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第三十三回 李太后巡覓儲君 郭元帥襲位大統

第三十三回 李太后、巡りて儲君ちょくんもとめ、郭元帥、位をおそいて大統に就く。

 詩に曰く:

 かつて中原では秦の鹿を追い、
 五軍は敗れて屠睢とすいは戦死した。
 番君ばんくんが一たび起てば衡山こうざんに王し、
 戸将は従って函谷へ入った。

 古来、羈縻きび外藩がいはんと称され、
 誰が市鉄を禁じ、関門を閉ざせと命じたのか。
 鮫魚こうぎょの再び入貢するを見ず、
 たちまち黄屋こうおくに座して自ら尊と称す。

 人事は衰え、まことに哀れ、
 千秋を経て漢の高台のみが残る。
 漢家の遺跡はもはや問うまい、
 歌風・柏梁は、いずこに在るや。

 ――右、朱錫鬯しゅしゃくちょう古体。

 さて、漢主は蘇鳳吉そほうきつの奏言を聞き入れ、みずから親征に出た。
 ところが、ひとたび戦が始まるや、郭軍の猛攻を受け、将は討たれ、兵は潰走し、もはや身の安全を保つほかなくなった。

 やむなく陣を捨てて逃げ、身辺に従うわずかな近侍だけを連れ、玄武門を目指して走った。
 門の外に至ると、旌旗は林立し、剣戟は森のように並び、無数の郭軍が行く手を遮っている。
 漢主は慌てて足を止め、進むこともできない。

 引き返そうとすると、今度は封丘門の外にも郭軍の影が迫っている。
 やむなく手綱を返し、玄武門から延びる大路を西へ走った。

 西華門に着くと、そこにもまた明るい兜と鎧に身を固めた禅州軍が満ちている。
 これでは通れぬと悟り、再び馬を返した。

 気づけば、従っていた内臣は一人もおらず、ただ一騎、孤独に馬を進めていた。
 ふと前を見ると、一つの禅寺があり、額には「白雲禅寺はくうんぜんじ」と記されている。

 漢主は馬を下り、山門をくぐり、堂内へ入った。
 外では甲冑の鳴る音が入り乱れ、鑾鈴らんれいが耳を震わせ、馬蹄の響きが絶えない。
 もはや大勢は去り、取り返しはつかぬと悟り、長く嘆息して言った。

「この劉承祐、今日、天の加護なく、郭軍に汴梁を破られた。一命を失うこと自体は惜しくない。
 だが、父が苦労して築いた江山こうざん(天下)を、こうもあっさり人に渡してしまい、どの面下げて臣民に会えよう。
 しかも老いた母を残し、頼る術もなくしてしまった。
 すべては、私が暗愚であったため、国は滅び、家も亡んだ。この命を、なお何のために留めようか。」

 そう言うと、腰から黄色の綾を解き、柱に結びつけ、さらに叫んだ。

「忠臣の諫言を聞かなかったこと、今にして悔やんでも遅い!」

 かくして自ら首をくくり、崩御した。
 在位三年、享年二十一。
 後世、これを悼んで詠まれた詩がある。

 即位して大業を継いで年わずか、
 藩臣の兵馬、朝前に迫る。
 身亡びて、はじめて忠言を悔いるとは、
 当時、召還せざりしに如かず。

 一方、郭威の大軍は汴梁べんりょうに入城し、ただちに四門を固めさせた。
 そして諸将を率いて、まず蘇鳳吉の私邸を包囲し、家人を改めて調べたところ、男女合わせて百九十四人を捕らえた。
 続いて宮中へ人を遣わし、蘇皇后を拘束した。

 史彦超が蘇鳳吉を捕らえ、史平章しへいしょう史弘肇しこうちょう)の霊前に仇として供えるのを待つ――この件は、ひとまず置く。

 さて、養老宮ようろうきゅうにいた李太后は、宮中に座していたが、内臣が駆け込んで報告した。

「太后さま、大変でございます。万歳爺ばんざいや(皇帝)は御親征なされましたが、行方が分かりません。
 郭軍はすでに皇城に入り、文武百官は四散しました。
 郭威はいま朝前におります。先ほど、多数の兵が蘇娘娘そじょうじょうを連れ去りました。
 どうかご裁断を。」

