ステラマッカートニーと在庫の問題
今日も違和感を見つけた。
ステラマッカートニーが、アウトレットへ出店するというニュースを見た。
サステナビリティ。
動物福祉。
反大量消費。
そうした思想を語り続けてきたブランドである。
ステラマッカートニー公式サイトでも、ブランドは創業時からレザー、フェザー、ファー、エキゾチックスキンを使っていないと説明している。
だから少しだけ考えてしまった。
思想は、在庫をなくせるのだろうか。
ステラマッカートニーは、思想のあるブランドである
ステラマッカートニーは、単に服を売ってきたブランドではない。
もちろん、ラグジュアリーブランドである。
バッグもある。
服もある。
靴もある。
店舗もある。
コレクションもある。
価格も高い。
しかし同時に、ブランドの中心には、かなり強い思想がある。
動物由来素材を使わない。
環境負荷を減らす。
素材開発を行う。
ファッション産業の大量消費構造へ疑問を投げる。
つまり、ステラマッカートニーは、ファッションの中にいながら、ファッション産業そのものへ批判的な視線を向けてきたブランドである。
この立ち位置はかなり難しい。
ファッションを売りながら、ファッションの過剰消費を批判する。
ラグジュアリーを作りながら、動物福祉や環境負荷を語る。
新作を発表しながら、持続可能性を語る。
そこには、最初から矛盾がある。
しかしその矛盾を抱えながら続いてきたことに、ステラマッカートニーというブランドの意味があった。
だからこそ、アウトレット出店というニュースには、少し引っかかるものがあった。
どれだけ思想があっても、服は余る
アウトレットとは、かなり現実的な場所である。
売れ残った商品。
シーズンを過ぎた商品。
在庫調整。
価格訴求。
販売機会の回収。
ブランド側から見れば、在庫を処理し、売上に変える場所である。
消費者側から見れば、憧れのブランドを少し安く買える場所でもある。
アウトレット自体が悪いわけではない。
むしろ、廃棄するより売る方がいい、という見方もできる。
正規店では届かなかった人に商品が届く。
眠っていた在庫が動く。
価格が下がることで、新しい顧客が入る。
そう考えれば、アウトレットはファッション産業におけるかなり合理的な仕組みである。
しかし、ここで問題になるのは、ステラマッカートニーが思想を持つブランドであることだ。
サステナビリティを語ってきたブランドであっても、在庫は出る。
動物福祉を掲げていても、売れ残りは出る。
反大量消費の気配を持っていても、商品は余る。
ここに、現代ファッションのかなり残酷な現実がある。
思想は服を作る理由にはなる。
しかし、思想は在庫を消してはくれない。
言っていることとやっていることが違う、で終わらせていいのか
こういう時、よくある批判はこうである。
言っていることとやっていることが違う。
サステナブルを語っているのに、結局アウトレットを出すのか。
反大量消費っぽい顔をしながら、結局売るのか。
思想を掲げながら、在庫処分するのか。
たしかに、その見方は分かる。
ただ、私はそこで終わらせるのは少し浅いと思っている。
問題は、ステラマッカートニーが偽善かどうかではない。
もっと大きい。
思想を持つブランドであっても、産業構造からは逃れられないという事実である。
ブランドは、服を作らなければならない。
コレクションを出さなければならない。
店舗を維持しなければならない。
スタッフを雇わなければならない。
素材を仕入れなければならない。
販売計画を立てなければならない。
そして、売れ残ることもある。
これは、思想の強さだけでは消えない。
むしろ、思想が強いブランドほど、この矛盾が見えやすくなる。
デザイナーたちは、ずっと同じ矛盾の中にいた
ここで思い出すのは、他のデザイナーたちである。
ヨウジヤマモトは、長く着ることについて語ってきた。
ヴィヴィアン・ウエストウッドは、Buy less, choose well, make it last という言葉で知られている。
少なく買え。
よく選べ。
長く持たせろ。
