アナ雪の原作アンデルセン『雪の女王』あらすじ~「ありのまま」におけるディズニーとの違いとは
『アナと雪の女王』の原作!『雪の女王 アンデルセン童話集』あらすじと感想~「ありのまま」におけるディズニー映画との違いを考える

今回ご紹介するのは1976年に角川文庫より発行されたアンデルセン著、山室静訳『雪の女王 アンデルセン童話集』です。私が読んだのは2019年改版初版です。
早速この本について見ていきましょう。
悪魔の鏡が砕け、世界中にとびちった。そのかけらの一つが目に入り、少年カイの心は氷のかたまりのようになっていく。いじわるになってしまったカイを、雪の降るある日、雪の女王が連れ去ってしまう。少女ゲルダはカイをさがし、日の光やカラス、鳩、魔法使いや山賊の娘、トナカイらに助けられながらお城へ向かうが……。表題作ほか、「みにくいアヒルの子」「モミの木」「赤い靴」「マッチ売りの少女」など、中期代表作10話を収録。
この童話集の表題作となっている『雪の女王』はあのディズニー映画『アナと雪の女王』の原作となった作品です。
作者は以前当noteでも紹介してきましたアンデルセン。19世紀中頃に活躍したデンマークの童話作家です。
改めて彼のプロフィールを見ていきましょう。

1805年デンマーク、オーデンセに貧しい靴屋の息子として生まれる。14歳のとき、俳優を志しコペンハーゲンへと飛び出すが挫折。30歳のとき、小説『即興詩人』を発表。以後、「親指姫」「小さい人魚姫」「はだかの王さま」「みにくいあひるの子」「マッチ売りの少女」など数々の名作を残した。生涯独身のまま、1875年、70歳で逝去。葬儀にはデンマーク国王と王太子も参列した。
上にも少し述べましたがアンデルセンは19世紀中頃の作家ということで、割と最近の作家です。彼はあの大作曲家メンデルスゾーンとも深いつながりがありました。このことについては以前紹介した中野京子著『芸術家たちの秘めた恋―メンデルスゾーン、アンデルセンとその時代』に詳しく説かれていますので興味のある方はぜひこの本もおすすめです。
さて、本題の『雪の女王』のあらすじをもう一度見ていきましょう。
悪魔の鏡が砕け、世界中にとびちった。そのかけらの一つが目に入り、少年カイの心は氷のかたまりのようになっていく。いじわるになってしまったカイを、雪の降るある日、雪の女王が連れ去ってしまう。少女ゲルダはカイをさがし、日の光やカラス、鳩、魔法使いや山賊の娘、トナカイらに助けられながらお城へ向かうが……。
この物語の核となるのは、人の心を変えてしまう「悪魔の鏡」にあります。この悪魔の鏡とは一体何なのか、より詳しく見ていきましょう。
ある日のこと、悪魔はひどくいいご機嫌になっていました。というのは、この悪魔は、まったくふしぎな力を持つ一つの鏡をつくったからでした。
その鏡には、よいものや美しいものがうつると、たちまちそれが、まるっきりつまらないものになってしまうのです。ところがその反対に、やくにたたないものとかみにくいものなどは、はっきりと大きくうつって、なおさらひどく見えるのでした。このうえもないほど美しい景色でも、この鏡にうつったがさいご、まるでにつめたホウレンソウみたいになってしまうし、どんなによい人間でも、みにくく見えてしまうか、さもなければ、胴がなくなって逆立ちにうつってしまいます。顔はすっかりゆがんでしまって、だれの顔だか見わけもつきません。そのかわり、そばかすが一つあってもそれが鼻やロの上までひろがって、はっきりと見えてくるのです。
良いものがすべて悪いものに見える。そして悪いものはほんの些細なものでも大きく見えてしまう。それが悪魔の鏡です。
では引き続き見ていきましょう。
「こいつは面白いぞ」と、悪魔はいいました。
たとえば、なにか信心深い、よい考えが人の心の中に起こってきますと、鏡の中にはしかめっつらがあらわれてくるのですものね。悪魔は自分のすばらしい発明に思わずふきだしてしまいました。