 李太后はこれを聞くや、魂が飛ぶ思いで、涙が玉のようにこぼれ落ちた。
 すぐに内侍に道案内を命じ、外へ出ようとした。

 すると掌宮の宦官が止めて言った。
「宮門の外はすべて賊兵で固められております。太后さま、どちらへ行かれるおつもりですか。」

 李太后は言った。
「国は滅び、家も亡んだ。行くあてなどあるものか。この老身、一命を賭して郭威に会い、幼主の安否を問いただすまでだ。」

 こうして安楽宮あんらくきゅうを出て、分宮楼ぶんきゅうろうへ向かった。
 臆病な内官たちは皆逃げ隠れたが、胆力のある数人だけが供をした。

 分宮楼を過ぎると、門を守る郭軍が立ちはだかった。
 宦官が告げた。
「こちらは太后さまである。郭元帥にお会いになりたいとのこと、急ぎ取り次げ。」

 兵はこれを聞き、郭威に報告した。
 李太后は金鑾殿きんらんでんへ上った。

 李太后は、世に知られた賢后である。
 しかも郭威は、かつて劉氏に仕え、ことのほか信任を受け、李太后は柴氏夫人を実の姉妹のように遇していた。

 今日、都城を破り、幼主を追い詰めた身で、朝見に及ぶにあたり、郭威は恥と後ろめたさを禁じ得ず、数歩退いて、両膝をつき、口にした。

「太后さま、微臣郭威、拝謁いたします。」

 禅州の諸将は、元帥が君臣の礼を取るのを見て、怠ることなく、丹墀たんちの下(階下)で一斉に叩頭した。
 太后は起立を命じ、将たちは謝恩して立ち並んだ。

 李太后は問いただした。
「郭元帥、そなたは何の理由があって兵を挙げ、社稷を乱したのか。」

 郭威は奏した。
「臣は先帝の特別なご恩を受け、臣としての節を守ってまいりました。
 ところが主上は奸臣を寵信し、臣を死地に追い込もうとされました。
 やむを得ず兵を動かした次第で、奸を除き、佞を去り、朝廷を粛清することを願ったまでです。
 どうか太后さま、明らかにお見取りください。」

 李太后は言った。
「たとえ幼主が若く、そなたに負うところがあったとしても、先帝の御恩を思えば、踏みとどまるべきであった。

 先帝在世の折、そなたと情を同じくし、苦楽を分かち、南征北討して天下を平らげ、ようやく正位に就かれた。
 その功をもって、そなたを元帥とし、兵権を委ね、さらに臨終の際には、その忠義を信じ、孤児を託したではないか。

 それなのに、そなたは志半ばで初心を変え、寡婦と孤児を欺き、ついには兵を挙げた。
 これでは、天がそなたを許さぬであろう。」

 言い終えると、太后は涙にむせび、声も出ぬほどに嘆き悲しんだ。

 郭威はこの光景を目の当たりにして、胸が締めつけられる思いがし、思わず涙をこぼして言った。

「微臣が兵を率いて参ったのは、ただ奸賊・蘇鳳吉を討つためでございます。
 一つには朝廷の綱紀を正し、二つには史平章の仇を報いるため。どうして異心を抱き、反逆など企てましょうか。」

 太后は言った。
「では、なぜ皇上と戦うことになったのですか。」

 郭威は答えた。
「それは蘇鳳吉が兵を率いて城外へ出て、臣を害そうとしたからです。
 やむを得ず兵を動かして防いだまでで、どうして聖上に弓を引く意図がありましょう。」

 太后はさらに問うた。
「それなら、今、皇上はどこにおられるのです。なぜ朝に戻ってこられないのですか。」

 郭威は答えた。
「乱軍の中で行方が分からなくなったものと思われます。どうかご安心ください。臣が人を遣わして四方を捜索し、必ず御駕をお迎えいたします。
 そして事情をすべて奏上し、蘇鳳吉だけを法に処せば、臣は直ちに兵を退き、臣としての本分に戻りましょう。」

 李太后はこの言葉を疑わず、涙をこらえながら宮人を伴って安楽宮へ戻っていった。

 ただ王統が旧に復することを願っただけなのに、気がつけば、皇位はすでに他人のものとなっていた。

 さて、史彦超は逃げる蘇鳳吉を追い続け、天にも地にも逃げ場のないところまで追い詰めた。
 まるで網を逃れた魚、家を失った犬のような有様である。

 だが、史彦超の馬は、蘇鳳吉との距離がなお百歩ほどあり、どうしても追いつけない。

 ――読者よ。
 人は切羽詰まると、かえって判断を失うものだ。
 この場面でも、史彦超がもし弓を引いて矢を放っていれば、
 たとえ人に当たらずとも馬に当たり、苦もなく仕留められたであろう。
 しかし史彦超は、生け捕りにして兄嫁に仇を報じようとする一念にとらわれ、弓を引くことなど思いもよらず、ただ追いすがるばかりであった。

