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第四十八回 高懷德智取天井 宋太祖力戰高平

第四十八回 高懐徳、智をもって天井てんせいを取り、宋太祖、力をもって高平に戦う。

 詩に曰く:

 若き日の胆力は雲をも突き。
 驍勇ぎょうゆうにして群を抜くと、みずからを期す。
 一騎にて城西に挑み。
 単刀を携え、薊北けいほくに従軍す。
 一鼓にして鮮卑をして款を奉らせ。
 五つの策をもって、単于ぜんうの争いを解く。
 名を成して国に報いんと誓い。
 開国の勲を論ずるを、むしろ恥とす。

 ――右、張説ちょうえつ破陣楽府詞はじんがくふし』より。

 さて、周世宗は、北漢が契丹と結んで兵を挙げ、国境に侵入したと聞き、朝廷で議して天子自ら親征することを決した。
 兵を点検し、将を選び、出陣の日を定めると、まず前隊の先鋒として高懐徳を立て、本隊の精鋭を率いさせ、まっすぐ天井関てんせいかんの下に陣を敷かせた。

 この天井関は、北漢の辺境にあたる要地である。
世宗は、劉崇が潞州を攻め囲んでいるにもかかわらず、あえて救援に向かわず、大軍を率いて天井関から進軍した。
 これはすなわち、魏を囲んで趙を救う策であった。

補足。
 実際には天井関は、洛陽から黄河を北に越え太行山に入ったところにある関で、潞州のはるか南にあり北漢軍が河南を目指すなら、進軍路となるところです。
 柴栄は拙速を重んじ、潞州軍を逼塞させた北漢軍の機先を制するため、天井関は通り過ぎ、沢州城まで一気に北上したのでした。
 そして沢州城北の高平県より少し南にある高原で北漢軍と会敵し、史上名高い「高平之役」(または巴公原の戦い)が行われることになります。
 ちなみに、高平県付近はかつて戦国時代のとき、秦と趙が会戦した「長平の戦い」の戦場でもあります。趙軍40万が生き埋めにされたと伝えられる地ですね。

 探子の報告が関内に入ると、守将は総兵官の李彦能りげんのうであった。
 長槍を得意とし、万夫も近づけぬ勇を誇る将である。
 劉崇はその武勇を見込み、ここ天井関という要害の守りを任せていた。

 この日、報を聞いた李彦能は激怒し、兵を集めて関を出た。
 高懐徳は、関上に兵が動くのを見るや、すぐに陣を整えて迎え撃つ。

 北軍の陣中から一将が突進してくる。
 懐徳が目を凝らすと、その将は凶悪な顔立ちで体つきも荒々しく、虎頭の兜に金鎖の鎧をまとい、青鬃せいそうの馬にまたがり、手には熟銅の槍を握っていた。

 高懐徳が大声で問う。
「来将、名を名乗れ。」

 李彦能は答えた。
「我は北漢王の御前に仕え、天井関を守る総兵、李彦能なり。
 汝の主はすでに中原を占め、漢の天下を奪った。
 ならば分を知って兵を収めるべきところ、なぜここまで攻め寄せ、死を求めるのだ。」

 懐徳は言い返した。
「四海は一家にして、天下は一つ。
 北漢が降らず、かえって天朝を侵すゆえ、今、天子みずから兵を挙げ、罪を問うのだ。
 速やかに関を献じれば命は助かろう。さもなくば城は破られ、玉も石もともに砕ける。その時に悔いても、もはや遅い。」

 李彦能はこれを聞いて激怒し、言葉も返さず馬を打ち、槍を突き出した。
 懐徳も槍を掲げて迎え撃つ。

 両将は駆け違い、二十余合を戦った。
 高懐徳の槍は神業のごとく、名は天下に鳴り響いている。
 李彦能が敵うはずもなく、なお数合こらえたものの、ついに大敗して逃げ去った。

