ストロベリーフィールド:第十二幕 名前のないもの
ドアの向こうへ消えて行った男の子を見送ってから、しばらくの間、小さな子は天窓を見上げていた。男の子が無事に上の世界に出たことを確認すると、その小さな子はピンと立ち上げていた耳をもとの状態に戻し笑顔になりテーブルのところまで戻ってきた。
飲み干されたオレンジジュースのグラスを見て柔らかく寂しくほほ笑んでから、食べつくされたスミレのクッキーを盛っていた皿を見つめ、その子は僅かに残っていたフルーツを一粒口に入れた。
「甘酸っぱい……これが甘酸っぱい味。甘いと酸っぱいが一緒になった味。ブルーベリーは、”甘酸っぱい”」
小さな丸い実を噛みながら、小さな子は、その物の味と、その味に相応しい言葉を記憶しようと繰り返し口にした。丸い実の色は、さっきの男の子の瞳の色に似ている。
あの男の子は、ここではレオと呼ばれているようだ。レオは、食べ物には《味》というものがあると教えてくれた。そして、《味》にはいくつか種類があって、口にした時に飛び上がりたくなるような嬉しい気分になるものを「美味しい」と言い、二度と口にしたくないと思うものは「不味い」と言えば良くて、それ以外の味は「まあまあ」と言うらしい。
そして、レオが「美味しい」と思っているのでも、他の人には「不味い」こともあるらしかった。
意味が分からない、という風に首を振って、その小さな子は、もう一粒だけ残っていた実を、口にぽいと放り込んだ。
「甘酸っぱい」
小さな子は、この言葉をもう一度呟いた。ここでレオが何かを食べるたびに、小さな子は「味」の種類をひとつ覚えることができた。けれども、レオはここではいつも「美味しい」と言いながら飛び跳ねていたので、未だに小さな子には「不味い」の味が正確にはどんなものか分からなかった。
が、なんとなく想像はできた。自分には、飛び上がりたくなるような《味》が、どんなものか分からなかったし、二度と口にしたくないものも無かったので、これまでのすべてのものが「まあまあ」なんだろうなと、小さな子は考えていた。
レオにとっての「美味しい」は、自分にとっては「まあまあ」なのだ。
上の世界では、レオ以外にパパとママ、そして、ニーナという名前が、いつも遠くで聞こえていたが、上の世界で食事をしている音が聞こえている時でも、誰も「美味しい」、「不味い」、「まあまあ」などとは言っている声は聞こえてはいなかった。
小さな子が、その事を疑問に思いレオに尋ねた時、レオは俯いて、「うちの家族は食事の時には会話なんてないんだ」と見たことのない表情をしていた。小さな子は、そう聞いても、《家族》とは何だろうと、首をかしげることしかできなかった。
食べ物を運んでくるだけの者は、……確か、セバスチャンだ……。あれは、《家族》に入るのだろうか。この中に書かれていることが全てわかったら、何か変わるのかもしれない。
小さな子はレオという男の子から得た情報を頭の中で組み立てていた。椅子から立ち上がり、天井まである棚にびっしりと積み上げられている本の背表紙の列を見上げると、その子は一冊の本を手に取った。
その小さな子は、今いる場所以外の世界を知らなかった。レオに会うようになってから、これまで「耳だけで聞いていた」いろいろな情報が、頭の中で繋がり始めたばかりだ。
上の世界のことは全てが音だけで想像する世界だった。
歌うように話すママと呼ばれている人、ニーナというわがままな女の子の事や、その「太りすぎている」のことも知っているが、太りすぎという型を見たことが無かったので、小さな子にはどういうものかが分からなかった。
レオという子の話では、彼よりも上にも横にも広がっているという意味らしい。
