なぜ日本人は恋愛における「見合い」というセーフティネットを捨てたのか
自由という名の強制加入
現代において、誰と付き合い、誰と結婚するかは個人の自由意志に委ねられている。これを疑う者はいない。
しかし、俯瞰して見れば、この常識は疑わしい。なぜなら、自由恋愛市場への移行は、市民が人権を求めて勝ち取った革命ではなく、資本主義経済が新たな消費需要を必要とした結果、トップダウンで設計されたシステム移行だったからだ。
我々は自由を手に入れたのではない。
生活の安定を保証する相互扶助システムを剥奪され、代わりに終わりなき消費を強いる恋愛競争というリングに、強制的に立たされたに過ぎない。
本稿では、日本社会がいかにしてお見合いを駆逐し、恋愛を巨大な消費装置へと変貌させたのか、その歴史的変遷を紐解く。
1. 高度経済成長と結婚のインフラ化
1960年代から70年代にかけて、結婚はロマンスの結果ではなく、社会的なインフラだった。
当時の日本企業にとって、男性社員はモーレツに働く戦士であり、その戦士を家庭でメンテナンスする専業主婦が必要だった。
この時期、お見合いや職場結婚が主流だったのは、それが最も効率的なマッチングシステムだったからだ。
企業や地域社会がお節介を焼き、適齢期の男女を半強制的にくっつける。これにより、男性は身を固めて会社に忠誠を誓い、女性は経済的な安定を得る。
このシステム下では、恋愛感情という不確定な要素はむしろノイズであり、重要視されていなかった。愛がなくても、機能としての結婚が成立していればGDPは成長したからだ。
2. バブル経済と恋愛の消費化
転換点は80年代後半のバブル期に訪れる。
日本社会は豊かになり、冷蔵庫やテレビといった必需品は全世帯に行き渡った。モノが売れない時代が到来し、企業は新たな欲望を作り出す必要に迫られた。
そこで発見された金脈こそが恋愛である。
トレンディドラマという名の巨大な広告媒体が、こう宣伝し始めた。
「素敵な恋をするためには、高級レストランで食事をし、ブランド品を贈り、ティファニーのネックレスをプレゼントしなければならない」と。
かつては生活の手段だった男女の関係が、この瞬間からエンターテインメントとしての消費活動へと書き換えられたのだ。
クリスマスの高級ホテル、バレンタインのチョコレート、ドライブデートのための高級車。
これらは全て、恋愛市場を活性化させるために仕掛けられたマーケティングである。お見合いという低コストで確実なシステムは、企業の売上にならないという理由で「古臭い因習」として葬り去られた。
3. 新自由主義と弱者の切り捨て
そして90年代以降、小泉改革に代表される新自由主義の到来とともに、恋愛市場の規制緩和は完成する。
誰もが自由に相手を選べるということは、強者が富(異性)を独占し、弱者が餓死することを容認する社会の到来を意味する。
しかし、メディアは残酷な真実を隠蔽し、「自分磨き」や「婚活」という言葉で、あたかも努力すれば誰もが勝者になれるかのような幻想を振りまき続けた。
なぜか?
勝てる見込みのない弱者にも、恋愛競争に参加し続けてもらわなければ、化粧品も服もデートスポットも儲からないからだ。
結果、市場には二種類の人間だけが残された。
恋愛資本主義の勝者として消費を謳歌する層と、搾取されるだけ搾取され、最終的に市場から弾き出された層、すなわち、前回の記事で定義した弱者男性である。
結論:資本の掌で踊らされるな
我々が生きている自由恋愛社会とは、人間の尊厳のためのシステムではない。
それは、愛という捉えどころのない感情に値札をつけ、人々に競わせることで、GDPを底上げするための集金システムに他ならない。
お見合いが廃れたのは、それが不自由だったからではない。それが経済的に効率が良すぎて儲からなかったからだ。
今、孤独に喘いでいる人々は、自分が欠陥品なのではないかと苦しんでいるかもしれない。だが、安心してほしい。あなたは単に、胴元が絶対に勝つように設計されたカジノで、チップを使い果たしたに過ぎないのだから。
この狂ったゲームの正体に気づくこと。それが、資本の奴隷から脱却するための第一歩である。