 そこへ趙匡胤の大軍も到着し、懐徳とともに追撃する。
 李彦能は残兵を率いて、よろめきながら関城へ逃げ込み、門を固く閉ざして出てこなかった。

 匡胤は兵を分けて攻め、一連十余日に及んだが、城は落ちなかった。
 そこで懐徳が策を献じる。

「天井関は城郭が堅く、力攻めは困難です。智をもって取るべきでしょう。
 小将に二千を預け、関のそばに伏兵させてください。
 殿下は兵を関下から退かせ、湿地へ去ると偽り、三日後に再び攻めると触れさせるのです。
 この関は、手を伸ばせば取れるでしょう。」

 匡胤は大いに喜び、言った。
「先鋒の策、まことに妙だ。すぐ実行せよ。」

 懐徳は兵を率いて伏兵に向かった。
 匡胤もすぐに命を下し、諸将に知らせて、軍をゆるやかに退かせた。

 関上からそれを見た李彦能は、理由が分からず、城外に人を出して探らせた。
 周軍が本当に退いたと知り、ようやく安心する。
 守城の兵を休ませ、民に城外での薪取りを許した。

 三日目、忽ち周軍再来の報が入る。
 李彦能は慌てて民に急ぎ入城するよう命じた。
 民は肝を潰し、互いを顧みる余裕もなく、山崩れのように城へ押し込んだ。
 兵は門を閉ざし、李彦能みずから城上に登って守りを分ける。

 その時、趙匡胤と史彦超が関前に現れ、大声で罵った。
「この鼠賊そぞくども。関を献じねば、破ったその時、草一本も残さぬぞ。」

 言い終えると、兵を振るって攻めかかった。
 李彦能は急ぎ兵に命じ、矢石を浴びせる。
 周軍はいったん退いた。

 夜三更に至り、忽ち関の背後に火が上がったとの急報が入る。
 李彦能は兵を率いて自ら救いに向かう。

 その瞬間、左手から一将が閃き出た。
 火光の中に、白袍白馬、手に長槍を執り、叫ぶ。

「賊将、逃がさん。」

 一槍を突き出し、李彦能を馬下に刺し倒した。
 これこそ、高懐徳であった。

 実は懐徳はこの策を立て、退兵を装い、自らは関のそばに伏兵していた。
 民が必ず城外に薪取りに出ると見込み、兵到来の報に慌てて民が城へ戻る その混乱に紛れ、兵を一斉に混入させたのである。
 この時、誰も詮索する余裕はなく、内から事を起こして関を奪うことができた。

 懐徳は兵に命じて関門を斬り、錠を落とし、匡胤の兵馬を招き入れた。
 匡胤は号令を下す。

「軍士は一切、民を騒がすことを許さぬ。違反した者は斬首とする。」

 さらに布告を出して民を安んじ、残る火を消し止めた。
民は皆、歓喜した。

 匡胤は、高行周の遺託を決して忘れず、懐徳が功を立てて栄達することを心から願っていた。
 このとき懐徳の取関の第一功を記し、天子の到着を待った。

 夜が明け、世宗の御駕が至る。
 諸将は迎えて入関し、次々と賀を述べた。
 匡胤は力を込めて称えた。

「懐徳は智と勇を兼ね備え、兵を血に染めることなく、まずこの堅城を抜いた。
 これは主上の大いなる福である。」

 世宗は大いに喜び、厚く褒め、賜物もきわめて豊かであった。
 懐徳は謝恩して退いた。

 これを詠む詩がある。

 恩と怨みは、明らかに従うべきものとはいえ。
 時には和をもって均すこともある。
 世宗が怨みを解いたからこそ。
 懐徳はこの功を立てることができたのだ。

 世宗は天井関に駐し、府庫を検分し、軍馬を養って三日を過ごした。
 そして前軍に高懐徳を進ませ、趙匡胤に中軍を率いてこれに続かせるとの勅命を下した。
 一日も経たぬうちに、軍は懐州へ到着した。

 懐州の守将は張志忠ちょうしちゅうである。
前線の関がすでに失われ、周軍が懐州へ迫っていると聞くや、急ぎ子の張信と相談した。
「私はもと中原の旧臣だ。北漢の勢いに脅され、やむなく従ってきただけである。
 いま周主の大軍は天井関をすでに得て、さらに懐州へ向かっている。
 ここはいっそ降って、この一城の百姓を救うべきではないか。
 おまえはどう思う。」

