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第五十三回 陶三春職兼內外 張藏英策靖邊隅

第五十三回 陶三春、職を兼ねて内外をべ、張蔵英ちょうぞうえい、策をもって辺隅へんぐうやすんずる。

 詩に曰く:

 まだ絲蘿しらを結ぶ期も定まらぬうちから
 恩寵と栄誉に恵まれ、彩筆を執って詩に名を残す。
 佳き配偶はすでに関雎かんしょの詩にかなうごとく結ばれ
 その調べは琴瑟きんしつ和して共に吟ずるに足る。
 一たび武魁ぶかいの命を受ければ朝野より敬われ
 六宮を統べるに足る才は媵嬙ようしょうを点検するにふさわしい。
 紅顔にして傑出する者はもとより多くはなく
 外にあっては国を支える干城としても奇功を立てる。

 さて、鄭恩は生来まっすぐな気性で、学問もなく文字にも疎かった。
 婚礼の日取りが近づいたものの、礼法やしきたりが分からないため、自ら南宋王府へ赴き、事の段取りを相談することにした。

 匡胤は婚姻における礼法と、整えるべき一切の事柄を、分かりやすく一つ一つ教えて聞かせた。
 鄭恩はそれを胸に刻み、さらにこう尋ねた。
「二哥、兄弟はあの女娃じょあいがどうにも気に入らねえ。明日、拜堂が済んだら、酒をたらふく飲んで、あとは相手にせず寝ちまおうと思うが、それでいいか。」

 匡胤は言った。
「そんなことをしたら、また殴られるだけだ。婚礼の吉日は、夫婦和合を取るためのものだ。夫婦が和合すべき理由は、子をもうけ、家を継がせるためにほかならぬ。
 明日、もしお前が新婦を冷遇すれば、あの烈火のような気性だ。一度怒りが爆ぜたら、新婚の体面など顧みはせぬ。
 拳が飛んできたとき、お前に受け止める力があるか。そうなってからでは、兄としても助けに入れぬぞ。そのときどうするつもりだ。」

 鄭恩はこれを聞き、盛んにうなずいて言った。
「二哥の言うとおりだ。あいつが怒り出したら、たしかに厄介だ。酒を飲んで殴り合うことなら分かるが、嫁取りの作法などさっぱりだ。どうか二哥、殴られずに済むやり方を教えてくれ。」

 匡胤は言った。
「古くは男は三十で娶り、女は二十で嫁ぐ。陰と陽が配されて夫婦となる。男女が精を交えてこそ、命は尽きることなく続く。これは天地の正気であり、人の道の根本だ。
 人はそれぞれ性と命を正してこそ、太和を保ち、造化を全うできる。もし放縦に流れれば非理となり、非理の人は正道から退けられる。
 お前がそこまで問うのなら、理を明かさぬわけにはいかぬ。明日、拜堂の後、房に帰って合巹ごうきんの杯を交わし、客が散ってから休むときは、顔を和らげ、言葉を柔らかくし、敬いと愛を尽くせ。
 比翼の楽しみを学び、君子の作法に倣えば、自然と心は通じ、賓客のごとく敬い合える。」

 鄭恩は言った。
「理屈は分かったが、あいつの気性が変わらず、手を出してきたらどうする。」

 匡胤は大笑いして言った。
「男が女を怖がってどうする。礼をもって人に下れば、人もまた敬いを返すものだ。昔は瓜を盗み食いしたから殴られた。今日は明媒正娶で、名も正しく理も通っている。
 たとえ気が強くとも、殴る理由がどこにある。安心せよ。三春も礼を知る者だ。乱暴なことは決してせぬ。道理に従って振る舞えば、何の支障もない。
 ただ一つ言っておくが、媒金や謝礼を送るかどうかはお前次第だ。ただし、先日定親のしるしとして渡した玉玦ぎょっけつは、もともと兄の物だ。返してもらうぞ。」