パパという人の声は低く太く、いつも何かしら物を買ったり売ったりという話を誰かとしているようだ。パパが話す相手は大勢いて、いつも違う人で、パパの言うことに反対できる人はいなさそうだった。
そして、パパという人が、あまり良いことではないことをしているらしいことも、小さな子には分かり始めていた。
何故ならここに来た人たちが、玄関から門まで出て行くとき、いつもパパという人について、酷いことを言っているのが聞こえていたからだ。上の世界では、いる場所で違うことを平気で言うのが当たり前なのだと、小さな子は理解していた。
数日前から、「レオの誕生会で指輪の贈呈式がある」という話で、上の世界は騒がしかった。今日のランチが台無しになったのも、その準備で忙しかったからだ。小さな子は、誕生会というものが何か分からなかった。生まれた日を祝うというものらしいということは理解していたが、《生まれる》の意味がそもそも分からなかったし、自分がいつ生まれたのかも知らなかった。
高い所に見えている穴から、外に出てみたいと思ったことはあったが、そこにはどうやっても手が届かないし、部屋の外に出ると君は消えてしまうのだと、いつも来る男が怖い顔で言っていた。
上の世界には、男、女、どちらでもない人、という区別があり、大人、子供、どちらでもない人、という区別もあるようだった。小さな子は、レオという子に会って初めて、大人と子供の違いが分かるようになった。けれども、いまだに女の子というものを見たことが無かった。ニーナと呼ばれている子は女の子で、女の子が大人になって、子供が《生まれる》とママになり、パパは、男の子が大人になってママを見つけるとなれるものだと、レオは話していた。
「僕って、何……なのかな?」
「僕と同じくらいだから、男の子だよ。大人はさ、僕たちよりもうんと上の方に大きいんだ。ほら、セバスチャンみたいに。今度さ、家族の写真を持ってきてあげるよ。そうしたらさ、もっとよく判ると思うんだ」
小さな子が尋ねた時、レオという男の子はそう話していた。小さな子には、写真の意味がよく判らなかったが、本に書かれている絵のようなものらしいことは分かった。
小さな子はその写真というものを早く見たくて、次にあの子が来るのはいつだろうかと待ち遠しかった。
時々やって来るレオという男の子は、雪のような顔をしていて、眠くなる前の空のような頬をしている。そのことを指摘したとき、男の子が言った言葉を聞いて、小さな子は、物には《色》があるという事も知った。
「ほっぺが夕焼け空みたいに赤いのさ、僕、凄く嫌なんだ。白くならないかな……」
「夕焼け? 赤い? 白く?」
「え? 君、赤色とか白色とか分かんないの?」
「色ってなあに?」
「えっと……言葉で言うのって、難しいな……。あ、そうだ、今度来るときに色鉛筆を持ってくるよ。色鉛筆に、色の名前が書いてあるからさ」
「色の名前……」
「うん、物に名前があるでしょ。色にも名前があるんだよ。味に違う名前があるのと同じ」
レオという男の子は、少し説明できたことを誇りに思ったのか、いつもしている蝶々のような胸元のリボンを前に突き出して、その時とても誇らしそうな顔をしていた。
レオは、いつも「靴」というものを履いていた。セバスチャンも履いていたのだが、それはとても大きくて、テカテカ光る虫のような色で足が太い紐でぐるぐる巻きにされているように見えていた。
それは小さな子にとってはちっとも履いてみたいとは思えるものではなかったが、レオが履いていたものは、紐のない、男の子の髪の色と同じような夜の空のような色だった。
