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ストロベリーフィールド:第八幕 フラワーバレーと守り人たち

ハンナがママに連れられてやって来たこの村は、花の谷(フラワーバレー)と呼ばれていた。かなり前に中立国となった国の中心にある小さな村で、様々な民族が入り混じって暮らしている。

年中何かしら花が咲き乱れていて、蝶や虫たちの楽園だ。真冬でも赤い花が次々と咲き、色とりどりのパンジーやビオラが、冬でも村をカラフルに染めていて、村の中にはいつも明るい雰囲気が漂っていた。

村の北の方角には山があって、そのすそ野にはストロベリーフィールドと呼ばれる真っ赤な花の畑がどこまでも広がっている。

フラワーバレーの東側には大きな川があり、橋はなく、まるで海のように見えている。
海ではないのかと、初めてその川を見た時にハンナがパトラに尋ねたことがあるくらい大きいのだが、晴れた日には対岸が遠くに見えるらしかった。

ハンナはまだ一度も対岸を見たことが無い。
その川は南の海へと繋がっていた。川が海に繋がる入り江には小さな島があって、村で一番の精霊使いと言われるパトラの家がある。

まだ幼かった頃、初めてパトラの家に行った時、ハンナは気がつくとフラワーバレーに戻っていて、パトラの家のことは美しかった庭と可愛い精霊たち以外の記憶が全く消えていた。
もう戻らないだろうと思っていた場所で再び目覚めた時には熱が出てうなされていて、心配そうな顔のママが作ってくれたすりおろしたリンゴの美味しかったことくらいしか、その後の事はもはやハンナの記憶にはなかった。
パトラの家に行ったことの方が夢だったのかと思っていたくらいだ。

村の西側には隣村へと続く広い街道があり、ハンナとハンナのママもこの街道を通ってここへとやって来たのだった。もっと正確に言えば、この村を目指していたわけではないのだが、これ以上、南にも北にも東にも行けなくなったので、ここで留まることになったのだ。

北方の山々の中でも一番高く尖った山は、スノーマウンテンと呼ばれている。スノーマウンテンの中腹より下には精霊の谷があるため、村の皆は怖がって、北の山に向かおうとする者は一人もいなかった。ハンナが来るまでは。

ハンナは、物心がついた時には、もう虫たちのおしゃべり声が聞こえていた。学校で友達ができるよりもずっと前に、虫たちとは友達だった。この村に来たばかりの頃は、何も聞こえないふりをして、こっそりと虫たちが話す内容を聞いていた。

この村に来てハンナは初めて七種の色の違う蝶を見た。七色の蝶は一匹ずつ色が違うのだが、何故か必ず七色揃って飛んでいるのがハンナには不思議だった。

部屋の窓辺にやって来る七色の蝶たちは、最近はどこかの国のいい肥料が手に入らなくなったせいで花の蜜の味がずいぶんと落ちたと文句を言っていたし、箱状の家をストロベリーフィールドの真ん中に用意してもらっている蜂の大家族のビーズファミリーは、入れ代わり立ち代わり窓辺にやってきては、自分たちに準備された家がどれほど立派かなどと自慢していたが、たまに家が無断で解体されるのでまた作り直さなければいけないと、ぼやいていた。

この村に来たばかりの頃は、どんな虫たちもハンナには見向きもせずひらひらとやって来ては世間話をして帰って行くだけだった。

ハンナがこの村で最初に話した虫は、ビートルとレディビートルとハンナに名乗った。いわゆる、カブトムシとテントウムシだ。

二階にある自分の寝室前に見える木に止まっていたビートルと赤いレディビートルが、村で起こったいろいろな話をしている声が毎日聞こえていて、何日かその会話を聞いているうちに、思わず声を出して笑ってしまったのだ。
虫たちは最初、それは随分と驚いていた。

中でもハンナの噂を聞いてやって来た黄色テントウムシは、ハンナのことを面白がり、いつも様子を伺うように村のいろいろなところで挨拶にやって来た。
代々その話を伝え聞いているのか、この村の虫たちは季節が変わる度にハンナの家へやって来ては、面白がって不思議そうにハンナに声をかけるようになった。