 鄭恩は笑って言った。
「二哥、あんたは心が狭いな。この玉玦は、将来あんたに甥ができたとき、遊ばせるために取っておくんだ。返すわけがない。」

 匡胤は言った。
「名に聞く“賴猫らいびょう”(約束破り)とは、なるほど伊達ではない。参った参った。」

 そう言って二人は大笑いし、別れた。
 匡胤はさらに、腕の立つ家将を数名選び、汝南王府へ遣わして準備を手伝わせた。

 吉日になると、陶氏の兄弟と鄭府の家将が到着し、嫁入り道具一式を府内へ運び入れた。
 鄭恩は僕婦や侍女に命じて奥の間を整えさせ、実に見事な仕上がりとなった。
 外の運び入れも終わり、人々は叩頭して祝意を述べ、場内は大いに賑わった。

 鄭恩は堂上に座り、並べられた調度や飾りを見渡した。
 その華やかさと豪奢さは、これまで目にしたこともないものばかりで、思わず心から喜び、こう言った。

「俺はまだ一文も出してねえのに、陶家はなんと立派なんだ。これも二哥の取り計らいのおかげだ。」

 そう言って、礼官に命じ、運搬にあたった者たちへ褒美を与えた。
 人々は賞を受け、次々に叩頭して礼を述べた。

 翌日には灯が掲げられ、彩りが結われ、太鼓と楽の音が天を震わせた。
 鄭恩は南宋王の親族、高侯の兄弟、そして京中の諸官を招き、皆が府に集まった。
 やがて鑾輿らんよが府門に入り、堂前に止まった。

 陰陽官が吉時を定め、賛礼官が新郎新婦を輿から導き出す。
 夫婦は並んで天地を拝し、聖恩に感謝し、祖霊とそうに参拝したのち、互いに拝礼して洞房へ送られた。
 歌と詩はゆるやかに流れ、笙や簧が重なり合って鳴り響き、この上ない人の世の祝いとなった。

 合巹ごうきんの酒を飲み終えると、鄭恩は外の広間へ出て、陶氏の兄弟や諸官に改めて礼を尽くした。
 匡胤は陶氏兄弟に付き添って席に着き、諸官も順に座して、楽を鳴らし芝居を始めた。

 宴が半ばに差しかかると、鄭恩は席を立ち、金杯を手にして酒を注ぎ、まず陶氏兄弟に、次に大媒である匡胤に、さらに諸侯や官人たちへと敬酒した。
 人々は皆これを辞退しつつ応じ、しばらくして散会となった。
 陶氏の兄弟もまた公館へ戻り、三朝の礼物を整えることとなった。

 鄭恩は客を見送り、内へ戻ると、厨房に命じて婚礼を手伝った者や女眷じょけん(一族の女性)たちへ酒食を振る舞わせ、雑役の者や趙府の家将たちにも褒美を与えた。
 一切が済むと、ようやく房へ足を運ぶ。

 三春の前に出ると、深く一礼した。
 三春もまた優雅に福礼を返す。

 鄭恩は嬉しそうに言った。
「どうぞ、おくつろぎを。」

 三春は侍女に命じ、束帯と円領、珠冠に蟒袍もうほう(礼服)を解かせ、軟らかな履物に履き替えた。
 鄭恩もまた公服を脱ぐ。
 侍女たちは衣を受け取って整え、香茗こうめい(お茶)を運んできた。
 二人が茶を飲み終えると、鄭恩は手を振って言う。

「皆、今日はご苦労だった。もう下がってよい。」

 女たちは応じて退出し、静かに房門を閉めた。

 鄭恩は腰を下ろし、にこにこと言う。
「縁というものは、やはり前世から定まっているものか。夫人は、あの瓜園のことを覚えているか。」

 三春は静かに答えた。
「妾とあなたは、もとは天の両端に隔たっておりました。あの奇妙な巡り合わせでもなければ、どうして夫婦になれましょう。
 あのときは互いに無礼もございましたが、今となっては宿世の縁。過ぎたことは申しますまい。」