 張信は答えた。
「父上のお考えは、まさに生民の福でございます。」

 そこで張志忠はその日のうちに関を出て、周軍の陣営に赴き、降伏した。
 高懐徳はこれを中軍へ送って匡胤に引き合わせた。
 匡胤は大いに喜び、降書を受け取ると、ただちに世宗へ急報した。

 世宗が懐州に到着すると、諸将は拝謁した。
 世宗はすぐに張志忠を本州の団練に任じ、軍民の統治を委ねた。
 そのうえで諸将に出発を命じた。

 この時、指揮使の趙晁ちょうちょうが、通事舎人つうじしゃじん鄭好謙ていこうけんとひそかに相談して言った。

「賊の勢いは甚だ大きく、軽々しく敵視すべきではない。
 いま陛下はすぐに進軍なさろうとしておられるが、これは得策とは思えぬ。」

 鄭好謙は、その言葉をそのまま世宗に奏上した。
 世宗は怒って言った。
「何者だ、この取るに足らぬ小者は。かくのごとき妄言を吐き、朕の軍を止め、軍心を惑わすとは。」

 勅命を下し、趙晁を捕らえて斬首し、衆に戒めとしようとした。
 その場に親軍使の趙匡胤が控えており、これを見て慌てて奏上した。
「晁の言は、忠言にございます。もし臣下が皆このようであれば、陛下に何の憂いがありましょう。
 どうかお赦しください。」

 世宗はなお怒りが収まらなかったが、左右に命じて趙晁を釈放させた。
 これを詠んだ詩がある。

 北漢は兵を勤しめ、喪を討たんとし。
 身の程知らぬ蟻が、大樹を揺るがすがごとし。
 旌旗ひとたび指せば、兵は争い。
 鼠は逃げ、狼は走り、晋陽を越えて散る。

 世宗は懐州を発ち、倍道して急行した。
 十日も経たぬうちに大軍は澤州に到着し、砲を放って陣を敷いた。
 ここではいったん語りを置く。

 さて、北漢主の劉崇は、潞州を攻めても落とせず、兵を収めて南岸に駐屯していた。
 そこへ、周軍が二つの関を奪い、さらに澤州に到ったとの報が入る。
劉崇は急いで諸将と協議した。

 遼の将、耶律奇やりつきが策を献じた。
「周主がここへ来たのは、本来潞州を救うためでした。
 ところが大王が潞州を攻めあぐねているのを見て、二関を奪い、勝ちに乗じて急行しております。
 行軍はあまりに急で、兵は必ず疲れております。大王はここは逸をもって労を待ち、四方から攻めれば、必ず全勝できます。」

 劉崇はその言をもっともとし、契丹の兵と東西に分かれて対面に陣を敷かせた。
 急変あれば互いに救援に出る手はずとし、周軍を破れば、そのまま兵を動かさぬこととした。
 耶律奇は命を受けて退いた。

 翌朝、太鼓を三度打ち鳴らし、劉崇は副枢密の王延嗣おうえんし、先鋒の張元暉とともに、巴公原はこうげんに陣を展開した。
 両軍は円陣を組んで向かい合う。
 劉崇は、周軍の兵数が少ないのを見て、心中ひそかに喜んだ。

 周軍の陣では、世宗自ら出陣し、趙匡胤、史彦超、張永徳、鄭恩を率いて、正東に陣を列ねた。
 劉崇は心の中で思った。
「この程度の周兵なら、破るは易い。契丹の兵を借りる必要などなかった。金帛を無駄にしたものだ。」

 悔しさを募らせ、左右に言った。
「今日は周兵と直接決戦し、勝敗を決する。契丹に我が用兵を見せ、心から服させてやる。」

 ところが、楊襄ようじょうは西営から周軍の布陣を見て、行伍が整然としているのを知り、これは強敵だと判断した。
 そこで偏将の張威ちょういを劉崇のもとに遣わし、進言させた。
「周兵は少ないとはいえ、その勢いはきわめて鋭い。大王は敵情を量って進まれ、決して軽んじてはなりません。」

