いた。

 世宗は奏状を受け、急使を送り、李穀に退兵するなと命じた。
 さらに李重進に兵を率いて淮上へ急行し、唐軍と交戦せよと命じたが、重進は糧草が整わず、前進できなかった。

 李穀はこれを知り、再び奏した。
「南唐の戦船は連日淮に進み、水勢も増しております。糧草が未集のまま進めば大事に至りかねません。陛下には陳州に駐輦ちゅうれんされ、李重進の到着を待ち、臣とともに渡淮して敵船を探り、浮橋を守るべきです。
 軽進はなりません。兵を休め、秋から冬へと時を移し、敵を疲弊させてから、一挙に討ち取るのが上策です。」

 世宗はこれを聞き、匡胤に言った。
「李穀の策にも理はある。」

 匡胤は答えた。
「遅すぎます。両軍が向かい合った今、形勢は騎虎の勢。待つべきではありません。陛下は温旨をもって答え、李穀と李重進を合流させて迎撃させれば、必ず全勝します。」

 世宗はこれを認め、詔を下した。

 さて、唐将の劉彦真は、李穀が浮橋に退いたと聞き、大いに喜び、正陽せいようへ進もうとした。
 これを劉仁贍と池州刺史ちしゅうしし張全約ちょうぜんやくが止めた。

「我が軍が未到のうちに、敵が先に退いたのは、あなたの威を恐れたからです。無理に戦う必要はありません。万一の失敗があれば、後悔しても及びません。」

 劉彦真は聞き入れず、自ら兵を率いて進んだ。

 劉仁贍は張全約に言った。
「劉公は我らの言を聞かぬ。この出陣は必ず敗れる。われらは城に拠って備えれば、失うところはない。」
 張全約はこれに従い、兵を率いて淮沿いに守りを固めた。

 このとき李重進は詔を受け、兵を率いて淮を渡り、唐軍と戦った。
 劉彦真の軍は安慶あんけいに布陣し、陣営は十数里に及んだ。
 李重進は高所からこれを望み、諸将に言った。

「これほどの兵、破るはたやすい。」

 そして部将の曹英そうえいに三千を授け、上流から進んで不意を突き、一挙に撃つよう命じた。
 曹英は命を受け、兵を率いて出陣した。

 翌日、李重進は陣を整えて敵を待った。
 劉彦真は槍を提げ、馬を駆って前に出ると、重進を指さして罵った。

「無知な若造め。おとなしく兵を退けば命は助けてやる。さもなくば、たちどころに首を失うぞ。」

 重進は激怒し、刀を振るって彦真に斬りかかった。
 彦真が応戦しようとしたその時、背後から一人の大将が躍り出た。
 名を張万ちょうまんといい、大声で叫んだ。

「主将はお手を出されますな。この賊は小将が生け捕ってみせましょう。」

 雷鳴のような鬨の声とともに、大斧を振りかざして突進する。
 両軍は一斉に叫び、戦鼓は鳴り響いた。
 二将は刀と斧を交え、五十合余り戦ったが、勝敗はつかなかった。

 そこで重進はわざと敗走するふりをし、張万は後を追った。
 距離が詰まったところで、重進は刀を収め、弓を引き絞って背後から一矢を放った。
 張万は不意を突かれ、避けきれず、矢を受けて落馬した。
 勇将一人、あえなく命を落としたのである。

 詩に李重進をたたえていう。

 柳を射ては枝を貫き、技はまことに妙。
 敵将も当時、これを支えきれず。
 陣に臨めば山河は暗く、
 将を斬って帰れば、日はすでに低かった。

 劉彦真は張万を失い、怒りに燃えて槍を構え、重進に挑みかかった。
 重進も馬を返して迎え撃つ。
 両将はまさに好敵手、百合余り戦っても勝負は決しない。

 そのとき一声の砲声がとどろき、曹英が三千の精兵を率いて上流から殺到した。
 彦真は勝ち目なしと見て馬首を巡らせて逃走する。
 曹英は勢いに乗じて追撃し、唐軍は大敗した。

 彦真が数里も逃げたところ、山陰から旗幡がひるがえり、金鼓が鳴り響いた。
 一隊の軍勢が進路を塞ぎ、先頭に立つのは李穀配下の歩将・王成おうせいであった。
 李重進と合流するため進軍してきたところ、敗走する唐軍に遭遇し、道を遮ったのである。