 鄭恩は笑って言う。
「早くから夫婦になると分かっていれば、もう少し手加減してくれてもよかったのに。」

 三春は淡々と、
「それは論じようのないこと。」
と返した。

 鄭恩は笑いながら三春の帯に手を伸ばす。
 三春はそっとその手を押しのけ、
「それぞれ、自らいたしましょう。」
と言った。

 やがて二人は衣を改め、向き合う。

 鄭恩は愚直ではあったが、若さ盛りで初めて女に近づき、香が満ちる室内の気配に胸は高鳴る。
 まるで仙境にいるかのような心地で、三春を抱き寄せた。
 二人は牙床げしょう(豪華なベッド)に上がり、灯を落とす。

 鄭恩は壮年にして初めての情に触れ、渇いた者が水を得たようであった。
 三春もまた年ごろを迎え、久しく待ちわびていた身である。
 拒むことはない。

 香被こうひの中、二人は心を通わせ、夜は更けていく。
 やがて事が済むと、互いを抱いたまま眠りに落ちた。

 まことに、

 玉の身を得てこそ情は深まり
 ただ惜しむは、暁を告げる金鶏の声。

 五更に起き、身支度を整えると、公服に着替え、朝廷へ赴き、皇恩を謝した。

 その日はちょうど世宗が金殿に臨み、百官の朝儀を受けていた。
 夫妻は金階の下で拝し、声高らかに万歳を唱える。

 宣召されて金鑾きんらんに進み、伏して塵にぬかづく(平伏すること)。
 世宗が目を上げて見ると、三春は容貌こそ醜くとも、気概は堂々としている。
 心中驚きながら思う。

「鄭恩は粗暴で無遠慮な男だ。このような剛毅な夫人があればこそ、心に忌憚きたんを抱き、無法には走るまい。」

 世宗は問うた。
「卿は兵法に通じ、力も人に勝ると聞く。まことか。」

陶妃は奏した。
「臣妾は草莽の出で、幼くして母を失い、女の作法も十分には習いませぬ。ただ騎射を好み、兵書を愛読し、十八般の武芸も粗く知るのみ。力が人に勝るなどと自ら申すは恐れ多きこと。陛下の御問いに、ありのままを申し上げます。」

 世宗は言う。
「それほどの才があるなら、殿上で一度試してみよ。射芸を見せられるか。」

 陶妃は答えた。
「聖命とあらば、従わぬわけにまいりませぬ。弓矢を賜り、試させてください。」

 世宗は喜び、弓箭を与えさせ、丹墀の下、百歩ほど先に紅心を立てた。

 陶妃は退き、弓を引き絞る。
 矢は飛星のごとく走り、三矢すべて紅心を射抜いた。
 左右の文武百官は一斉に喝采した。

 陶妃は再び殿上に進み、命を覆奏する。
 世宗は大いに悦び、

「閨門の身でありながら、この勇力と才覚。実に世にも稀なことだ。射法はすでに尽善。
 武芸兵法も見ずしてその力量が知れる。卿を毅勇正徳夫人きゆうせいとくふじんと封じ、武状元の職を授ける。汝南王と並び朝廷に仕えよ。
 さらに皇太后・皇后に拝謁し、三日宮中に遊びて後、栄えて帰府せよ。」

 と命じた。

 陶妃は封を受け、深く謝恩した。
 鄭恩もまた夫人が状元となったことを喜び、下で拝謝して退出した。

 陶妃は宮官に導かれ、まず養老宮で太后に拝謁する。

 太后はその礼儀と剛直な言葉に大いに感じ入り、問う。
「年はいくつか。父母は在るか。家族に仕官する者はあるか。」

 陶妃は答えた。
「二十一歳にございます。幼くして父母を失い、兄の陶龍・陶虎に育てられました。祖父は後唐の顕職にありましたが、乱世を避けて農桑を業とし、耕読の家風を守っております。兄たちは今も仕官しておりませぬ。」

