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Versace、Onitsuka Tiger履いて急に体育館をラグジュアリー化してるやん

今日も違和感を見つけた。

Versace、Onitsuka Tiger履いて急に体育館をラグジュアリー化してるやん。

Vogueの記事で、2026年春のスニーカーコラボが紹介されていた。

Jil Sander x Puma。
Jacquemus x Nike。
Miu Miu x New Balance。
Thom Browne x Asics。
Completedworks x Asics。
そして、Versace x Onitsuka Tiger。

その中で少し引っかかったのが、Versace x Onitsuka Tigerだった。

Vogueによると、このコラボはDario VitaleによるVersaceの2026年春夏ランウェイで登場したあと、4月2日にローンチされた。Onitsuka TigerのクラシックなTai-Chiを、Versaceのデザインコードで再解釈したものだという。丸みのあるトウ、レースアップ、ローカットのソール、そしてVersaceのMedusaハードウェア。素材もスエード、ナッパレザー、メタリックなど複数展開されている。

要するに、オニツカの身体性に、Versaceの記号が乗っている。

ここが面白い。

Onitsuka Tigerは、本来スポーツの文脈を持つブランドである。

走る。
跳ぶ。
動く。
踏み込む。
身体を支える。

スニーカーとは、もともとそういう身体のための道具だった。

しかし今、スニーカーはただの運動靴ではない。

ラグジュアリーが自分たちの美学を翻訳するための媒体になっている。

スニーカーは、いつから運動靴ではなくなったのか

もちろん、スニーカーがファッション化したのは今に始まった話ではない。

NIKE。
adidas。
New Balance。
Puma。
Asics。
Onitsuka Tiger。

どれも、すでにスポーツだけのブランドではない。

スニーカーは、街で履かれる。
仕事に履かれる。
デートに履かれる。
ランウェイに出る。
ラグジュアリーの店舗に並ぶ。
スーツにも合わせられる。
ドレスにも合わせられる。

スニーカーは、もう競技のためだけの靴ではない。

ただ、それでも本来は身体の道具である。

足を守る。
地面を掴む。
衝撃を吸収する。
移動を支える。

だからスニーカーには、どこか身体の実用性が残っている。

この実用性が、ラグジュアリーにとって都合がいいのだと思う。

バッグや服よりも、スニーカーは日常へ入りやすい。

高級すぎる服は着る場所を選ぶ。
高級すぎるバッグは見せ方が難しい。
高級すぎるジュエリーは生活から浮く。

でもスニーカーは履ける。

街へ出られる。
歩ける。
写真にも映る。
身体にも接続できる。

つまりスニーカーは、ラグジュアリーが日常へ侵入するためのかなり便利な媒体なのである。

VersaceがOnitsuka Tigerを履く意味

Versaceは強いブランドである。

華やかで、装飾的で、記号性が強い。

Medusa。
金。
柄。
身体の強調。
セクシュアリティ。
過剰さ。
イタリア的なラグジュアリーの濃さ。

一方で、Onitsuka Tigerには別の空気がある。

日本のスポーツブランド。
レトロな運動靴。
薄いソール。
軽さ。
日常性。
少し懐かしい身体感覚。

この二つが組むと、単なるコラボ以上のことが起きる。

Versaceは、Onitsuka Tigerから身体性と日常性を借りる。
Onitsuka Tigerは、Versaceからラグジュアリーの記号性を借りる。

つまりこれは、ブランド同士の交換である。

片方は身体を持っている。
片方は記号を持っている。

その二つが合わさることで、スポーツの靴がファッションの記号になる。

ここで問いたいのは、良いか悪いかではない。

スニーカーは、なぜここまでブランド翻訳の媒体になったのか、である。

ブランド翻訳とは何か

最近、ラグジュアリーは翻訳をし続けている。

ガリアーノがZARAと組む。
GucciがF1へ行く。
PradaがKolhapuri ChappalsをMade in Indiaとして作り直す。
Bang & Olufsenが藤原ヒロシに黒くしてもらう。
そしてVersaceがOnitsuka Tigerを履く。

