【短編】『コンピュータが見る悪夢』(転編「計画」②)
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コンピュータが見る悪夢
(転編「計画」②)
「今日は必ず帰る。約束する」
「――」
ナオミは、今しがた約束を破ったばかりの男に、また信じろとでも言うつもりか――そんな疑念を露骨に滲ませながら、彼女は眉をひそめたままサムを見つめ続けた。しかしサムはそんなナオミの感情の揺れさえ、ホモシミュレーターを通さなければ読み取れない愚鈍な頭で、リンダが言っていた「あの事件」のことばかりを考えていた。
本部がこんなにざわつくのは、数年前にテロリストがホワイトハウスを襲撃したとき以来だ。それも、プラズモグラフィアの導入直前を狙って起きたことを思えば、気密が外部に漏れていた可能性すら否定できない。今度の事件も政府やFBIの落ち度でなければいいのだが――。とはいえ、いつまでも思考の迷路に潜っている暇はない。一刻も早くこの場を抜け出す必要がある。
「なあ、悪かった。休みを取るなんて嘘ついて」
「嘘じゃないでしょ? “嘘”っていうその言葉自体が嘘なんでしょ?」
「……ああ、ごめん。確かにそうだ」
「じゃあビーチに行くって約束は?」
「あれは……」
まさか、あの誘いをナオミが本気で受け止めていたとは思っていなかった。
「もう外に出てもいいのか?」
「あら、私、デートは好きよ?」
長く一緒にいなかったせいで、ナオミの精神状態が悪化しているとばかり思っていた。自殺を仄めかす手紙が届いた一件以来、どこかでナオミを「その差出人」だと思い込んでいた自分がいた。だがあの手紙は彼女からではなかった。
「次の休みの時に行くのは、どうだ?」
「いいわよ。でも、次っていつなの?」
「……ごめん。それも、今日起きた事件の状況次第なんだ」
しばらく沈黙が部屋を支配した。重く冷たい空気が二人のあいだを漂っている。と、ナオミがゆっくりと表情を緩めた。
「わかったわ。行きなさい。緊急なんでしょ?」
「ああ。ありがとう」
サムは寝室へ駆け込んだ。――まだ綺麗なシャツが残っていること、そしてそのシワが目立たないことを祈りながら。
必要最低限の荷物を手にし、車通りの多い通りまで歩くと、目の前を無人タクシーがまるで「乗れ」と言わんばかりにゆっくりと通り過ぎていく。本部まではとても歩ける距離ではない。だが、サムの頭にはついこの間乗ったときの記憶が脳裏に蘇る。速度に制限のかかった無人タクシー。どれだけチップを弾んでも、速度を上げろという要求はのまない。そもそも当たり前のことだった――AIはチップをもらったところで、それは自分の利益にはならないのだ。無人タクシーを使うのは大抵観光客か、いかがわしことを考えているカップルくらい。少なくとも緊急を要するFBI捜査官が使うものではない。だが、有人タクシーに乗るには、繁華街まで出なければならない。時間は刻一刻と過ぎていく。サムは観念したように、目の前に止まった車のドアに手を伸ばした。
「どちらまで行かれますか?」
録音されたような、妙に丁寧な紳士のAI音声が車体から響いた。
「FBIサンフランシスコ本部まで」
「承知しました。二十分ほどで到着する見込みです。それでは出発いたします。シートベルトをお締めください」
右肩から伸びたベルトを左腰に差し込みながら、サムはふと思った。以前乗ったときより、どこか親切な気がする。AIの音声出力に企業ごとのオリジナリティでもあるのだろうか。あるいは、実際に遠隔で人間が対応しているのかもしれない。接客を重視するなら、現場に運転手を置かず、外部業者に委託する――その方が理にかなっている。