小さな子は、それを履いたことが無かったので、男の子にお願いして一度だけ履かせてもらったことがあった。それはいつも履いている柔らかいものと違って、硬くて頑丈なものだった。歩くと音が鳴るのも面白かったが、足がとても重くなったように感じて、長い時間動けそうにないものだった。
「靴が無いと、外には出られないよ。足を怪我するからね」
レオと呼ばれている男の子はそう言っていた。小さな子は、溜息をひとつついた。どちらにせよ、自分は上の世界の人間ではないのだから靴というものは必要ない。そう考えるしかなかった。
セバスチャンという男は、太陽が昇ってすぐに一度、明るいときに一度、暗くなる頃にもう一度、ここへやって来ては、毎日口に入れるものの説明をしてから、その食べものを置いて行った。それ以外は何を聞いても答えずに、ただ「下の世界で生まれた者は、この部屋から出ると消える」、ということ以外、何も話すことをしなかった。
そして月に一度、ここへ髪を切りに来る度に、ママという人にそっくりな目と髪の色だと溜息をついていた。溜息の理由は分からなかったが、小さな子は、髪や爪が伸びることがとても不思議だった。紅茶色の髪が、床に散る様子が面白くて、いつもずっと見つめていた。
それ以外の世界は、高い天窓から見える空と天気が目に入るくらいで、あとは耳で想像するか、文字ばかりの本の挿絵を見て想像するしかなかった。誰も文字を教えてはくれなかったので、棚にある本は何の助けにもならなかったし、それが一体何なのだろうと思っていた。
レオという男の子に文字を教えてもらうまでは、その中にたくさんの面白いことが書かれていて、書かれていることが分かるようになると世界が何倍にも広がるのだということを知らなかった。
レオの話を聞いてから、少しずつその本というものを広げて見ていたのだが、最初は訳の分からない小さな模様が幾つも並んでいて、少しも楽しくなかった。唯一、辞書という本にある小さな挿絵だけが、目で確認できたのだ。初めてそれを見た時には小さな子は思わず感嘆の声をあげたのだった。それから小さな子は、少しずつ色々なことが分かるようになるのが楽しくて仕方なくなった。
「絵が好きなの? ここには、紙もペンもないね。今度持ってきてあげる。ああ、そうだ! セバスチャンに見つからないように隠せる場所とかも考えなきゃね」
レオという男の子は、ここへ来るたびに、そんなことを言って、次に何かしら見たことのないものを持ってきてくれた。小さな子は、レオが持って来たペンと便箋いうものに感激し、毎日こっそりとそれに小さく絵を描いた。
「便箋」という薄くて軽いものは、上に大きな生き物のマークがついていて、それはこの家のシンボルなのだとレオは教えてくれた。びっしりと絵を描き込んだ後の便箋は、小さく指で八つに切って、更に折りたたんでから、中を見終わった本に挟まれていった。小さな子にとっては、殆どの本は何が書いてあるかわからなかったが、とにかく一度見た本には切った便箋の切れ端を挟んだ。
もうほとんどの手が届くところまでの本には全て便箋が挟んである。
「どうやったら、あの上の本に手が届くのかな。今度レオに聞いてみよう」
小さな子は、小さく呟いた。最近では小さな子にとっては、レオという子がやって来るのが、とても待ち遠しくなっている。実は、小さな子は、レオという男の子を実際に見るまで、自分の外見について考えたことは一度も無かった。いつも来る男も、上の世界からこっそりやって来るようになったレオという男の子も、自分とは違う容姿を持っている。そのことが小さな子は気になっていた。上の世界のふたりの耳は、自分の耳とは全然違うようだ。が、レオという男の子に出会った時は、その子の大きさが自分と同じくらいであることに小さな子はとても感激した。