これは、かなり強い反消費の言葉である。
しかし同時に、ヴィヴィアンもブランドを続けていた。
ヨウジも服を作り続けている。
リック・オウエンスも、ジル・サンダーも、ルメールも、消費社会への距離感を持ちながら服を作っている。
つまり、多くのデザイナーは、消費社会を批判しながら、その消費社会の中で服を作ってきた。
ここに矛盾がある。
でも、その矛盾こそがファッションなのだと思う。
思想だけなら、服を作らなくてもいい。
文章でいい。
宣言でいい。
哲学でいい。
しかし服は、産業の中に置かれないと人へ届かない。
作られ、売られ、買われ、着られ、手放される。
その流れの中に入って初めて、服は現実になる。
だからデザイナーは、思想だけでは終われない。
産業の中で燃えるしかない。
この話は、以前の記事でも書いた。
思想は燃え尽きても、構造は止まらない。
今回のステラマッカートニーの話も、ほとんど同じ構造に見える。
在庫は、予測と現実のズレである
在庫とは何か。
単なる売れ残りではない。
在庫は、予測と現実のズレである。
これくらい売れるだろう。
この色が動くだろう。
この型が支持されるだろう。
この数量なら足りるだろう。
そう考えて作る。
しかし、現実はずれる。
気候が変わる。
景気が変わる。
トレンドが変わる。
顧客の気分が変わる。
SNSの空気が変わる。
競合が出る。
思ったより売れない。
思ったより売れすぎる。
そのズレが、在庫になる。
つまり在庫は、ブランドの失敗だけではない。
市場と時間のズレである。
どれだけ思想があっても、未来を完全に読むことはできない。
サステナブルな思想を持っていても、需要予測は外れる。
動物福祉を掲げていても、サイズや色は余る。
少なく作ろうとしても、店舗を持つ以上、商品は必要になる。
ここが難しい。
思想は、なぜ作るかを決められる。
しかし、どれだけ売れるかまでは完全には決められない。
在庫は、思想の外側からやってくる。
サステナブルブランドほど、在庫が見えるとつらい
普通のブランドがアウトレットに出ることには、そこまで大きな違和感はない。
売れ残ったのだろう。
シーズンが過ぎたのだろう。
在庫調整なのだろう。
それで終わる。
しかし、サステナビリティを語るブランドがアウトレットに出ると、途端に別の意味を帯びる。
なぜ余ったのか。
なぜ作りすぎたのか。
本当に必要だったのか。
長く着るべき服が、なぜ値下げされているのか。
この問いが出てくる。
これは少し不公平でもある。
思想を語らないブランドなら見逃されることが、思想を語るブランドでは問われる。
でも、それも含めて思想を持つということなのだと思う。
思想を掲げると、矛盾も見られる。
言葉を持つと、行動も読まれる。
サステナブルを語れば、在庫もサステナブルの文脈で見られる。
これはかなり厳しい。
しかし同時に、そこから逃げることもできない。
思想とは、きれいな理念だけではなく、自分の矛盾まで照らしてしまうものだからである。
CCPやPaul Harndenは、なぜ在庫の問題から遠く見えるのか
ここで、もう一段深く考える必要がある。
ステラマッカートニーのようなブランドは、思想を持ちながらもラグジュアリー産業の中で動いている。
コレクションがある。
店舗がある。
販売計画がある。
PRがある。
在庫がある。
つまり、思想は強くても、構造としてはファッション産業の速度に乗っている。
一方で、Carol Christian PoellやPaul Harndenのようなブランドは、かなり違う場所に見える。
もちろん、彼らも服を売っている。
商品である以上、市場から完全に外れているわけではない。
しかし、その服のあり方は、一般的なファッション産業の速度とはかなり距離がある。
CCPは、服というより物体に近い。
レザー。
縫製。
人体。
変形。
硬さ。
歪み。
素材の暴力性。
そこには、流行に合わせて消費される服というより、身体に対して異物として存在する服がある。
着やすいから着るのではない。
分かりやすく美しいから選ぶのでもない。
むしろ、身体に抵抗してくる。