それにしても、この世界はあまりに曖昧だ。何が本当で何が作り物なのか見極めがつかない。人間にすら無意識に機械に対する態度をとってしまうことだってある。今自分がしている仕事だって、結局は誰かが殺された後を追いかけるだけだ。誰が、なぜ、どのように殺したのか。本当にその人物が殺したのか――。「死人に口無し」と言うくせに、人は真相に辿り着けると信じて疑わない。認識とは、人間にとって便利な道具でありながら、一歩使い方を間違えれば真実を歪める劇薬にもなる。それでも、自分の体内に棲むプラズモグラフィアは、どれほど荒んだ感情であろうと、容赦なく「本物」として記録してしまう。ならば、この感情は本当に自分のものなのだろうか?――過去、とある生理学者が、人間の自由意志は存在しないとする実験を試みたことがある。すべての選択は、意識が決断するよりも前に、すでに脳が決めているというのだ。
そこにはかつて人がいた。運転席に誰かが座り、誰かの気配があり、誰かの判断によって進んだ。だが今はもう誰もいない。何もかもが整然としていて、異様なまでに静かだ。それでも車輪は正確に道を進み、音声は礼儀正しく、世界は何事もなく機能している。そのあまりに冷ややかな整合性に、サムは違和感を覚えずにはいられなかった。
本部に到着すると、サムはタクシーのドアを締めもせずに建物へと駆け込んだ。廊下を行き交う局員たちは、いつも以上に早足で表情も険しい。その目つきからは、張り詰めた緊張だけでなく、どこか共通の目的へと向かう流れのようなものすら感じられる。状況は確実にただならぬ方向へと動いている。奥のブリーフィングル―ムにリンダの姿があった。すぐ隣には上官が立っていた。
「やあ、リンダ」
「サム、やっと来たのね」
その声色だけで、彼女の抱えている情報の重たさが伝わってくる。
「何があったんだ?」
リンダが口を開こうとした瞬間、上官の指が短く鋭く動き、それを制した。その仕草は、あくまで冷静に見えたが、どこか焦りにも似たぎこちなさが潜んでいた。
「……なんのつもりだ?」
「まあ、落ち着け」
「落ち着いていられるか。あんたが話さないんなら、他の連中に聞くまでだ」
サムの声には、にわかに怒りが滲んでいた。だが上官は、少しの沈黙の後、ふっと息を吐き、語り始めた。
「わかった。だが先に言っておく。お前が首を突っ込むには重すぎる案件だ」
「そんなこと言われたって、俺は止まらないぞ」
上官はリンダに一瞥を送り、腕を組んで言った。
「じゃあ、お前の直感とやらで当ててみろ。誰が殺されたのか」
サムは上官の試すような物言いに虫唾が立った。しかし、推理には自信があった。
「一つだけ、その人物は今の時代を作ったと言ってもいい」
その言葉が放たれた瞬間、サムの頭の中で無数の仮説が走り始めた。この時代を作ったという事実。ヒントと言うだけあってそれ相応の役割を果たしていることがなんとも不愉快だ。FBIの本部がここまで騒然となる。それは国家、あるいはそれに準する何かを背負った人物に違いない。合衆国大統領か? いや、副大統領? それとも民間の巨人とも呼ばれる、ロボティクスの革新を担ったマスク・ジュニアか。だがそれでは、この緊張感の核心に届かない。
「……ダメだ。さっぱりわからない」
素直に答えを投げ出すと、上官は一度だけ頷き、重々しい口調で言った。
「ローズバーグという男を知っているか?」
「……ローズバーグ? いや、知らないな」
上官の表情がわずかに硬くなったような気がした。
「その男は、我々の公共安全分析課の名付けにも関与し、課の歴史の中で最も偉大な功績を残した人物でもある。あの人の感情をすべて読み取ってしまうプラズモグラフィア。そして人の未来を予測してしまうホモシミュレーター。殺されたのは、これらを生んだ天才科学者、セオドア・ローズバーグ博士だ」
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