上の世界の人達は、みんな平たい耳をしているんだろうか。
あの男の子の髪は、靴と同じ色。
あの色の名前は、いったい、何ていうんだろう。
セバスチャンという大人は、卵の殻と同じような髪の色。
瞳は晴れた日の空の色。
自分の目の色は何の色と言うのかな。
今度あのレオという子が来たら、これも聞いてみよう。
小さな子は、聞くべきことを忘れないようにと、思い出したように本棚まで駆け寄り、本棚の一番下の端の赤い背表紙の本を引っ張り出して、その表紙を開いた。
その本は、中が大きくくり抜かれていて、そこには折り畳まれた便箋とペンがある。レオが持ってきてくれたペンを隠すための偽物の隠し本だ。いや、本は本物なのだが、もともとここにはなかったものだった。レオの話では、それはニーナが一番嫌いな本らしかった。いろいろな形がたくさん書かれている本だ。
小さな男の子は、その便箋の上の方に顔の絵をふたつ、目の形の絵をひとつ描くと、天窓の向こうに見えている空を見上げて大きな溜息をつき呟いた。
「僕にも≪名前≫があればいいのにな……」
絵を描き終わると、小さな子は、ペンと便箋を本に仕舞ってから、ベッドの上で横になってはるか上の穴から見える外を見つめた。実際には、穴ではなく天窓だったのだが、小さな子は《窓》という言葉さえ知らなかった。空にはミルクをこぼしたようなものがゆらゆらと形を少しずつ変えて揺れながら動いている。
あれは何という名前なのだろうと思いながらも、眠くなってきた身体をもう一度起こしてペンを取りに行くほどの力は小さな子には出なかった。
窓枠の端に小さな虫が止まっているのが見える。
ふたつのノートの切れ端みたいなものを、本のように開いたり閉じたりしている。小さな子は、それが虫だという事だけは知っていた。きっとあれにも名前があるのだろうが、小さな子は名前を知りたいとは思わなかった。
あれは《虫》と呼んでいいものだ。セバスチャンが、虫は悪いものをとても沢山運んでくると言いながら、この部屋にいた粒のような虫を足で踏みつぶしたことがあった。
「一匹引き入れると、次の日にはとてもたくさんの虫がやって来るのだ」と言って、とても嫌な顔をしていた。
動かなくなった踏みつぶされた虫は、まだ微かにうごめいていたのだが、紙にくるまれて、どこかに連れて行かれた。小さな子は、その日から虫が大嫌いになった。
部屋には、その日以降虫が出ることは無かったが、時折、天窓に本を開いたり閉じたりするような動きの虫が止まっていることがあった。
今もその虫が真上にいるのが見えているのだ。
「上の世界はどう? 虫がいる世界なんか、僕は行きたくないけどね」
小さな子は、ベットに寝転がったまま、上を向いて呟いた。目を閉じ、耳を立て、上の世界の音に集中する。
風が何かに当たる音の隙間から、お皿にフォークやスプーンが当たる微かな音、テーブルの周りを歩き回るセバスチャンともう一人の何かがひきずられるような重そうな足音。椅子がきしむ音、その他にも、何の音かわからない音が幾つも聞こえてくる。
いつもと変わらない音の重なりが心地よく、小さな子はうつらうつらとし始めた。
天窓の外からは、蝶が男の子を見下ろしている。
風は温かく、もうすぐ夏でも来るのかと思われるような日差しが天窓から降り注いでいる。
「僕にも、名前があったらいいのにな……」
寝言のようにもう一度同じ言葉を小さく呟くと、小さな男の子は寝息を立て始めた。
『レオ……あなたは……レオよ』
小さな子は、まどろみの中で、遠くに声を聴いた気がした。
目の前は、ぼんやりしている。
レオ?
