【短編】未然
キーボードの音だけが響く午後の事務所。エアコンの設定温度は26℃。誰もが快適とまではいかないが、不快に思っているものもいないだろう。静まり返った部屋には、誰かの悪口や叱責もない代わりに、和気あいあいとした会話もない。不穏な平和だけがシーンという音を立てている。
昨年までの事務所はこうではなかった。
赤い腕章を付けた若い男がデスクのあいだを練り歩く。彼は書類を書くわけでもなければ電話も取らない。ただ、黙って仕事をする人たちを見て歩き回るだけだ。それが、彼の仕事だから。胸元には金属製の笛がシャラ……と揺れている。
ハラスメント未然防止委員。
彼の腕章に書かれた白抜き文字は、かれこれ四ヶ月、我々を沈黙させている。
――バン!
腕章が瞬時に隣の相原へと振り返る。
「ち……ちがいます! うっかり肘にあてて落としてしまっただけです」
慌てて床のバインダーを拾う相原に近づき、デスクの上の物の配置まで確認し、小さく頷くと、腕章はまた巡回へ戻っていった。危ない。直前に取引先と電話のひとつでもしていたら、「八つ当たり」と取られていたかもしれない。
僕は腕章を刺激しないように、ゆっくりと席を立ち、給湯室へ忍び足で移動する。
空になっていたカップに白湯を注ぐ。珈琲を好んで飲んでいた僕だが、あの香りが苦手な人がもしもいたら大変だ。腕章が笛を吹けば、指導室送りとなってしまう。それだけは避けねばならない。
この春、会社から一枚の通知文書が出された。事務所の掲示板に貼られた『ハラスメント防止のお知らせ』の紙。それは、至極当たり前のタイトルだったが、そこに書かれた内容は僕らの想像をはるかに超えるものだった。
要約するとこうだ。
・各事業所に防止委員を配置する。
・将来的にハラスメントへ発展する恐れがある行為は指導対象。
・指導内容は口外禁止。
僕らは驚愕した。将来的にハラスメントになるかもしれない行為、そんなの防止委員のさじ加減一つだ。そんなことを言われたら、もう何も言えない。何もできない。
「ふざけるな! 本社はバカなのか?」
そう叫んだ係長は、いつの間にか背後に立っていた腕章に笛を吹かれ、指導室送り第一号となった。
二時間後にそこから出てきた係長は、もはや、元の係長ではなかった。見開いた目は光を失い、顔からは血の気が引いていた。
「申し訳ありませんでした。私は未熟でした」
そう呟きながら自席に戻る係長。僕らはあの部屋で起こることを知ることは叶わなかったが、絶対に入ってはいけない部屋だということだけは認識できた。
それから四ヶ月。僕らは、誰にも不快に思われないよう、生きている。
金曜の夕方だった。その日も朝から腕章に怯えながら一日を過ごし、ようやく笛の恐怖から離れた週末を過ごせると安堵の息を吐いたときだった。
「まいどー!」
アポなしで事務所に入ってきたのは、取引先の松田部長だった。
「皆さん元気にやってまっかー。お、相原はん。今日もべっぴんさんやな」
即座にピー! と笛が鳴る。
腕章が部長を指差し、「セクハラです」と告げる。
「やば……。アイツ、社内の人と勘違いしてるぞ」
思わず声を漏らしたが、課長が僕の腕を掴み、首を横に振る。
「なんや、キミ。ちょっと邪魔やね。どいてんか」
部長が腕章の肩を押しのけ、事務所の奥へ入ろうとする。
「暴力ですか? パワハラになりかねませんよ」
腕章も負けてはいない。退く気はないようだ。そりゃあそうだ。彼はこの四ヶ月、事務所の支配者だった。良いか悪いか、勝つか負けるかは全て、彼が決めてきたのだ。彼の笛に逆らえる者はいなかった。――ついさっきまでは。
「ちょっと指導室までいいですか?」
腕章は松田部長の腕を掴み、例の部屋へと連行しようとする。
「なんや気持ち悪い。男と手をつなぐ趣味はあらへんで。ちょっと自分、失礼とちゃうか。ホンマ不快やで」
助けを求めるように僕らの方を向く松田部長。そこへ課長が声をかける。
「大変申し訳ございません。部長、いま不快だとおっしゃいましたね」
「せや。ホンマきっしょいわ。不快すぎてサブイボ出るわ」
にやりと笑う課長。
「おい、防止委員」
「な……なんだ、貴様!」
あくまで強気な腕章。
「課長、俺が行きます!」
前に出たのは、係長だった。
「おい! 相手が不快に感じたら、それはもうハラスメントだよな!」
後退りする腕章。
「……ほ、他にも成立要件がある!」
「でも、未然防止だったらもうアウトだよなあ」
腕章が言葉に詰まる。
「お前の存在が俺らにはハラスメントだよ!」
係長は腕章の腕を取り、事務所の奥へと無理やり引いていく。
「や……やめろ!」
指導室のドアが、静かに閉まった。
(了)