さて、この悪魔はトロールの学校の校長をしていましたので、この学校にかよっている生徒たちはみんな、これこそ奇跡が起こったのだといいふらしました。そして、いまこそはじめて、この世界と人間との本当の姿が見られるのだ、とロ々にいいました。
ここはディズニー映画と原作との違いを考える上で重要な箇所ですのでぜひ記憶しておいてください。
映画では「ありのまま」がキーワードになっていますが、映画の「ありのまま」と、原作で悪魔が言う「いまこそはじめて、この世界と人間との本当の姿が見られるのだ」という意味の違いは大きなものがあると思われます。
そして悪魔たちはその後この鏡を落としてしまい、その無数の破片が人間の世界に撒き散らされることになります。この鏡の恐ろしいところは、小さな破片になってもその効力が継続し続けるという点にありました。この破片が人々の目に入り込み、彼らのものの見え方を変えてしまったのです。
こうなると、その人の目はなにもかもあべこべに見たり、ものの悪いところばかり見るようになります。どんなに小さな鏡のかけらでも、鏡ぜんたいと同じ力を持っていたからです。
人によっては、小さい鏡のかけらを、心臓にうけてしまった人さえありました。そうなると、本当に恐ろしいことでした。その人の心が、氷のかたまりのようになってしまうのです。また鏡のかけらの中には、大きいために、窓ガラスにつかわれたのもありました。けれども、このガラス窓から友だちを見たりすると、とんだことになりました。それから、眼鏡になったかけらもありました。けれど、この眼鏡をかけてものをただしく見たり、きちんとふるまったりしようとしたら、とんでもないことでした。
こうした背景の下、何度も引用しますが、
悪魔の鏡が砕け、世界中にとびちった。そのかけらの一つが目に入り、少年カイの心は氷のかたまりのようになっていく。いじわるになってしまったカイを、雪の降るある日、雪の女王が連れ去ってしまう。少女ゲルダはカイをさがし、日の光やカラス、鳩、魔法使いや山賊の娘、トナカイらに助けられながらお城へ向かうが……。
という物語が始まっていくのです。
私達人間はどうしても人の悪いところを見てしまったり、世界を自分の思いのままにしたいという欲を持っています。小さな喜びやささやかな善良さを私たちは見過ごし、「あいつが悪い。社会が悪い。奴らは許せない」と不満や憎しみを募らせてしまいます。
こうした人間の「ものの見方」をアンデルセンは悪魔の鏡の破片として、童話的に描き出しています。私達人間の「どうしようもなさ」を童話的、神話的に描き出すアンデルセンの想像力に私はぞくぞくしてしまいました。
そしてこの物語の主人公、少女ゲルダは大好きなカイを救うために旅に出ます。カイは悪魔の鏡によってすっかり人格が変わってしまい、その後雪の女王に連れ去られてしまっていたのでした。
せっかくですので、カイが悪魔の鏡によって豹変してしまったシーンを見ていきましょう。ここもアンデルセンはさらっと書いていますが非常に神話的で深いものがあります。ここもぜひ注目したいです。
「あっ、胸のとこがなんだかちくりとしたぞ。なにか目の中にはいったようだ」
小さな女の子は、男の子の首をだきました。男の子は目をぱちぱちやりました。けれど、なんにも見つかりませんでした。
「もう出てしまったんだろ」と、男の子はいいました。
でも、出てしまったのではありません。それはあの鏡、ほら、あの悪魔の鏡からとびちった、小さなかけらの一つがとびこんだのです。
わたしたちは、まだよくおぼえていますね。あの悪い鏡にはふしぎな力があって、大きなものや美しいものがうつると、みんな小さくみにくくなってしまうのに、悪いものやいやなものは、はっきりと大きくうつって、ものの悪いところばかりがすぐに目につくのでしたね。かわいそうに、カイの心臓には、そのかけらが一つはいったのです。カイの心は、まもなく氷のかたまりのようになるでしょう。いまでは、もう痛みはしませんでしたけれど、かけらはまだはいっていたのです。