 彦真は進むも退くもできず、王成と死闘に及んだが、三合も経たぬうち、乗馬が力尽き、前脚を滑らせて彦真を地に投げ落とした。
 周軍が一斉に斬りかかり、彦真は乱刀の下に倒れた。

 詩に嘆いていう。

 戦に慣れた英傑も、
 刃が重なり血は逆流す。
 功を焦らねば命を失わず、
 万全を守る策こそ良かったものを。

 李重進は劉彦真討死の報を聞くと、兵を進めて大いに攻め立て、唐軍をほぼ殲滅した。
 輜重や鎧兜の戦利品は数え切れないほどであった。

 劉仁贍は形勢不利と見て、彦真配下の残兵を集め、張全約とともに寿州へ退いた。
 夜を徹して使者を走らせ、唐主に急報する。
 唐主は全軍壊滅と聞き、魂も凍る思いで、急ぎ群臣を召して協議した。

 枢密使の陳景文ちんけいぶんが奏した。
「周軍は勢い盛んで、彦真も新たに討たれました。今戦えば必敗です。主上は大将を清流関に配し、守りを固められるべきでしょう。」

 唐主はこれに従い、皇甫暉こうほき姚鳳ようほうの二将に兵一万を授け、清流関に派遣して国師とともに周軍を防がせた。
 二将は命を受け、ただちに出陣した。

 一方、李重進は鳳陽城を奪取し、捷報を世宗のもとへ送った。
 世宗は大いに喜び、重進を都招討に昇進させ、寿州攻略を命じた。
 重進は勅命を受け、城から五里の地に陣を敷いた。

 翌日、兵を率いて城下に迫り、攻城を開始したが、城上から灰瓶や炮石が雨のように降り注ぎ、兵は多数の死傷者を出した。
 二十日余り攻め続けても城は落ちず、重進は帳中で策を失っていた。

 そこへ元帥の趙匡胤が援軍を率いて到着した。
 重進は城の堅固さと、劉仁贍の守りの巧みさを訴えた。
 匡胤は城を一巡して言った。

「これほど堅く、守りも万全なら、正攻法では難しい。奇策を用いるべきだ。そなたは兵を率いて十五里退き、糧尽きたと見せかけよ。精兵を要路に伏せ、敵が追ってきたところを討ち、我が精兵で挟撃すれば、城は必ず落ちる。」

 重進はこの策に従った。

 翌日、斥候が城に報告した。
「周軍は夜のうちに退きました。理由は不明です。」

 劉仁贍は探りを入れさせ、
「敵は糧を失い退却した。追撃を恐れ、十五里先で陣を張っている。」
との報を得た。

 都監の何延錫かえんせきが進み出て言った。
「周軍の退却は事実です。今こそ追撃すべきです。」

 劉仁贍は慎重に言った。
「周将は詭計に長ける。誘敵ではないか。追うべきではない。」

 だが何延錫は聞き入れず、五千を率いて密かに出関し、周軍に突進した。
 李重進はこれを見ると慌てたふりをして陣を払い、三軍は苦しげに叫び、武器を捨てて逃走した。

 何延錫は大喜びし、
「今日は天が我に勝利を授けた。」
と追撃した。

 五里ほど進んだところで砲声が響き、林中から伏兵が一斉に躍り出た。
 先頭に立つのは曹英である。
「賊将、どこへ逃げる。」
と叫び、刀を振るって斬りかかった。

 何延錫は驚いて迎え撃ったが、五合も経たぬうちに、曹英の一刀に斬り落とされた。
 周軍は勢いに乗じ、唐軍は大敗した。

 匡胤も兵を率いて側面から襲撃し、寿州を攻め落とした。
 劉仁贍は支えきれず、残兵を率いて泰州たいしゅうへ退却した。
 こうして匡胤は寿州を奪取した。

 李重進と曹英は城中で合流し、寿州に世宗を迎えた。
 匡胤は諸将を率いて拝謁し、
「陛下の大いなるご威徳により、寿州を奪取いたしました。」
と奏した。

 世宗は大いに喜び、
「二御弟の功はまことに大きい。」
と称えた。

 匡胤はさらに奏した。
「李重進は淮河を押さえて動くべきではなく、李穀が正陽を守るのも肝要です。臣は兵を督して清流関を攻め、勝利の勢いで滁州を奪えば、南唐はほどなく滅びましょう。」