 太后は誠実な言葉に喜び、さらに言う。
「若くして徳あり、文武の才も備える。まことに智勇の人。女流であるがゆえ朝堂に立てぬは惜しい。ゆえに六宮都検点ろくきゅうとてんけんを加封する。内廷の不正は糾察せよ。
 兄もまた貴戚である以上、白衣(無官)のままではならぬ。皇帝に申して封爵を与えよう。」

 陶妃は深く謝した。
 太后はさらに宴を設け、脂粉銀三千両を賜る。

 続いて朝陽宮にて皇后に拝謁。
 皇后もまた驚きつつ愛敬を抱き、宴を賜い、銀千両、彩緞数十端、金銀器や珠玉を厚く与えた。
 陶妃は賜物を受け、謝恩して退出した。

補足。
 皇后、いたんですね。
 柴栄の皇后は、符彦卿の娘で、最初は反逆の徒・李守貞の息子に嫁いでいましたが、反乱鎮圧後に郭威に保護され、やがて柴栄に嫁ぐことになりました。
 娘が立后したことにより、もともと名声のあった符彦卿ですが、魏州に拠し、河北節度使たちの統帥と目されるほどの重鎮となります。
 後周世宗朝において、節度使の反乱がなく皇帝権力強化へと邁進できたのは、ひとえにこの優良な外戚のおかげとも言えます。
 北宋が興っても趙匡胤には心服し、また下の娘が太宗・趙匡義に嫁ぐという顕貴ぶり。

 宮官に導かれ、陶妃は諸宮を巡った。
 六宮の妃嬪ひひん媵嬙ようしょうたちは、陶妃が六宮都検点に封じられ、宮中の是非を糾察きゅうさつする役目を負ったと聞き、それぞれ身を引き締めた。
 ある者は宴に招き、ある者は珍しい玩物を贈る。
 まるで上司が下僚を巡察するかのような有様で、宮中はにわかに緊張と賑わいに包まれた。

 まことに、

 九重の恩命新たに下れば
 六院の閨情こぞって従う。

 陶妃は勅命により三日間宮中を巡り、やがて暇を告げて出宮した。
 そのまま朝廷に参じて復命する。

 ちょうど世宗が臨殿しており、拝礼を終えると、太后の意を受けて直ちに詔を下した。

「陶龍・陶虎を侯伯に封じ、本処に府第を建てよ。
 状元・都検点は内外を兼ねる職、礼遇は重くすべし。
 宝輿ほうよを整え、半朝の鑾駕らんがを賜い、府へ送り届けよ。
 礼部官一員を護送に充てよ。
 内宮より賜った物は、すべて汝南王府へ届けさせよ。」

 詔が下ると、諸官は直ちに執行した。
 陶妃は伏して謝恩し、退出する。

 五朝門を出ると、宝輿と鑾駕が整然と備えられていた。
 輿に乗ると、前後に供が付き従い、車輪は鳴り、馬はいななき、威儀は堂々たるもの。
 一行は鄭王府へと向かった。

