ストロベリーフィールド:第十三幕 レオの誕生会
その日は週末で、ニーナの弟、レオの五歳の誕生会が屋敷で盛大に開かれることになっていた。
ちょうど学校がお休みという事もあって、パーティ好きのニーナの父親が、レオの友人も呼んで盛大なパーティをしようという事になったらしかった。ニーナの家は、村でも結構有名なお金持ちだ。ニーナの父は西の国々と貿易というものをやっていて、西から安く仕入れたものを、この国で高い値段で売っているという噂だった。
待望の跡取りとして生まれたレオは、生まれた時から神童とかいう噂で、何をやっても卒なくこなすことができ、村中の人が「素晴らしい跡取りが誕生した」と話していた。
そのレオが聖なる≪指輪≫を与えられるという誕生会ということで、ニーナの家は既に昨日から準備で大忙しの様子だ。
ハンナの母親は、大きな花束を数日前から準備していて、『今日の誕生会には行けませんが、お花を贈らせていただきます』と手紙を書いていた。この国の言葉で話すのは苦手なものの、手紙は上手に描くことが出来るハンナの母は、ハンナが家を出る時、いつになく心配そうな顔つきでハンナを見つめていた。
「ハンナ、今日は大変な一日になると思うわ。指輪の儀式は見ないで、早めに帰ってきなさい。分かりましたね。これは、命令です」
ハンナの母の顔は険しかった。しかも命令だなんて物騒だねとハンナは思いながらも、「分かった」とだけ軽く答えて、ニーナの家に向かった。ハンナの母の勘は、いつも間違いなく当たる。ハンナが虫たちと話せるのと同じように、ハンナの母も虫と話ができた。この村に来るまでの途中、ハンナの母は何度も虫たちに《村への行き方》を聞いていた。ハンナはその時は、口にこそ出さなかったが、その会話が理解できていた。
おそらく、これは、ハンナの母とハンナの両方に備わった能力だ。そして、更にハンナの母には、これから起きることが分かる。という能力も備わっているようだった。自分の母親が人とあまり関わりたがらないことと、これら能力を持っていることとに何か関係があるのかもしれないとハンナは考えていた。
自分も、いつか、これから起こることがわかるようになるのかな……。
今日、今の時点で、レオの誕生会で何かが起こる予感はハンナには全くなかった。それどころか、久しぶりに儀式を観られることや、誕生日ケーキを食べられることに意識が向かっていて、朝から心が弾んでいた。
「久しぶりに儀式を見るの、楽しみにしてたのになぁ。花なんかお屋敷にはいっぱいあるだろうし、レオだってまだ小さいから花なんか喜ばないのに」
母親に持たされた、大きな花束と手紙を抱え、ぶつくさと文句を言いながら、ハンナは村の真ん中までやって来た。
村の中心にある石造りの小さな図書館の前を右に曲がる。左は学校へと続く道だ。大通りを渡って、近道をしようと、一つ目の路地を左へ曲がった。
そこには昔ながらのパン屋さんと八百屋さんがあった。ふたつの店の間の店だけが、稼ぎ時の週末だというのに何故かシャッターが下りていて閉まっていたが、ハンナは気にすることもなくその前を通り過ぎた。パン屋の前には、随分大きな女の人が立っていて、細い通路の壁に花がぶつかって壊れはしないかとハンナはひやひやしながら歩いた。
珍しくパン屋からはいい香りがしている。
ハンナが引っ越してきた当時は毎日いい香りがしていて、この店から漂う《ウエストエンドの小麦の香り》がママのお気に入りの店だったのだが、一年前くらいからは三日に一度くらいしか開かなくなっていて、滅多に来ることの無くなった路地だった。
さらに細くなっていく路地を抜けて靴屋さんの角を曲がると、賑やかな通りに出る。こちらの通りには、大きなお店ばかりが並んでいる。今日も噴水の周りは、色とりどりのパラソルが白い石畳の上に広がっていて、たくさんの人がお茶の時間を楽しんでいるのが見えた。