「どうしておまえは泣くの。なんてみっともない顔をしてるんだ。ぼくはもう、なんともないんだぜ。ちぇっ」と、カイはいいました。それからまた、すぐに叫びました。
「そのバラは、虫にくわれてらあ。それからさ、あっちのはあんなにねじれてるよ。まったくきたならしいバラの花だなあ。植えてある箱とそっくりだ」
こういうと、足で箱をひどくけとばして、バラの花を二つもちぎってしまいました。
「カイちゃん、なにをするのよ!」と、女の子は叫びました。カイはゲルダがびっくりしているのを見ると、さらにもう一つ花をむしっておいて、仲よしのゲルダをうっちゃらかしたまま、窓から自分の家へとびこんでしまいました。
それからというものは、ゲルダが絵本を持っていきますと、そんなのは赤んぼうの見るものだ、とカイはいいました。また、おばあさんがお話をしますと、ひっきりなしに、「だって、だって」といっては、ロをはさみました。しまいには、すきを見つけておばあさんのうしろへまわっては、眼鏡をかけておばあさんのロまねをするのです。しかも、それがとってもよく似ていますので、みんなは大笑いをしました。
まもなくカイは、近所じゅうの人たちの話しぶりや歩きかたをまねできるようになりました。みんなの癖とか、よくないところを、とても上手にまねするのです。それを見て人々は、「あの子は、頭がいい」なんていいましたが、なに、それは目からはいって心臓につきささっているガラスのせいだったのです。
そんなわけで、カイととても仲がよかった、小さなゲルダさえいじめるようになりました。遊びかたもこれまでとはすっかりちがって、とても利口ぶったものになったのです。
この箇所を読んで皆さんは何を感じたでしょうか。
宗教や文学を学んでいる私にとって、この箇所は非常に興味深いものがありました。
カイは悪魔の鏡によって心も「ものの見方」もがらっと変わってしまいました。
そしてそれまで純朴に愛していたバラの花も醜く見えてくるのでした。そしてその後の「絵本なんて赤ん坊の読むものだ」と馬鹿にする様はかなり示唆に富みます。
これは聖書におけるアダムの堕落を連想させます。あの、知恵の実を食べたことで人間は罪を背負い、楽園を追放されたというエピソードです。人間は「知恵」を得たことで苦しみが始まったという物語ですね。
まさしく、カイは鏡によって「知恵」を得ました。かつて純粋に楽しんでいたものを、軽蔑し、利口ぶり、他者を見下し馬鹿にするようになります。
アンデルセンが「まもなくカイは、近所じゅうの人たちの話しぶりや歩きかたをまねできるようになりました。みんなの癖とか、よくないところを、とても上手にまねするのです。それを見て人々は、「あの子は、頭がいい」なんていいましたが、なに、それは目からはいって心臓につきささっているガラスのせいだったのです。」というのは非常に切れ味の強い風刺であると私は感じました。
というのも、ここで私はニヒリストへの風刺を感じたからです。
ニヒリストという言葉が広まったきっかけは1862年にツルゲーネフによって書かれた『父と子』という小説にあるので、アンデルセンは直接このニヒリストを指して風刺したわけではありません。
ですが、「ニヒリスト的人物」はすでにヨーロッパ中にたくさんいたのです。
というのも、ニヒリストは大きく言えば、既存の価値体系をすべて否定し、嘲笑するタイプの人間だからです。19世紀ヨーロッパはキリスト教的世界観への反発がかなり露骨に現れ出した時代でもありました。伝統的なものの考え方、道徳観を嘲笑し、自分たちこそ新たな世界を作り出すのだという人がたくさん出てきた時代です。