 劉崇は怒って言った。
「諸君、余計なことを言って、我が軍の気勢を削ぐな。
 今日こそ会戦して勝敗を決し、必ず周主を捕らえ、わが甥の仇を討つのだ。」

 その時、突然、東北から激しい風が起こり、しばらくして南風に変わった。
 砂塵が舞い、両軍とも目を開けられず、足元も定まらない。
 軍中の司天監してんかん李義りぎが奏上した。

「この風は、まさに我が軍を助けるものです。いま出兵すれば、必ず勝てます。」

 劉崇はこれを深く信じ、まさに出兵しようとした。
 そこへ枢密の王得中おうとくちゅうが馬を叩いて諫めた。

「風勢はこのようで、必ずしも我が軍に利とは限りません。李義の言は狂言です。斬るべきです。」

 劉崇はこれを叱りつけた。
「我が策はすでに決まった。老書生は妄言を吐いて軍心を乱すな。
 もし再び口を開けば、まずおまえの首を斬り、そのうえで出兵する。」

 王得中は恥じ入って退いた。

 劉崇は自ら出陣しようとした。
 その時、一将が進み出て言った。

「まず末将に周兵の陣を挫かせてください。」

 劉崇が見ると、それは先鋒の張元暉であった。
 元暉は馬を打ち、刀を振るって南陣へ突進する。
 金鼓は野を震わせ、鬨の声は天に満ちた。

 南軍陣営から中軍使の樊愛能はんあいのうが飛び出し、槍を構えて馬を躍らせ、これを迎え撃つ。
 両馬が交わり、両兵器が同時に振るわれ、五十余合を戦った。
 やがて愛能の槍さばきは乱れ、支えきれなくなる。

 その様子を見た副将、歩軍使の何徽かきが、大斧を引っ提げて駆け込み、助太刀に入った。
 張元暉は二将を相手に力戦し、少しも恐れを見せない。

 そこへ北漢陣の元帥、白従輝が刀を横に構え、馬を躍らせて南陣へ突進してきた。
 樊愛能と何徽は支えきれず、戦いを捨てて馬首を返し、逃げ去った。

 劉崇は南軍の陣がすでに乱れたのを見ると、みずから諸軍を督して突撃した。
 矢は飛蝗ひこうのごとく、石は雨のように降り注ぐ。
 周兵は大いに乱れ、傷つき倒れる者は数えきれなかった。

 世宗は形勢が危ういと見て、やむなく自ら矢石を冒し、前へ出て督戦した。
 劉崇の兵馬は大きく進み、泰山が卵を圧すがごとく押し寄せ、南軍は抗しきれない。

 その時、親軍使の趙匡胤が不利な形勢を察し、諸将に言った。
「主上が危急にある今こそ、我らが命を賭す時だ。諸軍は力を尽くして敵を防げ。国家の安危は、この一戦に懸かっている。」

 これを聞いて鄭恩が憤然と叫んだ。
「我らが身を惜しんで、束手そくしゅして死を待つことがあろうか。」

 鄭恩は高懐徳とともに出陣する。
 北漢の将、劉顕りゅうけん劉達りゅうたつが迎え撃ってきた。
 馬を交えること数合に満たず、鄭恩は一刀で劉顕を斬り伏せ、懐徳は一槍で劉達を突き殺した。

 南軍は二将の勝利を見て、再び陣を立て直し、踏みとどまる。
 匡胤は身を先に立て、張永徳とともに二千騎を率いて敵陣を斬り込み、百に当たって百を退けた。

 やがて劉崇に行き当たり、三人で兵器を振るって五十余合を戦う。
 永徳の槍が突き出され、劉崇の左肩を貫いた。
 劉崇は痛みに耐えかね、逃走する。

 匡胤は兵を駆って追撃し、北軍は風に掃われる落ち葉、雨に打たれる残花のように潰走した。
 南軍左翼の馬瑀ばう(馬仁瑀)は、北軍の陣が揺らぐのを見ると、馬を躍らせ刀を振るい、側面から攻め入る。
 そこで張元暉と遭遇し、四十余合を戦ったが、元暉は力尽き、馬首を返して逃げた。