帽子屋やドレスショップ、薬局や大きな洋品店が立ち並ぶ通りを過ぎた後、ハンナは花の重さに耐えられなくなって噴水の手前のベンチで一休みした。
何かいつもと違って、村が暗く見えるのだけれど、何だろう……。
ハンナは、重い花束で痺れていた腕を解そうと、ベンチに座ったまま何度か振った。しばらく村が暗い理由を考えていたのだが、噴水の前にある時計台の時刻を見て、ハンナは慌てて立ち上がった。パーティの始まる時間まで、あと十分もなかったからだ。
時計台の横を急いで通り抜け、一本裏の通りに出ると、さっきまでと違って通りは静かになった。街路樹のある広い道なのだが、木は全て枯れてしまっている。
この時期に枯れるって、病気か何かだろうか?とハンナが考えた時、さっきの賑やかな通りで感じた違和感に思い当たった。
カフェや、お店の軒先にいつも飾られていた、色とりどりの花でいっぱいの丸いハンギングバスケットが、どの店にも無かったのだ。
村が殺風景なグレー一色に見えたのは、花が全て消えていたせいか。
さっきの路地で一軒だけ閉まっていた店があった場所は、確か花屋だった。
あんなに沢山の花、どこに消えたのかな。植え替えの時期にはまだ早いような気がするんだけど……。
ハンナは、時間に間に合うだろうかと気にしながら、どこまで行っても枯れている街路樹を見ながら不安な気持ちで少しばかり小走りになった。
五分ほど道沿いにまっすぐ進むと、ようやく大きな門が見えてきた。
赤いレンガの塀に沿って、何台もの馬車が並んで止まっている。どうやら誕生日の贈り物を届ける馬車の列のようだった。
馬車の列に平行して、空高い所に蜘蛛の巣のような電線が屋敷の塀に沿って繋がっているのが見えている。この辺り一帯の電線は、地中に埋まっているはずなので、恐らくは非常用の自家発電施設用の電線だ。
「やっぱ、ニーナの家って、凄いな。うちとは大違い」
繋がる馬車の列に驚きながら、門扉のところまでやって来ると、数多くの人の列の先頭に、執事のセバスチャンが、ノートとペンを持って立っているのが見えた。
「セバスチャンさん、こんにちは。凄い人ですね。あの、これ、私の母から預かってきました」
ハンナを見た執事は、はっとした顔をして、ハンナが持っていた大きな花束を受け取った。
「ああ、こんにちは。えっと、確かニーナお嬢様のご友人でしたよね。このお花、とても助かりましたよぉ。
こんなに人がいて、こんなにプレゼントがあるのに、花だけが無いなんて、驚きですよぉ、全く。
どっかで大きなお葬式があったらしくてね。昨日から、花市場に花が全く見当たらなくなってしまったんですよぉ。おかげで、お屋敷を飾る花が全然無くって。切り花だけじゃなく、鉢植えも全部ないんですよぉ。
村の公園から持ってこさせろと、旦那様が言うので、あちこちお願いして運び入れたものの、土に植えられているから虫が多くって、とても部屋の中に入れられたもんじゃないって、叱られましてねぇ。全く。
とりあえず、玄関先に並べようかとも考えていたんですけど、それさえも、今朝のうちに、すっかり何処かに消えていたんですよぉ。
ああぁ、本当にひと月くらい前からアレンジメントをしっかりと発注しておくべきでしたよぉ。
もう、これは、絶対にクビだなって思っていたところだったんですよぉ」
セバスチャンは、話す時の妙な言い回しと長く伸びる語尾が特徴だ。だが、何故かここのボバリー伯爵の前だと人格が豹変してカッコいい執事になる。
ハンナは、この人格がたまに豹変する面白い執事が嫌いではなかった。執事は、ずっと誰かに言いたかった想いをありったけ口にしたかのようにまくし立てた後、こう言った。
「フラワーバレーから花が消えるなんて、全く。ほんとにもう、あり得ないことでございましょう?」
……フラワーバレーに花が無い?