虫たちがいつものようにやって来ていたある時、ハンナがうっかり口を挟んでしまったことがあったのだが、それを偶然見ていたハンナのママは、突然とても神妙な顔つきになり、『同じことを、他の誰かの前でやってしまったら、ママと一緒に住めなくなる』と言ったので、それからはハンナは出来る限り虫たちの声を聴くだけにして話しかけないようになった。

急に会話をしなくなったハンナのことを虫たちは暫く心配していたが、ハンナがこっそりと理由を話すと、残念そうに『それじゃぁ仕方ないね。じゃ、これからは話を聞くだけでいいよ』とハンナに伝え、それ以降ハンナは素知らぬふりをしながら虫たちの会話を聞くようになっていった。

虫たちは、この村のことをハンナに沢山教えた。そうして話を聞くうちに、ハンナはどうしても精霊の谷へ行ってみたくなった。小さな精霊には何度か会ったことはあったが、それ以外にもいろいろな精霊がいるらしい。
精霊たちがどんな所に住んでいるのかも見てみたいと思うようになっていった。

学校に入ってすぐの頃には、何度もひとりでストロベリーフィールドを歩いているところをパトラに見つかって、その度にパトラはなぜかハンナではなく、ハンナのママを叱った。

その後で、もちろんハンナはママからこっぴどく叱られたのだが、何故、北へ行ってはいけないのかの説明を誰もしてくれなかった。行ってはいけないと言われると、どうしても行ってみたくなるものだ。

一体あの山には、どんな不思議なことが隠されているのだろうかと、ハンナは通学路を歩く度に左手に見えてくる山を目で追っていた。

畑には沢山の人が働きに来ていて見つかってしまうので、どうしても畑へ行ける時期は限られている。ハンナはストロベリーフィールドの外れまでたどり着いたことが一度だけあったが、そこから先に行こうとした時に、多くの蝶たちがやって来て竜巻のような強い風が吹き、そこから先は一歩も進めなくなった。

この畑で働けるようになれれば、誰にも怪しまれずに畑を歩き回れるし、お金も貰える。早く大人になって、ここで働きたい。

それがハンナの小さな夢のひとつだった。

ハンナが、この村に初めてママとたどり着いたのは、もうすぐ四歳になる頃で、ママは、この国の言葉があまり上手ではなく、滅多に外に出ることは無かったのだけれど、ハンナは引っ越してきた三日後にはもう友達ができていた。ニーナとマルグリットだ。ふたりはハンナよりもひとつ年上で、お姉さんのようによく面倒を見てくれた。

ようやくハンナが村のルールにも慣れ、数年ほど過ぎた頃には、仲良しのニーナにはレオナルドという弟ができた。ニーナはとてもいいお姉さんで、レオ、レオと呼んで可愛がっている。

それはちょうどハンナが学校に行き始めた頃で、ハンナは生命がこの世界に産まれ落ちる瞬間に初めて立ち会うことになった。

レオが生まれる前日、ハンナのママは、家で薬草をすり潰しながら、ふと天を仰いで小さな声で呟いた。

「もうすぐ、この村に新しい命が生れ落ちる。明日の夕方六時前に、この薬をニーナの家に持って行きましょう。これをその子に与えるよう、ハンナから伝えなさい」と。

翌日ハンナがママと共に薬を届けに行くと、その言葉通りにレオは産まれてきた。
ニーナの家の玄関ホールに立ち、ハンナが執事のセバスチャンに薬を渡していると、廊下の奥から赤ん坊が泣く声が聞こえてきた。もちろん中には入れてもらえなかったが、白い服を着た看護師さんらしい女性たちが廊下を慌ただしく走っている姿が見えていた。

ハンナのママは言葉が上手くできなかったことを気にしてか、玄関ホールにさえ入らず、かなり離れたところからハンナの様子を見つめていた。
その時まだ幼かったハンナは、薬を渡したらすぐ帰るつもりだったのだけれど、張り詰めた気配に少し怯えながらも、思わず執事のセバスチャンにこう尋ねてしまった。

