【短編】『コンピュータが見る悪夢』(中編「密売人」三十一)
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コンピュータが見る悪夢
(中編「密売人」三十一)
ドラッグの常連にはすまないと思っている。警察になってからのこと、彼らからアレが欲しいと連絡のある時に、すぐにアレを売りにいくことができない。彼らが不満をこぼす気持ちもよくわかる。なんせフィルは餌付けをする「ブリーダー」と呼ばれているくらいなのだ。餌をやることをおろそかにすれば吠え立てられるに決まっている。徐々にその野良たちは別で餌をくれる主を探し始め、フィルのもとを去っていく。そういうふうにシステムは成り立っている。不満をぶつけられなくなるまであと少しの辛抱だ。
しかしフィルにはなんの不安も恐怖もなかった。金が稼げるからやっていただけで、多くの人にドラッグを届けたいとか、人に喜ばれることに幸福を感じるなんて甘い思想は片時も抱いたことはなかった。むしろ人から期待されることほど困ることはなかった。警察の仕事も叔父に言われるがままやっているだけのこと。フィルにとってはそのほうが楽なのだ。決して誰かへの奉仕と思ってするわけではない。
署内では、人々が躍起になって仕事をしている。労働というものはなんて画期的なんだろうかとフィルは感動の息をついた。もしこの世界に労働がなくなったら人々は退屈で死んでしまう。人は誰かから指示を与えられて初めて自分に意味を見出せる。その行動が人の役に立つからでなく、自分に価値がないことを忘れられるからだ。元は皆なんの価値もない存在なのだ。自分も等しく、なんの価値もない存在。だから誰かが指示を与えてくれる。自分はただそれを実行するのみ。世界はなんてシンプルなんだ。
上司から頼まれた署のプリンターの修理も、自分に与えられた意味のある指示の一つなのかもしれない。そう思うと、雑用扱いされたことに虫唾が立っていた自分がいかに幼かったことかと思い知る。どんな仕事でも与えられるだけマシなのだ。その間は自分の人生の虚無と向き合わなくて済むのだから。自分はなぜ警察官をしているのだろうと考えるのもなおさらおかしなことだ。それは何かを目指す、あるいは人の役に立つ必要性を自分に問いかけていることと同じだ。自分に向上心や正義感などいらない。純粋な人間であり続けることが大事なのだ。純粋な暇つぶしが、必要なのだ。
その夜はいつもより静かだった。道を駆ける救急車のサイレン音も、若者たちがハイで戯れる声も、隣の部屋から響くベッドの軋む音も何もしない。散々職場で怒鳴られたせいで耳が使い物にならなくなったらしい。
「こちらサンフランシスコ警察。テンダーロインエリア、オファレル通りで殺人予測が一件。至急応援を求める」
仕事中に声をかけてきたあの男は誰だったんだ。何か恨みでもあるのか。プリンターの故障の罪を被ったことに対して、意思がないだの対等じゃないだのブツブツ言ってきたが、結局何をしたかったんだ? やつは何も損をしてないはずだ。とやかく言われる筋合いはない。
「こちらサンフランシスコ警察。至急応援を求める」
そういえば昇進したいと言っていたな。ということは昇進できないことへの当てつけか? 自分より下の者を見つけて叩くことで、自分が上の立場にいると満足したいのか。だとしたらなんて身勝手な野郎なんだ。人前でオナニーしているのと同じじゃないか。そういえば、もう何日もしていないな。仕事に夢中になって、快楽を得ることすら忘れてしまっていた。
「・・・オファレル通りで殺人予測が一件。至急応援を求める」
誰かが遠くから自分に呼びかけているような気がした。助けを求めているような声だ。部屋の外か。しかし駆け足で玄関へと向かったものの、ドアの外からではなかった。フィルは空いている窓に視線を移してすぐに進路を定めた。誰もいない真っ暗な部屋の中を足音も立てずに歩き進める。
「誰かいないのか? 至急応援を求める!」
窓の外には誰もいない。いったいどこから叫んでいるんだ。フィルが玄関と窓の両方を行ったり来たりしていると、ふとソファのそばに落ちているものに目がいった。そこには黒い無線機が置かれ、赤いランプを光らせていた。
「応答願う!」