ハンナは不思議で仕方が無かった。一体、どんな大物が亡くなって、どんな凄いお葬式をしたのかと考えつつ、ハンナは改めて母親の能力を思った。
ママには、これが見えていたのかもしれない……。
それでなくてもガリガリにやせ細っている気の弱そうな執事は、いつもより一層元気が無いように見えた。大切そうに花を弱々しく受け取ると、持っていたノートにプレゼントの内容と送り主の名前を書き記し始めた。
「えっと、お嬢さん。大変失礼なのですが、お母様のお名前のスペルは……」
言いかけて、花にメッセージカードが添えられていることに気が付いた執事は、初めから名前を知っていたかのような素振りでそこに書いてあった名前を、すました顔でそのままノートに書き写した。
「ミチコ・フレデリックさま。でしたよね」
恐らく彼は、ハンナの母の名前など知らなかったはずだ。
名前を聞かれることも想定内だったという事か。
やっぱり今日の儀式は見ずに帰ろう……。
ハンナはそう思いながらセバスチャン執事に導かれてお屋敷の中へと入っていった。玄関ホールに入るとすぐ、ニーナの両親が立っていて、やって来るお客一人一人に挨拶をしていた。ふたりとも、自分たちが主役だと言わんばかりの派手な格好をしていて満面の笑みだ。ひとり息子の指輪授与の晴れ舞台だから、精一杯の飾りつけをしたのだろう。
部屋の中には幾つもの風船があった。もしかしたら、花を飾ることが出来なくて、全部風船に変えたのかもしれなかった。いたるところにある風船は、空高く舞い上がりたいのにどこにも行けない。という風に、紐に繋げられて、お屋敷のいたるところに結ばれていた。
華やかな空間だが、なんとなく無機質に感じてしまうのは、花も緑も、そこに一輪もないためだった。急いで飾り付けて、時間が経っていないせいだろう、どの部屋にも風船のビニール臭が充満している。執事が大きな花束を抱えているのを見て、ニーナの母、ボバリー夫人は一層の笑顔になった。
ハンナが夫妻に挨拶し、お祝いの言葉と花束を持って来たことを夫人に伝えている時、階段の上からハンナよりひとつ年上のニーナが下りてきた。
相変わらず大きく膨らんだバルーンスカートを履いている。かなり高級なスカートなのだろうけれども、とても動きにくそうだが、ハンナよりも随分と大人びて見えている。
ニーナが下まで降りて来ると、ニーナのすぐ後ろにいたレオが、ぴょこんと顔を出した。スカートの陰で見えなかったのだ。
「来てくれてありがとう。ハンナ。さ、レオもお礼を言って」
そう促されたレオは、何も言わずに玄関ホールを走り出し、ハンナの前を通り過ぎ逃げようとしたのだが、執事が抱えていた花を見て、ピタリと立ち止まった。
「綺麗なお花を頂けて良かったわね。ありがとうハンナさん。レオ、ハンナさんにお礼を」
そう呼びかけるボバリー夫人の声に、レオは、ゆっくりと反応して、ハンナの方に向き直った。今度こそ、お礼を言うのかと思いきや、レオはハンナに向かって憎らしそうに少し舌を出しただけで、奥の部屋へと走り去り、夫人の隣にいつの間にか立っていたボバリー伯爵は、ハンナを怪訝そうな顔つきで見つめた後に軽く目で夫人に合図して、ハンナにはひと言も挨拶をせず、レオの後について広間へと消えていった。
その様子を見たボバリー夫人とニーナは、ひきつったような笑顔でハンナに笑いかけた。
「ごめんなさいねぇ。あの子、とおぉ~っても、恥ずかしがり屋で」
「お花ありがとう。どこで売ってたの? よく見つけたよね」
夫人とニーナの両方から、お礼とお詫びを同時に言われたハンナは、「この花はママから……」と言うのが精いっぱいだった。ハンナには、伯爵の態度の意味は解らなかったが、ハンナが着ている洋服も、走ったせいで埃まみれになっている靴も、ふたりの格好とは大違いだったので、自分が何か場違いなのかもしれないということを感じ取っていた。
それにしてもあの子、暫く会っていなかったけど、相変わらず変わってる。
五歳になるレオは、背こそ伸びたものの、やはり口数は少なかった。両親が溺愛していて、えらくわがままなのとニーナは言うのだが、今の態度はそういうのとは違うなとハンナは何とも言えない気持ちのまま、ニーナに従って広間へと入った。