 追いつけぬと分かるや、怒りが込み上げ、
「奸賊め、どこへ逃げる! 必ず行き止まりまで追い詰めて捕らえてやる!」
と罵りつつ、馬をさらに駆り立てて追った。

 一方、蘇鳳吉は魂も胆も飛び散るほど怯え、頭を低くし、馬腹を蹴り、命懸けで逃げ続けた。
「せめて馬に翼があれば……」
 と、叶わぬ願いを抱くほどであった。

 やがて道端に古びた寺が見え、山門に至ると、馬を捨て、刀を手にして門内へ駆け込んだ。
 そして心の中で決めた。
「ここで命懸けでやり合うしかない。あの黒賊が死ぬか、私が死ぬかだ。」

 そう覚悟を定め、身をひそめて山門の脇に伏し、朱纓刀しゅえいとうを頭上に掲げ、史彦超が入ってくるのを待ち構えた。

 ところが、史彦超は運命に守られていた。
 追って来て、蘇鳳吉が寺に逃げ込むのを見届け、すぐに山門へ駆け寄ったが、馬から転げ落ちて槍を取ると、門内へ踏み込もうとした瞬間、突如として陰風が寺内から吹き出し、砂塵を巻き上げ、かすかに泣き声まで混じって聞こえた。

 不審に思い、足を止めると、空中から声が響いた。
「弟よ、門の中へ入ってはならぬ。あの奸賊は中に潜み、そなたを害そうとしている。
 ここで門を押さえて待て。援軍はすぐに来る。」

 その声が消えると同時に、風は止み、塵も静まった。

 史彦超は涙を流し、叫んだ。
「兄上の御霊が感応し、陰ながら守ってくださった。必ずこの賊を捕らえ、仇を報いてみせます!」

 そう言い終えるか終えぬかのうちに、甲冑の鳴る音が響き、振り返ると西の方から土煙が立ち、禅州の旗を掲げた一隊の軍勢が駆けてくる。

 それは、郭威の命を受けた王峻おうしゅん韓通かんつうであった。

 史彦超は叫んだ。
「両将軍! 奸賊・蘇鳳吉は、この寺の中に逃げ込みました。早く捕らえてください!」

 二人はただちに兵に命じ、寺を取り囲ませ、捕縛の備えを整えた。

 その頃、蘇鳳吉は門の内側で待ち伏せていたが、外に援軍の気配を感じるや、もはや策を弄する余裕もなく、奥へ奥へと逃げ込んだ。

 大殿を抜け、脇の十王廊じゅうおうろうの下へ至ったその時、
目の前に、史弘肇しこうちょうの姿が現れた。
 襆頭ほくとうを戴き、象簡しょうかんを手に、玉帯に烏靴――
 まるで生前そのままの姿で、正面に立ちはだかり、大喝した。

「奸賊、どこへ逃げる! 我が命を返せ!」

 そう叫ぶと、朝笏ちょうしゃくを振り上げ、真正面から打ち下ろした。

 蘇鳳吉は口を開いたまま、その場に崩れ落ち、意識を失い、人事不省となった。

 そこへ、王峻・韓通、そして史彦超が兵を率いて捜索に入ってきた。
 床に横倒しになった蘇鳳吉を見つけると、何の苦もなく五花大綱ごかたいもうで縛り上げ、馬にくくりつけた。

 こうして一行は寺を出て汴梁城へ戻り、郭威の前に引き出して、命を復命したのであった。

 郭威は命じて、史弘肇夫妻の骸骨を掘り起こし、かんかくを整えて丁重に収め、祖墳に改めて葬らせた。
 また、一族すべての遺骸についても、場所を選んで改葬させた。

 葬礼の日を迎えると、史彦超は郭威に申し出て、
「蘇鳳吉の一家男女を、兄嫂の墓前に連れて行き、祭って仇を報じたい」
と言った。

 これを聞いた王朴が制して言った。
「史将軍、下官から一言申し上げたい。昔から『一家を養う者が千百人いても、罪を負うのは一人』と言います。
 令兄を陥れたのは、ただ蘇鳳吉一人であり、その家族に罪はありません。

