ストロベリーフィールド:第十一幕 姉弟と兄弟
真っ暗な階段を一段、また一段と数を数えながら降り、三十二段目で立ち止まった影は、身体を右の壁に寄せながら少し回転させた。最後の一段だけ、左側の幅がかなり狭くなっていて、階段に繋がる通路は左側に曲がっている。
最後の一段を降りると、レオは段差がないことをもう一度つま先で確認してから、レンガ造りの通路を左側に進んだ。
手探りで左側の壁を触ると冷たいレンガの感触が掌に広がり、驚いたレオは一瞬手を離した、風のせいか何処からか微かな音が聞こえ、細い廊下の先は更に暗い。
しばらく歩き進めると右側の壁から冷たい風が吹き込んでくる。レオは動じることなく風がきた場所のあたりを手で探り、へこんだ石の位置を確認するとその両側の石を手で押し広げるように左右に押した。
すると地鳴りのような音と共に壁が少し前にずれて押し開かれ、中から暗い廊下に向かって弱い太陽の光が斜めに差し込んだ。
「ああ、また来たの……?」
部屋の中は広く、高い天井の上の方から柔らかい光が差し込んでいる。広過ぎるせいで部屋の隅は薄暗く部屋の終わりがどこなのかはっきりわからない。
「……どこ?」
「ここだよ」
声が聞こえた方向から真っ白な顔が現れ、レオはぎくりとして一歩後ずさりした。目の前に誰かがいることを確認したレオは恐る恐る部屋に入った。その人物の姿形が自分と似ているので、レオは一瞬、鏡が置いてあるのかと思ったが、目の前の姿は鏡に写った自分の姿ではない。
今の自分の表情は、こんな穏やかな笑顔ではないはずで、恐怖で引きつっているはずだった。
それに、この部屋に鏡などない。あるはずがなかった。
「大丈夫だよ。毎回言わなきゃだめかな? 何もしないよ」
目の前の子は笑いながらレオのいる方へ近寄って来た。心臓の音が耳まで聞こえていたが、レオも平然を装い笑顔を作った。
小さな子は、レオの横までくるとレオの顔を覗き込んだ。そうしてから振り返り、また部屋の奥へと戻って行く。
「ねぇ、こっちに椅子があるんだ。買ってもらったんだよ。どうしてふたつもいるのかってうるさく聞かれたけど。
少し待ってね。ランプがあるからつけてあげる。強い光はあまり好きじゃないんだけど、君は暗いところ駄目でしょ」
部屋の端が丸いオレンジ色の光で包まれた。暗い部屋の端では灯の横で小さな子が笑顔を緩め手招きをしている。
「まだ怖い? 僕のこと」
「……ううん、こ、怖くなんかないよ!」
レオは椅子に近寄り腰を掛けた。その子がランプの光を顔の下から受けていた時は、顔の様子が怖くて仕方なかったのだが、単なる光の加減で恐ろしく見えていただけだった。
光の届かない奥には、どうやら簡易なキッチンもあるようで、小さな子が一生懸命に戸棚から何やら引っ張り出している気配があった。暫くして小さな子は、美味しそうなフルーツとお菓子をレオの前に並べてから、本で埋め尽くされたレンガの壁を背にしてレオと向かい合って座った。
「スミレのクッキーだよ。食べてみて、どんな味かを教えて」
言われたまま恐る恐るクッキーをひとつつまんで口に放り込んだレオの様子を見ながら、小さな子はゆっくり微笑み、次は黄色い液体をグラスに注いだ。
口から抜ける春のスミレの香りが、鼻腔いっぱいに貯め込まれ、レオは目を丸くした。生まれて初めて食べたそのクッキーは、最初は香水を口に入れているような違和感があったが、ほろほろと口の中で溶け、甘い練乳かカスタードのような味だけが残った。口の中からあっという間になくなったクッキーの味をもう一度確かめたくて、レオはまたクッキーを頬張った。ミルクの甘さとスミレの香りが、再びレオの口から鼻にかけていっぱいに広がる。
「うわぁ……」