そこにも色とりどりの風船が飾られていて、風船の数と同じくらい、いや恐らくそれ以上の人がいた。その人の中を、レオが縦横無尽に走り回っているのが見えたが、誰の息子かわかっている為か、誰も注意をしなかった。
そこにいた人たちは皆、片手にグラスを持ち、レオのことなど全く気にせずに談笑していた。人混みの中にハンナの知っている人はいなかった。なにせ大人だらけなのだ。レオの友達はどこにいるんだろうか。これでは一体誰の誕生日かわからないなとハンナは思っていた。
人をかき分け、ようやく、人混みの中に紛れていたマルグリットを見つけ、手を振った。が、あいにくマルグリットは学校の友達と来ているようだった。ハンナは気を遣ってそれ以上近づくことはせず、壁のところまで戻り、ひっそりと遠くから、手持無沙汰に広間の様子を見ていた。
黒い蝶ネクタイに黒いベストのボーイが、ハンナに近づいて来て、飲み物の乗ったトレーを目の前に差し出してきたので、ハンナはオレンジジュースを手に取った。
外国からの輸入品なのか、そのオレンジジュースは、ハンナの家で飲むものとは全く違っていて、たった今、オレンジを絞ったかのようなとても新鮮なジュースの味に感激してハンナが目を丸くしていると、目の前をすばしっこい動きで、レオが「ハンナがジュースにびっくりしてる!」と、けらけらと笑いながら走り去った。
それから五分も立たないうちに、ボバリー伯爵が舞台のような小さな台の上に立ち、マイクで話し始めた。
「本日は、我が息子、レオナルドの五歳の誕生日を祝うことを誠に喜ばしく思っております。息子のために、たくさんの贈り物を頂戴しましたことを、お礼申し上げます。これから息子は《経験者》となるべく、多くを学んでいくはずです。将来、《経験者》となった息子に、私の会社、私のすべてを継がせ、引退するのが私の夢であります。
彼は、この村のために、いや、この国のために、きっと役に立つ人間になると、私は信じております!」
地鳴りのような拍手喝さいの後、走り回るレオが、まるで計算していたようなベストなタイミングで壇上に駆け上った。拍手はますます大きくなる。
さっきまで、走り回っていた我がまま息子は、父親にマイクを渡されると、深々と一礼し、神妙な顔つきで話し始めた。
「今日は、僕の、五歳の誕生に、来てくださり、ありがとうございます。
僕の欲しかったものをたくさんありがとう。
これからケーキもあるので、皆さん食べて帰ってください。
儀式は、僕が生まれた時刻の夕方六時からです。
今日は、本当に、ありがとうございました」
また大きな拍手が起こった。五歳児にしては上出来の挨拶だ。しかも子供らしい話し方で、あちこちから『可愛らしいし、利発そうな子供だ』と声が上がっていた。かなり練習したのだろうか。さっきまでの憎たらしい子とは別人のようだった。そうしてレオは、再びぺこりと頭を下げると、また部屋の外へ走り出て行った。
ボバリー夫妻は、息子の立派な挨拶にご満悦で、多くの人の祝福を受け挨拶をし握手をしていて、息子が消えたことに全く気づいていない様子だった。ハンナは、あれは、あの子の本心なのだろうかと、複雑な気持ちで息苦しさを感じながら、廊下に出た。
外は幾分空気が良かった。ひとつ大きく深呼吸し、外に出ようと玄関ホールまでハンナは歩いて行った。
誰もいないホールには、ハンナが持ってきたばかりの花がもうホール中央の丸テーブルの上に見事に活けてあった。
その前にレオが立っている。ハンナが後ろからゆっくりと近づいていくと、かなり遠くの距離から、振り返りもせずに、レオが言葉を発した。
「よく、見つけたよね。この村から全部消したつもりだったのに」
「え?」
「僕、花って大嫌いなんだ。虫が来るでしょ。この《フラワーバレー》って名前の村も嫌い」
振り返ったレオの顔に、笑顔はなかった。ハンナは、一瞬、背筋が凍り付くような冷たい感覚を覚え、それ以上、言葉が出なかった。
レオはふっと笑ってから、
「君はケーキ食べるためだけに来たんでしょ。じゃあね」と言い残してドアの外へと去った。
入れ違いに、ごった返す広間からニーナが出て来た。
「ねぇ、レオ見なかった?」
「あ、たった今、外に……」
「もう、あの子、本当に恥ずかしがり屋さんなんだから! もうすぐケーキカットの時間だっていうのに」
そう言いながらニーナは慌てて、レオを追いかけた。
恥ずかしがり屋さん……?