 そのころ鄭恩は、趙王、高侯、陶龍・陶虎らと宴を開いていた。
 陶妃の栄帰と勅旨到来を聞き、急ぎ外へ出迎える。

 欽差官が告げる。
「これは鄭王尊舅陶公への封爵の旨である。」

 陶氏兄弟は伏して宣旨を聞く。
 詔を読み終えると、望闕ぼうけつ(宮城の方を仰ぎ見る)して謝恩した。
 欽差官は辞去し、太監らも宮へ戻る。

 陶妃は鄭王に朝闕八拝を命じ、太后・皇后より賜った銀や賞物をすべて収めさせた。
 人々はその才覚を称えた。

 陶龍・陶虎は家丁に命じ、廟見の礼物を祠堂へ納めさせる。
 鄭王は祖先祭祀の礼を整え、夫妻は香を捧げて拝礼した。

 諸王侯は順に陶妃に拝謁する。
 趙王匡胤が言う。

「後日午刻、拙宅に席を設ける。賢弟夫妻、ぜひ来て祝宴に加わってくれ。」

 陶妃は承諾し、内へ退いた。
 鄭恩は再び宴を整え、諸侯と酩酊するまで飲み交わした。

 その後、諸王侯は持ち回りで宴を設け、新婚を祝ったという。
 ここはしばらく置く。

 さて世宗は即位以来、歳は豊かで天下は泰平、民は業に励み、文武は和していた。
 政務は大小を問わず世宗が親裁し、百官は命を受けるのみであった。

 このとき河南府推官の高錫こうせきが上書して諫めた。

「臣聞く。四海の広さ、万機の多さ、堯舜といえども独りでは治め得ず、必ず人を選んで任じ、その成否を見る。
 いま陛下は昼夜労し、すべてをみずから処理なさる。
 世はこれを聡明と称えず、むしろ群臣を信じぬゆえと申しております。
 公正なる者を宰相に、仁愛ある者を守令に、財政に通ずる者に銭穀を、情理を解する者に刑罰を任せ、陛下は明堂にあって功過を賞罰なされば、天下何ぞ治まらぬことがありましょう。
 君の尊を下げて臣の職を代行し、貴位を屈して賤事に親しむは、政の本を失うものにございます。」

 世宗はこれを読み、嘆いた。
「我が労を好むのではない。ただ軽々しく任せて尽力せぬことを恐れるのみだ。」

 そして奏を留中とした。

補足。
 高錫の上書は柴栄の独裁を諫めたものだけど、史書には特に反論はなく、ただ「不従」とだけありますが、その心境はここのセリフがよく表していると思われます。
 唐末から五代にかけて、皇帝権力の低下から臣僚への不信感というものが、皇帝目線としてあり、任せてその成果の賞罰だけを判断するのでは、これまでとなんら変わらず、禁軍将が困難に当たって勝手に逃亡して、危機を招いた現実がつい最近にあったことからも、急速な改革の必要性を実感していた柴栄は、自ら万事裁決すると思い定めていたのでした。
 これには旧臣ほど戸惑ったことでしょう。柴栄を独裁的な暴君と見なす風潮もこうした強引といえる統治姿勢にあったと思われます。
 しかしだからといって、臣下の意見をまったく聞かないとかそういうことはなく、むしろ意見はよく聞きよく討論し、よく言い負かしていました(レスバ狂か?)。

 ある日、侍臣に言う。

「兵は精にあり、多にあらず。
 百人の農夫の力があってようやく一兵を養える。
 民の膏血こうけつを吸って無益の兵を養うべきではない。
 善悪の区別もなく数を集めては、誰が励むというのか。」

 そこで趙匡胤に命じ、諸軍を大いに選抜させた。
 精鋭のみを採用し、老弱は罷免する。
 さらに天下に壮士を募り、闕下けっか(宮城)に参じさせ、趙匡胤が簡閲かんえつし、武勇抜群の者を殿前禁軍てんぜんきんぐんに編入した。
 馬軍・歩軍もそれぞれ統轄を定めた。

 この選抜の後、軍は精強となり、攻めれば必ず取り、戦えば必ず勝つ。
 侍臣は皆叩頭して賀した。

補足。
「由是士卒精強,近代無比,征伐四方,所向皆捷」《資治通鑑》巻二百九十二。
 これによって兵士たちは精鋭となり、近年に比べるものがないほどであった。四方へ征討に赴けば、向かうところすべてで勝利した。
 と言われる新生禁軍の誕生です。その中核は殿前軍、そしてその中の鉄騎軍という部隊がもっとも強力なのでした。

