【短編】『コンピュータが見る悪夢』(転編「計画」①)
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コンピュータが見る悪夢
(転編「計画」①)
愛する女のブロージョブで目覚める崇高な朝なんてものは存在しない。サムの周りを覆い尽くすのは、食べかけのシリアルの入った皿や、雑誌、プラスチックのトレー、汚れた衣服などが散乱したゴミ処理場だ。隣には、自分ではなくそのゴミたちと暮らしを共にする女がいびきをかいて眠っている。一方で、自分のベッドで目覚めるほど快適な朝もまたなかった。なにも高級なベッドで寝ているわけではない。長らく職場のソファか仮眠室で寝泊まりする日が続いたため、人間が肉体的に、そして精神的に最も休養の取れる場所が自宅のベッドであることを体感させられただけだ。
ナオミの見せる背中には、数十年もの時間をかけて築きあげられた二人の関係がありありと映し出されているようだった。ところどころに薄茶色のシミが広がり、ムダ毛が惜しみなく伸びている。上は黒のキャミソールに、下はタイ旅行で買ったペイズリー柄の伸び縮みする薄いパンツを履いている。あまりみない格好だった。洗濯をしないため、もうこれぐらいしか着るものが残っていないのだろう。サムはゴミの山を腕一杯に抱えてリビングへと運んだ。ゴミの分別の前に、捨てるものと捨てないものとで分別する必要があった。衣類は全て洗濯機の中へと放り込んだ。食べ残しの菓子類から、冷蔵庫に入っているとうに期限の過ぎた食品まで、一通り部屋をゴミ処理場に装飾している物は廃棄することに決めた。全てナオミが起きてからでは争いの源になるとわかった上での計画的なルーティンだ。掃除機なんかを掛ければ、たちまちナオミを起こしてしまう。普段昼過ぎに起きるナオミにとって生活リズムを崩されるのは、暴力を振るわれるのも同じだ。最低限できることといえば、ゴミ捨てと、洗濯機を回すこと、そして食洗機のスイッチを押すことぐらいに限られる。
ナオミの目覚める瞬間をしばらく見ていない。たまたま仕事の合間に家に立ち寄ることはあっても寝床を共にすることは稀になっていた。まるで彼女は永久に起きているか、寝ているのかのどちらかではないかと思ってしまう。――永久と言っても数日たてば起きることは人間の性質上必須のことだろうが。しかし生活習慣を改めなければ、鬱の症状を改善することなどできない。きっと本人もわかっているはずだ。もちろん一人でうまくこなせるほどこの病気は簡単なものではない。本来、面倒を見てやるのがパートナーの役目なのだろうが、それを放棄してきた過去はもう変えられない。これから妻に寄り添うことでしかその罪は償えない。今日ぐらい仕事を休んでも何も言われないだろう。妻を変えるには、まず自分が変わらなければいけない。サムはそう決心して、大音量で掃除機をかけ始めた。
「おはよう」
ナオミは眠りから覚めた普通の女の顔をしていた。その表情の中には怒りの兆候一つ含まれない。
「ごめんよ、起こしちゃって。朝ごはん食べるか?」
「仕事は?」
「休みだ」
「あら、珍しいわね」
驚くほどに普通の朝の会話だ。久しぶりの二人で迎えた朝に違和感すら覚えてしまう。どこか照れ臭く思うのは、――決して恋などではなく――ナオミが自分の妻であることを再認識したことによる安心感からなのかもしれない。
「久々に二人で過ごそうと思ってな」
「あら、どこかデートでも行く?」
その発言は、ナオミが無理をして言った冗談であることくらいわかっているものの、ここはナオミの気分を落とさないようあえて乗ろうと思う。
「そうだな。ビーチにでも行きたいな」
「掃除してくれたの?」
「まあ軽くね」