私はカイの姿を通して19世紀のニヒリスト的人物の面影を感じたのでありました。
さて、ここまでアンデルセンの『雪の女王』を見てきたわけでありますが、ディズニー映画の『アナと雪の女王』とは決定的に違う箇所が少しずつ見えてきたのではないでしょうか。
アンデルセンの原作では「ありのままの自分でいい」というテーマはどこにも見当たらないのです。それよりも、人間の「ものの見方」に焦点を当てています。
私たちは悪魔の鏡によってものの見方が変わり、心も冷たくなってしまった。その凍った心を温め、それを救うのが純粋な愛なのだというのがアンデルセンの作品です。
それに対し『アナと雪の女王』のメインテーマは「ありのままでいい」、「自分らしさが大切」ということを前面に押し出したものとなっています。歌と合わせたこのメッセージは強力で、社会現象にもなりました。
ディズニーはアンデルセンの原作とは違い、「ありのままでいい」というメッセージを強烈に押し出します。
それはなぜなのでしょう。
答えはいくつか考えられますが、私が思うのは「ディズニーは時代の要求に答えた」。あるいは「人々の需要を作り出そうとした」ということです。
私達現代人はもはや「これをすればあなたはいい人。大丈夫なのよ」という倫理規範を持っていません。かつては神や社会、共同体、会社など、様々なものが私たちを守ってくれました。窮屈な思いもあったかもしれませんが、そこに従っていれば「あなたは悪い人間ではない」という帰属感、安心感を持つ事ができたのです。
しかし現在は欧米流の考え方の影響が強まり、日本もどんどん個人主義化しています。
そうなると自分が何者であるのか、何をもって自分が良しとされるかも自分で決めなければならなくなります。
ここに私たち現代人が持つ不安や苦しみがあるのです。
「個性が大事」とか、「ありのままでいい」とかよく言われますが、そのありのままの自分に耐えられるほど人間は強くできていないのです。人間はある社会や共同体において役割を与えられてこそ生きていけるのです。自分ですべての善悪を決めるのは重荷以外の何物でもないのです。
ディズニーはこうした不安や苦しみにきっと気づいています。そしてその潜在的需要に応えるために「あなたはありのままでいいのですよ」と高らかに歌い上げるのです。
「本当にありのままでいいのか。そもそもありのままの自分って何なのだ。もっといい人間になれたらいいのに」と不安がる私たちに「それでいいのです。そのままであなたは素晴らしいのです」と優しく声をかけてくれる女王様。私たちはその言葉をどれほどありがたく頂戴することでしょう。
・・・が、はたしてそれで本当に救われるかどうかはまた別問題です。
結局現状は何も変わっていないのです。いくら優しく声を掛けられても、「ありのままって何なのか」、また「自分で善悪の基準を決めるという自由の重荷」に苦しみ続ける地獄は変わらないのです。
「個性、自分らしさ、ありのまま」讃美は本当にいいことなのか~善悪の基準を失った私達
私たちは今、「個性が大切です。自分らしくありなさい。ありのままでいいのです」という言葉をよく耳にすると思います。
しかしです。私はこれら「個性が大事です。自分らしくありなさい。ありのままでいいのです」というメッセージに不安な感覚を覚えるのです。
それはなぜか。
「ありのままでいい」と言われて「そうなんだ!自分って今のままでいいんだ!」と本気で思えることがありえるのかと私は疑問に思ってしまうのです。
たしかに映画を観た後、そういう気持ちになることもあるかもしれません。しかし、日々生きていれば色んなことがあります。いいこともあれば悪いこともあります。
特に辛い状況に置かれて自分が落ち込んでいる時、「ありのままでいい」と言われたとしたらどうでしょう。「そのありのままの自分に耐えられないから辛いんだよ!」と叫びたくなる時があったりはしないでしょうか?