 馬瑀は刀を収め、弓を引いて矢を放つ。
 その一矢は元暉の馬に命中し、馬は痛みに跳ね上がって元暉を地に投げ落とした。
 そこへ中軍の馬全義が斬り込んできて、刀を振るい、一太刀で元暉を両断した。

 南陣の軍威はいよいよ盛んとなり、声勢は山岳を震わせた。
 史彦超は数十騎を率いて漢陣に突入し、劉崇の将佐は抗しきれず、ただ命からがら逃げるのみであった。
 周兵は四方から包囲して斬り立て、北軍は逃げ場を失い、降伏する者は数知れなかった。

 ここに、周と漢の交戦を詠んだ賦がある。

 北漢主は一時の妄念を動かし。
 周世宗は十万の精鋭を統べる。
 巴公原に連なる陣営は布かれ。
 澤州の城は要害に拠って猛威を振るう。
 趙の親軍は勝敵の騎を駆り。
 張永徳は逃走の道を断つ。
 馬全義は潜む兵を断ち。
 史彦超は降る者を受け入れる。
 懐徳は旗を掲げて将を斬り。
 鄭恩は怒目を張り眉を逆立てる。
 二山の英雄、命を惜しまず。
 両翼の将佐、各々その技を尽くす。
 武侯の妙算はいずこにありや。
 方叔の元勲、いまなお生きる。
 楊襄と耶律は胆を失って奔り。
 契丹の軍兵は首をすくめて出ず。
 一人が勇を鼓せば、万夫が先を争う。
 進むに鼓をもってし、退くに金をもってす。
 弓を張り、矢を布き、威を競い。
 左右に衝き、前後に撃ち、陣中は厳然。
 これらはすべて塞上に功を立てた豪雄にして。
 名を凌煙閣に刻む俊傑である。

 この一戦、敗を返して勝ちを得たのは、すべて趙・鄭・張・高・史・馬の力によるものであった。
 その時、西営の楊襄は、漢軍が勝ったと見誤り、兵を動かさなかった。
 やがて周兵が勝勢を広げ、長駆して西営に迫ると、あわてて耶律奇とともに兵を率いて逃走した。

 さて、樊受能と何徽は張元暉に撃ち敗られ、南へ逃げる途中で輜重を略奪し、身を守ろうとした。
 さらに、契丹の大軍が来襲し、官軍は敗れ、残兵は皆降伏したと触れ回った。

 世宗はこの報を聞き、近臣を遣わして制止させたが、二人は聞き入れず、かえって使者を殺した。
 その時、世宗は会戦のため進軍があまりに急で、後軍を率いる劉詞りゅうしが遅れていた。
 劉詞は途中で樊・何の二人に遭遇し、問うた。
「天子の御車は、いずこにある。」

 樊愛能は答えた。
「契丹の兵勢は盛んで、我らは皆敗れました。御車はすでに潞州へ退かれています。将軍の後軍も、速やかに退くべきです。
 さもなくば、兵を損じ将を失うのみで、益はありません。」

 劉詞は激怒して言った。
「君に難あらば、臣は身を顧みず救うものだ。退くなどとは、犬や豚にも劣る。」

 そう言って兵を率いて進んだが、北漢の騎兵一万余が道を塞ぎ、進めなくなった。
 日も暮れかけ、南風はいよいよ激しく吹く。
 劉詞は兵を奮い立たせて突撃し、軍士は皆勇を鼓し、漢兵を数えきれぬほど斬り倒した。
 残兵は抗しきれず、命惜しさに山を越え、嶺を越えて逃げ散った。

 そこへ、山坡さんはの向こうから趙匡胤が現れた。
 北漢の劉崇を追撃して勝利し、引き返す途中で劉詞と出会い、合兵して追撃する。
 漢兵は十に九を失い、勢いは山崩れのごとくであった。

