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【短編】コンピュータが見る悪夢(中編「密売人」三十)

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コンピュータが見る悪夢
(中編「密売人」三十)


 まだ左手首には手錠がかけられたままだった。これじゃあトイレにも行けやしないじゃないか。そう心の中で愚痴をこぼした矢先に、入口の方から制服を着た別の警察官が入ってきた。どうやら見張り番のようだった。男はなぜ自分がこの役目を負わなければならないんだと、不貞腐れた顔でこちらを睨み無言のまま部屋の奥の椅子に座った。他の病人たちは、珍しそうに男とこちらのベッドへと順番に視線を飛ばす。――まるで自分が犯罪でも犯したかのような目で。見張り番は案の定トイレに行く時にもそばを離れなかった。手錠は外してくれたものの、どこか居心地が悪かった。

「逃げやしませんよ。そんなジロジロ見なくたっていいでしょう」

「――」

 見張り番はそれに返事することなく、フィルの小便を監視し続けた。相当な極悪人と間違われているらしい。自分がそんなことするはずもないのに。これは個室に入る時が見ものだ。一緒に入る隙間などないことぐらい彼もわかっているはず。さあ、どうするか。

「あの、ちょっとお腹の調子が・・・」

 フィルは具合悪そうな顔を浮かべて見張り番に訴えかけた。すると見張り番は無言のまま顎を軽く上げて個室に入るよう促した。フィルは申し訳なさそうに個室に入り扉を閉めようとした。すると、知らぬ間に個室の目の前には彼がいるではないか。その手は扉の方に伸び、閉じかけている扉を押さえた。見張り番は再び顎を軽く動かしフィルの排泄を許可した。そうか。扉を閉めさせてはくれないようだ。この見張り番はきっとやり手だ。しかし同時になんて礼儀を知らない野郎なんだとも思った。人が用を足す時には邪魔をしてはいけないと父親に習わなかったのか。少なくともフィルはそう教わっていた。この見張り番とはこれから何日も付き合っていかなければならない。フィルは彼に対して抱いた不満や嫌悪を抑えて、出すはずのなかったものを無理に出そうと腹に力を込めた。

 フィルの体調が回復してきた頃、再びあの時の警察が見舞いにやってきた。そろそろ退院の時期ということか。ようやく自分は署まで連行される。しかし何も思い出せない。容態は良くなっても、記憶という過去が戻ることはなかった。覚えているのは、一緒に暮らしていた父が捕まったことで叔父に引き取られたことぐらいだった。あの男の言ったように、本当に自分は運び屋をやっていたのだろうか。移民の国境越えを手助けし、しまいには人体実験・・・。いいや、そんなことはありえない。きっと記憶がないことをいいことに自分を揶揄っているだけだ。でなければ、都合よく自分を犯人に仕立て上げて手柄を得ようと企んでいるのだ。しかし目の前の椅子に座る見張り番と、手首にはめられた手錠が、自分の知らない過去を知っていることを証明しているような気がしてならなかった。

 男は前と同じ仏頂面で病室のドアを開けた。一歩一歩とフィルの方へと距離を縮めてくる。男はなんと言うだろうか。署へ連行すると言うだろうか。ようやくお前を尋問できる。覚悟しろと――。やってくるはずのなかった未来が今まさに実現されようとしているのを受け、フィルの神経は張り詰めた。男はフィルのベッドの前に立ち口を開いた。

「退院おめでとう。下に車を用意している。案内しよう」

 フィルはその言葉を聞いて観念した。自分はこの男にはめられた。きっと強引にやってもいない犯罪を認めさせられ、改心するまで牢獄の中で暮らすことになる。

「今手錠を外す」

 男は椅子に座る見張り番から鍵を受け取ると、自らフィルの手錠を外した。

「さあ、行こうか」

 フィルは無言のまま男の後を歩き続ける。周りからの視線は何も感じなかった。それほどにフィルは失望に打ちひしがれていた。ふと、さっき手錠を外されたことに違和感を覚えた。このまま逃げ出したりでもしたらどうするつもりだ? 逃げ切ることなど無理だとでも言いたいのか? それに前よりも口数が少なく口調もやけに丁寧だ。どこか様子がおかしかった。徐々に病院の玄関の景色が目の前に迫ってくる。逃げるチャンスは一度きり。玄関の扉が開くその瞬間だ。

