熊本高校-噺- クマコーバナシ#1|熊中熊高OB列伝 【序~経済界①】
塾長「ようやく、見つかりましたよ」
今にもページが破けるほど古びたその本は、「昭和47年3月1日発行」と書かれていた。
熊中熊高 ”江原人脈” こうげんじんみゃく(西日本新聞社)
県下の名門校:熊本高校(旧制熊本中学)卒業生を紹介した出版物。相変わらず大量の本で埋もれた塾事務所から”発掘”された、随分と年代モノの古書だ。塾長が、熊高入学前に入手したものらしい。
”士君子”をモットーに掲げ、120年以上熊本の教育界をけん引してきた"クマタカ"こと県立熊本高校。だが世間の評判はどうであろう。
保護者「クマタカ目指すと?そらよかね~(よくわからんけど)」
社会人「クマタカ出身?なら頭んよかばいね笑」
卒業生「クマコー時代はよー覚えとらん。シクンシって結局なんだったと?」
高い信頼と立派な教育方針の一方で、内外から良くも悪くも言われたい放題(※筆者感)な本校。「よくわからん学校」のままでは、これから志望する受験生も、その保護者も、卒業生もスッキリしないだろう。学校側も不本意な状況だ。
本記事は「熊本高校って何なの?」を様々な視点から探っていく、シリーズ「熊本高校-噺- クマコーバナシ」の#1である。(どっちでもいいのだが、立場上"クマコー(クマコウ)"呼びとさせて頂く)
まずは”江原人脈”編の初回・熊中熊高OB列伝【序~経済界①】として、開校/初代校長から昭和戦後の熊高物語、財界人として活躍した卒業生の一部を列挙する。往年の先生方・卒業生方の人生談を通して、少しでも同校を理解するヒントを示したい。
名もなきOBによる鎮撫な試みで恐縮だが、「熊本高校」を改めて理解する一助となれば幸いである。
※本記事は西日本新聞社「熊中熊高 江原人脈」の内容を参照しております。各先生方及び先輩方への敬意を表しながらも、より広く分かり易く伝えるため、記事内での敬称を一部省略しています。また、本記事は熊本高校や関連団体、その他団体・人物を揶揄・非難する目的ではございませんので、誹謗中傷等のコメントはご遠慮ください。
【序】
"第二済々黌"の初代・野田寛校長と「士君子」
知らない方からは驚かれることだが、熊本高校は"第二済々黌"としてスタートした。
明治33年(1900年)、熊本県中学済々黌という学校が、"第一済々黌"と"第二済々黌"に分かれた。第一済々黌が後に「済々黌高校」、第二済々黌が「熊本中学」を経て「熊本高校」となり今に至る。
当時済々黌の副校長格・野田寛が、初代熊本中学の校長になった。野田校長が掲げたモットーこそ「士君子(しくんし)」だった。
明治維新後、「日本人の古き良き美徳が失われつつある」と危惧している中、人格と教養に優れた英国紳士の美風と英パブリックスクールの教育方針が野田校長の心に響いた。これに日本古来の士道(儒学)精神が加味された、熊中生徒の目指すべき姿が「士君子」である。
「士君子たれ」
熊中・熊高スクールミッションとして、創立から変わらず受け継がれている。
名もなき石の校門に込められた想い

以降は校門として戦火をも耐え抜き、同校のシンボルとして今でも現役熊高生を見守っている。
初代・野田校長の有名なエピソードの一つに
「川に捨ててあった石柱をそのまま校門にした」がある。
明治37年(1904年)、熊本中学は藪の内町にあったオンボロ校舎から、現在の所在地(大江)の新校舎に移転した。(済々黌は明治33年分割時に黒髪新校舎に移転)
熊本中学の新校舎落成の折、校門にはたいそう古びた石柱が据えられた。校名すら掘られず、ボロボロの石柱がそのまんま置かれている。