その折、内官が奏する。
「太師馮道ふうどう、卒去。」

 世宗は深く嘆き、三公の礼をもって葬らせた。

 話は分かれる。

 北漢主劉崇は、高平の敗北以来、憂憤のあまり病を得、数月の後に薨じた。
 契丹に告哀の使者を送る。

 契丹主はこれを受け、使者を派遣して劉崇の子承鈞を冊立し、名を劉鈞と改めて帝とした。

 劉鈞は孝を尽くし、謙恭な性格であった。
 即位後は政に励み、民を愛し士を礼し、国内はやや安定する。
 しかし契丹を父皇と称し、貢献はことごとく敬意を尽くした。

 恥を忍びりょ(異民族)に仕え、石敬瑭の故事を真似て媚びへつらう。
 山後の楊業という干城の将を用いず、軽んじた。
 このため当世に嘲られ、後世に笑われることとなった。

 後人はこれを詠んでいう。

 遼虜当年勢い最も強く
 中原しばしば辺疆を侵さる。
 甘心して上表し父と称し
 無恥なる劉鈞、策は良からず。

 顕徳二年正月元日、日食が四分起こった。
 世宗はこれを見て詔を下し、広く直言を求めた。
 翌日になると、上奏文が次々と寄せられ、世宗はその中から言葉が正しく、行いが善で、民の益となるものを選び、即座に施行した。

 その折、辺将の張蔵英ちょうぞうえいが辺境防備の策を上奏した。
 要旨はこうである。
 冀州きしゅう青州せいしゅう(正しくは深州)などには胡盧河ころががあり、数百里にわたって横たわっている。これを深く浚渫しゅんせつし、水を満たして防壁とし、地の利を選んで城を築けば、兵馬が来ても突進を防げるうえ、百姓も安住の道を得られる、というのであった。

 世宗は奏を覧して大いに喜び、
「張蔵英にこれほどの知略があるなら、必ず朕のために守りを固めてくれよう。長城にも勝る策だ」
と称えた。
 そして詔を下して褒賞すると同時に、韓通と張光遠を派遣し、民夫を督して工事に当たらせた。

 二将は命を受けるや、ただちに軍を率い民夫を動員し、李晏口りあんこうに赴いて城を築き、兵を駐屯させて沿辺の住民を守った。
 これはさておく。

補足。
 燕雲十六州を献じたことにより、遼朝の版図が河北平野に食い込み、冀州と深州はもう北限の州となっています。冀州を南に抜ければ、清河、そして魏へと続く要路なわけです。
 主に深州などは契丹の遊兵が、収穫を奪い現地住民を拉致するという被害があいつぎ、防衛策として胡盧河の水量を確保して騎兵の行動を制してほしいとの声が常々あり、それがようやく着手できるようになったのでした。

 一方、契丹主は張光遠が城を築いていると聞き、諸将と議した。
「李晏口は大遼の出入り口だ。もし城が完成し、重兵が置かれれば、我が国は立ち行かなくなる。
 完成前に精兵を出して攻め、成功させぬようにすべきだ。そうすれば後患はない。」

 諸将は皆、妙計だと賛同した。
 そこで大将の屈突恵くつとつけいを先鋒とし、精兵一万を率いて出陣させた。
 屈突恵は李晏口の数里手前に陣を敷き、
「明日は四路に分かれて攻め、四方から圧すれば敵は自ずと崩れる」
と命じた。

 翌日、張光遠と韓通が築城を監督していると、斥候が
「北兵が大軍で迫っています」
と報せた。
 二人は驚き、急ぎ陣を整えたが、民夫たちは恐れて工事を捨て、四散して逃げ出した。