 二人は南平を越えるまで追撃して、ようやく軍を収めた。
 見渡せば、死体は野に横たわり、血は川のように流れ、捨てられた輜重や兵器は数えきれなかった。

 後の人は、これを詠んで詩に記した。

 殺気みなぎり、戦場を覆い。
 高平の一戦、最も痛まし。
 冤魂は千古に恨み尽きず。
 夕陽の下、烏が残る血を啄む。

独語。
 北漢軍の緒戦の猛攻で、樊愛能と何徽の軍が崩壊し、後周軍の本営が剝き出しの危機に晒された時、柴栄はやむなくではなく、積極的に矢石を冒して最前線に躍り出たのでした。
 それを見た趙匡胤は「あのように主が危険となっているのに、我らが命をかけずにおれようか」と、張永徳と連絡を取って、戦いながら二千ほどの突撃兵を編成し北漢軍を圧倒します。そのときの後周軍の戦意は「一をもって百に当たらざる者なし」と言われるほど高まったのでした。
 また別の伝説では、右軍の崩壊に怒りを発した柴栄は馬を躍らせ、供回り50人を引き連れ、劉崇の牙帳(本陣)を直接衝いた、などと書かれています。

 その夜、世宗は野営した。
 翌日、諸将はそれぞれ戦功を奏上した。

 世宗は命じて、各営のうち、樊愛能・何徽の配下で北漢に降った馬歩の兵を、すべて斬り捨てさせた。
 潞州の守将・李筠は、周の天子が漢兵を大破したと聞くや、諸将を率いて出迎え、城に迎え入れて拝礼した。
 礼が終わると、世宗はねぎらいの言葉をかけ、潞州に駐屯して兵を休ませ、馬を養い、将士に宴を賜った。

 北軍の降伏者は一万余に及び、淮水沿いに移して駐屯させた。
 諸事の配置を定め終えると、世宗は匡胤らと協議して言った。
「劉崇はまだ遠くへ逃げてはいない。誰か兵を率いて追う者はおらぬか。」

 匡胤が進み出て言った。
「臣が参ります。」

 世宗は大いに喜び、匡胤は鄭恩・高懐徳とともに三千を率い、後を追った。

 さて、劉崇は敗走し、白従輝とともに残兵をかき集めたが、わずか百騎ほどで、昼夜兼行して逃げた。
 高平の大敗により、北漢の兵は肝を潰し、心胆ともに失っていた。

 ある山に至った時、兵は飢え、行軍もままならず、鍋を据えて飯を炊き、箸を取ろうとしたその瞬間、土煙が立ち、周兵が追いついた。
 漢兵は大混乱に陥り、箸を捨て、食を捨て、我先にと逃げ出した。
 力は尽き、脚は痺れ、苦しみは言葉に尽くせなかった。

 匡胤は二百余里を追撃したが、劉崇はすでに遠く、追いつけぬと見て、ようやく兵を収めて帰還し、奏上した。
 世宗は言った。
「朕の思いは、この賊を掃滅してから凱旋することにある。」

 そこへ、樊愛能と何徽の二人が階前に伏し、敗軍の罪について弁明を訴え出た。
 世宗は斬ろうとしたが、なお決しかね、張永徳に問うた。

「樊愛能と何徽は、いずれも機を失った罪があり、本来は斬首すべきである。だが国は多事の折にあり、将士は得難い。
 罪を赦して功を立てさせるのはどう思うか。」

 張永徳は奏した。
「樊・何の二人は、もとより大功なくして節鉞せつえつ(節度使の任)に与り、敵を見るや先に逃げ、使者を殺して命に背き、劉詞を欺きました。
 万死をもってしても、その罪は贖えません。
 陛下が四海を平らげ、八荒を包み取ろうとされるなら、軍令を明らかにし、賞罰を厳しくせねばなりません。
 たとえ熊やひぐまのごとき勇士、億万の兵があっても、どうして使いこなせましょうか。」

 世宗はこれを聞き、うなずいて良しとし、樊・何の二人を軍前に引き出させ、罪を数えて叱責した。

「敵に遭って先に逃げ、流言を広め、財物を略奪し、使者を殺し、後軍の劉詞を止めた。
 汝らは戦えぬのではない。朕を奇貨として、劉崇に売ろうとしたのだ。」

 そう言い放ち、斬刑を命じた。
 軍校は命を受け、樊・何の二人を斬首し、全軍に布告した。
 これにより、兵も将も恐れを抱き、朝廷の厳正さと新たな号令を知り、もはや情に流される政は行われなくなった。