 しかも、将軍はいま汴梁に入ったばかりで、まず民心を得ることが肝要です。
 もし老若男女を問わず一族皆殺しにすれば、一つには天地の好生の徳こうせいのとくを傷つけ、二つには民が恐れ、怨みを抱き、将軍にとって不利となりましょう。

 下官の愚見では、蘇鳳吉夫婦をもって令兄・令嫂の霊を祭り、さらにその子と嫁の二人を、一家の命に代える程度とし、それ以外はすべて放免するのがよろしいかと存じます。
 これは国法を尽くし、人情にもかなう、最も穏当な処置でございます。」

 史彦超は答えた。
「軍師の言、従わぬわけには参らぬ。しかし、昭陽宮しょうようきゅうの蘇皇后は、奸臣の実の娘であり、あの賤婦こそが人を惑わせ、朝廷を乱した張本人。
 これもまた、兄嫂の霊前に供すべきではないか。」

 王朴は言った。
「将軍、そのお考えは、さらによろしくありません。蘇皇后は確かに蘇鳳吉の娘ですが、同時に漢主の皇后です。
 あなたも我々も、彼女に対しては君臣の大義を負っています。

もし彼女を令兄の霊前に供すれば、令兄の霊も安らがず、また元帥の名声を損なうことにもなりましょう。
 この件だけは、どうかお思い直しください。」

 史彦超はなおも言った。
「軍師、たとえ皇后であろうとも、臣子に対して害をなしたなら、それは仇敵です。
 私は必ず彼女を殺し、兄の霊を慰めねば、九泉の下で目を閉じられませぬ。」

 王朴は答えた。
「将軍がどうしてもそうなさるなら、一つ両全の策があります。先ほど斥候の報せによれば、漢主は白雲寺で自縊じいされたとのこと。
 ならば、蘇皇后にも自尽を命じ、漢主に殉葬させてはどうでしょう。それなら、令兄の仇を報いたのと同じことになりましょう。」

 郭威もこれを聞き、史彦超を諭した。
「賢弟、軍師の言に従うがよい。令兄は生前、国のため民のために尽くした忠臣であった。死後は必ず神となり、民を守護しておられるはずだ。ここは思いとどまるがよい。」

 史彦超は、郭威の勧めを聞き入れ、涙をのんで承諾した。
 そして蘇鳳吉夫妻と、その子・嫁の四人だけを縛り、墓前に引き出して跪かせた。

 朝廷の文武百官は、
「蘇家父子を史平章の霊前に供する」
と聞き、郭威に従って皆そろって墓所へ赴いた。

 墓前には祭礼の席が設けられ、香と蝋燭、紙銭が整えられ、蘇家四人はその前に跪いていた。

 まず郭威が、文武百官および禅州の将佐を率いて、順に拝礼し、紙銭を焼いた。
 続いて史彦超が香を取り、酒を奠し、地に伏して号泣した。

「兄上、義姉上。生前は正直に生き、死後は神明となられました。どうか本日、この供えをお受けください。」

 拝礼を終えると、史彦超は立ち上がり、袖をまくり、目を血走らせ、部下に命じて蘇鳳吉の衣をすべて剥ぎ取らせた。

 史彦超は歯を食いしばり、純鋼の利剣を掲げ、蘇鳳吉を指さして罵った。

「国を誤り、君を欺いた奸賊め! 賢を妬み、人を害した佞臣め! 椒房しょうぼう(皇后)の外戚に頼って威福をほしいままにし、藩鎮を削ろうとして、我が兄の一門を無実のまま滅ぼした。
 誰も恨みを晴らさぬと思ったか。
 だが天理は明らかだ。今日、この私に捕らえられたのだ。今、貴様の心肝を取り出し、兄嫂の霊前に供えてやる!」

 そう命じて、左右に紙銭を焼かせた。

 蘇鳳吉はこれを聞き、深く後悔した。
「こうなると分かっていれば……」
 と思ったが、もはや遅い。
 道に背いて人を害すれば、報いは必ず己に返るのである。

 蘇鳳吉はうつむいて黙し、ただ死を待った。

 史彦超は情をかけることなく、左手で蘇鳳吉を押さえ、右手の剣で胸元を一突きした。
 胸は裂け、腹は開き、血が地に流れ出る。
 史彦超は両手で心臓と肝を引き抜き、
 血にまみれたまま供卓の上に捧げ、大声で泣き叫んだ。