ナオミは少女が大切にしていたぬいぐるみを無くしてしまった時のような寂しそうな顔をしていた。うつ病を患い始めた頃からナオミには人格がいくつもあるように感じる時があった。それも愛し合っているカップルがお互いに見せる擬似的な幼さや親的なキャラクターではなく、自然な人格として共有されることがあるのだ。ある時は、高校生のような不貞腐れやすく甘えやすい性格を見せ、ある時には幼女のように社会の何も知らないといった無垢さを最大限に表現する。これはうつ病によくある傾向なのか、それとも妻特有の性質なのか。あるいは、自分が妻なりの愛の表現を真摯に受け止められていないだけのことなのだろうか。少なくともうつ病さえ治れば、何が真実か見えてくることは確かなことはわかっている。
「そうだ、昨日映画を見てる途中で寝てしまっただろ? 最後まで見るか」
「いいわね。モーニングムービー」
「よし、朝ごはんを作るからソファでくつろいでてくれ」
「ありがとう」
ナオミの額に軽く唇を当てて、キッチンへと向かった。食洗機はまだ終了していなかった。食器棚の中にはまだ数枚のボウル皿が残っている。サムは手を伸ばして二つ取り出すと、ふと皿が残っていることが腑に落ちた。手が届かない場所にあるために、取るのを諦めてしまったのだ。皿は埃をかぶっているわけではない。カウンターに並んだ何種類ものシリアルの中から、健康に良さそうなものを選び、冷蔵庫にある三日消費期限の過ぎているミルクを入れた。すでにリビングからは映画の音声がキッチンまで漏れていた。ナオミは表面的には自分を気遣っているように見えて、内心ではほとんどそんな余裕などないことをその映画の音声が教えてくれる。さらにスプーンを添えてリビングまで慎重に運ぶ。トーストやヨーグルトなどは不要だ。余計なものを作ると、何も言わずにそれらを残す。ナオミは無言での会話が得意な方だ。
なんとか昨日見ていた映画のシーンと目の前に流れるシーンとを頭の中で繋げることができた。最近のラブロマンスほど、考えることなく容易に見れる映画はなかった。しばらく男女のすれ違いを目で追いながら呆然と仕事のことを思い出していた。上官から担当を断られた捜査の件だ。ホモシミュレーターのセンサーを掻い潜る殺人犯たち。彼らはどのようにして通信を切り、人を殺すのか。そして彼らが共通して抱く殺人衝動は本当に衝動なのかどうか。偽りの感情ではないかという推測。これほどまでに自分の好奇心をくすぐる事件はこれまでになかった。上官から断られたとはいえ、自ら捜査できないわけでもない。任務とは別で動いてもいいくらいだ。釈然としないサムの気持ちは、次第にあるひとつの思惑へと定まりつつあった。
気がつくとスクリーンは真っ暗になり、エンドロールがゆっくりと流れていた。ナオミは隣で涙を頬に垂らしている。何に感動したのかはさておき、感情を表に出す良い機会には変わりない。映画というのはきっとそこらの市販薬よりも効き目がある。ナオミが唯一摂取し続けられる薬だった。
ピロンポンポン、ピロンポン
ピロンポンポン、ピロンポン
仕事の携帯の着信音だ。サムは急いでソファから立ち上がり、床に投げ捨ててあったバッグの中からスマートフォンを取り出した。
「はい、こちらサム」
「よかった。出てくれて」
女性の声だった。
「ちょっと気になる事件がまた舞い込んできたの。もしかしたらあんたの好みの事件かもって」
「リンダか。詳しく聞かせろ」
「ええ、前にあなたが担当した配送員による商品購入者殺人事件あったでしょ?」
「ああ、それがどうした?」
「ちょっと小耳に挟んだんだけど、なんでも突然殺人衝動に襲われて殺しちゃったとか・・・」
「なんでそれをお前が知ってるんだ?」
「だから小耳に挟んだって・・・」
「そうか。それで?」
「実はさっき似たような事件が発生して本部が大騒ぎしてるのよ」
「何があったんだ?」
「まあ詳しくは電話で言えないんだけど、またあの殺人衝動の時と同じ事件じゃないかって」
「わかった。すぐにそっちに向かう」
「あら、まだ家にいたの? もしかしてお休みとってた?」
「いいや」
サムはそう返事すると、スマートフォンの通話画面を閉じた。ソファからはナオミが不貞腐れた顔でこちらを見つめていた。
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