 内側の玄関ドアが警察の目の前をゆっくりと開いていく。ロータリーには白と黒の警察車両が停まっているのがガラスの向こうに見える。さらに奥のドアが今にも開こうとしている。フィルは唾を飲み込んで逃げる体勢に入る。男がドアの目の前に立ちガラスとガラスの隙間が開いた瞬間、二人の目の前に何者かが現れ、その大きな体がフィルの行く手を阻んだ。

 しくじった・・・。

 そうフィルが心の中で呟いた時、突然過去の懐かしい記憶が蘇る感覚に襲われた。目の前にいた大きな体の持ち主は、フィルの叔父であった。

「フィル! 元気にしてたか。家出したっきりなんの連絡もよこさんで、心配したぞ? さあ、家に帰ろう」

 叔父は昔のままだった。髪は後ろに流すようにきれいに櫛で整えられ、髭も剃られている割には、膨んだ腹だけは隠し切れてはいなかった。叔父曰く自分は家出をしていたらしい。それも長い間。しかしこれはいったいどう言う状況だ? 警察の男が下まで案内すると言ったのは、叔父のところまで送り届けるということだったのか。叔父が警察の仕事をしていることは知っていたが、なぜここにいるんだ。

 叔父は家に帰ろうと言っていた。ということは、自分は尋問されずに済む。容疑者扱いされずに済むということか。訳もわからずフィルは警察車両に乗り込んだ。我慢し切れず、叔父に尋ねた。

「どういうことなんですか?」

「ん? まあ、色々あったろうけど、全部忘れなさい。これからは私の言う通りにしてもらうからね?」

 叔父は、長い間どこかへ拉致されていた我が息子に同情するような顔でそう言うと、フィルだけを乗せてサンフランシスコの自宅まで車を走らせた。フィルはもう何も尋ねようとは思わなかった。自分が失った過去、そして叔父が隠している自分の過去。それらは、傷跡が時間と共に癒えていくように、フィルの人生から次第に姿を消していった。


 それからのフィルの生活は叔父の言うことを聞くことに尽きた。家の掃除から買い物、そして近所の教会で行われる慈善活動への参加まで、言われたことはなんでもやった。また、自分が時代に取り残されていることも知った。十分に教育を受けてこなかったこと。国民に義務付けられた電子寄生虫の接種をしていなかったこと。運転手のいない車があること。自動翻訳プログラムを使用すれば誰でも外国語が理解できるようになること。そして何より、街での犯罪が爆発的に増えていた事実だ。新たな警察官への道も叔父からの勧めだった。簡単に仕事をもらえない世の中で、唯一採用を広げている組織なのだそうだ。

 警察になる前は、フィルは暇を持て余してドラッグに手を出していた。しかしドラッグを接種するよりも、ドラッグを売り捌くほうが金になることを知ってから、その両方をすることにした。そして幸運なことに、なぜか自分はディーラーとしての素質があった。以前にも同じような仕事をしたことがあるかのように手際が良かった。それが、唯一叔父から隠れて行っていることだった。

 叔父のコネで警察官になってからは、ボスの言うことに従った。夜間のパトロールも行ったし、容疑者が犯した犯罪の書類整理もした。犯行現場への突入もしたし、先輩から頼まれたドーナツとコーヒーの買い出しもやった。日に日に業務も覚えつつあったが、自分の意思だからではないのか、あるいは裏でドラッグディーラーを兼業しているせいか、どこか警察の仕事に身が入らなかった。時々、心の中にぽっかりと大きな穴が空いているような感覚に襲われることもあった。フィルには、今を満足して生きるために必要な何かが欠けているように思えた。それが何かは自分にはわからない。しかし重要なものであることは間違いなかった。人の言うことを聞く生き方。それは賢いようでありながら、どこか面白みに欠ける気もする。では、自分に欠けているのは面白みなのだろうか。人生に、果たして面白みは必要なのか。その面白みは、どうすれば手に入るのか。時代の流れにただ従うことしかできないフィルの頭では、現状を打開する策を思いつくなど手に余ることだった。


最後まで読んでいただきありがとうございます!

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