東大AIバズ騒動から学んだ、物語書きの生存戦略
先日から、SNSをざわつかせている一件があった。
タイムラインをさかのぼって、さかのぼって、ようやく辿り着いた発信源は、ひとつの場所だった。
東京大学。
ざっくり言うと、超あたまが良い学生と教授がたくさんいる、日本のアカデミアを象徴するような場所である。
そこで何が起きたのかというと。
経済学をほとんど学んだことがない、とある大学院生が、生成AIと一年間みっちり組んだ結果、世界中の研究者が本気で競い合う場にそのまま出してもおかしくないくらいの論文を仕上げてしまった、というのだ。
この説明だけ聞くと、だいぶ現実感が薄い。もはやファンタジー。
わたしは記事を読みながら、思わずスマホを持つ手を止めた。
経済学はほぼ素人。
なのに、生成AIとああしてこうしてしているうちに、研究者の世界でトップクラスの舞台を狙えるレベルの論文になっていく。
それって、料理で言えば
「普段はチキラーや、マルタイしか作らない人が、オンラインのアドバイザーとレシピだけで、いきなりミシュラン三つ星レベルのフルコースを出してしまいました」
くらいのニュースではないだろうか。
こわ、と思う。
同時に、正直かなりわくわくもする。
記事の中で、この院生は
・アイデアを練る練る練るね
・先行研究を探す
・理論モデルを組む
・データを集めて分析する
・図表をつくって英語で論文化する
といった一連の流れを、全部、生成AIを相棒にしながら進んでいく。
こう書くと、「全部AIにやらせただけでしょ」と言いたくなる人もいそうだ。
でも、たぶん違う。
生成AIは、何でもお見通しの賢者ではない。
むしろわたしから見ると「問いを雑に投げると、ちゃんと雑に返してくる不思議な生き物」に近い。
わたしが試しに、面白いエッセイや小説をズバッと出してよ、と投げても返ってくる記事はまったく面白くない。さすが流行語大賞にノミネートされるまでになった不思議な生き物チャッピーだ。
更に例えるならば、ラーメン屋さんで
「なんか適当に、おいしいやつで」
とだけ頼むと、運ばれてきた丼を前にして、
「いや、そういうことじゃなかった」となることがあるのと同じだ。
質問がふわっとしていると、答えもふわっとする。
条件が矛盾していれば、その矛盾を抱えたまま、それっぽい長文が返ってくる。
だから、本気で生成AIを使いこなそうとすると、どうしても鍛えられてしまうものがある。
一つめ。
自分が何を知りたいのか、ちゃんと言葉にする力。
二つめ。
出てきた答えを鵜呑みにしないで、「それほんと?」と問い直す根気。
三つめ。
最終的に「これは自分の名前で出していい」と判断する、持ち主としての覚悟。
この三つを一年間ひたすら回し続けた結果が、あの記事の「すごい論文」なのだろうなと、わたしは勝手に解釈している。
もちろん、「いやいや、東大院生だからできたんでしょ」というツッコミも分かる。
語彙力、読んできた本や論文の量、論理を積み上げる癖。
そういった土台があるほど、生成AIとの相性は良くなる。
もともと脚力のあるランナーが、最新の高性能シューズを履いて走ったら、とんでもないタイムが出てしまうようなものだ。
カール・ルイスや、ウサイン・ボルトに今のハイテクシューズを履かせたら絶対に記録が縮まる。確実に。科学は結果を超えていくということだ。
それでも、だからといって「自分には関係ない世界の話だ」と切り離してしまうのは、少しもったいない気もする。
冷静に読み解くと、この一件はこんなメッセージにも聞こえてくるからだ。
「専門家じゃなくても、問い方と検証の仕方次第で、入口まではかなり近づけるようになったよ」
要は、対話である。
これは、物語を書きたい人間にとっても、かなり重要なニュースではないだろうか。
小説でもエッセイでも、やっていることの本質はそこまで違わない。
自分の中にあるモヤモヤや、気になる光景を、ことばにして外に出してみる。
読んだ人にどんな感情を渡したいか考えながら、構成をいじる。
出てきた一文一文を前に、「これは自分の作品の一部として残していいか」を自問自答する。
そう考えると、あの東大AI騒動は、わたしたち物語書きにも、がっつり関係のある出来事なのだ。
印象的だったのは、あの記事につけられていたコピーの一つだ。
「思索の相手は、もはや人ではありません」
なるほど、キャッチーである。
けれど、わたしはその一文を読んだ瞬間、思わず心の中でツッコミを入れてしまった。
いやいや、こっち側はまだまだニンゲンですけど。
たしかに、画面の向こうにはニンゲンはいない。
けれど、自分の中でぐるぐる考えているのは、生身の脳みそと心だ。
生成AIは、思索の壁打ち相手にはなってくれる。
けれど、「どの球を本番で投げるか」を決めるのは、やっぱり投げ手であるわたしたちだ。
この一文を入れるか。
このオチで締めるか。
このテーマを、そもそも世の中に投げるかどうか。
そこだけは、最後までニンゲンのしごとでいてほしいな、と個人的には思う。
記事の院生は、特にアカデミアに残るつもりはないらしい。
それでも、生成AIと一年かけて論文を組み上げた経験は、おそらくずっと本人の中で生き続ける。
論文という一枚の成果物よりも、
「問いを立てて、試して、やり直して、誰かに届く形を探した一年間」そのものが、何よりの財産になっていくのだろう。
それは、物語を書いているときにも、何度となく感じてきた感覚に近い。
これからもきっと、生成AIをめぐるニュースは、定期的にバズる。
「仕事が奪われる」
「人間はいらなくなる」
そんな強い言葉が、また何度でもタイムラインを流れていくはずだ。
ただ、そのたびに、わたしは自分の小さな机の上に視線を戻したい。
生成AIという相棒と、一緒にどんな物語を増やしていけるだろう。
どんな問いを投げ、どんな答えを選び、どこに自分の名前を刻むのか。
東京大学という、少し遠い場所の広報記事から届いたこの騒動は、
わたしたちにそんな宿題をそっと手渡してきたのかもしれない。
AIはどんどん賢くなる。
ツールもこれから、まだまだ増えていく。
それでも机の上でやることは、きっとあまり変わらない。
一文ずつ言葉を選び、
自分の体験や感情をかみくだき、
読んでくれる誰かの顔を、ぼんやり思い浮かべながら書いていく。
AIに負けない物語を書ける「書き手」で在り続けたいと、わたしは思う。
今からの時代は、「書く」ことにおいてのニンゲンvs生成AIの勝負だ。
ここだけは意地でも、キカイに負けてはならないという意地が試される。
そのために、もっと「文章力」を鍛えようね。
わたしもだけど。
そんなお話でしたとサ。
