見出し画像

ラグジュアリー、最近ずっと美術館の顔してくるやん

今日も違和感を見つけた。

Vogueの記事を読んでいたら、Gucci、Dior、Louis Vuittonのリゾートコレクションが、かなり強くアート文脈へ接続していると書かれていた。

ラグジュアリー、最近ずっと美術館の顔してくるやん。

最初はそう思った。

もちろん、ファッションとアートの接続は新しい話ではない。

デザイナーは昔から、絵画、映画、音楽、建築、彫刻、写真から影響を受けてきた。

服は布だけでできているわけではない。

時代、身体、階級、都市、欲望、美意識、記憶。

そういうものが混ざっている。

だから、ファッションがアートと近づくこと自体は自然である。

ただ、最近のラグジュアリーは少し違う。

単にアートから影響を受けているのではなく、文化機関のような顔をし始めている。

ここに違和感がある。

何が起きているのか

Vogueの記事では、Gucci、Dior、Louis Vuittonがリゾートコレクションでアート文脈へ深く接続していることが取り上げられている。

記事によれば、Louis Vuittonのリゾート2027ショーはニューヨークのThe Frick Collectionで行われた。さらにLouis Vuittonは同館との3年間のパートナーシップも結んでおり、特別展への資金提供、無料入場イベント、キュラトリアル・リサーチ・アソシエイトのポジション支援などが含まれていると報じられている。

同じ記事では、GucciがRobert LongoのMen in the Citiesシリーズを参照し、Times Squareを大きく使ったこと、DiorがLACMAでHollywoodや映画、Ed Ruschaのようなアーティスト文脈へ接続していたことも紹介されている。