 世宗は言った。
「その策、まことに良い。」

 匡胤は辞して兵を率い、南界関へ向かった。
 総兵官の董清が迎え、参見する。
 匡胤は問うた。
「南唐の兵が関を犯したことはあるか。」

 董清は答えた。
「清流関の守将である姚鳳と皇甫暉は越境しておりません。ただ同じく守る一僧、文修和尚ぶんしゅうわしょうという者がおり、これが非常に勇猛で、金鐃きんどう(どら)を持ち、幾度も攻めてきました。我らは失策を恐れ、堅守するのみです。
 元帥が早く来られねば、この関は守り切れぬでしょう。」

 匡胤は言った。
「敵が来れば、これまで通り厳重に守れ。明日、我が出兵してこれを破る。」

 翌日、匡胤は帳を上げ、諸将が前に進み出て拝謁した。
 ほどなく斥候が城内に駆け込み、
「外に一人の和尚が出て、挑戦してきております。」
と報告した。

 匡胤は左右の将に問うた。
「誰が出て相手をするか。」

 すると脇から一人の上将が進み出て、
「末将不才ながら、一陣拝命いたします。」
と名乗った。

 匡胤が見れば、御前都尉将軍ごぜんといしょうぐん王壬武おうじんぶである。
 鉄槍王彦章おうげんしょうの孫にあたり、渾鉄こんてつの大槍を巧みに操り、万夫不当の勇を誇る。
 身の丈は一丈、黒い顔に黄色い髭という堂々たる体つきであった。

 匡胤は大いに喜び、
「将軍、くれぐれも油断するな。」
と声をかけた。

 王壬武は
「承知。」
と答え、中軍を出ると身支度を整え、槍を取って馬に乗り、三千の兵を率いて砲を放ち、関外に陣を布いた。

 敵陣を見ると、相対するのは一人の和尚である。

 金糸の毘盧帽びろぼうをかぶり、
 盤龍の黄袈裟をまとい、
 腰には吹毛の戒刀を帯び、
 手には渾鉄の禅杖を持つ。
 足は麻履まり、騎馬は紅駒。
 顔つきは凶相で、坐禅など知る様子もなく、
 行いは荒々しく、ただ戦陣に突進するのみであった。

 その文修和尚が先頭に立ち、大声で叫んだ。
「来る将は何者だ。」

 王壬武は答えた。
「賊坊主、よく聞け。
 俺は大周天子の御前、大元帥南宋王帳下、都尉大将軍の王壬武だ。
お前も名を名乗れ。戦功として記してやる。」

 文修は言った。
「名など問うな。
 拙僧は南唐王のもと、護国禅師・文修である。
 無駄に命を捨てに来たな。仏の道へ送ってやろう。」

 王壬武は激怒し、馬を蹴って突進し、槍を突き出した。
 文修は慌てて禅杖で受け止める。
 二人は三十合余り戦ったが、文修は次第に押され、槍をはじくと馬首を返して逃げ出した。