美味しさに驚き、両手にクッキーを掴んだ状態になってしまったレオの前に、小さな子は笑顔のままグラスを差し出した。
「はい。どうぞ」
せっかくの口の中の香りを消したくなかったレオは、しばらく躊躇していた。が、根気よくグラスを持って待っているその子の姿を見て、しぶしぶ片方の手のクッキーをお皿に戻し、そのグラスを手に取って注がれた液体を口に運んだ。その液体を一口飲むと、レオは椅子から飛び上がるように立ち上がった。
「ねぇ、このクッキー、甘くていい香りがするよ。それと、これなんて言う飲み物? すごく、すごーく、甘くて美味しい!」
「なんだ、両方とも『甘い』なのか。上の世界にだってオレンジジュースあるんじゃないの?」
「え? これ、オレンジジュース?」
「ああ、いつも来る男がそう言っていた。僕さ、その木の実は本の絵でしか知らない。でも確か、この木の実にはいろいろな味があるって、あの男が言ってたな」
「僕、オレンジジュースなら知ってるよ。けど、もっと、なんていうか、上で飲むやつは酸っぱいんだ。あ、このブルーベリーは甘酸っぱい。これよりうんと酸っぱくて紅茶に入れるレモンみたいなの。
僕さ、酸っぱいの大嫌いなんだ。でもさあ、このジュース、酸っぱいがほとんどなくって、すごくすごく甘くて美味しいね! そう酸っぱいがない味!」
小さな子は、眉間に皺を寄せた。
「酸っぱいが、ない味…。これ、ブルーベリーっていうのか」
「うん。ブルーっていうより、濃い紫だよね」
「ブルー…紫…」
小さな子は、ブルーベリーを指さして言葉を繰り返している。おそらく、色の名前を覚えているのだろう。
レオは、この薄暗い部屋の中で、この小さな子が大層恵まれた生活をしていることに驚いていた。
頭が良いことは、最初に会った時から判った。学問的に頭がいいというより、知恵があると言った方がいいかもしれない。単語は一度聞いたら忘れないようで、二度目にレオが来た時には、それはもう質問攻めだった。
この小さな子よりレオの方が優れていることといえば、自由に外を走り回れることと、両親や友達にいつでも会えることくらいかもしれなかった。
「これ、全部パパが持ってくるの?」
レオは、そう口にしてからしまったと思った。
あの人が来るわけなどない。この子のことをこんなところに閉じ込め隠し続けているような人が……。
「君が言うパパっていうの、僕、見たことない。ママっていうのにもね。何をする人なのかわからないし。ここへ来るのは、背の高い眼鏡をかけた……」
「……多分、セバスチャンだと思う」
「多分そうかな。君がここにやって来るまでは、音がいろいろ教えてくれてたから」
「音だけ?」
「うん」
そう言うと、その子は前に垂れさがった不思議な形の耳をピンと立てた。
「今ね、誰か、外で草刈りをしている。それと、今日のお昼ごはんは、野菜フォンデュのはずだったのに、誰かがチーズをほとんど焦がしちゃったみたい。だから、残ったチーズでサンドイッチになったよ」
小さな子は、ふふふと笑いながら、高い所にある天窓を見上げている。レオも同じように耳を澄ませてみたが、窓を叩く風の音以外、何も聞こえなかった。
窓の外には蝶が一羽、羽を動かしながら止まっているのが見えている。窓がまたガタガタと音を立てる。どうやら蝶が開けろと言っているようだ。
あの窓は庭のどこにあるんだろう。この子の耳はどうなっているんだろう。何故、こんなところに閉じ込められているのだろう。
レオは小さな子の耳の様子を見つめ、これと同じ形の耳を持つ人物のことを思い返していた。
「そろそろ帰った方がいいよ。君を探している声も聞こえるよ。あれはニーナだね。一度会ってみたいな……」
レオは申し訳ないような、苦しいような何とも言えない気持ちになった。