つまり、これは単なるコレクション会場の話ではない。

ラグジュアリーブランドが、美術館、アーティスト、映画、文化施設と深く接続し、自分たちを単なる服屋ではなく文化的な存在として見せようとしている。

ここがかなり面白い。

高級ブランドは、なぜ服屋では足りなくなったのか

ラグジュアリーは、もともと服やバッグや靴を売っていた。

もちろん、ただの物ではない。

素材。

技術。

歴史。

店舗体験。

広告。

ショー。

セレブリティ。

それらを通して、世界観を作ってきた。

しかし、今はそれだけでは足りなくなっているように見える。

服を作るだけではなく、美術館と組む。

バッグを売るだけではなく、アートを支援する。

ショーを見せるだけではなく、文化的な文脈の中に自分たちを置く。

なぜか。

高いだけでは、もう説得力が足りないからだと思う。

ラグジュアリーは、価格を正当化しなければならない。

なぜその服が高いのか。

なぜそのバッグが高いのか。

なぜそのブランドが特別なのか。

昔なら、素材、職人技、希少性、ブランドの歴史で説明できた。

しかし、今は情報が多すぎる。

SNSで誰でもブランドの裏側を見る。

リセール市場で価格が可視化される。

AIでそれっぽいビジュアルも作れる。

ファストファッションもかなり洗練されている。

そうなると、ラグジュアリーは単に高品質な商品では足りない。

文化的正統性が必要になる。

文化的正統性を買いに行くブランド

ラグジュアリーがアートへ接続するのは、文化的正統性を買いに行く行為でもある。

美術館。

財団。

歴史ある建築。

有名アーティスト。

映画。

キュレーション。

こうしたものに接続すると、ブランドはただの商業ではなくなる。

少なくとも、そう見える。

服を売っているだけではない。

文化を支援している。

歴史に接続している。

芸術と対話している。

社会に何かを残している。

そういう顔ができる。

ここにラグジュアリーの現代的な戦略がある。

商品を売るだけではなく、文化に参加する。

いや、もっと言えば、文化の側に座る。

これは強い。

なぜなら、美術館やアートの文脈は、単なる消費よりも上位に見えやすいからである。

服を買うことは消費である。

しかし、アートを支援することは文化である。

この差がある。

ラグジュアリーは、その差をよく分かっている。

服屋が文化機関のふりをする時代

最近のラグジュアリーは、服屋であると同時に、文化機関のふりをする。

ふり、という言い方は少し意地悪かもしれない。

実際に文化支援をしているブランドもある。

美術館への支援は、現実に意味がある。

アーティストとの協業によって、新しい表現が生まれることもある。

文化機関に資金が入ることは悪いことではない。

だから、ラグジュアリーがアートへ接続すること自体を否定したいわけではない。

問題は、文化支援とブランドの自己演出がほとんど同じ場所で行われていることだ。

美術館を支援する。

同時に、自分たちのブランド価値を上げる。

アーティストと組む。

同時に、自分たちの商品に文化的な厚みを足す。

展示やショーを行う。

同時に、SNSで拡散されるビジュアルを作る。

ここでは、文化と広告が分けにくくなる。

文化支援なのか。

PRなのか。

芸術への敬意なのか。

価格を正当化するための物語なのか。

たぶん、その全部である。

Vogueが書いていた文化は通貨であるという感覚

Vogueの記事では、現代ではtaste、つまり趣味や審美眼が一種の通貨になっているという見方が示されていた。

これはかなり重要である。

昔は、ラグジュアリーの価値は、分かりやすい富の記号だった。

高いバッグ。

ロゴ。

有名ブランド。

見れば分かる高級感。

しかし今は、単に高いものを持つだけでは足りない。

何を知っているか。

どの文脈を読めるか。

どのアートを参照しているか。

どの場所でショーをするか。

どの文化機関と結びついているか。

それが価値になる。

つまり、ラグジュアリーは財力だけでなく、文化資本を売っている。

この服を買う人は、ただ高い服を買っているのではない。

この文脈が分かる側にいる。

このアート参照を読める側にいる。

この世界へ入れる側にいる。

そういう感覚を買っている。

これはかなり現代的なラグジュアリーである。

アートは価格を正当化する

アート文脈は、ラグジュアリーの価格を正当化する。

なぜなら、アートは価格が読みにくいからである。

Tシャツなら、素材や縫製やブランド料をある程度考えられる。

バッグなら、革や職人技や流通も想像できる。

でもアートは違う。

価格の根拠が、物質だけではない。

歴史。

作家。

文脈。

希少性。

展示歴。

批評。

市場。

コレクター。

そうしたものが混ざる。

ラグジュアリーがアートに近づくと、商品もこの価格の読みにくさをまとえる。

服なのに作品のように見える。

バッグなのにアートピースのように見える。

ショーなのに展示のように見える。

この曖昧さが、ラグジュアリーにとって便利である。

価格が高い理由を、素材だけで説明しなくてよくなる。

文化で説明できる。

世界観で説明できる。

文脈で説明できる。

つまり、ラグジュアリーはアートを使って、商品の価格ではなく、意味の価格を作っている。

これはBEAMSの体制側化とも似ている

この話は、以前書いたBEAMSの記事とも少しつながる。

BEAMSって、いつからこんなに体制側になったん?という記事で、カルチャーの顔をしたものが、行政や自治体や官公庁と自然に接続していく違和感について書いた。

BEAMSの場合は、セレクトショップや若者文化、雑貨、ストリートの空気が、地域創生や行政の文化発信へ接続していく違和感だった。

今回のラグジュアリーとアートの接続も、少し似ている。

カルチャーは、いつの間にか制度の側へ行く。

ファッションは、いつの間にか美術館の側へ行く。

ブランドは、いつの間にか文化機関の顔をする。

もちろん、それは悪いことだけではない。

文化へ資金が入る。

人が集まる。

新しい見方が生まれる。

しかし同時に、気持ち悪さもある。

商業が文化の顔をする時、その境界はかなり曖昧になる。

キース・ヘリングの話ともつながる

Louis Vuittonのリゾート2027では、Keith Haring Foundationとの公式パートナーシップも取り上げられていた。

Vogueの記事では、1984年にKeith Haringがグラフィティを描いたLouis Vuittonのアンティークレザーブリーフケースが招待状に使われ、ランウェイでもHaringのモチーフが登場したと紹介されている。