「個性」とか、「自分らしさ」とか、「ありのままの自分」というのは、自分が成功していてうまくいっている時はそれに満足できるのです。
ですが、自分がうまくいっていない時、それらはむしろ重たくのしかかってきます。
「個性」とか、「自分らしさ」とか、「ありのままの自分」というものの難しさは、それらを自分で決めなければならないというところにあります。
言い換えれば「自分が良しとされる感覚」を自分で見つけなければならないということなのです。
かつての日本では会社に属していることや、家族や結婚、どこのお寺や神社、教会に属しているかなど、社会的に属しているものによって「自分が良しとされる感覚」を得ることができました。
そこに属しているだけで、あるいはそこに属して特定の行動を皆と一緒にすることで、「自分は社会の一員である」、「自分は良しとされている感覚」を得ることができたのです。
また、かつては皆同じものを見て皆共通のものを知っていた時代でした。
ドリフにしろ欽ちゃんにしろ、プロ野球やプロレス、歌番組など皆が知っていて皆が話題にできるものがありました。音楽も然りです。皆と同じであるという安心感はこうしたところからも得ることができたのです。
ですが現代は個の時代です。
かつては属しているだけで「自分が良し」とされる感覚を得られたのが、今ではそんな共同体はほとんどなくなってしまいました。仕事をしても会社からそういう感覚を得ることはほとんど不可能でしょう。
結婚し所帯を持つ事も今では「自分が良し」とされる基準ではありません。
また「お天道様が見てらっしゃる」という感覚も今では薄くなってしまったことでしょう。
今や、共同体や伝統的な慣習を重んじる時代ではありません。
それらから解放された自由な個の時代です。
もはや共同体も伝統も私たちに「良し」とは言ってくれません。
今や私たちは自分で自分を「良し」と言わなければならないのです。
これまでは神様や仏様、共同体、会社、伝統など、自分ひとりを超えた大きなものから「わたしは良し」という感覚を受け取っていた。これは大変でめんどくさいこともしなければなりませんが、実は精神的には負担が少ないのです。
なぜなら「自分で何が善で何が悪かを考える必要もなく、そして責任もない」からです。私たちはそれに従うことで自分は良しと感じることができていたのです。
しかし、今やそうした伝統的なものは力を失い、日々私たちに語りかけられるのは「個性が大切です。自分らしくありなさい。ありのままでいいのです」という言葉です。
今やこの言葉は神聖不可侵な響きすら感じられるでしょう。
この言葉はもはや絶対に間違うことのない私たちの「真理のことば」として受け止められているかもしれません。
ですが単に「個性が大切です。自分らしくありなさい。ありのままでいいのです」と言われても、この言葉がある故に苦しむ人が膨大に出てくるのも事実なのではないでしょうか。
先にも申しましたが、「そのありのままの自分に耐えられないから辛いんだよ!」と叫びたくなる人が必ず出てきます。
かつては「どこに属していて、何々をしていれば、社会の一員として良しとされる基準」がありました。しかし今や個の時代。人それぞれ自由に生きていく時代です。
そうなると自分で何をするべきか、何をもって自分を良しと感じるかを決めなければなりません。
ある人は仕事で業績を上げることを良しとするかもしれません。
またある人は地位や名誉があることが自分を良しとする基準かもしれません。
他にも財産があることや、モテること、お洒落なものを持つこと、賢くなること、高級品を身にまとうことなど様々なものを人は想像するでしょう。
そしてそれが実現している時は「自分を良し」と感じることができるかもしれません。ですがそれは自分で考えだした基準です。状況によってぶれてしまうことが往々にしてあります。もし状況が悪くなっていけばこれまで通り「ありのままでいい」とは思えなくなってしまうでしょう。
結局「ありのままでいい」と言いつつ、「成功している自分」、「うまくいっている自分」がいいのです。これは人間の心の非常に繊細で難しいところです。そうなってしまうのが人情だと思います。
「個性が大切です。自分らしくありなさい。ありのままでいいのです」という言葉は耳触りがいいです。
ですが「じゃあどうすればそう思えるんだ?」ということになると非常に難しい。その難しさを抜きにしてこの言葉が大量に喧伝されていく。特に子供たちに対してこの言葉を呪文のように刷り込んでいく。私はこれは危険なことではないかと思うのです。
そもそも、個性とか自分らしくとか、ありのままでいいとか、そう簡単にわかるものではないはずです。数千年前から今に至るまで無数の哲学者が自分とは何か、善悪とは何かと考えても未だに絶対的な答えなど出ていない代物なのです。
それを子供にぽんと伝えてもいいものなのでしょうか。もし伝えるのであればしっかりフォローしてあげないと、ただただ「自分の好きなことをしたい。好きなことができなければ自分らしくない。今の自分はありのままじゃないんだ」と自分の思いのままにできることが人生の幸せだと勘違いさせることにもなりかねません。