「赤ちゃん、大丈夫?」

セバスチャンは軽く頷いただけだったのだが、何故か困ったような不安そうな暗い顔をしていたのをハンナは記憶している。

レオはとても賢い子だが、少し風変わりな、あまり喋らない子だ。
彼が3歳になった時の誕生会がお屋敷の広大な庭で催された時には、レオは来客の間をすり抜けるように動き回り、その人達の顔を見るや否や、その人の名前だけを一言叫ぶということを続けていた。
そうやってお祝いに駆けつけていた人たちの驚いた顔を見ては、また次のテーブルへとはしゃぎながら走り去るという事を楽しんでいるようだった。
寛大な大人たちはその突然の呼びかけに戸惑いながらもレオに笑顔を返していて、『この子は、紛れもない天才だ。《経験者Beyond(ビヨンド)》になるのは、十二歳よりも早いかもしれない』と騒いでいたのだが、パトラだけは皆と違う考えだった。

「この者が《経験者Beyond(ビヨンド)》や、《守り人Shield(シールド)》になるには、相当な努力が必要となるだろう」

そのパトラの言葉に村の者たちは聞く耳を持たず、「老いぼれの精霊使いはもう使えないな」と笑っていたのだけれど、ハンナのママだけはその言葉を聞いて深く頷いていた。

この村には、子供たち皆が憧れる存在がいた。
それが《経験者Beyond》と呼ばれるものだ。村のお祭りで初めて本物の《経験者Beyond》と《守り人Shield》を見た夜、ハンナは興奮して眠れなかった。
彼らが歩いているだけで人だかりができ、中にはサインを求めるものもいた。彼らは国の内外を飛び回っているらしく、この村で出会うことは滅多になかったのだ。

ハンナは、彼らが身につけていた光を放つ石に目が釘付けになった。太陽光を浴び、その石は彼らの周りを照らすようにキラキラと波打つ光を周囲に乱反射させていた。

誰もが好きになってしまいそうな、愛くるしい顔つきの《守り人》を先頭に、その後ろから現れた《経験者》は、まるで光の輪の中にいるように見えていた。単なる造形美ではないその輝く美しさは、これまで見たどんな種族より上だとハンナは感じていた。

《守り人》は、一見すると少年のように見えていたが、昔からすごくやんちゃな女の子だったらしい。ハンナには『やんちゃ』の意味さえ分からなかったが、自分とあまり年が変わらないのではないかと思うくらい、その子は幼く可愛らしい顔をしていた。

そしてハンナが初めて出会ったその《経験者Beyond》はアンドロギュノスという種で特殊能力の持ち主らしかった。フラワーバレーでは、Entire(エンタイア)と呼ばれ、神秘の存在として人々から崇められている種族だ。

滑るように歩き進む姿、頭ひとつ周りより背が高いせいで、その光輝く表情は、小さいハンナにも遠くからとても良く見えていた。

その不思議な遺伝子の存在を教えてもらった時、ハンナは自分がそうでなかったことが残念でならなかった。自分は《経験者Beyond》にはなることができないのだと心底ガッカリしたのだ。

人だかりの中心にいた二人は、穏やかな笑顔で村の広場中央にしつらえられたお祭りの舞台に上がると、それだけで大きな歓声を浴びていた。

彼らがやってきたことを噂を聞いて集まった人々は、今年もこの村は守られると安堵し、笑顔で唄い、食べ、飲み、踊った。その人々が喜び讃える姿を見て、ハンナは彼らがとても凄いことをする人なのだろうと、訳もわからず彼らに憧れた。

ハンナはそれから小さな村に毎年どこからかやって来る何人かの《経験者》と《守り人》を待ち焦がれ、羨望の眼差しで見つめた。毎年毎年やって来る人達は違っていたが、光り輝く姿と乱反射する光はいつも同じだ。

ハンナはこの一年に一度のお祭りが大好きで、皆と共に花火に歓声を上げ、唄い踊ることが楽しくて仕方なかった。毎日がお祭りであれば良いのにと思うほどだった。

そして、ハンナが学校に入ってから遺伝子学の授業を受けた時、《経験者》にも《守り人》にも固定された遺伝子配列の基準はなく、つまりは性や種の区分、階級や出身などの条件もないのだという事を教えられた。

それはハンナとハンナのママにとって、大きな希望となった。

(第九幕へつづく)


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