Keith Haringは、ストリート、公共性、アクティビズム、エイズ危機などと結びついた作家である。

その作品が、ラグジュアリーの文脈へ入る。

これはかなり象徴的である。

キース・ヘリング、死後もラグジュアリーに働かされすぎでは。

そう言いたくなる。

もちろん、財団との正式な協業であり、単なる無断使用ではない。

しかし、ここでも問いは残る。

反権力的なストリートの文脈を持っていた表現が、ラグジュアリーの物語装置になる。

これは文化の保存なのか。

再評価なのか。

それとも、市場による回収なのか。

たぶん、その全部である。

ラグジュアリーは大衆化ではなく、文化化している

最近、ラグジュアリーは大衆へ近づいているように見える。

ZARAとのコラボ。

H&Mとのコラボ。

Gapとのコラボ。

スポーツへの接続。

F1への接続。

アートへの接続。

でも、これを単に大衆化と呼ぶと少し足りない。

ラグジュアリーは、大衆化しているだけではない。

文化化している。

自分たちを単なる商品ブランドではなく、文化を編集する存在として見せようとしている。

これはかなり大きな変化である。

ブランドは服を作るだけではない。

アートを参照する。

美術館と組む。

スポーツに入る。

音楽に入る。

都市に入る。

映画に入る。

そして、自分たちの名前を文化の交差点へ置く。

つまり、ラグジュアリーは商品を売る場所から、文化を編集する場所へ移動している。

服だけでは物語を支えきれない

なぜここまで広がるのか。

たぶん、服だけではブランドの物語を支えきれなくなっているからである。

服は重要である。

バッグも重要である。

靴も重要である。

しかし、商品だけでは比較される。

価格も比較される。

素材も比較される。

似たものも出る。

リセール市場でも見られる。

AIでビジュアルも大量に作れる。

その中で、ブランドは商品以上の何かを必要とする。

そこで、アートや文化機関へ接続する。

美術館でショーをする。

アーティストと組む。

文化支援をする。

映画と接続する。

これによって、ブランドは単なる商品から、物語へ移る。

以前、なぜ今、ブランドは商品ではなく物語を売るのかという記事を書いた。

そこで書いたように、人は商品そのものだけではなく、参加したい物語へ課金するようになっている。

ラグジュアリーのアート接続も同じである。

ブランドは商品を売っているようで、文化的な物語への参加権を売っている。

ただし、文化機関の顔には責任がある

ラグジュアリーが文化機関の顔をするなら、それには責任がある。

文化を使うなら、文化への責任がある。

美術館と組むなら、ただ会場を借りるだけではない。

アーティストと組むなら、ただモチーフを使うだけではない。

文化支援をするなら、PR効果だけで終わらせない必要がある。

ここは、PradaとKolhapuri Chappalsの話にもつながる。

Pradaがインド伝統の履物に着想を得たサンダルをMade in Indiaとして出した時、問題は文化を使うこと自体ではなく、誰が作り、誰が語り、誰に利益が返るのかだった。

ラグジュアリーが文化に近づく時、同じ問いが出る。

誰の文化を使っているのか。

誰が語っているのか。

誰が利益を得るのか。

文化機関の顔をするなら、その問いから逃げられない。

結論

ラグジュアリー、最近ずっと美術館の顔してくるやん。

最初はそう思った。

でも考えていくと、これは単なるショー会場の話ではない。

高級ブランドは、服屋であるだけでは足りなくなっている。

商品だけでは価格を正当化しにくい。

ロゴだけでは物語を支えきれない。

素材や職人技だけでは、現代の消費者に届きにくい。

だからブランドは、アートへ接続する。

美術館へ接続する。

映画へ接続する。

文化機関の顔をし始める。

これは面白い。

同時に、少し怖い。

商業が文化の顔をする時、文化支援とPRの境界は曖昧になる。

ファッションがアートに近づく時、服は作品になるかもしれない。

でも同時に、アートもブランドの物語装置になる。

高級ブランドは、なぜ服屋ではなく文化機関のふりをし始めたのか。

たぶん答えは、服だけではもう十分ではないからである。

これからのラグジュアリーは、何を作るかだけではなく、どの文化の隣に座るかで記憶される。

Void Labについて

Void Labは、服に現れる時代の変化を観測する小さな研究室です。

ブランドはなぜ物語を売るのか。ラグジュアリーはなぜ生活へ広がるのか。流行はなぜ市場に回収されるのか。

週刊服飾観測・月刊服飾観測を中心に、ファッション、ブランド、消費、カルチャーの違和感を読み解きます。

月額980円で有料記事はすべて読み放題。掲示板では自由に話せます。

完成した答えより、まだ名前のない変化に興味がある人へ。

明日も違和感を書きます。

いいなと思ったら応援しよう!

Void 地下活動の燃料になります。いただいたチップは、生地代、糸代、絵の具代、画用紙代、制作や執筆のための活動費として大切に使わせていただきます。