 王壬武はこれを追う。
 背後で鈴の音が迫るのを聞いた文修は、袋から金鐃きんどうを取り出し、
「仏祖様、今日は法宝をお借りいたします。」
と叫んで空へ投げ上げた。

 金鐃は電光のような紅光を放ち、王壬武の頭上へ燕のごとく斬りかかった。
 王壬武は驚き、かわす間もなく打たれ、馬から転げ落ちて命を落とした。

 まさに、
 壺は井戸端で砕け、
 将軍は陣前で命を落とす。

 敗兵が関内に逃げ帰り、匡胤に報告した。
 匡胤は激怒し、
「誰か、王壬武の仇を討つ者はおらぬか。」
と叫んだ。

 しかし諸将は金鐃の威力を恐れ、誰も名乗り出ない。
 匡胤は怒りに任せて、
「馬を出せ。」
と命じ、自ら鎧を着け、刀を取って馬に乗り、諸将を率いて関外へ出た。

 文修はなおも挑戦していたが、関内から威風堂々たる一将が現れるのを見て、心中でただ者ではないと感じ、
「来たのは南宋王ではないか。」
と問うた。

 匡胤は答えた。
「我が名を知りながら、なお悪に与し、我が愛将を討ったか。
その罪、断じて許さぬ。今ここで斬る。後悔するな。」

 文修は怒り、馬を駆って禅杖を振り下ろす。
 匡胤は刀を振るって迎え撃った。
 二十合余り戦ったところで、文修は杖を空振りし、またもや敗走する。

 匡胤は
「賊坊主、どこへ行く。」
と追いかけた。

 三里ほど追ったところで、文修は再び金鐃を投げ上げ、匡胤の頭上へ斬り下ろした。
 匡胤はこれを見るや、
「しまった、我が命ここまでか。」
と頭を低くした。

 その瞬間、泥丸宮でいがんきゅう(頭部)に元神が現れ、赤髭の火龍が爪を伸ばし、金鐃をつかみ取って落とさせなかった。

 文修はこれを見て仰天し、
「南宋王は真命の主であったか。危うく天に逆らうところだった。」
と言って金鐃を収め、馬を下りて道の傍らに立った。

 ここで問う者があろう。
 匡胤の頭上に真龍が現れたのを、兵は見なかったのか。
 この時、匡胤はすでに数里も追いかけており、兵は後方に取り残され、近くにいなかったため、誰の目にも映らなかったのである。

 まさに、
 聖主には百霊が護り、
 賢臣は諸福をもって支える。

 やがて匡胤は我に返り、文修が脇に立っているのを見た。
 文修は言った。
「真主よ、お許しください。山僧は道理を知らず、あやうく過ちを犯すところでした。今後は二度と逆らいません。」

 匡胤は事情が分からぬまま、
「長老は出家の身。なぜ俗世にとどまり、功名富貴を求めるのか。」
と問うた。

 文修は答えた。
「真主はご存じありません。
 山僧はもと陜西・風雪山の演教寺の住持でしたが、堂宇が崩れ、仏像も荒れ果てました。再建を誓い、南唐王のもとへ勧進かんしん(仏事に寄付をするよう勧めること)に下ったのです。
 唐主は、周兵が退けば官を出して建て直すと約しました。
 そのため助力しておりましたが、今日、真主に出会い、天に罪を得るところでした。」

 匡胤は言った。
「勧進が目的なら、両軍の争いに関わることはない。山へ戻りなさい。
事が収まった後、私が必ず自ら金を出し、寺を再建しよう。決して虚言ではない。」

 文修は大いに喜び、礼を述べ、馬を捨てて立ち去った。
 匡胤は馬を返して帰陣した。

 途中で兵たちが駆け寄り、和尚の行方を尋ねた。
 匡胤は
「言い聞かせて帰山させた。」
と答えた。
 諸将は皆喜び、関に戻って宴を設け、勝利を祝った。

 翌日、匡胤は兵を率いて清流関の外に進み、砲を放って陣を構えた。
 探馬が関内に報告する。
 皇甫暉と姚鳳は相談し、
「寿州はすでに周軍に奪われ、文修も消息不明。今また周軍が来た以上、敵うまい。いったん滁州じょしゅうへ退き、橋を落として守るのが万全だ。」
と言った。

 姚鳳は反対した。
「この関は必争の地。ここを捨てて滁州に退けば、周軍に清流関を与えることになる。」

 だが皇甫暉は聞き入れず、兵を撤いて滁州へ向かった。
 この報が周営に届くと、匡胤は大いに喜び、馬全義ばぜんぎに言った。
「これは天が我らを助けた。
 この賊は清流関を惜しまず、滁州に退いて橋を落とすとは、兵を知らぬ証拠だ。
 滁州は要衝ではない。清流関を得た我が軍が、滁州の一本橋など恐れるものか。
 五千を率いて筏を作り、敵が整わぬうちに攻め寄せよ。草芥を払うがごとく破れる。」

 馬全義は命を受けて出陣した。
 匡胤もまた大軍を率い、続いて進軍し、滁州攻略に向かった。

 城を攻めれば必ず抜き、
 陣に当たれば必ず勝つ。
 その勢いは破竹のごとく、
 灰を払うがごとし。

 まさに、
 天意はすでに偽りの命を厭い、
 人心は自ずと興る王朝に向かう。

 さて、趙匡胤はいかにして城々を落とすのか。
 それは次回に譲る。

独語。
 もう寿州が陥ちたのか……。早いな。
 南唐の劉仁贍は本来、寿州の節度使で、国境の警戒を強めていたのだけれど、連年淮南に不作が続き、把浅兵はせんへいという淮水の防衛を兼ねた屯田政策が国の負担となっていて、一時的に撤廃することが決議されました。
 その決定を促した要因の一つが、後周朝の北漢遠征と後蜀遠征によるものだったわけですが、まんまとその虚を衝かれるわけですね。
 しかし劉仁贍は備えを怠らず、正陽の戦いで南唐の迎撃軍が木端微塵に潰えても、寿州城を固めて譲らず、1年と4ヵ月持ちこたえることになるのでした。


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