ハンナは、心の中で渦巻く嫌な気持ちを抑えることが出来なかった。
レオの五年間に何があったんだろう。それとも、今見たのが、生まれつきの本性なのだろうか。パトラが言っていたように、精霊たちを使う能力があるのではなく、精霊たちに止められるようなことを、何かしようとしているのだろうか。
レオは虫が嫌いと言っていた。もしかしたら、ハンナやハンナのママと同じように、虫たちや精霊の声が聞こえるのかもしれない。そして、虫たちも、精霊たちも、彼が何かしようとしていることを、止めようとしているのだとしたら?
ハンナの心に、黒い靄がかかりだしたところで、ニーナにつかまったレオが、渋々と言った表情で玄関から戻ってきた。
「ハンナ、ケーキ食べて行ってね。指輪の儀式は六時からだけど……」
「あ、ごめんなさい。今日は、早く帰らないといけなくって……。
あ、ずっと言えなかったんだけど、レオ、誕生日おめでとう。
儀式頑張ってね!」
ハンナは、それだけ言うと、ニーナに手を振って玄関を出た。ニーナの隣でレオがニタリと笑ったように見えて、ハンナはまた寒気を覚えた。
ケーキなど、とてもじゃないが、食べる気分になれなかった。
理由は分からないけれど、早くここから出なければ、その思いだけがハンナの頭を支配していた。体中の細胞が、『逃げろ』と言っている気がする。
このお屋敷には、何かがある。何かは分からないが、とても強い力だ。外の門扉をくぐる時、お屋敷の中からは、明るく、楽し気なバースデーソングの前奏が流れ始め、バースデーソングの大合唱が聞こえてきていた。ハンナは、楽しそうな歌声を聞きながら何故かとても気分が悪くなるのを感じた。
「ハッピー バースデー トゥー ユー」
最初のフレーズの大合唱を聞きながら、ハンナは急いで塀の外に出て、ようやく深く息を吸ったが、胸の苦しさから一向に解放されないことにハンナは焦った。
この胸騒ぎは、いったい何?
ふと、前を見ると、濃い紫のフードを被ったパトラが、道路の反対側に無言で立っていて、お屋敷を、いや、お屋敷の上の方をじっと見上げていることにハンナは気が付いた。
「あ! パトラばあ様。今からレオの指輪贈呈の儀式に立ち会われるんですか。中はすごい人で、盛大なパーティです。私は、なんだか、とても気分が良くなくて、今から帰るところ……」
ゆっくりとハンナの方へ近寄ってきたパトラへ挨拶をしながら、フードの下から覗いているパトラの両眼を見て、ハンナは息が止まりそうになった。
パトラの瞳は、白目のところまですべて真っ黒に見えている。
「ひっ!」と声を上げたきり、何も言えなくなったハンナの横を通り過ぎ、門扉の所まで来たパトラは、ハンナに向き直り、唇を一切動かさずに、黒い目のままで、ハンナの心に話しかけてきた。
《ハンナよ。聞こえるかい》
ハンナは声が聞こえたと思い、後ろに向き直ったが、そこにいたパトラは顔の上半分にかかっていたフードを更に深く被り直していて、その下から覗く唇は一ミリも動いてはいなかった。
《今日、この村には大きな異変が起ころうとしている。私は、それを止めるためにここへ来た。精霊たちと共にね。村から花も緑も消え、虫の居場所もないが、ここの建物の入口にだけ、蝶たちが休める花が少しだけあると聞いたよ。だから、虫たちも僅かだが一緒について来ている。他の虫たちや草花は、ストロベリーフィールドにかくまってある。結界を張ってあるから、村の者たちには、あの畑はもう見えない。
明日には、ストロベリーフィールドが消えたと大騒ぎになるだろう。
このことは、おまえの母親以外、誰も知らないことだ。いいかい、誰にも話すんじゃないよ。この村を守りたいならね。
今すぐ家に戻り、その服と身体に染みついた悪霊を、おまえの母に一刻も早く振り払ってもらいなさい。
そして母親にここで何があったかを話しなさい。いいね。分かったかい。
くれぐれも家に着くまで、誰とも話さないこと。分かったなら、さぁ、早くお行き、誰に話しかけられても、絶対に顔を見るんじゃあないよ。
分かったね?》
驚きすぎて何も言えず、固まったまま頷くしかないハンナの心に向かって、それだけを心に伝えるとパトラは向き直り、お屋敷の中へと消えて行った。
向き直る直前のその皺だらけの手には、ハンナがいつか見た、黒い小さな箱がしっかりと握られているのが見えていた。
(第十四幕へと続く)