その子の耳が前に少し垂れさがってきたのを見て、レオは立ち上がった。
「ねぇ、来週さ、誕生日会なんだ」
「ああ、確か…指輪、っていうのがもらえるんだよね」
小さな子は笑顔のままだ。一度笑顔になると、固まったように同じ表情のまま話すのだ。その笑顔を見てレオは困惑した。
この子の誕生日はお祝いされないのかな…。
「僕、本当は指輪なんか欲しくないんだ」
「どうして?」
レオは暫く考えてから、テーブルの上を指さして笑顔で答えた。
「僕、誕生会にはそのジュースが欲しい!」
「ああ、そんなことでいいなら、僕から、いつも来る男にお願いする。なんでって聞かれたら、何て言えばいいかな。まぁ、なんとかしてみる」
「ほんと!? やった! あんな美味しいの、誰も知らないと思うよ。僕、それを飲んだ人たちがなんて言ってたか教えてあげるね」
「そんなことしなくても、僕には聞こえると思うけど?」
小さな子は、再び両耳の先を再びピンと立てた。
「あ、そうだった! じゃ、どんな顔してたか、後で教えてあげるよ! 名前もね!」
ふたりは声を立てながら静かに笑った。
「僕にも呼び方はあるのかな…」
レオは、その言葉に返せる言葉を持っていなかった。勿論、その子にも名前くらいはあるはずだ。困った様子のレオを見て、小さな子は声のトーンを明るく変えた。
「ずいぶん食べたね。でも、そろそろ戻った方がいいよ」
「うん。また来るね。おやつ、ありがとう」
「ありがとう……」
その言葉は『相手に何かしてもらった時や、相手を抱きしめたくなったときに使うといいよ』と、その小さな子がレオから教わった言葉だった。
上の世界で交わされているこの言葉を小さな子はずっと聞いていたのだが、どういう時に使うのか分かっていなかった。レオに教わって使うようになったのだ。
小さな子が挨拶を返した後、レオは振り返って、尋ねた。
「ねえ前にも言ってたけど、ほんとにお花、嫌いなの?」
「大嫌い。その上にいる虫たちはもっと嫌い。 羽の音を聞くのも嫌だ」
眉間にしわを寄せたその子の顔を見て、レオが分かったと答えると、小さな子は、また優しく微笑んだ。
レオは名残惜しそうに重い扉を押して部屋の外に出ると、ひとつのレンガを探った。ここのレンガだけ真ん中が少しへこんでいる。
最初にこの部屋にレオが来た時は、それがどこかが分からず大変だった。だが小さな子が、どこかに掴む場所があるはずだと教えてくれた。灯りを近づけて見ると、手垢がつき黒ずんだいるレンガがひとつだけあった。この出入り口が何度も何度も使用されていることが分かるレンガだった。
ドアが閉じる瞬間、ドアの前まで近寄って来ていた小さな子の顔が半分、白く浮かんで見えた。
「ありがとう……」
そう言って笑顔のまま、優しく手を振る小さな子の様子を見てレオは悲しくなった。ここへ来るたびに感じるこの胸の痛みは何なのだろう、なぜ、あの子はここから出ようとしないのだろうとレオは考えるようになっていた。
ここへ来たことは誰にも話してはいけないと、小さな子は言った。もし話せばもうママにもパパにも会えなくなるんだよと話をした時のその目は、暗闇で鋭く光っていた。
レオは身震いをして、細いレンガの廊下を戻り、階段を数えながら三十段登ってから少し屈んだ。壁にある石のついた紐を何度か引くと頭上の板が少し開く。あたりを見回し誰もいないことを確認してから地上に出ると、レオはエサ入れの周りに散らばった草を拾い上げ、素早くそこに戻した。
その穴の周りはレンガで囲まれている。井戸のようにも水受けのようにも見えるそれは、普段は草木と藁で覆われている。かつては実際にヤギのエサ入れとして使われていたものだったが、実は地下の部屋へ続く入り口だった。