目の前には、見たことのない顔が、笑顔で自分を見つめているようだった。その瞳はオレンジジュースの色だった。その瞳から、水のようなものが溢れ続けていて、オレンジジュースに混ざるように見えた。
「生まれて来てくれて、ありがとう。レオ」
そう言うと、その顔は少しずつぼやけていった。次の瞬間、誰かに身体をすごい力で掴まれ上から押さえつけられたような気がした、それから何かで頭からすっぽりと覆われた。覆われたもので、呼吸が苦しくなる。必死で息をしようとするが、空気が肺に入ってこない。
「この子は、死んでいる。いいな、死んだんだ。もう動いていない」
聞き覚えのある声が遠くに聞こえる。
この声は……パパの声だ……。
セバスチャンの足音が聞こえる。覆われていたものが外され、息ができるようになったが、また違う顔がこちらを見つめている。誰なのかは、分からない。また何かで覆われそうになるのが見えた。
小さな子は、その恐ろしい夢の中で自由に動けなくなった手足を必死で動かした。言いようのない恐怖を感じ大声を発したが、その音はなぜか単音で、音の強弱はつけられるのに思ったような声が出ない。何とかして欲しくて、必死に声をあげるが、なぜか自分の声は、「あ」に近い音しか出ない。
そして、声の音量をあげればあげる程、顔の上に覆われたものが、布の上から一層強い力で押し付けられてきた。
苦しくて、息ができない。誰か……助けて。
小さな子の脳裏に、紙にくるまれてうごめくセバスチャンが踏みつけた虫の映像が蘇る。恐怖から逃れようと叫び続けていると、同じような音が近くでもうひとつ聞こえることに気づいた。単音の「あ」……。
「おめでとうございます。元気な男の子です」
「レオ……」
「え? あ、もう名前を付けられていたのですか。少しお待ちくださいね」
慌ただしく、走り回る幾つもの足音が聞こえる。
「あ」の単音は、自分以外にも、やはりもう一つ聞こえている。呼び合う様に、声を発しあい、互いの存在を確かめ合う。
間違いない。もう一人の誰かが、同じような声を出している。
声に答えようと、声のトーンをあげる度、上から押さえつけられて、呼吸ができなくなり、小さな子はその夢の中で意識が遠のいていった。完全に意識を失うと思った瞬間、けたたましくドアのチャイムが鳴る音が聞こえた。
少しの間の後、覆われていたものからふっと力が抜け、空気が再び肺に戻って来る。すると、急に全身を覆っていた外からの強い力が外れ、次いで固いものの上に転がされるような感触を小さな子は感じた。全身を冷たい感触に包まれたことと、放り投げられた痛みで、声を出す力が一気に奪われる。
セバスチャンの足音が聞こえ、そして遠のき、続いて玄関のドアが開く音が聞こえてくる……。目の前はずっとぼんやりしていて何も見えない。
「赤ちゃん、大丈夫?」
遠くから、聞いたことのない高いトーンの声が聴こえた。澄んだ夏空のような、温かい響きだ。「これを飲めば赤ちゃんは元気になる」という声が聞こえてくる。
澄んだ温かい声の、しばらくの沈黙の後、ドアが重い音を立てて閉じられた。セバスチャンが近づく足音がまた聞こえる。そして、今度は優しく抱え上げられたのが小さな子には分かった。冷たく固いものの上に載せられていた身体は、温もりに守られている感触に変わる。
しばらくするとセバスチャンが廊下を走る足音と共に、頬に風があたるのを感じた。玄関のドアの開く音、冷たい風と幾つもの香りの中にオイルランプの香りが交じる。ガザガザという音、コツコツという音を聞きながら、身体がどんどん冷えていくのが分かった。寒さに唇が震え、声さえもう出なかった。ゴゴゴゴゴ……と鈍い音の後、記憶にある匂いの場所で、今度は柔らかいものの上に置かれた。
「これが、私にできる精いっぱいのことです。レオ様」
セバスチャンの声が聞こえて、口の中に何かを入れられるのを感じた。口に入ったその《味》は、とても表現できるものなどではなかった。舌の奥にいつまでも残り、唾液を飲み込むのも嫌なのだ。