 屈突恵率いる北兵は四方から押し寄せ、張光遠・韓通の軍を包囲し、昼夜攻め立てた。
 張光遠は歩騎を率いて必死に防いだが、敵は退かない。

 光遠は韓通に言った。
「敵の圧迫が激しい。朝廷に救援を求めても間に合うまい。張蔵英に急を告げ、兵を率いて来てもらうのがよい。」

 韓通もこれに同意し、精鋭の兵を密かに敵陣から出して冀州へ向かわせた。
 張蔵英は文書を読むと、
「張将軍に伝えよ。三日耐えれば、救兵が到着する」
と言った。

 張蔵英は部将の江宏こうこうに城を守らせ、自ら精兵五千を率いて冀州を発し、李晏口へ向かった。
 張光遠は救兵到着を知り、陣を整えて待ち構えた。

 そのとき屈突恵が城攻めを見ていると、山の背後から太鼓が鳴り響き、軍勢が現れた。
 旗が開く中、張蔵英が槍を執って出馬する。
 屈突恵も刀を振るって迎え、両軍の喊声が天地を震わせた。

 二将は二十余合戦い、蔵英はわざと敗走した。
 屈突恵はこれを計とも知らず、追撃する。
 距離が詰まった瞬間、蔵英は猿の腕を伸ばすようにして一喝し、屈突恵を馬上で生け捕った。

 主将を失った北兵は総崩れとなり逃走した。
 張光遠と韓通も兵を出し、張蔵英と挟撃して大敗を与えた。
 死傷者は数え切れないほどである。
 追撃は十余里に及び、屈突恵は城下で斬られ、号令とされた。

 張光遠は言った。
「公が王事に忠を尽くさねば、どうしてこの大功が立てられたでしょう。」

 蔵英は答えた。
「諸公の力によって勝ったにすぎません。ただ、この城は中原の咽喉です。どうか心を尽くして築いてください。急あらば、いつでも助けましょう。」

 二将は重ねて謝し、張蔵英は軍を率いて冀州へ帰った。

 以後、張光遠と韓通は警戒を怠らず、昼夜築城を督し、一月も経たぬうちに完成させた。
 上表して守備兵の配置を請うと、世宗は大いに喜び、張蔵英の功を認めて加爵した。
 さらに詔を下し、張光遠と韓通を節度使に任じ、兵を率いて城を守らせた。

 これにより辺境の患いは静まり、民は次第に生業を取り戻した。

 まことに、

 夜は碧天を指して勝地を占い
 暁には宝剣を磨いて胡塵を望む。

 さて、ある日、世宗は朝廷で重臣たちと議し、こう言った。
「即位以来、治政の要を求めて寝食も忘れてきた。しかし、呉・蜀・幽州・南唐などはいまだ教化に服さず、天下は一つにまとまっていない。近臣たちは、君臣の難易を論じ、また開辺の策を一篇ずつまとめて奏せよ。」

 このとき昌邑侯しょうゆうこうの王朴が一策を献じた。
 世宗はこれを読んで大いに喜び、
「王先生は先帝に功ある臣。その見識は深く、朕の意にまさしくかなう。これぞ国家の柱石だ」
と言い、即日、王朴を開封府(首都知事)に任じ、丞相の職を兼ねさせた。
 王朴は拝命して謝恩した。

 その折、近臣が
「辺境より機密の報が届いております」
と奏した。

 この一報により、やがて――
 賢臣は百世の功を定め、良将は千秋の業を布くこととなる。

 まことに、

 王政はまず暴を除き
 仁君は先ず民を愛す。

 さて、その報せとはいかなるものか。
 それは次回に譲る。

独語。
 王朴の「平辺策」提出の場面ですが、内容が語られていない。
 これは天下平定するにあたり、どのようにすべきかという意見書を求めたもので、王朴が提示したのは概ね、後周と国境線が一番長い南唐を先に攻め、こちらが先手をとって西へ東へと奔命に疲れさせ国力を弱めて淮南の地を得れば、江南を得るのも容易となり、いきおい南漢、後蜀も敵にはならなくなる。しかし北漢だけは必死の抵抗をするので、国力差で押しつぶすしかない、といったもので、北宋の統一戦略、先南後北策の基底となるものです。
 要するに南から攻めよう、ということなのですが。


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