「兄上、義姉上! 仇はここにあります。弟は今日、仇を討ち、その心を供えました。
 どうか受け取ってください!」

 泣き終えると、さらに蘇家四人の首をすべて斬り落とし、供卓に並べた。

 すると墓前から、にわかに陰風が巻き起こり、黄砂が渦を巻き、かすかに泣き声を伴いながら、西へと去っていった。

 郭威は配下の将士を率いて、皆ひれ伏して拝礼した。

 史彦超は拝礼を返し、さらに酒を三献奠して兄嫂の霊を祭った。
 その後、郭威の前に進み、両膝をついて言った。

「元帥、史某はあなたの威力によって、一家の仇を報いることができました。この恩徳、骨に刻み、生死を通じて忘れませぬ。」

 郭威は慌てて手を取って起こし、言った。
「将軍、過分なお言葉だ。これは令兄の霊が感じ取り、みずから仇を報いたまで。私に何の功があろうか。」

 史彦超は立ち上がり、禅州の諸将にも礼を述べた。

 こうして文武百官とともに帰朝し、最後に蘇皇后を自害に追い込み、漢主とともに王陵に葬った。

 これをもって、すべての事は終わった。

 翌日、郭威は文武百官を率いて太后に朝見し、隠帝が自縊した経緯などを、余すところなく奏上した。
 太后はもはやどうすることもできず、ただ涙を流すばかりであった。

 そこで文武百官が奏上した。
「国は一日たりとも君主を欠くことはできません。どうか早く明主をお立てになり、天下を安んじてください。」

 太后は詔を下し、隠帝の弟で、河東節度使である劉贄りゅうしを迎えて即位させることにした。
 劉贄は、晋陽公・劉崇りゅうすうの子である。
 ただちに使者を遣わし、車駕を整えて迎えに向かわせた。

 ところがその矢先、
「契丹が兵を挙げて侵入し、国境を激しく侵している」
との急報が入った。
 太后はすぐに郭威に命じ、兵を率いて救援に向かわせた。

 郭威は詔を奉じ、配下の戦将たちを率い、兵を進めた。
 大軍は澶州に到着し、その夜は城内に宿営した。

 その夜、諸将がひそかに集まり、こう相談した。
「我らはもと、禅州で兵を挙げ、元帥を天子として立てるために命を懸けて戦ってきた。妻子を封じ、子孫を栄えさせるためである。

 ところが都城に至れば、昏君は自ら命を絶ち、新たに漢家の宗族を立てるとは。これでは、我らは決して服することができぬ。」

 軍師の王朴が言った。
「諸将の考えは、私も同じだ。この事は一刻も猶予できぬ。明日、必ずかくかくしかじかにすれば、大事は定まる。」

 諸将は大いに喜び、決行の準備を整えた。

 翌朝早く、郭威が起きて出陣の命を下そうとしたとき、突然、外で太鼓が鳴り響き、騒ぎが起こった。
 郭威は、兵の心が乱れたのではないかと疑い、急いで供の者に命じて館の門を閉ざさせた。

 しかし間もなく、多くの将兵が次々と塀を越えて入り込み、郭威の前に押し寄せた。

 郭威が驚いて理由を問うと、諸将は言った。
「我らは九死に一生を得て元帥に従い、元帥を天子にお立てするつもりで事を起こしました。
 それなのに、他人を君主に立てるとは、衆心はどうしても服しません。

 そこで軍師と相談し、元帥を皇帝として立て、天下に号令することに決めたのです。」

 郭威は言った。
「新君はすでに定まっている。どうして今さら変えることができようか。
 ましてやこれは国家の大事、お前たちが軽々しく決めてよいことではない。」

 王朴は答えた。
「衆心はすでに定まりました。明公は必ずお従いになるほかありません。
 それに、諸将はすでに劉氏と仇敵の関係にあります。どうして大人しく従うことができましょうか。」

 その言葉が終わらぬうちに、王峻が館の門を開き、兵士の手から一面の黄旗を引き裂くように取り上げ、それを郭威の身にまとわせ、大声で叫んだ。

「我らは共に元帥を主君として立てる!誰がこれに逆らう者があるか!」

 諸将は一斉に伏して万歳を唱え、門外の兵もまた万歳を叫び、その歓声は数十里に響き渡った。

 将士に擁立された郭威は、兵を率いて汴梁へ引き返し、太后に上奏文を送った。

 大意は、

「諸将に押され、もはや辞退できず、やむを得ずこの地位に就くこととなった。
 大漢の宗廟は引き続き奉じ、太后を母として敬い仕える」

というものであった。

 太后はこれを読み、郭威が兵強く将勇であり、しかも腹心が朝堂に満ちているのを思い、もはや大勢は定まり、挽回は不可能と悟った。

 そこで詔を下し、劉贄を湘隠公しょういんこうに廃し、郭威を監国かんこくとした。この年、後漢はついに滅亡した。

 史官はこれを評して言う。

 高祖は精鋭の兵を擁し、地の利を占め、契丹騎兵が北へ退いた隙に、中原に主がいなかった。
 そのため悠然と南面し、天下は彼に帰した。
 これは彼の才能徳が抜きん出ていたからではなく、ただ時勢がそうさせたにすぎない。