けれど、溢れる唾液を飲まずにはいられない。一度でもう十分すぎるくらい嫌な《味》を、セバスチャンは再び口の中に擦り付けてきた。抵抗しようと「いらない」と言おうとするが、単音の「あ」しか、やはり声は出てこない。
「レオ様、すみません。苦いでしょうね。後で、美味しいミルクをお持ちします。ああ、何て可哀そうな。
お願いです。どうか、これを飲み込んででください。お母様の為にも生き延びて欲しいのです」
セバスチャンは、「あ」の口のまま開かれた口の中に、もう一度、何かを塗り付けてきた。小さな子は、声を限りに叫んだ。
《いらない! いらない!》
しかし、やはり口から出ている声は「あ」だけだった。
そうか、これが《不味い》だったのか。
二度と口にしたくない味だ。ずっと昔から知っている。
小さな子は、自分が初めて知った味は、甘くて美味しい味ではなく、苦くて不味い味だったことを夢の中ではっきりと自覚した。
小さな子は、そうやって深い眠りの中で、夢と現実の狭間を行き来していた。
ゴゴゴゴゴ……と、今度はとても大きく近くに音がして、セバスチャンのせわしない足音がした。テーブルの上で皿やグラスをガシャガシャと重ねる音が聞こえる。
小さな子は、うっすらと瞼を開いた。
現実世界が目の前にゆっくりと姿を現す。
「お食事のお時間です。本日は、ビシソワーズ、ジャガイモの冷製スープと、バジルパスタ、デザートには、フレッシュなイチゴでございます。まだ出回る前に、農家から届けられましたので、どうぞお召し上がりください」
小さな子は、その声に反応して目をこすりながら身体をベッドの上で起こした。どうやら、いつもの場所に戻ってきたようだ。
眠っている時に見えるものは《夢》というのだと、レオは教えてくれた。小さな子は、レオに《味》について教わってからというもの、この同じような《夢》をよく見るようになっていた。
けれど、《夢》というよりは、本当に体験した出来事のように、口の中には《不味い》味がした気がして今日は目が覚めた。
セバスチャンは、いつものように、何をするわけでも無く、ただ黙って傍に立っている。普段なら、すぐに出ていくセバスチャンだったが、コホンと咳払いをしてから、珍しく小さな子に話かけてきた。
「あの……あのおやつを全て召し上がられたのでしょうか?」
小さな子は無言でコクンと頷くと、ベッドから降り椅子に腰かけた。バジルのいい香りが食欲をそそる。実際には、そのおやつはさっきまでここにいたレオという男の子が全部食べたので、小さな子のお腹はかなり空いていた。
不思議な夢……。
夢を見た後の常で、見た夢のほとんどのことは起きた瞬間に忘れてしまっていた。けれど、小さな子は似たような夢を、ここ最近何度も見ている。夢を見る度に小さなピースは埋まっていき、もうすぐ全体が見えてくるような気がして、小さな子は、レオからもらった便箋とペンを手にしてからは、その絵を描いておくことにしていた。
今、覚えていることは、《不味い》記憶だけだった。どんな味だったかは記憶にはもう無いのだが、小さな子は、自分が《不味い》を確かに既に知っていたことに気が付いた。
けれど、それをどう絵に描こうかと、口を動かしながら、小さな子は考えていた。考えながらもフォークに器用に深い緑色のパスタを巻き付け、口に運ぶ、優雅な動きで小さな男の子が食器を扱う姿を見て、セバスチャンは隣で満足そうな顔をしていた。
このパスタは《美味い》ではなく《まあまあ》だ。
だって、飛びあがりたくないのだから。
≪セバスチャンの足音が何度も聞こえていたな≫と思い出した瞬間、ふた口めを口に運ぼうとした手を、小さな子はぴたりと止めた。
フォークに巻き付いたバジルの葉から目が離せなくなったのだ。その様子に気が付いたセバスチャンが、怪訝な顔をし、小さな子の皿を覗き込んだ。
「あの……虫でも入っておりましたか?」
《虫》という言葉に小さな子は一瞬、条件反射的にぎくりとなった。