 この日、世宗はみずから諸将を労った。
 張永徳は奏上した。

「親軍使の趙匡胤は、智勇ともに人に勝ります。
 身を忘れて国に尽くしておりますゆえ、格別の賞をお与えになり、皆の励みとされるべきです。
 高平の戦いで、もし諸将が皆、樊・何のごとくであったなら、陛下の大勢は失われておりました。」

 世宗は深くその言に同意し、ただちに趙匡胤を殿前都虞候てんぜんとぐこうに任じた。
 匡胤は謝恩して奏した。
「高平一戦は、諸将の力によるものです。臣に何の功があって、ひとり賞を受けましょうか。」

 世宗は言った。
「卿の功は、朕が忘れることはない。辞するには及ばぬ。
 朕には朕の考えがある。」

 こうして論功の次第を定め、張永徳、鄭恩、高懐徳、劉詞、馬全義、史彦超ら十余人を侯に封じ、董龍、董虎、李通、周覇らを副軍使に昇進させた。
 さらに趙晁を召し出し、厚く賞して、その忠言を顕彰した。

 諸将は一斉に万歳を唱え、謝恩して退いた。
 これを詠んだ詩がある。

 出師は易く、心を制するは難し。
 一念蒼生、枕は安からず。
 高平に敵を破り、諸将は服し。
 劉崇は首を垂れ、胆はすくむ。

 世宗はさらに諸将を召して協議し、勝勢に乗じて河東へ進み、一挙に滅ぼそうとした。
 軍師の王朴が奏上した。
「陛下の軍威はここに至り、漢兵は遠く疲れております。天威はすでに十分に震わせました。
 ここは徳をもって撫で、恩をもって懐柔すべきです。小国は自ずから命に従いましょう。
 どうして遠征を重ね、みずから矢石を冒される必要がありましょうか。
 もし天討を明らかにされたいのであれば、近年は北兵も疲弊し、補給も苦しいゆえ、年が熟し、収穫が豊かになるのを待ってから進めても、遅くはありますまい。」

 世宗は答えた。
「先生の言はもっともだが、それは一面しか見ておらぬ。軍は動かすのは易しく、安んずるは難しい。
 大敗した今、ただちに平らげねば、劉崇は賊勢を養い、再び兵を起こす。
 その時、大軍を再び動かすのは容易ではない。朕の意はすでに定まった。
 これ以上は申すな。」

 王朴は奏が容れられぬのを見て、黙して退き、ひそかに嘆いた。

 その時、岳元福がくげんふく符彦卿ふげんけいも随征していた。
 世宗は二人を召して言った。
「汝らは朝廷の老将で、兵法に通じている。いま三万を率いて北へ進め。
 河東城下に至り、武威を示して声勢を張れ。朕が到着するのを待ち、攻取の策を定めよう。」

 二将は勅命を受け、兵を率いて先行した。
 世宗は李筠に潞州の守備を命じ、自らは趙匡胤、劉詞、王朴らとともに大軍を率いてこれに続いた。
 すべての配置を終え、五月、車駕は潞州を発し、晋陽へと向かった。
 城郭を踏み平らかにしてから、ようやく帰軍する構えであった。

 ここに一首ある。

 山河に志を励まし、身は鋒のただ中にあり。
 気は霄漢しょうかん(天空)に横たわり、力は戦場に尽くされる。

 すなわち、

 図籍をもって一統を成さんとするなら。
 弾丸のごとき小国に、二心を許すものか。

 晋陽の安危いかん。
 それは、次回にて語るとしよう。

独語。
 ここ最近神仙妖術の類が出てこず、非常に史実を踏まえた軍記小説となっています。
 そして趙匡胤がついに殿前都虞候に大抜擢されました。史書に現れる宋太祖の武名はここ高平の戦いからですね。
 大いに盛り上がった南北会戦ですが、柴栄にとって非常に重要な意味をもたらしました。ここで皇帝が交戦渦中に乗り出し軍の輿望を得られたというのが、この後に続く万機親裁、君主独裁への道しるべになるのでした。


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