実はこの石柱、元々熊本城/坪井川に架かる橋の橋脚(橋を支える柱材)だったのだ。天皇行幸で橋を改修する際、古い石の橋脚は川に捨てられた。これに野田校長が目をつけ、「熊中の正門にしよう」といって校舎まで運ばせたのだという。
石柱の歴史は古く、明和3年(1766年)と銘がある。江戸から明治に至る長い間、坪井川の流れに耐えながら、熊本城へ渡る大事な橋を支えてきた。傷だらけの姿が、長く過酷な歴史を物語る。
熊中の学生は、長きに渡り人々を支えてきた石を毎日くぐる。踏まれてもけられても耐え忍び、たとえ世に知られなくとも、社会の礎たれ。野田校長が目指した教育への想いが、石の校門に込められている。
戦災で失われた校舎と「女子大誘致事件」
昭和20年、熊中の校舎は米軍空襲により炎上。
必死のバケツリレーも虚しく、約40年の間、数多くの熊中生を育んできた学舎は、図書館、プール、イチョウの木、そして石の校門を残し、灰になった。
混乱の中、熊中は暫く仮校舎(第十六部隊兵舎跡)に移転。だが昭和22年(1947年)、とんでもないニュースが持ち上がった。
「熊中の焼け跡に、女子大が建つことになった」
これを聞いた熊中OB達は「何事かあ!!」
とブチ切れ、決死の様相で知事に押しかけた。
「熊中は俺の母校ぞ。熊本んごた田舎に土地がなかことはなか」(大麻唯男 談。明40卒・国務大臣)
「昔の熊中は熊中に帰らにゃ」(大久保武雄 談。大11卒・初代海上保安庁長官)
既に決定事項だったにも関わらず、国と県はたまらず女子大の誘致場所を改めた。「直談判」の甲斐もあり、めでたく(?)焼け跡=現在の地に熊中の校舎が再建されることになった。
熊中生=文弱のイメージが覆る、なんとも豪胆なエピソードだ。"逆鱗"に触れてしまった関係者は、熊中の意地を思い知ったことだろう。
※ちなみに問題に上がった女子大とは、「熊本女子大」つまり現「熊本県立大学」の前身である。
"からいも献上"
血気盛んなエピソードの一方で、心温まる逸話もある。
昭和21年(1946年)、敗戦により「天皇陛下万歳」から一転「天皇制打倒」論がささやかれ始めていた。熊中生徒の中には、この"手のひら返し"から本気で宮中を心配するグループがあった。
「俺ったちもひもじか(空腹)ばってん、天皇様もひもじかど」
「からいもば差し上げたらどがんか?」
「そっがよかね」
"天皇陛下にからいもを献上したい"
生徒たちの奇抜なアイデアを教員から相談された野田校長(大正14年に退任済)は、これを大いに喜んだ。早速有志21名による「献芋会」が結成。生徒たちは学校の敷地に畑を作り、自分たちも食糧難で苦しい中、汗まみれで鍬をふるった。
からいもは、見事に実った。
前代未聞の試みだけに、県・宮内庁(当時は宮内省)も手続きに苦労したが、熊中生の想いが込められたからいも約60kgは無事宮中に届けられた。
「善を為す勇に」
野田校長の言葉であるが、いわゆるバンカラ気質とは異なる、徳を重んじる教育の意を込めたとされている。文字通り「善を為す勇」が"実った"一幕であった。
【OB列伝 経済界①】
増永茂巳・沢田有志夫 兄弟|熊本の請負師が築いた"社会の礎"
熊中時代「これといった思い出はない」という兄弟。
だが、兄・増永茂巳氏(明44卒)は生前「野田先生の墓碑を建てるときは増永組がやる」と言い残し、弟・沢田有志夫氏(大4卒)は伝記「野田先生伝」を書き残した。(苗字が異なるのは、沢田氏が養子に行ったため)
両名とも東大出で、増永氏が土木、沢田氏が法学を学んだ。
増永氏は大学卒業後、当時珍しい”鉄筋コンクリート”工事業を始め、地元熊本で「増永組」を旗揚げ。請負師(土木建築業者)として、地方建築の技術革新に燃えた。
兄弟の運命を分けたのは、大正12年(1923年)の関東大震災。