それぞれ違うニュースに見える。

しかし構造は似ている。

ブランドが、自分の美学を別の文脈へ移している。

高級ブランドが大衆ブランドへ行く。
ラグジュアリーがスポーツへ行く。
音響機器がストリートへ行く。
伝統工芸がラグジュアリーへ行く。
運動靴がランウェイへ行く。

これは単なるコラボではない。

ブランドの翻訳である。

以前、ガリアーノとZARAについて書いた。

あの記事では、ラグジュアリーが大衆化しているのではなく、自分たちの美学を別の価格帯や市場へ翻訳しているのではないかと書いた。

今回のVersace x Onitsuka Tigerも近い。

Versaceは、Onitsuka Tigerを通じて、自分の美学をスニーカーへ翻訳している。

Onitsuka Tigerは、Versaceを通じて、自分の身体性をラグジュアリーへ翻訳している。

つまり、スニーカーはただの商品ではなく、ブランド同士が互いの文脈を翻訳する場所になっている。

スポーツブランドは身体を持っている

ラグジュアリーがスポーツブランドへ近づく理由は、スポーツブランドが身体を持っているからだと思う。

スポーツには、身体がある。

汗。
速度。
筋肉。
疲労。
競技。
勝敗。
フォーム。
地面。
呼吸。

ファッションは、しばしば身体から離れる。

画像になる。
ルックになる。
広告になる。
SNS投稿になる。
ランウェイの演出になる。

もちろん服は身体に触れるものだが、ファッション産業の中では、服はしばしばイメージとして流通する。

一方でスポーツブランドは、身体から逃げにくい。

靴なら履かれる。
走られる。
歩かれる。
曲がる。
擦れる。
地面に触れる。

この身体性が、ラグジュアリーにとって魅力になっている。

なぜなら、ラグジュアリーは今、商品だけでは物語を支えきれなくなっているからだ。

服やバッグだけでは足りない。
体験が必要になる。
熱狂が必要になる。
スポーツが必要になる。
身体の説得力が必要になる。

GucciがF1へ行く話でも、似たことを書いた。

ラグジュアリーは、商品から体験へ、体験から熱狂へ移動している。

今回のスニーカーコラボは、その足元版である。

体育館がラグジュアリー化する

スニーカーは、体育館の道具だった。

もちろん、厳密にはOnitsuka TigerのTai-Chiはさまざまな文脈を持つが、ここでは大きくスポーツと身体の靴として見たい。

体育館。
校庭。
部活。
試合。
練習。
走る身体。
動く身体。

そこにVersaceのMedusaが乗る。

すると、体育館の記憶がラグジュアリー化する。

これは少し変なことだ。

運動靴に、高級ブランドの記号が乗る。
身体のための道具に、見られるための記号が乗る。
日常的な靴に、ランウェイの空気が乗る。

でも、それが今のスニーカーの面白さでもある。

スニーカーは、スポーツとファッションの間にある。

実用と記号の間にある。

身体とブランドの間にある。

だからこそ、コラボの媒体として強い。

バッグや服よりも、スニーカーは文脈を混ぜやすい。

スポーツ。
ストリート。
ラグジュアリー。
ノスタルジー。
制服感。
部活感。
都市生活。
旅行。
セレブリティ。
ランウェイ。

全部を一足の靴に載せられる。

スニーカーは、ブランドの実験場になった

今のスニーカーコラボを見ていると、スニーカーはブランドの実験場になっているように見える。

Vogueの記事でも、Versace x Onitsuka Tigerだけではなく、Jil Sander x Puma、Jacquemus x Nike、Miu Miu x New Balance、Thom Browne x Asics、Completedworks x Asicsなどが並んでいる。

ここまで来ると、スニーカーはもう一つのジャンルというより、ブランド同士が実験する共通言語になっている。

Jil SanderはPumaでミニマルを翻訳する。
JacquemusはNikeで南仏的なムードを翻訳する。
Miu MiuはNew Balanceでガーリーな崩しを翻訳する。
Thom BrowneはAsicsでテーラリングの規律を翻訳する。
VersaceはOnitsuka Tigerで装飾性を翻訳する。