ようやく声の出どころが判明した。それは遠くからなどではなく、フィルのいたすぐ近くから発せられていた。フィルはすぐにその無線機のボタンを押した。
「こちら、フィル・ウォーカー。テンダーロインエリアにいる。場所と状況を教えてくれ」
「よかった。こちらザック・パーマー。テンダーロインエリア、オファレル通りにある集合住宅の外で二十三時五分から二十分の間で殺人予測のレッド反応を感知した。場所はその通りの六三一番だ。被害者は五十代男性。服装は黒いシャツに下はジーンズ、頭に帽子をかぶっている。今から出動できるか?」
「ザック、了解した。すぐに向かう」
オファレル通りはフィルの住むアパートのある通りだった。家から走れば数分で着ける距離だ。今度こそ犯人を捕えて見せる。とフィルの心は昂っていた。なんせこれまで幾度も現場へ向かう機会があったにもかかわらず、一度も犯人を取り押さえたことがないのだ。しかしとうに時刻は二十三時十分を過ぎていた。まだ殺人が起こっていないことを願いながら装備を始めた。
フィルが現場に着いたのは二十三時十六分だった。六三一番の集合住宅の前は、妙に静まり返っている。一般車やトラック、バイクなどが混ざって何台も路上に駐車され、人の姿は見当たらない。もう殺人が起きてしまったのか。あるいはこれから起きようとしているのか。フィルにはその状況を読み取ることができなかった。そもそも黒いシャツの男を暗がりで見つけるのには時間がかかる。二人が口論にでもなっていてくれればわかるのだが――。それに加害者の特徴については無線の男は何も触れなかった。つまり犯人はホモシュミレーター(行動推測AI)のハッキングを妨害して身を隠していることになる。手がかりは殺害推測のされた被害者の男のみだった。
車の下や集合住宅の路地を見て回っても、誰の姿も見当たらない。それはそうだ。犯罪率の高いテンダーロインの道を夜更けに彷徨く者がいたら、それは殺してくれと志願しているのと同じだ。住民は夜の十一時になれば家から一歩も出なくなる。パーティーをしている若者たちでさえも外に出て一服することはない。時々酔っ払った集団や、道に迷った外国人が道を歩いていることがあるが、そういった輩がひったくりのカモや殺人の巻き添いになる。しかし警察は別だ。犯罪に遭遇することにこそ意義がある。そしてやれるだけのことを尽くして犯罪者たちを取り締まるのだ。
あのザックという無線の男はたしかにテンダーロインエリアのオファレル通りと言っていた。そして六三一番の集合住宅と。もう時効は二十三時二十分を過ぎている。まさかホモシミュレーターに誤りなどあるはずがない。あのAIの導き出した推測は確実に起こる。二十三時二十分五十秒。五十八秒。五十九秒。二十三時二十一分零秒。何かがおかしい。フィルは無線で聞いた集合住宅の周りを一周しながら、懐中電灯を当ててゴミ箱の中から、車の中や下、建物の非常階段までくまなく照らした。
見つからない・・・。
突然無線機の音が鳴った。
「こちらザック。無理だったか・・・」
「こちらフィル。無理だったっていうのは?」
「もう殺人は起こっている。犯人は逃走中のはずだ」
「なんだって?」
フィルはその男の言葉が全くもって信用できなかった。何しろ殺害された遺体がないのだ。
「遺体はないぞ?」
「あるはずだ。位置情報が君のそばで止まっている」
自分のそば・・・。まさかそんなはずはなかった。車の周りも住宅の前も見たはずだった。
「そばってどこだ?」
「君のちょうど隣だ。建物の前の」
横にはヴァンが一台停められているが中にも下にも人の姿はない。
「どういうことだ? 誰もいないぞ?」
「そんなはずはない。位置情報はたしかにそこを示している。もう一度確かめろ」
その直後、建物の方から女の叫び声がした。窓から若い女が二人顔を覗かせてこちらを見ている。あまりの恐怖で二人とも口を開けている。自分の方を見ているわけではない。このヴァンだ。
まさか!
フィルはヴァンのタイヤに足を乗せて勢いよく車の上まで登った。するとそこには、帽子をかぶった五十代ぐらいの男が胸にから血を流して倒れていた。そして男の頭のすぐそばには、殺害に使われたとみられる銃が、役目を果たしたかのように満足げにその場に取り残されていた。
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