 根が浅ければ国は固まらず、基が薄ければ危うい。
 隠帝は君主の号こそあれ、政は自ら出ず、民は君を知らなかった。
 小人の謀を軽信し、跋扈する臣を抑えようとして、災いはすぐに身に及んだ。
 父子相続して四年で滅びた国は、古来、これほど短命な例はない。
 ああ、哀しいことだ。

 その日、郭威は即位し、文武百官の朝賀を受け終えると、幼主に「隠帝」の諡号を贈り、李太后を昭聖太后として尊奉した。

 翌日には、郊外で天地に祭りを行い、天下に大赦を布告した。

 自らを周の虢叔かくしゅくの後裔と称し、国号を「後周」と定め、年号を「広順」と改め、柴氏夫人を皇后に立てた。

 また、柴栄を晋王に、王峻を鄴郡節度使に、史彦超を京営総都に、韓通を御営団練元帥に任じ、偏将の王豹・曹英らも総兵に加封した。

 王朴は昌邑侯・大将軍に封じ、軍国の大事を兼ねて任せた。
 さらに、漢朝の旧臣である范質はんしつを右丞相、貞固ていこ竇貞固とうていこ)を左丞相、竇儀とうぎを翰林学士とした。

 その他の漢臣は、原職のままとし、官を望まぬ者には退帰を許し、従軍した兵士には賞金と糧秣を与えた。

 封賞が定まると、文武百官はそれぞれ謝恩した。

 ところが、その中に一人、綸巾かんきんに道服をまとった臣が、階前に伏したまま謝恩せず、辞退して奏した。

「臣には愚かながら、胸中の願いがございます。どうか天聴をお許しください。」

 この一奏が、やがて──
 征伐を終えて初心を遂げ、
 泉石せんせき(景色のよい場所)に遊ぶ素志そしをかなえることとなる。

 まさに、

 人の爵位は、天の爵位に及ばず。
 功名は、孝の名に及ばない。

 さて、この奏上をした人物とは誰なのか。
 それは、次回を待って明らかとなる。

独語。
 中国の歴史で、こうした王朝交代劇はいくどもあり、その時掲げられる国号は、その直前に就いていた封地や王号など爵位に拠るところが多かった。
 しかし郭威は組織内での地位は宰相級で、軍事権もあり比肩する者がいなかったけど、王号はまだなかった。
 そこで自分の姓である「郭」を、古代周王朝を開いた武王の弟、「虢叔かくしゅく」の権威に求めました。虢は転じて郭となり、虢叔は太原郭氏の祖ということになっているからです。
 それはそれとして、郭威の出自は不明瞭なところがあって、父は郭簡かくかんなのですが、郭威は実は連れ子で、血を分けた父親ではなかった、乳幼児だったのでそのまま郭簡の子として育てられた、といった話が《舊五代史》周太祖本紀の冒頭にあって、いきなり権威付けが怪しかったりします。
 また郭威の建てた後周朝は、やがて養子である柴栄に引き継がれることになり、国姓が変わる珍しい王朝でもありました。まぁでも短命王朝だしいいか、といった扱いでしょうか。
 さて、封地といえば郭威は魏州に鎮していたので、魏国でも名乗ればいいところ、五代政権の国号が、唐←晋←漢とこれまでの統一王朝の名を遡ってつけられていたので、魏では弱いと(憶測です)。
 そして軍の造反による指導者推戴。この動きは唐朝の安禄山と史思明の乱以降、地方軍(節度使)の指導者推戴に淵源がありよく見られた光景なわけですが、皇帝に推戴された例と言えば、後唐明宗(李嗣源)の推戴がその最初の例になってきます。
 その後、郭威、そして趙匡胤と続きます。ここで郭威の例をのちに趙匡胤は、ほぼ模倣したといってもいいでしょうね。


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