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熊本高校(クマコー)-噺- #2|熊高甲子園初出場と“大のぼり”に込められたメッセージ

「”熊高”ね? ”熊工”じゃなかとね?」
新聞を読んだ熊高OBが、信じられんという口調で確認した。

名門「熊本工業」が甲子園にやってきた―
高校野球ファンも、全国のOBも皆そう思っていた、

しかしその年、
甲子園に出場したのは間違いなく、
かつて“文弱”と言われた
「熊本高校」だった。

昭和28年(1953年)、
夏の全国高校野球選手権。
熊本高校野球部は、紛れもない強さで西九州ブロック(長崎、佐賀、熊本)の強豪校を圧倒。決勝では佐賀を9―0の猛打・完封で制し、文句なしに代表の座を勝ち取った。

一回戦は、開会式直後の第一試合。対するは、東北代表・白石高。「熊工は有名だが、熊高とは?」という前評判のなか、一回裏から連打の猛攻を浴びせ、6-3で見事勝利した。

その年から、NHKの甲子園テレビ中継が始まっていた。テレビカメラは、甲子園初勝利に沸く熊本応援席をとらえた。

その時、
ひときわ大きな"のぼり"が掲げられた。
あるメッセージが書かれていた―


「私の夢は、スポーツ名門・熊高にすることだった。成績が十番、二十番下がっても青春を謳歌できる熊高生になってほしかった」
(三浦富治郎 監督)

熊高野球部は、戦後いち早く活動を再開した。
先の空襲で校舎は全焼。各部活とも道具もろくに揃わない中で、野球部もまた苦しい再スタートを切った。それでも選手・関係者たちは、コツコツと必死で部活動に励んだ。
実のところ、昭和24~27年(1949~1952年)にかけ、県大会では準決勝・決勝の常連になるほど、熊高野球部は着実に実力をつけていた。

”九州の飛田穂洲”・三浦富治郎監督の就任で、野球部はますますその実力を開花させた。(同監督曰く「就任当時の選手はヒョロヒョロで弱かった」とのこと)当時から学問の名門校ではあった熊高だが、これをスポーツで名を馳せたいという三浦監督の想いが届きつつあった。

そして昭和28年(1953年)春、GK杯(今のNHK杯)優勝。
いよいよ熊高が強豪校としての箔をつけ、
夏の大会に向け走り出した矢先―

あの災害が起こった。


昭和28年(1953年)、6月26日

未曽有の災害が熊本を襲った。

世にいう“6.26白川大水害”。
相次ぐ長雨により、
熊本市中心を横切る河川・白川がついに氾濫。
堤防、橋、民家を濁流がのみ込み、
死者行方不明者563名の大被害となった。
(8年前の7.1熊本空襲の死者が388名)

熊高の所在地、大江地区も白川に面しており、
あたり一面の民家が流失するなど
甚大な被害を被った。

戦後最大級の大水害であった。

濁流にのみ込まれた熊本市街(国交省九州地方整備局HPより)

熊本の街は、泥水にのまれて壊滅した。
洪水の恐怖から難を逃れた県民たちは、悲しむ間もなく復興作業に取り掛からねばならなかった。悪臭を放つ泥が街を覆いつくす中、途方もない量のがれきと泥の撤去に追われる地獄の日々が続いた。

保安隊(後の自衛隊)動員や米軍の協力も加わり、官民総出で救助・復旧作業に当たった。(当時現在のような重機は少なく、人海戦術での作業が多かった)

そんな中、熊本水害の報が県外に広まり、全国から大量の支援物資が届けられた。プロ野球も、オールスター大会の売り上げを支援することを決めた。

日本各地からの支援に感謝しつつ、県民たちは一刻も早く日常を取り戻すべく、復興作業に明け暮れた。自粛ムードの漂う中だからこそ、通常の商業・文化活動の再開を急いだ。

熊高野球部もまた、浸水被害に遭った校舎とグラウンドの中で、再び全国大会出場の目標に向けて走り出した。

そして同年夏、
熊本高校は甲子園初出場をきめた。


昭和28年(1953年)、8月
甲子園球場三塁側、熊本高校応援席。

掲げられた大のぼりには、こう書かれていた。

「皆さん 水害御見舞 有難う御座います 熊本」

(江原人脈より)

発案は、とあるOBの粋な計らいだったという。

甲子園七万の観衆は、
大のぼりに記された”お礼”に、万雷の拍手で応えた。

この「水害お見舞いありがとう」のメッセージは、
球児たちの活躍と共にテレビで中継され、
全国に届いた。


長く続いた復興作業の結果、
翌年には日常がほぼ取り戻された。

あれから70余年、
水害、地震…熊本は常に天災と共にあった。
必死で取り戻した日常が、何度も壊された。

その度に県民は、
泥をどかし、がれきをどかして立ち上がってきた。

助けてくれた人々に応え、
前に進むことをやめなかった。

二度と繰り返さないよう考えを尽くし、
後輩・子供たちにつないできた。

先輩たちが、泥にまみれて取り戻してきた日常。
続きは、私たちに託されている。


【参考・出典】
・『熊中熊高 江原人脈』西日本新聞社
・『熊中熊高 百年史』熊本県立熊本高校


おまけ:“熊中のスポークスマン”
大のぼりの発案者は出田勝利氏(大正12年卒、料亭経営)。戦後間もない運動会でバザーを発案・成功させるなど、数々の粋なエピソードを持つ“熊中のスポークスマン”(自称)。熊高が甲子園に出場した際は、福田亀虎氏(明治36年卒、元熊本市長)と共に、寄付集めに奔走したという。


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