服が身体へ従うのではなく、身体が服へ合わせにいくような緊張がある。
Paul Harndenもまた、分かりやすい新しさから遠い。
皺。
古びた質感。
時間を通過したような布。
クラシックでありながら、現代から少しズレた空気。
新品なのに、すでに時間を背負っているように見える。
この二つに共通するのは、服を今季の商品として見せにくいことだ。
むしろ、時間の外側に置こうとしている。
だから、在庫の見え方も変わる。
普通のブランドでは、売れ残った服はシーズン落ちになる。
去年の服。
前のコレクション。
古い在庫。
値下げ対象。
しかしCCPやPaul Harndenのような服は、そもそも新しさで勝負していない。
時間が経ったから古くなる、というより、最初から時間の経過を含んでいる。
ここが重要である。
彼らの服は、流行の時間ではなく、物質の時間で動いている。
だから、在庫という問題から少し遠く見える。
もちろん、完全に逃れているわけではない。
売れなければ在庫になる。
店に残れば商品である。
商業である以上、そこからは逃げられない。
しかし、服そのものがシーズンの速度から距離を取っているため、在庫化した時の劣化が違う。
トレンド服は、時間が経つと古くなる。
しかし、時間を含んだ服は、時間が経つことでむしろ文脈が濃くなることがある。
これはかなり大きい。
ステラマッカートニーの矛盾は、思想を持ちながら産業の構造に乗ることの矛盾である。
CCPやPaul Harndenの問いは、そもそも産業の時間からどこまで降りられるか、という問いに近い。
在庫の問題には二つのレイヤーがある
在庫の問題には、二つのレイヤーがあると思う。
ひとつは、余った商品をどう扱うか。
もうひとつは、そもそも時間が経つと価値が落ちる服を作っているのか、時間が経っても価値が残る服を作っているのか。
ステラマッカートニーは、前者の問いを突きつける。
余った服をどう扱うのか。
売り切れなかった商品をどう流通させるのか。
思想を持つブランドが、値下げやアウトレットとどう向き合うのか。
そこに問いがある。
一方で、CCPやPaul Harndenは、後者の問いを突きつける。
その服は、時間が経つと価値を失うのか。
それとも、時間が経つほど別の価値を持つのか。
新作であることに価値があるのか。
それとも、物体として残ることに価値があるのか。
思想は在庫をなくせない。
しかし、思想は在庫の意味を変えることはできる。
売れ残りになる服もあれば、時間を待っているように見える服もある。
この差は、かなり大きい。
ファッション産業の本当の問題は、在庫が出ることだけではない。
時間が経つほど価値が落ちる服を作り続けていることかもしれない。
だから、CCPやPaul Harndenのような服は、単なるアルチザン趣味ではない。
彼らは、服を市場の速度から少し引き剥がそうとしている。
新作、売上、値下げ、在庫処分という流れに対して、別の時間を持ち込んでいる。
服を、商品ではなく物体へ。
流行ではなく痕跡へ。
シーズンではなく時間へ。
その方向へずらしている。
アウトレットは敗北なのか
では、アウトレットは思想の敗北なのか。
私はそうは思わない。
むしろ、アウトレットは産業の現実である。
売れ残った服を廃棄するより、誰かに着られる方がいい。
正規価格では届かなかった人に届くこともある。
在庫を抱え続けるより、流通させる方がいい。
そう考えれば、アウトレットはむしろ現実的な解決策でもある。
ただし、問題が消えるわけではない。
なぜ余ったのか。
なぜその量を作ったのか。
なぜ正規価格では売れなかったのか。
値下げされた時、そのブランドの思想はどう見えるのか。
そこは残る。
アウトレットは敗北ではない。
しかし、問いを消す場所でもない。
むしろ、ファッション産業の矛盾が一番見えやすくなる場所である。
正規店では、ブランドの世界観が整えられている。
照明があり、接客があり、什器があり、価格があり、空気がある。
アウトレットでは、それが少し剥がれる。
商品がより商品として見える。