増永氏は震災の一週間前に熊本へ帰ったが、東京の法律事務所で弁護士を目指していた沢田氏は被災、命からがら帰郷した。暫くして増永氏から「一緒に増永組をやらんか」と声がかかった。以降、兄弟コンビで当時の熊本を代表する建物を次々と手がけた。
増永氏は先の「女子大誘致事件」でも、増永組が女子大建設の請負を担ったことから討議の渦中にあった。OB誘致派筆頭・福田虎亀(明36卒・熊本市長)が慎重論を唱えるのに対し「この危急のときこそ、カネ・太鼓で大いに盛り上げんとどうなる!」と烈火のごとく怒ったという。
OB会の要請を引き受けた沢田氏は、昭和25年から野田校長の伝記に着手。毎週一回、2年間本人の元へ通いながら「野田先生伝」を書きあげた。
増永氏の逝去間もなく、野田校長の墓が小峯墓地(黒髪)に分骨される際、沢田氏・増永組が墓碑建立工事を請け負った。強固な石垣に支えられた墓標は、熊高を見おろせる位置に座している。兄の遺志は弟によって守られた。
増永組は、熊本に根付く総合建設企業として創立100年を超える。白川河川護岸工事など、地域に欠かせない幾多の大工事を請け負いながら、今なお”社会の礎”を築いている。

地域を水害から守るだけでなく、自然石を使った工法で景観を損ねない配慮が成されている。
【参考・出典】
・『熊中熊高 江原人脈』西日本新聞社
・『熊中熊高 百年史』熊本県立熊本高校
・ 株式会社 増永組 公式HP
【次回】昭和28年、熊本高校・甲子園初出場の物語を紹介します。実は甲子園に出たことのある同校ですが、応援席から上がった"大のぼり"が全国で話題となりました。
【おまけ】
「江原(こうげん)」の起源
熊高の所在地である「大江原頭」から【江原】になったとされる。「大江村」と「託麻が原」から取ったという言い伝えも残る。熊高OB会の名称は「江原会」。県外の人へはフリガナ推奨。
「士君子」って結局なんだったの
「小、中、大学、会社のモットーはすっかり忘れたが"士君子"は即答できる」という卒業生は多い。それだけでも偉大な発明なのだろう。なんせ耳タコさせやすい。「士君子」の定義・教えは時代(特に戦前vs戦後)によっても若干異なるので、結局"諸説あり"という注記が要るのかもしれない。
「士君子精神が何であるか、いまをもって私にはわからない。ただ熊中には個性と人間性のある先生が多くいたことは事実だろう」沢田一精氏(昭14卒、熊本県知事)。
「女子大誘致事件」でなぜOB達はブチ切れたのか
「なんでそこまで怒るのかがわからん」という方もいるかもしれない。あえて例えるなら「熊本城が地震で倒壊した後、跡地にオシャレな"KUMAMOTOタワー"を建てます」と国から言われるようなもの、か。怒るまでじゃないにしろ「ないわー」と思う県民が多いのでは。加えて当時OB達は加藤清正や細川忠利の立場なのだから、「そら切れますがな」と思います。(昭和22年という時代性ゆえ、ジェンダー問題はスルー推奨でご容赦を)
「クマタカ」?「クマコー」?
永遠の呼び名問題。昭和28年春、GK(NHK熊本のコールサインJOGKより)杯県高校野球の決勝で「熊本高校」と「熊本工業」が相まみえた際に、アナウンサーが混乱。急きょ熊高「クマタカ」、熊工「クマコー」呼びを使ったのが起源とされている。対外向けに使うときは「クマタカ」、熊高同士で使うときは「クマコー(クマコウ)」という暗黙ルールがあるが、罰則はない。普段「クマタカ」派の生徒も、第二応援歌熱唱中は「クマコー」派に屈する他ない。諦めて歌おう。頑張れ、頑張れララララ。近年の熊高出身者以外にとっては「クマタカでよかたい」と割とどうでもいい話。
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