セバスチャンは、その様子を見て一層慌てて、今度はじっと上から皿を見回し始めた。小さな子は、虫に関係する何かを夢で見た気もしたのだが、今の関心はそこにはなかった。フォークに巻き付いているパスタの上のバジルの《色》に小さな子の神経は集中していた。
このバジルと同じ《色》のついている夢を今日は見たのだ。それも、この色だけをはっきりと鮮明に覚えている。夢の中でレオと呼びかけてきた大きな顔があった。
オレンジジュース色の瞳に水のような液体がいっぱい溢れていて、『生まれて来てくれて、ありがとう』と言ったその人は、これと同じ《色》の服を着ていた。それは、確かに今、自分が着ている服の色と同じ色だった。
小さな子は、今すぐ走り出して便箋にこのことを描きたい衝動に駆られたが、そこにセバスチャンがいたので、立ち上がることも何もできなかった。小さな子は、急に食欲が失せるのを感じ、徐々に焦りだした。
早く、早く描かないと、忘れちゃう……。
小さな子は、フォークを置くとすっと立ち上がり、ベッドへ向かうふりをした。
「もういらない」
「どうかされましたか?」
「お腹いっぱい」
「だから、あんなにいっぺんにおやつを召し上がってはいけないのです。では、全てお下げしますが、せっかく今年一番に取り寄せたイチゴで、ヘタを取ってしまっていますのでね。新鮮なうちにひとつくらいお召し上がりになりませんか?」
セバスチャンの問いかけは、いつも的確だった。本当はお腹も空いているし、イチゴは毎年この時期を楽しみにしていた。小さな子は、渋々といった風を装って椅子に戻って座り、デザートフォークでイチゴを一粒突き刺して口に運んだ。甘い香りと、蜜の香りが口いっぱいに広がり、小さな子は何とも言えない幸せな気分になった。これを持っていかれてしまうのは惜しいと思い、慌ててふたつ目にフォークを差した。
その様子を見て、セバスチャンは少し笑ったように見えた。お皿に可愛らしく並んでいたすべてのイチゴは、いつの間にか全て小さな子の口の中へと消えていった。
「結局、十個のイチゴは全部お腹の中ですね。ブルーベリーもおやつに召し上がっていたようですし、お腹を壊さないといいのですが」
「平気だよ。甘くて美味しかった。ありがとう」
「それは、よろしゅうございまし……」
少し体を前に倒して、そこまで言いかけていたセバスチャンは、突然、その動きと言葉を止めた。そして、ゆっくりと起き上がると、表情の無くなった顔で、トレーの上に全ての食器を載せて、ランプを下げて無言のまま部屋を出ていった。
小さな子は、自分の犯した失敗に気づいてはいなかった。
《甘い》という言葉、《ありがとう》という言葉はレオがいつも言っていてついそれを真似てしまったのだが、小さな男の子がその言葉を知っているという事は、セバスチャンにとって違和感を感じるものだった。
ドアが閉まったのを確認すると、小さな男の子は本棚の端まで走って行き、急いて便箋とノートを取り出しパスタの絵と、服の絵を描いた。
それから《不味い》を絵にしようとして、何を書いていいか分からず、とりあえずイチゴの絵を描いてから、幾つもの線でイチゴの絵を汚しておいた。
そうやって一安心すると、小さな子は、また急にお腹が空いて来るのを感じた。おやつは全部レオという男の子にあげてしまっていた。パスタを一口とイチゴ十粒だけでは、お腹が鳴るのは当たり前の状況だった。
「お腹空いた……」
小さな子は、呟きながら、ペンを隠し本の中にしまい、ベッドに横になって天窓を見上げた。本のような虫はいなくなっている。あの虫は、暗くなるといつもいなくなるのだ。
《レオ、あなたは、レオよ》
柔らかい声が、小さな子の耳から離れなかった。ここにいるママの声とは別の声だった。もう一度、あの声を聴きたいと、小さな男の子は、祈りながら再び目を閉じた。
どうしてレオの夢を見たんだろう……。
小さな子は、夢の中で自分と同じ色の服を着た人の言葉を思い出し、足りなかった大切なものが満たされていく感触を、柔らかいベッドの上で体中に感じていた。
(第十三幕へつづく)