在庫として見える。
値札として見える。
その時、ブランドの思想も少し現実へ引き戻される。
思想は在庫をなくせない
思想は在庫をなくせるのか。
おそらく答えはノーである。
思想は、服を作る理由にはなる。
何を使わないかを決める力にもなる。
どんな素材を選ぶか。
どんな生産背景を持つか。
どんな顧客に届けたいか。
どんな未来を望むか。
そこには思想が必要である。
しかし、思想だけでは在庫は消えない。
売上計画。
生産数量。
流通。
店舗。
卸。
EC。
シーズン。
気候。
景気。
顧客心理。
こうした構造の中で、在庫は発生する。
だから本当に問うべきなのは、在庫を完全になくせるかではない。
在庫とどう向き合うかである。
余った服をどう扱うのか。
値下げして売るのか。
再流通させるのか。
リメイクするのか。
廃棄を避けるのか。
次の生産量へどう反映するのか。
顧客にどう説明するのか。
ここにこそ、思想が出る。
思想は在庫を消せない。
しかし、在庫への向き合い方には思想が出る。
ファッションは、理想と現実の間で燃えている
ファッションは、いつも理想と現実の間にある。
美しいものを作りたい。
長く着てほしい。
無駄を減らしたい。
動物を傷つけたくない。
環境負荷を減らしたい。
でも、売らなければ続かない。
店舗を持てば商品が必要になる。
シーズンがあれば新作が必要になる。
ブランドである以上、成長も問われる。
顧客を増やす必要がある。
在庫も出る。
値下げも起きる。
この矛盾は、簡単には解けない。
だから、ステラマッカートニーのアウトレット出店を見て、単純に矛盾していると笑う気にはなれない。
むしろ、現代ファッションの構造がかなり露骨に出ていると思った。
思想を持つブランドであっても、産業からは逃れられない。
でも、産業の中にいるからこそ、思想を現実にぶつけることもできる。
外側から正しいことを言うのは簡単である。
中で矛盾しながら続ける方が、ずっと難しい。
そしてその矛盾に対して、デザイナーたちはそれぞれ違う抵抗をしてきた。
ステラマッカートニーは、素材と倫理で抵抗した。
ヨウジヤマモトは、長く着る服という時間感覚で抵抗した。
ヴィヴィアン・ウエストウッドは、少なく買い、よく選び、長く持たせるという言葉で抵抗した。
CCPやPaul Harndenは、そもそも服の時間を市場の時間からズラすことで抵抗した。
どれも完全な解決ではない。
しかし、それぞれが違う角度から、ファッション産業の速度に抗っている。
結論
ステラマッカートニーのアウトレット出店は、思想の敗北ではない。
むしろ、思想だけでは在庫を消せないという現実の証明である。
どれだけサステナビリティを語っても、服は余る。
どれだけ動物福祉を掲げても、商品は市場に置かれる。
どれだけ反大量消費の気配を持っていても、ブランドは産業の中で生きている。
しかし、ここで終わらせると浅い。
本当の問題は、在庫が出ることだけではない。
時間が経つほど価値が落ちる服を作り続ける構造そのものにある。
CCPやPaul Harndenのような服が強く見えるのは、そこに別の時間が流れているからである。
新作として消費される服ではなく、物体として残る服。
シーズンの速度ではなく、素材と身体の時間で存在する服。
そういう服は、在庫になった瞬間に死ぬのではなく、むしろ時間の中で別の読み方をされることがある。
思想は在庫をなくせない。
しかし、思想は在庫の意味を変えることはできる。
売れ残りとして古くなる服もあれば、時間を待っていたように見える服もある。
ファッションの矛盾は、そこにある。
服は産業の中で作られる。
しかし本当に強い服は、ときどき産業の時間から少しだけ逃げる。
ステラマッカートニーのニュースを見て考えるべきなのは、誰かの矛盾を責めることではない。
服が、売れ残った瞬間に価値を失うものなのか。
それとも、時間を通過してなお残るものなのか。
その違いである。
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