それぞれ、スニーカーという同じ媒体を使いながら、自分たちの美学を別の身体へ載せ替えている。

これはかなり現代的である。

昔なら、ブランドの美学は服で表現された。

ジャケット。
ドレス。
コート。
シャツ。
バッグ。

しかし今は、スニーカーでも十分にブランドを語れる。

むしろ、スニーカーの方が分かりやすいことすらある。

靴は毎日履かれる。
街で見える。
SNSにも載る。
価格帯も広がる。
コラボの記号も伝わりやすい。

だからスニーカーは、ブランド翻訳の最前線になっている。

コラボ疲れの中で、それでもスニーカーが強い理由

最近、コラボは多すぎる。

ブランド同士、もう誰と誰が組んでいるのか把握できない。

コラボは本来、異物同士がぶつかるから面白かった。

しかし今は、毎週どこかが組んでいる。

驚きより先に、またコラボか、が来る。

それでもスニーカーコラボが残るのは、スニーカーには身体という逃げ場があるからだと思う。

服のコラボは、世界観が強すぎると着にくい。

バッグのコラボは、記号が強すぎると飽きやすい。

でもスニーカーは、履ける。

歩ける。

日常へ戻せる。

だからコラボの過剰さを、身体が少し中和してくれる。

この点で、スニーカーは優秀な媒体である。

記号性がある。
でも日常性もある。
ブランド感がある。
でも実用性もある。
高級にもできる。
でも街にも戻せる。

このバランスが、ラグジュアリーにとって使いやすい。

ラグジュアリーは身体を借りている

ここで少し意地悪に見ると、ラグジュアリーはスポーツブランドから身体を借りているとも言える。

ラグジュアリーには歴史がある。
素材がある。
職人技がある。
世界観がある。
店舗がある。
広告がある。

しかし、現代の消費者に対して、それだけでは少し遠い。

生活から離れすぎる。

そこで、スポーツブランドの身体性を借りる。

スニーカーを通じて、ラグジュアリーは身体へ近づく。

歩ける。
動ける。
日常に入れる。
若い人にも届く。
ストリートにも接続できる。

つまり、スニーカーはラグジュアリーにとって、身体へ戻るための通路なのだと思う。

ただし、ここには危うさもある。

スポーツの身体性が、ただの記号として消費される可能性がある。

実際に走るためではなく、走れそうな空気だけを買う。

実際に競技するわけではなく、競技の記号だけを身につける。

実際に身体を使うわけではなく、身体性っぽさだけを持つ。

ここに、少しだけ空虚さがある。

でも、これはファッション全体が抱えている矛盾でもある。

服は身体に触れる。
しかしファッションは記号として流通する。

スニーカーは、その矛盾が最も見えやすい場所なのかもしれない。

オニツカタイガーという日本的身体性

Onitsuka Tigerが面白いのは、日本的な身体性を持っているところである。

Nikeやadidasのような巨大グローバルスポーツブランドとは、少し空気が違う。

もっと薄い。
もっと軽い。
もっとレトロ。
もっと日常に近い。
どこか体育館的で、どこか昭和的でもある。

そこにVersaceが乗る。

これはかなり強い違和感である。

イタリアの過剰なラグジュアリーが、日本の薄い運動靴的身体性へ乗る。

この混ざり方は、単なるスポーツ x ラグジュアリーではない。

文化の翻訳でもある。

日本の身体感覚。
イタリアの装飾性。
スポーツの実用性。
ランウェイの記号性。

それが一足のスニーカーに圧縮される。

もちろん、これを深読みしすぎと言うこともできる。

ただ、ファッションの面白さは、こういう深読みが可能になるところにある。

一足の靴に、ブランド、身体、文化、記号、価格、欲望が重なる。

だからスニーカーは面白い。

これは単なる商品ではなく、翻訳の練習である

Versace x Onitsuka Tigerを、単なる限定スニーカーとして見ることもできる。

高い。
かわいい。
珍しい。
欲しい。
いらない。
似合う。
似合わない。

それでもいい。

ただ、少し引いて見ると、これはラグジュアリーがこれからどう生き残るかの練習にも見える。

ラグジュアリーは、もう自分の閉じた世界だけでは成立しにくい。

スポーツへ行く。
音楽へ行く。
アートへ行く。
工芸へ行く。
大衆ブランドへ行く。
伝統文化へ行く。
F1へ行く。
スニーカーへ行く。

自分たちの美学を、別の文脈へ翻訳し続ける。

それが今のブランド競争になっている。

何を作るかだけではない。

どこへ自分の名前を置くか。

どの身体へ接続するか。

どの文化と組むか。

どの熱狂へ入るか。

どの記号を借りるか。

この配置の競争である。

Versace x Onitsuka Tigerは、その一例である。

関連して読める記事

ラグジュアリーが大衆ブランドへ美学を翻訳し始めた話は、ガリアーノとZARAの記事で書いた。

ラグジュアリーが商品から熱狂の場へ移動している話は、GucciとF1の記事で書いた。

スポーツ用品が工芸やラグジュアリーの文脈へ近づく話は、ミズノの和紙シューズの記事で書いた。

今回のVersace x Onitsuka Tigerは、その中間にある。

スポーツ用品がラグジュアリー化する話であり、ラグジュアリーが身体性を借りる話でもある。

結論

VersaceがOnitsuka Tigerを履いたことは、単なるスニーカーコラボではない。

スニーカーが、スポーツ用品からブランド翻訳の媒体へ変わっていることの象徴に見える。

スニーカーは、もともと身体のための道具だった。

走る。
跳ぶ。
動く。
地面を掴む。

しかし今、その身体性にラグジュアリーの記号が乗る。

Medusaが乗る。
ランウェイが乗る。
価格が乗る。
ブランドの物語が乗る。

走るための靴が、ブランドの世界観を運ぶ靴になった。

これは少し変で、少し面白い。

スニーカーは、もう運動靴ではない。

ブランド同士が、自分たちの美学を交換し、翻訳し、身体へ接続する場所になっている。

だからVersaceがOnitsuka Tigerを履くと、体育館まで少しラグジュアリーに見えてくる。

その違和感が、今のファッションのかなり正確な表面なのだと思う。

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