そのエサ入れは屋根付きのヤギ小屋の真ん中あたりにあった。姉のニーナが入学のお祝いに欲しいとせがんで買ってもらったペットのヤギは、少しの期間だけ可愛がられた後、放置され、随分前にいなくなっている。レオが生まれたことで、愛情がヤギからレオに移ったからだと聞かされていたが、単に世話をするのが面倒だっただけだろう。
とっくにいなくなったヤギの小屋をセバスチャンが今でも毎日掃除をしているのは、いつヤギが戻って来てもいいようにしているのだという噂だったが、大人は嘘をつくものだということを、レオはセバスチャンから教わった。
レオがこの入り口に気が付いたのは、ほんの少し前のことだ。蝶を追いかけていた時だった。蝶の後を追って、使われなくなっていたヤギ小屋の中へ入り、エサ入れに止まる蝶を捕まえようとしてつまずいて中に落ちそうになった。その時エサ入れには何も入っておらず、杉板だけが見えていた。
エサ入れの底に止まっていた蝶が、またひらひらと外に飛び出したのを追いかけ、小屋の裏でやっと捕まえられると思った時に、小屋の中から妙な物音が聞こえてきたのだ。
怖くなってその場を走って逃げたレオが、少し離れた木の影から小屋を覗いていると、エサ入れの中からセバスチャンが出て来たのが見えた。
セバスチャンがエサ入れに草を敷き詰めていたのを見て、レオは溢れ出る好奇心を押さえることが出来なくなった。
大きなトレーを運ぶセバスチャンが遠ざかったのを見届けると、レオは再びそっと小屋に入り、そこに敷き詰められていた草をどかした。そこには、さっき見た板がやはり見えていたのだが、叩いても押しても開くことは無かった。
レオがしばらく考え込んでいると、蝶がひらひらと目の前を横切り、さっき見た時と同じ位置に止まった。よく見ると蝶は、その細い触覚で、板の一部を叩いているように見えた。レオはその板を押してみたが、やはり何も起こらなかった。
けれど蝶は相変わらずその触覚を上下させている。蝶が止まっている板の先端は少し欠けていた。レオがその欠けたくぼみに指をかけ板を上下に動かすと板はカタリと音を立てて開き、暗闇に続く長い下り階段が姿を現したのだ。
あの時の興奮と好奇心と恐怖心をレオは生涯忘れることは無いだろう。真っ暗な階段を下りて、最後の一段を踏み外し、痛い足を引きずって暗い廊下を歩いていた時、壁の向こう側から聞こえた声にどれほどの恐怖を覚えたことか。
その日からレオは時々ここへ来るようになった。小さな子に教えてもらった通り、セバスチャンが来る時間は決まっていて、セバスチャンが出て行った直後なら誰に会うこともなかった。問題は、エサ小屋までの往復を見られないように注意をすることだけだった。
レオは敷き詰めた草を確認して、ふうと息をつくと小屋から出た。服に着いた藁を払い、あたりを伺いながら表玄関の方へと向かう。来週の誕生日には、絶対にあの子にも喜んで欲しいとレオは考えていた。あの子は、間違いなく自分の兄か弟か、少なくともこの家に関係する者のはずだと、一目見た時からレオは感じていた。
だが、あの子は自分が誰かさえ知らないし、自分の顔さえも見たことが無いようだった。あの暗い地下の奥の部屋にいる理由は分からなかったが、誰にも話すことは出来ないことだということだけは分かっていた。
そして、あの子のために自分は何をすればいいのか、レオには何も思いつかなかった。
今度は色鉛筆を持っていこう。
家族写真も一緒に。
それからあの子に聞いてみよう。
今一番欲しいものを。
家の中からレオの姉のニーナが、『今日のランチはレオの好きなチーズサンドよ』と叫ぶ声が遠くに聞こえている。
レオは、何事もなかったかのような顔をして小走りでダイニングへと向かった。
(第十二幕へつづく)