あるいは「他人よりもすごいことが個性なのだ」というように思わせてしまうかもしれません。たしかにそういう点もあるかもしれませんが「他人よりすごい」という基準では比較の世界は超えられません。いずれ誰かに負ける日が来ます。負けたらその子の「自分は良し」という感覚はどうなるでしょうか。比較の世界に終わりはありません。
子供たちに対しての危険もそうですが大人にとってもそれは変わりません。
「自分を良し」とする外的な基準が失われてしまった今、私たちは自分でそれを考え出さなければならなりません。しかしそれはあまりに難しく、私たちにはあまりに荷が重いものなのです。
結局自分の中にそうしたしっかりとした軸ができないからこそ、私たちは他人を攻撃し、「自分は正しい人間である」「自分は良しとされる人間である」ということを感じようとしているのではないでしょうか。
私たちは確かに伝統や共同体の重みから解放されたかもしれません。しかしそうして得た自由そのものが今度は新たな重しになってしまったのです。伝統や共同体はたしかに不自由な思いを人々にさせてきたかもしれません。しかし、それらが果たしていた役割というものも見逃してはならないのです。伝統や共同体を捨てて自由を得た代償をこれから私たちは背負わなければならないのです。
「自分で善悪の基準を作らなければならないことの重み、困難さ」
実はこれこそドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』で説かれていることなのです。あの有名な「大審問官の章」はこの問題に真正面に突き進んでいきます。私たちは自分で「自分らしさ」や「幸福な人生」を決めることができるのか、そしてそれにはどんな代償があるのかがそこで語られます。
しかもこれは文学の話だけではありません。今私達が生きているこの社会にもリアルタイムでこうした危機が広がっています。「自分達は正しい」と感じるために徒党を組み他者を攻撃するシステムが日々強くなっているように私には思えます。私は今の社会が恐ろしくてなりません。皆さんはどう感じますか?
とはいえ今回お話ししたのはあくまで私の私見です。当然ですが他にもたくさんの要素や原因が絡み合ってこのような社会になっているのは皆さんも感じられることでしょう。
ですが今回私はあえて『アナと雪の女王』を通して「個性、自分らしさ、ありのまま」讃美は本当にいいことなのか」ということをテーマにお話しさせて頂きました。
もちろん、私は「個性、自分らしさ、ありのまま」ということを否定しているわけではありません。
ただ、これらの言葉が持つ危うさというものをこの場で考えてみたいなと思いお話しさせて頂きました。
おわりに~私はディズニーが好きだが・・・
さて、アナ雪と「ありのまま」についてお話ししてきましたが、もちろん単にディズニー映画を否定しているわけではありません。ディズニー映画は私も小さな頃からたくさんお世話になっていますし、ディズニーランドだって大好きです。それは『白雪姫』や『美女と野獣』などのこれまでの記事を見て頂けましたら伝わると思います。
ただ、この「ありのまま」讃美は私にとって危険なものを感じたということをお伝えしたかったのです。
それと今回アンデルセンの原作と比べてみてはっきりしたのは、ディズニーはそれが公開される時代の人々の心の要求をしっかり掴んだ上で作品を作ろうとしていることです。(最近は実写化などで失敗もしていますが)
ディズニーはアンデルセンの原作をベースに、現代人に受け入れてもらえる作品を生み出しています。
原作と違うから映画はだめだという話では全くありません。そもそもアンデルセンの童話自体、先のニヒリストの話にもありましたように時代に合った作品です。作品はその作品のみで成立するのではなく、当時の時代背景が大きく絡んでくるというのが端的にわかる例ではないかと思います。
ある意味、『アナと雪の女王』は私達の置かれている時代背景、時代精神を表している鏡とも言えるかもしれません。私達の心の要求、不安、悩みがそこに投影されているのです。私たちが今何を求めているのか、何に救いを求めているのか、そうしたことをこの作品から考えていくのも面白いかもしれません。
かなり長くなってしまいましたが、アンデルセンの原作と『アナと雪の女王』の違いについてじっくり見てきました。
皆さんにとっては意外なこともあったかと思いますが、僧侶であり、宗教や文学を学ぶ私はこのように『アナと雪の女王』を見てしまっているのです。
「そんな小難しいこと考えずに純粋に楽しめばいいじゃん」
そんな声が聞こえてくるような気がします。
そうです。その通りです。ですがきっと私も「悪魔の鏡が目に入ってしまった人間」なのでしょう。(笑)
長くなってしまいましたがここまでお付き合い頂きありがとうございました。
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